第27話 離島から来た酒呑童子 五ツ島 奈良男(1912-1973)
横綱時代の双葉山に二度勝った力士は何かに祟られているように思えて仕方がない。豊島は戦災で亡くなったし、鹿島洋と桜錦は若くして病没した。五ツ島も束の間の大関からそのまま引退と本当にツイていない。
平成二十七年大阪場所、関脇照ノ富士が新三役で初日から七連勝し大きな話題となったが、残念ながら新記録達成は成らなかった。そして同年名古屋場所、カド番大関琴奨菊が七勝七敗で迎えた千秋楽、大方の予想通り勝ち越しを決め、「七勝七敗で千秋楽を迎えたカド番大関は絶対に負け越さない」という過去のジンクスを踏襲した。この両方の記録に関わっているのが、昭和以降最短命の大関五ツ島である。
長崎県五島列島の奈良尾村出身の五ツ島こと金崎伊佐一は、地元の漁師だった。素人相撲の大関を張っていた十七歳の時、出羽海部屋にスカウトされ上京した。
潮風と陽光に揉まれ黒光りした身体は、職業柄足腰が強く、腕力にも秀でていた。漁師出身の大力士と言えば、真っ先に浮かぶのが双葉山だが、そのバランスの良さは双葉山と比べても遜色がなく、引き手の強さはむしろ五ツ島の方が勝っていた。加えて稽古熱心で真面目な性格だったため、程なく頭角を現し、入幕した頃には、これだけの大部屋でありながら稽古場で互角に張り合える力士はいなくなっていた。
特に大きなつまずきがなかったにもかかわらず、同部屋で二歳後輩の安芸ノ海に途中で抜かれたのは、上位との対戦を苦手とし、大負けもない代わりに大勝ちもなかったからである。
前頭二枚目で迎えた昭和十四年五月場所は、上位と総当りしながら九勝六敗と健闘したが、前頭四枚目で十勝五敗の安芸ノ海が先に三役に上がり、五ツ島は前頭筆頭に留まった。双葉山の連勝を六十九で止め
た安芸ノ海が、角界最大の人気を誇る「立浪三羽烏」のうち羽黒山、名寄岩にはほぼ互角に渡り合っていたのに対して、五ツ島は全くと言っていいほど歯が立たなかったため、安芸ノ海の方が協会の覚えも良かったのだろう。
出羽海一門にとって、新興勢力の立浪部屋は最大のライバルであり、角界の頂点にそびえる双葉山を倒すことは一門の悲願だった。
「角界一の策士」と呼ばれた早大卒のインテリ力士笠置山が参謀格となって、出羽海一門の力士は毎場所のように双葉山対策を練っていたが、性格そのままの実直な相撲しか取れなかった五ツ島は、地力は部屋随一と謳われながら本場所では意外なもろさを露呈したことから、長らく「稽古場横綱」のレッテルを貼られていた。その代わり大変な勉強家で、自分が取った相撲は徹底的に分析し、勝っても奢らず敗北は糧とした。
刀剣の収集が趣味で、その鑑識眼は玄人はだしだったという五ツ島のこと、相撲の解析能力も高く、スローペースではあったが、少しずつ欠点を克服していった。
ただし、酒だけは正真正銘の横綱級で、多い時は日に五升も平らげたというから凄まじい。これだけ飲んでも、練習熱心で後輩からも尊敬されていたところは、後年の若乃花(初代)によく似ている。
そんな五ツ島が変貌したのが、昭和十五年一月場所である。稽古場では手玉に取っている安芸ノ海が先に三役に昇進したのが刺激になったか、十日目まで九勝一敗と好調を維持し、十一日目の双葉山戦を前に支度部屋で笠置山のアドバイスに熱心に耳を傾けていた。
双葉山は十四年一月場所に安芸ノ海に不覚を取り、連勝も連続優勝も一旦ストップしたが、翌場所にはすぐさま復活して全勝優勝。この場所も十日間勝ちっぱなしで、二十九連勝中と優勝争いのトップを独走していた。過去六回の優勝が全て全勝という超人横綱には全く死角がないと言ってもいいほどの好調ぶりだった。
受けて立つ横綱相撲の双葉山には立ち合いの変化は通用しない。五ツ島は突っ張りから前へ出たが、一旦下がった双葉山に突っ張り返されると、あっという間に土俵際まで追い込まれてしまった。
前場所はここで褌を取られて一気に寄り切られたが、今場所は俵伝いに回り込み、徹底して四つ相撲を避けた。下半身に柔軟性がある五ツ島は、俵に足がかかって腰が伸びきっていてもまだ余力を残していた。攻める双葉山が全体重をかけて最後の一突きをくれるのを待っていたのだ。
