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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第25話 ポケット・ロケット 房錦 勝比古(1936-1993)

房錦は先に紹介した岩風の親友にして、三十年代の大相撲の名脇役の一人である。寡黙で金剛力の持ち主である岩風の相撲は玄人好みだったのに対し、ネアカで派手な速攻相撲で魅せる房錦はキャラも好対照でいいコンビでもあった。

 昭和三十二年夏場所十一日目、前頭八枚目時錦対同二十枚目房錦の対戦は、下位同士の取り組みにもかかわらず、翌日のスポーツ新聞各紙がこぞって取り上げるほどの評判を呼んだ。

 新入幕ながら大関若乃花とともに九勝一敗で優勝争いのトップを併走する房錦の健闘ぶりもさることながら、この一番を裁く式守錦太夫は房錦の実父だったのだ。

 房錦こと桜井政勝が生れた昭和十一年一月、式守錦太夫は二所ノ関部屋に所属しており、当時の親方は二枚鑑札の横綱玉錦だった。子煩悩な玉錦はそれこそ政勝をわが子のように可愛がっていたという。あまりの溺愛ぶりに、一時は玉錦が実父ではないかという噂が立ったこともある。

 横綱から抱かれた子供は健康に育つと言われており、今日でも巡業中の横綱に幼いわが子を抱いてもらう親御さんは多い。ところが横綱の膝の上で育ったといっても過言ではない房錦は幼少の頃から病弱で、母親は将来医者を目指して欲しいと願っていたそうだ。

 そんな房錦が相撲取りを志すようになったのは中学生の頃である。小柄ではあったがスポーツ万能だったことが買われ、中学卒業と同時に父のいる若松部屋に入門した。新弟子検査はようやく二度目に錦太夫の顔を立てて合格させてもらったようなもので、綽名は「ポケット」だった。

 当初は線が細く、幕下に上がるまでに四年を費やしたが、身体ができてからの昇進は早かった。十両二場所目に十三勝二敗で優勝すると、翌昭和三十二年春場所には二十一歳で入幕を果たしている。

 一七六センチ一一八キロという体格は力士の中では小柄な部類に入るが、鋭い立合いと強烈なぶちかましで一気に前に出る押し相撲は、一度懐に潜り込さえすれば重量級の力士でさえも一たまりもなかった。 入幕二場所目、初めての横綱戦で鏡里を一気に寄り切って金星を挙げた相撲などはその典型だった。

 赤銅色の小さな身体を丸めるようにして一気に飛び出すさまがまるで砲丸のようであることから、ついた綽名が『褐色の弾丸』という。入幕前からこう呼ばれていたのは、それほど彼の相撲が魅せる相撲であったからに他ならない。


 昭和三十二年夏場所十一日目ファン注目の大一番、緊張感からか出足が鈍い房錦は懐の深い時錦を押し切れず、組み止められ てからの寄り倒しで万事休した。その瞬間、場内には溜息が漏れた。しかし、その後も優勝争いに留まった房錦は十四日目にもう一度チャンスが巡ってきた。

 双ツ龍との一戦は、「おやじを喜ばせてやろうと思った」という房錦の気迫が勝り、得意の速攻

で寄り切った。

 「フサニシキィー」と勝ち名乗りを上げる錦太夫の声は心なしか震えており、場内はまるで優勝が決定したかのような大歓声に包まれていた。房錦が父親から勝ち名乗りを受けるシーンは感動を呼び、雑誌『面白倶楽部』に『土俵物語』のタイトルで連載された後、昭和三十三年に大映で映画化されたほどだ。

 この勝利で十一勝三敗とした房錦は、千秋楽でここまで二敗の新小結安念山と雌雄を決することになった。千秋楽を迎えて三敗の力士は横綱栃錦、小結琴ヶ濱、平幕の房錦の三人で、もしこの三人が全員勝てば四つ巴の優勝決定戦となる。

 この大事な一番、房錦はロケット弾のように安念山の胸板に体当たりするやそのまま一気に寄り詰めたが、下半身のしぶとさには定評がある安念山は俵に足がかかったところで体を入れ替えるように左からの上手投げで逆転勝利。房錦はあと一歩のところで新入幕での優勝を逃したが、文句なしの敢闘賞に輝き、一躍若手の注目株として脚光を浴びるようになった。

 

 房錦の弾丸特急は六月二十三日からの名古屋場所でも止まらなかった。

 当時の名古屋場所はまだ準本場所扱いで、翌三十三年から本場所に昇格することになっていたが、通常の巡業とは違って優勝も三賞も本場所なみに表彰されるため、注目度も高い。ここでも連日ヤンヤの喝采を浴びたのは二十一歳の『褐色の弾丸』で、最後まで優勝争いに喰らいついていた。

