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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第26話 網走の投網師  北の洋 昇(1923-2002)

令和七年九州場所九日目、翠富士が正代の腕を抱きかかえるようにしてをひっくり返した奇手が「網打ち」である。五月場所でも錦木と佐田の海が見せたが、平成以降の幕内では年に1~2度というところだろう。ところが往年の業師北の洋はこの奇手を得意とした。近年の技能賞力士と比べると、昔の力士の業の多彩さは格が違う。

 昭和からの相撲ファンなら、知的で素人にもわかりやすい語り口で人気があったNHKの名解説者、緒方昇のことを覚えておられる方は多いはずだ。元力士の解説者というと、同時期の神風や玉の海にしかり、現役時代の四股名を名乗るのが慣例であるため、彼の現役時代を知らない世代はてっきり相撲評論家だと思い込んでいたのではないだろうか。かくいう私もその一人だった。

 緒方昇こと北の洋は、昭和二十年代後半から三十年代にかけて土俵の上を縦横無尽に駆け巡った名物力士だったのだ。


 北の洋を近年の力士に例えると、嘉風が最も近いかもしれない。体型は異なるものの、平凡な万年平幕力士が三十歳を過ぎてから突如として強くなった経緯といい、追い詰められても捨て身の技を繰り出してくるしぶとさといい共通点は多い。

 ともに上位に強いのが特徴で、大関を狙えるほどの力量はないにせよ、同時代における屈指の横綱キラーといってもいいだろう。北の洋の挙げた金星十個は、彼の引退時には歴代最多記録であった。

 後に立浪四天王の一人として謳われる北の洋は、北海道網走町の人気料理店の息子で長身痩躯、相撲好きの若者だった。昭和十三年、自宅に宿泊した立浪部屋の関係者から勧誘された当初は、「双葉山を倒す力士になりたい」という理由で出羽海部屋を志望していたが、翌年春には立浪部屋に入門することになった。

 すでに一八〇センチ近い長身でありながら、体重が七〇キロにも届かない軽量だったため、最初の新弟子検査では不合格となり床山を勧められたこともあるという。

 昭和十五年一月場所の初土俵以来、幕下まではほぼ順調に出世したが、病気や怪我が多くそこからしばらくは足踏みが続いた。上背があっても軽量のため、立ち合いの変化や技に依存する傾向が強く、正攻法の相撲が取れないのが致命的だった。

 珍手や奇手で観客を湧かせることはあっても、大方の関係者は幕下止まりと見ていたのは、このような相撲だけでは上位に通用しないことがわかっていたからである。おまけに胸まで病んだ北の洋は、医者から「これ以上相撲を取っていると死ぬぞ」と脅され、十九年一月場所を最後に故郷網走に戻った。

 ところがこの食料難の時代でも、料理屋だった実家の食糧事情は極めて良好で、牛乳や卵、魚などをふんだんに食していたというから、東京にいる双葉山や羽黒山顔負けである。おまけに当時の力士が義務付けられていた勤労奉仕からも解放されているおかげで、空気と水のきれいなところでじっくり養生でき、すっかり元気になってしまった。

 胸を病んでいたせいか軍隊にも召集されず身体を持て余していた北の洋がひょっこり部屋に戻ってきたのは十九年八月のことである。結局、同年五月場所を全休しただけで、十一月場所からは幕下から再出発することになった。

 練習熱心だが、取り口が変わらないため、相変わらず幕下に低迷していた北の洋が思い切って攻めの相撲に切り替えたのは二十三年頃のことである。すでに幕下生活九年目。現行のルールであれば六年で関取になれなければ廃業を勧められるところだが、正攻法で相撲を取るようになったことで成績も安定し、同年十一月場所で十両に昇進した。

 この時は一場所で幕下に陥落したものの、二十四年五月場所からは十両に定着し、翌二十五年九月場所で待望の入幕を果たしている。この時すでに二十七歳になっていた。

 ベテランの域に入ってからも人一倍激しい稽古を自らに課し、土俵でも激戦を繰り広げる北の洋は、相変わらず怪我が多くなかなか幕内に定着しなかった。十両落ちを三回経験しながら幕内に復 帰した根性も凄いが、初めて幕内で勝ち越したのが三十路を過ぎた二十八年三月場所というスロー記録の持ち主でありながら、そこから三賞を十度も獲得する名力士になろうとは、周囲の誰もが想像出来なかった。彼の時代は場所数が増えてゆく過渡期だったため、現在のような年六場所制であれば、三賞獲得数はさらに増えていたに違いない。

