第24話 深海の伏龍 岩風 角太郎(1934-1988)
安青錦の立ち合いは重心が低いので、相手力士もつい叩きたくなってしまうが、これがなかなか前に落ちず、あっという間に懐に潜り込まれてしまうのがオチである。その安青錦の先駆とも言うべき低い立ち合いから”潜航艇”の異名を取ったのが、昭和三十年代に活躍した個性派力士岩風である。
東京・小松川の鉄筋屋の倅、岡本義和が三役力士になれたのは、三つの幸運によるものだ。
最初の幸運は、力士になるには小柄だが鉄筋屋の仕事で培った怪力を見込んだ知人が、式守錦太夫に紹介したことである。最初は錦太夫も、骨太だが背が低いため力士には不向きだと思ったが、旧知の年寄西岩に託すつもりの自身の息子(後の房錦)も小柄なことから、同じくらい小さな相棒がいれば息子も厳しい修行に耐えられるのではないかという理由で、二人まとめて西岩のところに連れてゆくことにした。
他ならぬ錦太夫の紹介ではあっても、二人ともあまりに小柄だったので西岩も考え込んだ。
錦太夫の息子はまだ十六歳で、今後成長する余地があるにしても、鉄筋屋の倅はすでに十八歳でほぼ成長期は終わっている。ところが、たまたまこの場に居合わせた横綱東冨士が、その筋骨たくましい身体を見て「まあ、何とかなるんじゃないの」と後押ししてくれたのが鶴の一声となった。
「ポケット」の綽名で呼ばれる後の房錦と、「鉄筋」の綽名で呼ばれる後の岩風は出会いが出会いだけに仲が良く、いつも一緒につるんでいた。遊び盛りの二人は、稽古嫌いのくせに博打と酒が大好きという不真面目な新弟子だったこともあって、兄弟子たちからは事あるごとに因縁をつけられ、私刑のようなしごきを受けた。
不器用で要領の悪い岩風は何かとからまれやすいのに対して、房錦は万事につけ飲み込みが早く要領もよかったが、お人よしのせいか岩風だけを放っておけず、失神するまでしごきに付き合った。ただし結果論からいえば、関取になってからも稽古嫌いで知られた二人が共に三役まで昇進したのは、若手時代の理不尽なまでのしごきを通じてたくましい肉体が育まれたおかげといえるかもしれない。
岩風は同じ小型軽量でも、運動神経抜群の房錦のような瞬発力や反射神経には恵まれていないため、スピードで相手を翻弄するような相撲は取れない。その代わり、体格に似合わず足が大きく、腕も指も長い。特に腕力はあの若乃花(初代)が脱帽するほどで、利き腕の右でまわしさえつかめば、まず切られることはなかった。
低い体勢から潜り込むように上手を取って食い下がる戦法を編み出してからは、次第に兄弟子たちの方が岩風とぶつかり稽古をするのを嫌がるようになった。まともに身体ごとぶつかれば吹っ飛んでいた岩風が、重心を下げてごつい石頭で脇腹にぶつかってくるようになったため、兄弟子たちが悲鳴を上げ始めたのだ。
失神するほどしごかれながら、二、三分も経てば昼寝でもしていたかのようにムクリと起き上がり、スタスタと稽古場を後にする岩風は「化け物」扱いされるほどタフだったが、封建的ともいえる上下関係をはじめ、不条理が蔓延する相撲の世界が嫌になって髷を切ったことがある。やはり土建屋の方が向いていると思った岩風は、都内の土建屋に住み込みで働くようになった。二十八年秋場所後のことである。
本来ならここで破門になるところだが、この窮地を救ったのが西岩の師匠に当たる若松親方だった。病床にあった老若松親方は現役時代射水川といい、何度も破門されたことのある乱暴者だったが、ファンや好角家の支援で角界に復帰したという経歴を持つ。若松は直情径行型の岩風に若き日の自分をオーバーラップさせ、不憫に思ったのだ。
工事現場から連れ戻された岩風は、若松に諭されてからというもの、生まれ変わったように相撲に精進した。そして昭和三十一年初場所、十一勝四敗で十両優勝を飾ると優勝インタビューもほどほどに国技館を抜け出し、病床の若松の元に報告に向かった。若松は涙を浮かべて岩風の優勝をわがことのように喜び、間もなく死出の旅に向かっていった。享年六十三歳だった。これによって、若松の養子である西岩が若松の名跡を継承し、西岩部屋は若松部屋として新たなスタートを切ることになった。
