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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第23話 天国と地獄  沖ツ海 福雄(1909-1933)

またまた九州場所にちなんで地元福岡出身にして大関間違いなしと太鼓判を押されながらフグ毒で急逝した悲劇の力士を紹介したい。若い頃の双葉山より強く、後の横綱武蔵山の好敵手だった沖ツ海は、昭和初期の角界を代表する人気力士であり、将来性も双葉山以上と言われたものだが、人生は油断大敵である。

 沖ツ海福雄の本名は北城戸福松きたじょうとという。北城戸というのは大変珍しい名字で、全国で百三十人ほどしかいないらしい。しかも約半数が沖ツ海の出身地である福岡県宗像市に集中しているというから、先祖は筑前名島城の北方を護る要職にあったのかもしれない。

 四股名の沖ツ海は世界遺産となった宗像大社管内の沖ノ島に因んでつけたものと言われている。

「神宿る島」として知られる沖ノ島は、古代から国際交流の中継地点であったことから天皇家ともつながりが深く、国家的祭祀が行われていた沖津宮では天皇家から賜った国宝級の宝物が数多く発掘されている。これは当時の大陸貿易の水先案内人たる宗像氏が天皇家と血縁関係にあったほど重用されたことの証であり、ここが天皇家縁の地名であることは間違いない。

 にもかかわらず皇室が神聖視されていた戦前に「沖津宮」を彷彿とさせる四股名を堂々と名乗れたのは、当時の沖ノ島は完全に忘れ去られた孤島であり、一時期は軍の監視所として利用されていたほど雑な扱いを受けていたことによるものだろう。

 実際、明治後期には静岡出身でありながら沖ノ島灘右衛門を名乗った十両力士がいた。


 これと逆のケースが戦後の巨人大関、大内山平吉で、本名が大内だったことから入門時より大内山の四股名を希望していたが、戦時中であったため、皇居を意味する「大内山」は不敬罪に相当するのではないかと部屋の関係者より危惧され、本名の大内のまま相撲を取るはめになった。

 大内山を名乗れるようになったのは、十両に昇進した昭和二十三年に不敬罪が廃止されて以降のことである。


 現在では女性は「不浄」いう理由で上陸が許されず、宗像大社から上陸許可を得た者でさえ全裸で海に入って禊を済ませてからでないと上陸できないほどの聖地も、戦後に出光佐三が私財を投げ打って発掘調査をするまでは、神殿も廃墟同然で、釣り人が自由に立ち寄れる無人島に過ぎなかった。

 つまり、沖ツ海が大阪相撲の千田川部屋に入門した大正末期頃に古代の沖ノ島の威光を語り継いでいたのはせいぜい宗像氏に縁のある地元民くらいのものだったはずで、この島と社の名に因んだ四股名を名乗っても、宮内省あたりが注文をつけてくるほどのことはなかったと考えられる。

 神々しい四股名と「福」の字も福岡にも幸福にもつながることからしても、この力士は神の御加護によりいかなる荒海も乗り越えて、黄金の島にたどり着けるはずだった。

 ところが彼の航海は船出から間もなくゲリラ豪雨に見舞われることになる。

 大正十三年初旬、地元の実業家児玉恒次郎の紹介で福松が大阪相撲の千田川部屋に入門した時、大阪相撲は力士の待遇改善要求に端を発する内紛の真っ只中にあった。

 同年六月には力士団との対立が要因で千田川親方が廃業を申し出たため、所属力士の大半が親方に殉じたが、まだ初土俵も踏んでいない福松は、東京相撲の若藤部屋に引き取ってもらうことになり、親方の現役時代の四股名である上ヶ浜と名づけられた。

 初土俵から三年目の昭和二年からは年四場所制になったことも幸いして、昭和五年一月場所には十九歳の若さで十両に昇進している。


 昭和二年、すでに解散した京都相撲についで運営が困難となった大阪相撲が東京相撲と合併したことで、従来の東京での二場所に加えて、地方で二場所の計四場所制が施行されることになった。同年は大阪と京都、三年は名古屋と広島、四年は大阪と名古屋というふうに地方場所の開催地は毎年変わり、五年十月にはついに福岡にお鉢が回ってきた。この場所こそが正真正銘、九州で開催された初めての本場所である。