 最終的には横綱目前の若乃花が全勝優勝で貫禄を示したが、房錦も十三勝二敗の快進撃で満場一致の技能賞を獲得した。

 この若さと勢いがあれば、誰しもが年内での三役昇進、あるいは近い将来大関までゆくのではないかと期待をするのもやむをえない。当時押し相撲の第一人者といえば、後に大関となる若羽黒で、押し切るパワーこそ及ばないまでも、突っ張り、おっつけ、いなし、はたきと変幻自在に繰り出す腕の回転の速さは房錦の方が上といわれていた。

 ただし、非力なため褌を取られると脆く、攻めが単調なぶん、相手の変化に対しては臨機応変な相撲が取れなかった。栃錦に九戦全敗、若乃花に一勝十三敗とカモにされたように、技の切れる力士を苦手としたのも彼の順調な出世にストップをかけた大きな要因であった。

 昭和三十四年夏場所、前頭筆頭で九勝六敗、技能賞を獲得してようやく三役に昇進した(西関脇)が、これは二場所で陥落。大勝しては大負けするの繰り返しで、しばらくは前頭の上位と下位を行ったり来たりしていた。

 しかし、なぜか大阪場所だけは強く、幕内時代に八度出場し負け越したのは三十八年の一度だけである。その時も八日目から左足の捻挫で休場した後、再出場した十二日目からは三勝一敗で、星を六勝五敗四休と持ち直している。「大阪太郎」の異名をとった朝潮も、大阪場所は九度出場中、優勝四回、負け越しは途中休場した一場所だけで、大阪場所での強さは双璧だった。

  

 全盛時代は三十五年秋場所から三十六年夏場所にかけてで、九州場所からは三場所連続で三賞受賞、翌年初場所から三場所連続で三役を務め、一時は大関の声もかかるほどだった。

 初の殊勲賞を獲得した三十五年九州場所は、横綱若乃花、大関柏戸、張大関琴ヶ濱、関脇大鵬(この場所優勝)といった東側の上位陣を総なめにしている。

 特筆すべきは、この四場所の対柏鵬戦の成績が六勝二敗と圧倒していることである。内訳は柏戸に三勝一敗、大鵬にも三勝一敗で、三十五年九州場所、三十六年春場所と二度も柏鵬なで斬りを演じているほど分が良かった。通算でも両者に対してともに五勝六敗と拮抗しており、大鵬と十回以上対戦した力士の中では最高の勝率を挙げている。

 決まった型を持たず相手に合わせて取るタイプの大鵬はまだしも、同じ速攻型で身体も馬力もある柏戸がこれほど苦戦したのは意外であった。それも柏戸の番付が房錦を越えて以降は負け越しているのだ。このことはすなわち、房錦の方が柏戸よりも出足が鋭く、当たりが強かったという証といっていいだろう。

 土俵生活の晩年、動きが悪くなった頃の横綱千代の山は、三十三年秋場所に房錦に敗れて左足負傷による休場を余儀なくされたばかりか、休場明けの三十四年初場所でも不覚を取り、この一番を最後に引退に追い込まれている。

 運動神経抜群の房錦のこと、もう少し腕力があれば大関になっていてもおかしくなかった。ただいかんせん練習嫌いの大酒飲みであったため、二十代半ばを過ぎた頃から持ち前のスピードに翳りが見え始め、再び三役に返り咲くことはなかった。


 昭和三十七年春場所は十二日目まで横綱大鵬、関脇佐田の山と並ぶ十一勝一敗と久々に優勝争いに絡んだ。相撲自体は下降線を辿っていても、やはり大阪場所だけは別だった。

 ところが、前頭筆頭まで巻き返した翌夏場所になると五勝十敗でまたしても期待を裏切ってしまう。せめてもの救いは四日目に優勝候補の筆頭だった大鵬を巻き落としで破り、久々の金星を獲得したことだろう。

 立ち合いよく大鵬をのど輪で仰け反らせると、突き返そうと前に出てくるところを体をさばくような右からの巻き落としで勝負を決めた。実はこの一番の前日、報道陣から「明日は危ないのでは」と質問された大鵬はいつになく苛立っていたという。普段は冷静な大鵬がナーバスになるほど、平幕の常連になっても、房錦は警戒を要する相手だったということか。

 酒の方も当時の角界きっての酒豪だった大鵬と互角で、雨で巡業が中止になった日などは朝から晩まで飲み続け、六升くらいはいけたそうだ。巨漢の大鵬はまだしも、小兵の房錦がこの調子で飲み続けていれば健康を害するのも無理はない。結果として力士人生のみならず、自身の命まで縮めてしまった(五十七歳没)。

岩風、房錦ともに稽古嫌いなうえ、ギャンブル好きと大酒飲みという破滅型の性格だったため、人気も長続きせず、人生も短かった。どちらかが自制心が効いて、相撲道に精進するよう啓発し合っていれば、もっと輝かしい土俵人生が全う出来たかもしれない。

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