 二十八年五月場所に十二勝三敗と大勝ちして初の技能賞を獲得するも、翌九月場所は朝潮との稽古中に脱臼したのが祟って二勝六敗七休と急降下。二十九年一月場所、十二勝三敗で再起を果たすと、翌五月場所はまたしても怪我の影響で一勝六敗九休と、北の洋の土俵人生はまさにジェットコースターのように乱高下を繰り返していた。

 こうも出入りの激しい相撲を続けていては、年齢的なことも考えて三役入りは難しいだろうという声が聞かれ始めた二十九年五月場所、これまで脇役的存在だった北の洋は終盤まで優勝争いに食い下がり大いに土俵を盛り上げた。終盤にこの場所を制した栃錦(大関)、若乃花(関脇)といった実力派の上位力士に連敗したため十一勝四敗に終わったが、通常なら前頭十枚目の平幕力士がここまで上位と対戦することはない。このような割りが組まれたのは、北の洋が十二日目までに二人の小結を下して栃錦と並ぶ十一勝一敗で優勝争いのトップに立っていたからである。

 最終的には栃若をぶつけられて潰されたような格好になったとはいえ、終盤まで最も目立っていたのは北の洋だった。なにしろ、本場所では滅多に見られない大技を連発するのだがら、見ている方はこたえられない。

 幕下時代から技の宝庫だった彼の得意技の一つに「網打ち」という奇手がある。今日では何年かに一度しか見られないこの技は、両腕で相手の片腕を抱え込んで、自分は身体を反らしながら裏投げのように後方に投げ飛ばすという荒っぽいもので、漁師が網を打つような姿に見えることからこう名付けられた。

 四日目の出羽湊戦、久々の網打ちで鮮やかにベテランを料理すると、十日目の朝潮戦でもこの大男を見事にひっくり返して万雷の拍手を浴びた。朝潮はこの場所優勝した栃錦に唯一の黒星をつけた難敵だったが、最初から網打ちを狙っていたというから驚く。

 網打ちという技は狙って仕掛けるのではなく、偶然そういう体勢になった時にしか出ないものだが、腕をつかみそこなったが最後、重心が後方にかかっているため、簡単に突き倒されてしまいかねない。このような捨て身の技を自由に操れるというのは、まさに名人芸というほかはない。この場所、敢闘賞と技能賞をダブル受賞したのも当然のことであった。


 同年九月場所、三十一歳でようやく三役(小結)の座を射止めた後はしばらく低迷が続くが、その間に弟弟子たちが次々と入幕し、三十二年秋場所の番付では、時津山、安念山が関脇、北の洋と若羽黒が小結に名を連ねた。しかもこの四力士は全員が勝ち越し、翌場所には北の洋が新関脇となった。この活躍ぶりから彼らは『立浪四天王』の異名を取り、栃若全盛時代の名脇役として相撲人気を盛り上げた。

 四天王の長兄たる北の洋は、非常に面倒見がよく立浪部屋のまとめ役として部屋の隆盛に一役買ったが、三人の弟弟子が全て優勝を経験したにもかかわらず、彼だけが賜杯と無縁だったのは惜しまれる。それでもこの時代の相撲をつぶさに見てきた好角家に、立浪四天王の中で最も印象に残る力士は誰かと尋ねてみれば、北の洋と答える方が一番多いのではないだろうか。

 北国育ちの白い肌と躍動感溢れるスピード相撲から『白い稲妻』の異名をとった。


 四天王の中でただ一人大関にまで昇進した若羽黒は、一時期は飛ぶ鳥を落とす勢いだったものの、長続きせず、時津山、安念山は相撲が堅実で地味だった。そういう意味でも活躍期間が長いだけでなく、見せ場の多い派手な相撲でファンを沸かせた北の洋の方が一番、一番の相撲が鮮明な記憶として残っているようだ。

 後輩力士の出世をわが事のように喜ぶ一方で、三十二年九州場所で足の古傷を痛めてまたしても休場を余儀なくされた北の洋はすでに三十四歳になっており、いよいよ立浪部屋も新旧交代の時期がやってきたかに思われたが、驚くべきことに彼が力士として最も輝くのはこれからであった。