 当時の理事長は長崎県諫早市出身、元関脇両国の出羽海だったことを考えると、九州のタニマチあたりからせっつかれていたのかもしれない。

 大相撲福岡場所は須崎裏に仮設国技館を建設して十月十日から二十日までの十一日間行われた。

 東十両筆頭で入幕のかかっている沖ツ海は地元主催ということもあって大張り切りで、初日から七日間連続幕内力士との割りが組まれながら全員を撃破。終盤息切れして九勝二敗で、綾若と銚子灘に並ばれたが、番付上位で二度目の十両優勝を果たし故郷に錦を飾っている。

 全盛時代一八二センチ一一六キロの体格は当時としては理想的で、若い頃の双葉山をややごつくした感じだった。得意は左四つからの下手投げだが、当たりも強烈で、組んでよし離れてよしの万能型といっていいだろう。

 しかしそれにもまして素晴らしいのは闘志と気迫である。上位陣と総当りした昭和六年十月場所は大ノ里(大関)、天龍(関脇)、武蔵山(小結)と並ぶ東方の上位三強を三タテし、沖ツ海の実力を満天下に知らしめた場所として名高いが、九日目に当たった武蔵山との対戦は、角界最大のホープの土俵人生を変えた運命の一戦だった。

 八日目までただ一人全勝を続け二連覇めざして驀進中の武蔵山は絶好調だった。この日も得意の右差しを狙って右からかちあげてきたが、沖ツ海はその右肘めがけてぶちかまし、ひるんだところに左差しから下手投げを打ちながら寄り立てた。武蔵山も廻り込みながら右から上手投げで反撃したが、腕が痺れていて力が入らず、そのまま土俵に座り込むように崩れ落ちた。

 右腕をぶらぶらせている武蔵山に異変があったことは明白だった。場内では沖ツ海が左を差した時に腕が逆に極まったのではないかという憶測も飛び交っていたが、武蔵山の右肘は立ち合いのぶちかましで破壊されたのだった。翌日発表された診断結果によると脱臼と尺骨骨折による全治三ヶ月の重傷だった。

 十日目から負傷休場となった武蔵山は不戦敗を含む八勝二敗一休でかろうじて大関昇進こそ確保したものの、右肘の怪我はその後も完治することなく、以後の土俵生活の大きな足枷となった。

 一方の沖ツ海もこの一戦で気力を使い果たしたのか、翌日から連敗し(七勝四敗)三役の座をつかみ損ねている。

 ところが年末に起きた春秋園事件の影響により東前頭筆頭で迎えるはずだった七年一月場所が中止となったため、脱退力士を除外して挙行されることになった二月場所ではさらに番付が繰り上がり、小結にタナボタ昇進した。


 急遽開催が決定した昭和七年二月場所は変則的な八日間の興行だった。

 大ノ里、天龍、山錦といった出羽海部屋の人気力士や武蔵山の好敵手男女ノ川まで抜けてしまった土俵はいかにも寂しく、入場料を半額に下げたにもかかわらず連日不入りが続いた。

 肝心の相撲の方もごたごたの最中で練習不足の力士が多く、なんとも盛り上がりに欠ける場所だった。やはり期待の新大関武蔵山が肘痛のため五勝三敗と精彩を欠いたことも大きかったが、前場所武蔵山と火の出るような一戦を演じた沖ツ海も二勝六敗と振るわず、相撲人気は急落した。

 二月場所をふがいない成績で終えながら沖ツ海が平幕に落ちなかったのは、平幕が東西合わせて十三人しかいないという協会のお家事情によるものだった。おかげで同じく三役で負け越した幡瀬川と高登もそれぞれ関脇、小結に残るという幸運に預かっている。

 二度の幸運に救われた沖ツ海は、三月の名古屋場所では前場所とは打って変わって好戦的になり相変わらず閑古鳥が鳴く土俵で全身全霊をかけた相撲を取り続けた。

 三日目の大関玉錦戦では、沖ツ海の張り手を浴びて鼻血が止まらなくなった玉錦の身を案じた行司が途中で待ったをかけ、痛み分けにしようとしたところ、負けん気の強い玉錦はこれに応じず相撲再開となった。