もう五ツ島には後がないと踏んだ双葉山が一気に突き出そうと前に出たところ、闘牛士のように左にかわしながら叩き落とすと、自らの勢いで双葉山は土俵を飛び出していった。これが初金星の五ツ島は、終盤に星を落として優勝は逃したものの(十一勝四敗)、大横綱の連勝を止めた男として一躍次期大関候補としてクローズアップされることになった。
これほどの大金星を挙げたにもかかわらず、本人はいたって冷静だった。横綱に勝つには勝ったが、所詮は逃げの相撲であり、実力で勝ったとまでうぬぼれてはいない。だからこそ次回は実力で勝ちたいという思いが強くなった。
実際、安芸ノ海は初顔で勝って以来、双葉山に本場所では勝っていない。今や出羽海部屋の二大ホープとして、どちらが先に大関に昇進するか世間の注目を浴びているだけに、正攻法で双葉山に勝つことこそが大関への切符を手に入れる唯一の手段と心に秘め、新関脇五ツ島は十五年五月場所に臨んだ。
初日から七連勝という新三役の連勝記録を更新した五ツ島は、八日目に磐石に喫した一敗を維持したまま前場所と同じく十一日目に双葉山と顔を合わせることになった。
この日は日曜日ということもあって満員札止めだったが、諦めきれないファンが国技館を十重二重に取り巻くほどの盛況を示していた。それも前日、肥州山に敗れるなどここまで七勝三敗と不振の双葉山が負ける姿を一生に一度でも見ておきたいといういささか不謹慎なファンがこぞって押しかけたというから、いかに五ツ島に対する期待が大きかったかわかる。ちなみに肥州山は長崎県出身の元漁師という境遇まで五ツ島と同じで、出羽海部屋の大先輩でもあった。
横綱昇進後に同じ相手に連敗したことがないプライドゆえか、五ツ島戦での双葉山の立ち合いはいつになく厳しく、浅い双差しから一直線に土俵際まで寄り立ててきた。四つに組んで負けたことのない横綱は、差し手は不十分ながら、身体を密着させて動きを封じさえすれば、前場所のような不覚を取ることはないと思い込んでいた。
ところが、追い詰められた五ツ島は自ら右上手を抜いて半身になると、褌をがっちりとつかんだ双葉山の右腕を抱え込むようにして腰に捻りを加えた。勢い余った両者はそのまま土俵下まで転落したが、腕を取られた双葉山の身体の方が先に落ち、軍配は五ツ島に上がった。
決まり手は「とったり」。起死回生の逆転劇だった。
横綱時代の双葉山に連勝した力士は、五ツ島と照国だけだが、照国が連勝したのは双葉山の土俵生活の晩年であって、翌年からさらに四連覇する大横綱を全盛時代において連破したのは五ツ島しかいない。
それだけにこの敗戦は相当ショックだったと見えて、双葉山は翌日から休場し、一時は引退まで考えたという。「信念の歯車が狂った」という言葉を残し、双葉山は後援会長らにも行く先を告げずに一時的に姿を隠したため、引退説が飛び交ったが、間もなく再起し第二期黄金時代を現出する。
またしても殊勲の星を挙げた五ツ島は、支度部屋に戻ってくるなり「横綱が気の毒でたまらない」と一言つぶやいて目を伏せた。勝利の喜びを分かち合おうと押しかけてきた贔屓筋もこれでは取り付く島もなく早々に退散するほかはなかった。
五ツ島によると、土俵上でも普段は水鏡のように冷静沈着な双葉山がいつになく落ち着きが無いのが感じられたという。磐石だったはずの右上手からの寄りも力不足で、とったりの奇手が防げなかったと分析しており、勝つことが義務付けられた横綱の苦悩をわが事のように同情しているところなど、人徳者として知られる五ツ島らしい。
勢いづいた五ツ島は、大関争いのライバルと目される名寄岩(東正関脇)と照国(東張出関脇)を連破したが、千秋楽に伏兵の青葉山に敗れ優勝を逃した(十三勝二敗)。それも有利な体勢から強引なとったりを仕掛けたのが仇となり、土俵際でこれを凌いだ青葉山から突き出されたのだ。
双葉山に鮮やかに決まった時の印象があまりにも強く、やや自信過剰に陥っていたのかもしれない。
それでも新関脇の十三勝は歴代最高記録であり、後に吉葉山、琴欧州、照ノ富士が並ぶも、未だに破られていない。
「相撲は勝とうと思って取るな。負けないと思って取れ」