 東京タワーが完成し、本格的なテレビ時代が到来した昭和三十三年、角界も時代のニーズに合わせて年六場所制に踏み切ることになった。特にテレビの普及は、観客席から見るのと違ってあらゆる角度から観戦できるだけでなく、解説者による勝負の説明なども聴けるため、子供や女性のファン層を開拓するとともに、全国津津浦々、巡業とも無縁だった地域の人々にまで相撲人気を浸透させた。

 

 三十三年度は年間トータルで四十五勝四十五敗の五分だが、対横綱戦四勝十敗(金星四)、大関戦八勝五敗と上位力士に善戦しているところが目を引く。そのうち朝潮、松登、琴ヶ濱の三大関にはいずれも勝ち越しているのだ。これまでは下位に大勝ちしても上位には歯が立たなかったが、体重も増えたことでスピードにパワーが加わり、技のバリエーションが広がったことが好結果につながったようだ。

 踏み込みが弱い時は、相手に受けて立たれるため、変化も通用しにくいが、突進力が強くなればそれを警戒して思い切りぶつかってくるため、仕掛けには好都合というわけだ。

 初場所は吉葉山、栃錦の二横綱から金星を獲得して技能賞、秋場所にも栃錦、千代の山から再度のダブル金星獲得、九州場所は三大関総なめの技能賞とこの年の北の洋は立浪四天王中随一の活躍を見せている。

 「嘉風旋風」を起こした時の嘉風が、上位との対戦があった平成二十七年秋場所から翌年名古屋場所までの一年間に残した十三勝二十敗(横綱戦五勝八敗、大関戦八勝十二敗)金星獲得三個というのが、近年では突出した記録だが、北の洋もそれに匹敵する快記録といえよう。

 ちなみに昭和六十二年の「益荒雄旋風」時の益荒雄の対上位の成績は、十四勝十一敗(横綱戦四勝六敗、大関戦十勝五敗・不戦敗一)金星獲得一個と見事なものだった。惜しむらくは、同年秋場所に怪我で休場に追い込まれて以降は下り坂になり、輝きがあまりにも短かったことである。

 その点、北の洋と嘉風は活躍期間が長く、三十代後半になってからも三役を務めたほか、横綱・大関との対戦が楽しみな意外性のある力士であり続けた。


 立浪四天王の最年長者でありながら、四人の中で最も金星が少なかった(二個)北の洋は、三十三年以降、着実に金星を増やしてゆき、引退時には安念山とならぶ十個まで積み重ねている。

 老雄の勢いはまだまだ続く。三十五年初場所、春場所と連続三賞を受賞すると、夏場所から名古屋場所まで自己最長となる三場所連続で三役を務めている。しかもこの年は横綱昇進後の朝潮とも三勝三敗と五分に渡り合っており、とても三十七歳の老雄とは思えない。

 昭和三十七年、西前頭十三枚目で五勝十敗と負け越し、十両陥落が決定的となったところで引退に踏み切った。三十九歳は幕内最年長だった。

 年寄武隈を襲名してからは、現役時代に「知性の飛燕」と称えられた頭脳を買われ、協会理事、監事を歴任するなど角界の重鎮として全幅の信頼を置かれていた。話術も巧みだったため、協会在職時から民放テレビの相撲解説者を務めており、定年後はNHKの名解説者として鳴らした。


 北の洋は新弟子時代からずっと横綱羽黒山の付き人を務めていた。羽黒山は訛っているうえ早口のため、何を言っているか理解するまでに何年も要したという。そんな苦労をしながらも、献身的な北の洋は、横綱がアキレス腱を痛めて入院した時には毎日見舞いに訪れ、看護師顔負けに世話をやいていたが、その誠実さに惚れたのが、その病院で看護助手をしていた後の夫人である。

 引退後、部屋付きの親方として立浪部屋で指導に当っていた時に入門してきたのが、後に長女の婿となる黒姫山(最高位関脇)だった。黒姫山は元羽黒山の立浪親方と同県人であり、訛りもある程度理解できることから、武隈に代わって立浪の通訳を任せられていた。おかげで立浪から可愛がられた黒姫山は羽黒山崇拝者となったが、武隈の方は実は双葉山崇拝者であったことから、義理の親子となっても理想の力士像という点においてはどちらも自説を曲げようとしなかったそうだ。

錦木は令和六年夏場所、七年夏場所と二年連続で網打ちで勝ち名乗りを受けているが、七年夏場所は四日目に藤青雲を網打ちで仕留めながら、七日目は佐田の海に網打ちでやられるという珍しい記録を作っている。

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