 一気に片をつけようと強引に吊りながら寄ってくる玉錦に土俵際まで押し込まれた沖ツ海は、徳俵で踏ん張り、強烈な右上手投げで逆転勝利。この勝利で波に乗ったか、八日目を終わって七勝一敗で武蔵山、清水川と並び、九日目に因縁の武蔵山との対戦を迎えた。

 これまでの対戦成績は武蔵山の二勝一敗だが、右肘が怪我で万全でないため、得意の右上手投げの代わりに首投げを多用する変則相撲に活路を見出していた。前場所、よもやの首投げで負けている沖ツ海は身体を密着させて寄りたてたが、武蔵山も癒えていない右に渾身の力を込めて打棄り、両者同時に土俵下に落下した。

 軍配は武蔵山に上がったが、物言いがつき、行司差し違えで沖ツ海が大事な白星を拾った(決まり手は寄り倒し)。

 千秋楽は同郷の大潮との対戦だったが、鋭い立ち合いと出足の勢いに圧倒された大潮の腰が砕けて沖ツ海の圧勝。二十一歳十ヶ月での幕内優勝は武蔵山に次ぐ史上二位のスピード記録だった。

 関脇に昇進した沖ツ海は、二場所制に戻った昭和七年三月場所が六勝四敗一分、十月場所が九勝二敗(優勝同点)で三役三場所の勝率が七割七分四厘に達している。今日の大関昇進の基準が直近三場所で三十三勝、勝率で七割三分三厘であるから、数字上の条件は十分に満たしているが、脱退事件で力士の層が薄くなっていたぶん評価が割り引かれたのか、昇進は見送られている。

 それでも横綱に昇進した角界の第一人者玉錦と五分(二勝二敗)に渡り合い、次期横綱候補の武蔵山とも毎回熱戦を繰り広げている沖ツ海の大関昇進はもはや時間の問題だったが、翌八年一月場所、その前に立ち塞がる最大の強敵が帰ってきた。関西相撲から帰参した男女ノ川である。

 入幕前からライバル視され続け、春秋園事件前にはともに小結だった武蔵山と男女ノ川は、どちらが先に大関になるかというレベルではなく、すでに横綱争いをしているといってもよかったが、男女ノ川の脱退により、角界の構図は武蔵山のライバルといえば沖ツ海へと移り変わっていた。

 ところが幕内別席という特別枠で久々に東京の土俵を踏んだ男女ノ川はそれまでの鬱憤を晴らすかのように暴れまわり、玉錦、武蔵山、清水川の上位陣を全く寄せ付けずに初日から七連勝で沖ツ海との初対決を迎えた。

 この場所沖ツ海は四勝三敗と調子はいまひとつだったが、強敵相手となるとがらりと人が変わり、男女ノ川と刺し違える覚悟で土俵に上がった。この日土俵で倒れた時のために付き人たちに戸板を用意させておいたというのは有名な話だが、その言葉が大袈裟でないほどの両者死力を振り絞った熱戦だった。

 沖ツ海が得意の左四つからの下手投げで攻め立てれば、男女ノ川もこの場所玉錦と武蔵山を屠った右上手投げで応戦し、両者投げを打ち合いながらほぼ同時に土俵下に倒れこんだ。軍配は男女ノ川に上がったが、同体ということで取り直しになり、再度の力相撲の末、沖ツ海の下手投げを踏ん張りきった男女ノ川が体を預けて押しつぶすような寄り倒しで全勝を守った。

 最終的には男女ノ川が全勝優勝して再起を果たしたが、沖ツ海もこの熱戦で目が覚めたか、武蔵山に勝ち、玉錦とは引き分けで場所の終盤を大いに賑わせた。千秋楽の結びの玉錦戦は沖ツ海の立ち合いのぶちかましでまたしても玉錦が鼻から出血し、痛み分けが宣せられているが、さすの玉錦も疲労がピークに達している千秋楽では再戦に臨む気力もなかったとみえる。

 おかげで千秋楽の結びの勝者が行うのが慣例だった弓取式も中止となった。


 昭和八年五月場所は大関獲りの試金石となるだけに気合が入っていた。終盤まで優勝争いに踏みとどまり、八勝一敗の玉錦と寶川を追走する七勝二敗の成績で十日目に武蔵山と対戦した。 