大関時代の五ツ島は若い衆によく言っていたという。
これは勝とうと思うと力んで身体が堅くなり動きが悪くなるが、負けないと自信を持っていれば冷静に自分の相撲が取れるという意味である。おそらく自身が双葉山に逆転勝ちした相撲と、青葉山に逆転された相撲から学んだ五ツ島流の極意だったのだろう。
昭和二十四年、記念すべき第一回敢闘賞を受賞した出羽錦は、五ツ島の教えを徳とし、自身が部屋のリーダー格になってからも「相撲は三分で、あとの七分は自信である」と解いていたそうだ。
昭和十五年五月場所の優勝は、途中休場の双葉山と対戦せずに済んだことで一敗を守り通した西正関脇の安芸ノ海だった。初優勝に加えて直近三場所の成績を三十四勝十一敗とした安芸ノ海は、数字の上では問題なく大関昇進を決めたが、この場所は不戦勝による勝ち星(玉ノ海と羽黒山)が二つもあるため、ラッキーな昇進と言えるだろう。
そういう意味では、十三の白星を全て取り組みで勝ち取った五ツ島は実質的な優勝力士である。特に双葉山を連破したことで相撲内容の評価も高かったため、三場所通算が昇進規定ぎりぎりの三十三勝十二敗ながら、弟弟子との同時昇進が決定した。
安芸ノ海は関脇二場所目であるのに対し、小結を飛び越して新関脇となった五ツ島は三役一場所に過ぎない。同じく新三役で十一勝四敗の照国は直近三場所で三十四勝十一敗と、安芸ノ海と同等の成績を残しているにもかかわらず、関脇に留め置かれていることを考えると、五ツ島の昇進は異例といっていい。
もちろん昭和以降、三役を一場所で通過して大関になったのは最短記録であり、いまだに並ぶ者さえいない。裏を返せば、それほど双葉山の強さが神格化されており、まぐれでも連勝することなど有り得ないという共通認識があったということだろう。
可哀想だったは安芸ノ海と五ツ島の同時昇進で割を食った照国である。次の十六年一月場所にも十二勝を挙げ、三場所通算三十五勝十敗としながら、大関の席が埋まっていたため、昇進を見送られているのだ。
二大関を擁し、いよいよわが世の春が訪れた感のある出羽海部屋の幸運も長くは続かなかった。
六月の地方巡業で、新大関五ツ島が膝関節を痛めてしまったのである。律儀な彼は故障を抱えたまま夏の満州巡業にも参加し、本場所では勝ったことのない先輩大関羽黒山を下すなど大いに気を吐いたが、無理が祟ったのか、年末の九州巡業では四勝六敗と不振を極めた。
本来ならば、本場所に備えて治療に専念したいところだったが、満州巡業でマラリアに罹患した安芸ノ海が出場不可能であるため、新大関が二人揃って休場というのはバツが悪かった。しかも、今回の九州巡業はこれまでとは違って福岡市内の仮設国技館で十日間興行するという準本場所扱いの本格的なものだったため、九州出身の力士としては否が応でも張り切らざるを得なかった。
五ツ島は、わざわざ地元長崎から駆けつけてくれるファンに大関としての勇姿を見せたいばかりに強行出場の道を選んだのである。
果たして膝を悪化させた五ツ島は、十六年一月場所は五勝五敗五休と不甲斐ない成績に終わり、マラリアから奇跡的な再起を遂げ、十二勝三敗と大関の重責を全うした安芸ノ海と明暗を分けた。
傍目からは五ツ島と安芸ノ海は三役争いの頃から内なるライバルと見られていた。しかも同部屋ゆえに直接対決はないため優劣は付けづらい。上位力士との対戦成績では、五ツ島が苦手としている羽黒山を安芸ノ海がカモにしている一方、安芸ノ海が苦手な前田山を五ツ島がカモにしているほかは、安芸ノ海の方が三役以上の上位にはいくぶん分がいいくらいで、タイプの違う両力士の評価は評論家筋の間でも二つに分かれていた。
安芸ノ海は攻めが速く、頭をつければ磐石の相撲を取る反面、相手有利の体勢になると完全に受身に回ってしまうため、大関争いでは一番手と目されながら、受けて立つ大関相撲では持ち味が生かせなくなる可能性を指摘されていた。
その点、五ツ島は勝ち味こそ遅いものの、下半身の粘りと腕力を生かした強引な捻り技があるため、大関としては安芸ノ海より堅実な相撲が取れるのではないかと見られていた。実際、稽古場では安芸ノ海の突っ張りからの速攻相撲も五ツ島にはほとんど通用しなかった。