新入幕は昭和三十一年夏場所のことで、相棒の房錦より一年早かったが、三賞受賞も三役昇進も房錦の後塵を拝している。全盛期は三十五~六年で、三十五年名古屋場所に自己最多の十二勝を挙げ、場所後に新三役(小結)に昇進した。三十六年初場所から夏場所までは三場所連続で岩風と房錦が三役に名を連ね、この頃両者の人気もピークに達した。
岩風が初の三賞(殊勲賞)を受賞した三十四年名古屋場所初日の若乃花戦は、彼の綽名となった『潜航艇』の威力を存分に発揮した名勝負として知られる。前場所の覇者、若乃花はここ一年間で四場所優勝と絶好調で、初の全勝優勝に向けて意気軒昂だった。
立ち合いが低い岩風に対し、いきなり若乃花がはたきこむが、ここで落ちないのが潜航艇の強みで、逆にぐいぐいと懐に潜り込んできた。咄嗟に打った右上手からの出し投げも踏ん張られて腹の下に入られた若乃花は、左をこじ入れて体を起こそうとするも、怪力で絞り上げる岩風は微動だにしない。そのうちにじれた若乃花が寄りたてると、腰が伸びた瞬間を見計らったように岩風が吊り上げ、そのまま花房下に横綱を放り投げた。
当時憎たらしいほど強かった若乃花を投げ飛ばしたことで、アンチ若乃花のホステスたちからモテモテになったという岩風だが、屈辱的な負け方にプライドを傷つけられた若乃花が出稽古に訪れ、散々に絞り上げられている。例によって房錦もとばっちりを食って鬼のような形相の若乃花から腰が立たなくなるまで土俵に叩きつけられ、以後二人とも若乃花を苦手とするようになった。
剛力で鳴る若乃花を力勝負で仕留めた岩風は、これを機に自分の取り口に自信を深め、三十五年秋場所から三十七年初場所まで九場所連続三役を務めるほどの安定感を見せた。
十二勝、八勝、十勝で新関脇に昇進した三十六年初場所は、大関獲りも夢ではなかったが、大鵬、柏戸、若乃花の上位陣に歯が立たず、八勝どまりで生涯唯一のチャンスを逃している。
岩風は横綱栃ノ海に七勝八敗、佐田の山に五勝九敗、大関栃光に十一勝十四敗と上位にも通じる実力を持っていただけに、房錦同様、稽古嫌いが災いして大関に届かなかったのは惜しまれる。それでも房錦が最後に三役を務めたのが二十五歳の若さであったのに対し、岩風が二十九歳まで踏みとどまれたのは、独自の筋トレのおかげといっていいかもしれない。
薪割りと重いものを持ち上げるのが好きだった岩風は、相当な変わり者のように思われていたが、暇さえあれば宿で薪割りをしていたことで、筋骨隆々とした身体を維持していたのである。稽古をろくにしていないわりに身体は締まっていて相撲も強いことから、一時は人の見ていないところで秘密トレーニングを行っているのではないかと噂が立ったほどだ。無口で無愛想な岩風は喜怒哀楽を表に出さず、人付き合いも悪かったから、人前での稽古を嫌がり一人で身体を鍛えているものと思われていたのだろう。
趣味的な筋トレ以外の稽古の絶対量が不足しているため、糖尿病を患ってからは急速に衰え、相撲に切れがなくなったが、力勝負となるとまだ若い者には負けなかった。
昭和三十八年初入幕の琴桜(後に横綱)は強烈なぶちかましを武器に入幕から五場所で三役に昇進した押し相撲のホープだったが、初顔で岩風に敗れて以来、得意の張り手が出なくなり、一度も勝つことが出来なかった。
思いっきり岩風を張り飛ばした左手を極められ、怪力で振り回されたあげくに押し倒しで一蹴された琴桜が、「おっそろしい力だな。もう絶対俺りゃ、あの人の顔は引っぱたかないよ」と怪力ぶりにぶるってしまったからだ。身体も二回りほど大きく猛牛の異名をとるほどのパワー相撲が身上の琴桜を振り回すほど、岩風の怪力は土俵生活の晩年ですら衰え知らずだった。
昭和四十年秋場所、十両で負け越したのを機に引退を決意する。三役常連の人気力士でありながら角界に残らず廃業を選んだのは、相撲界の格式に対する嫌悪と人付き合いの下手な自分に年寄連中と上手くやってゆけるはずがないという思い込みがあったからだ。
引退後、女房と二人して喫茶店や居酒屋を経営していたが、現役時代からの博打好きが仇となって全てを失ってしまった。相撲界では縦横無尽に暴れまわった潜航艇も、実社会では浮上することなくやがて人々の記憶から消えていった。
稽古好きというわけではないが筋トレだけは欠かさず、幕内随一の馬力を誇ったところなど、豊登を彷彿させるところがあるが、ギャンブル好きまで似てしまったのは悲劇だった。