かつて出羽の海部屋では、天龍と武蔵山が猛烈なライバル意識を剥き出しにし、出世争いで敗れた天龍が東京相撲を脱退するというトラブル(春秋園事件)があったが、五ツ島と安芸ノ海は支度部屋でいつも雑談に耽っているほど仲が良かった。
五ツ島は安芸ノ海を倒した力士に勝って戻ってくると、「安芸、仇は取ったぞ」と喜び、安芸ノ海も優勝した場所では、勝ち星同点の時は旗手の栄誉を五ツ島に譲ると公言するなど、先輩に敬意を表していた。
当時は東西対抗戦があり、優勝方の最高成績を収めた三役以下の力士が優勝旗を受け取ることになっていたが、同点の場合は番付上位が旗手になるのが慣例だった。安芸ノ海はその慣例を破ってまで兄弟子に花を持たせようとしたのだ(実際は協会規定により安芸ノ海が旗手を務めた)。
昭和十六年五月場所、カド番大関の五ツ島は、安芸ノ海が早々と優勝争いから脱落する中、孤軍奮闘し、九日目まで七勝二敗と勝ち越しを目前に控えていた。ところが、終盤に対戦した立浪三羽烏にことごとく敗れて五連敗。優勝争いどころか大関陥落の危機を迎えた。
千秋楽の相手は、十二勝二敗ですでに大関昇進を確定させている関脇照国である。優勝は一敗の羽黒山に決定しているため、もはや優勝の目はない。つまり照国は負けても失うものがないのである。
本割りでの対戦成績は互角だが、場所途中から膝関節をさらに悪化させた五ツ島にとって、重心が低く体重も上回る照国はあまりにも手強すぎる相手であった。
このような場合、角界の七不思議と言うべきか、カド番大関が勝つのが常だった。八百長とは言わないまでも、角界はボクシングなどとは違って部屋は異なっても同じ巡業団体として各地で興行を行うため、互いに仲間意識が強い。
そのせいか千秋楽に勝ち越しをかけたカド番大関と対戦する力士は、闘争心よりも同情心が上回ったかのような無気力相撲を取る傾向が頻繁に見受けられる。
ところが大方の予想に反して千秋楽は照国が寄り切りで勝ってしまい、五ツ島の大関陥落が決定した。
結果、五ツ島は三役一場所で大関という大錦卯一郎の最短記録に並ぶ一方で、大関二場所で陥落という負の最短記録(他に九州山十郎)にも名を連ねることになったのである。偶然ながら、いずれの最短記録も出羽海部屋の力士によるものだ。
ファンが本場所で五ツ島の姿を見たのは、これが最後だった。責任感の強い彼は、膝がぼろぼろになりながらも巡業に参加し、年末の九州準本場所では二勝八敗という無惨な成績をさらしてしまった。この時に無理がさらに患部を悪化させ、西の関脇で迎えた十七年一月場所を全休し、そのまま引退となった。二十九歳の早すぎる決断であった。
大関まで昇進しながら、引退後は協会に残らず、廃業して故郷の五島に戻った。廃業の理由は、戦時体制となり興行規模の縮小を強いられつつある協会で只飯を食うのは気が引ける、というものであった。
五島の実家に七隻もの漁船を有していた五ツ島は、戦時中は家業の『金崎海綿』の経営に携わる一方で、長崎県の体育課嘱託として無給で戦時下の体力向上を目的とした相撲の指導を行っていたようだが、角界と縁が切れていたわけではない。
昭和二十三年、出羽海部屋一行が五島に巡業に訪れた際には、巡業を盛り上げるために五ツ島が土俵に上がって、かつての弟弟子である桜錦や八方山相手に相撲を取っているが、花相撲とはいえ桜錦を寄り切り、八方山をがっぷり四つから上手投げで投げ飛ばすなど、現役時代を彷彿させるパワーを披露し、観客も大喝采だったという。
その後再び上京して中央区でちゃんこ屋を経営するかたわら、相撲評論家としても活躍した。
昭和三十二年にプロレスの力道山一行が五島高校のグラウンドで興行を行った際には、勧進元としてリングに姿を見せており、角界を去ってもあっちこっちで引っ張りだこだったようだ。
五ツ島は典型的な稽古場横綱であった。気が優しくて面倒見が良いせいか、本場所は今一つ気迫に欠けるきらいがあったようだが、引退後は相撲評論の傍ら手広く商売を手掛けて悠々自適。みんなから慕われる親分肌だったところが角界でも一般社会でも信望が厚かった要因だろう。