 すでに男女ノ川を破り自信満々の沖ツ海と内臓疾患でこの場所不調の武蔵山では一方的な展開になるかと思いきや、この一戦のためにスタミナを温存していたかのような武蔵山が多彩な攻めをよく防ぎ、三度もの水入り後も勝負がつかず引き分けに終わっている。

 これが毎回息を呑むような熱戦を繰り広げた両者にとって最後の対戦となった。


 年度の本場所が終わり、玉錦との二枚看板で夏の満州・朝鮮巡業に旅立った沖ツ海は行く先々で大人気だった。春秋園事件の後、しばらく低迷期にあった大相撲も男女ノ川の復帰と沖ツ海の活躍によって再び活況を呈し始め、武蔵山対沖ツ海の取り組みは今や横綱戦を凌ぐ黄金カードとなっていた。

 帰国後は若藤親方の娘との婚約も整い、未来の大関の将来は薔薇色かに見えたが、九月三十日、山口県萩市での巡業の最中に自らの勇み足で人生の墓穴を掘ることとなった。

 この日のちゃんこは沖ツ海の大好物のふぐだった。まだ稽古中だった親友の幡瀬川が「俺の分もちゃんと残しとけよ」と念を押しておいたにもかかわらず、幡瀬川が鍋をつつこうとした時には肝はきれいに平らげられていた。

 幡瀬川ががっかりしたのも束の間、突如沖ツ海の呂律が回らなくなり、身体も痙攣し始めた。ふぐに当たったのは明らかである。医者が駆けつけてきた時にはもはや手の施しようがなく、沖ツ海は目を閉じたまま人事不省に陥っていた。

 「これはもう助からんな」様子を見守っていた誰かがそう言うと、沖ツ海の閉じた目から涙がこぼれてきたという。ふぐのテトロドキシンは神経毒で、最後は呼吸機能を麻痺させて死に至らしめるが、全身の筋肉や視覚が麻痺してもまだ聴覚は残っていたようで、沖ツ海の絶望の涙がさらに哀れを誘ったと言われている。眠るように意識が混濁していったのであればまだしも、そうなる前に死を認識させられた沖ツ海の無念はいかほどだったであろうか。

 享年二十三歳、あまりにも早すぎる死であった。


 大関まではあと一歩だったが、過去の大関以上の番付力士との対戦成績は対大ノ里一勝一敗、対能代潟二勝一敗一分、対清水川二勝二敗、対武蔵山二勝三敗一分、対玉錦二勝三敗一分とほぼ互角であり、実力的には大関の域に達しているといっても過言ではない。特に注目すべきは幕内対戦では誰にも負け越しがないという珍しい記録を持つ現役最強の玉錦を苦にしていないことである。

 数字上では不戦勝が一つある清水川だけが八勝七敗で勝ち越しているが、綱を張ってからの対戦では玉錦が圧勝しており、次期横綱の最有力候補である武蔵山でさえ、玉錦戦は八年五月場所まで二勝十敗である。盛時に物故したとはいえ、横綱力士といえども平幕から三役時代にかけては同時代の横綱・大関クラスに勝ち越すのは困難であり、太刀山、栃木山、双葉山といった大豪にも通算対戦成績で負け越している相手がいる。

 ちなみに〇勝一敗という対戦が一度だけの負け越しも経験していない大関以上の力士は、現在までに雷電為右ェ門、初代梅ヶ谷、常陸山の三名しかいない。

 それだけ安定感抜群の玉錦とほぼ互角の力相撲を繰り広げている唯一の力士である沖ツ海は、肘に爆弾を抱えた武蔵山やムラっ気が多く下半身の脆さに難がある男女ノ川以上に横綱に近い存在だったことは間違いない。

 欠点の少ないことにかけては双葉山と双璧と言えるほどだったが、実際若き日の双葉山も沖ツ海には歯が立たなかった(突き出しと寄り倒しで沖ツ海の二戦二勝)。双葉山が幕内で複数回対戦した中で一度も勝てなかったの唯一の力士が沖ツ海であることを考えると、双葉山の連勝記録のハードルはさらに高くなっていたに違いない。

 ちなみに力相撲で難敵に勝っても全く表情を変えず、土俵上では常にクールな態度に徹したという点においても、沖ツ海と双葉山はよく似ており、ともに相撲道を達観した大物の貫禄があった。


 沖ツ海の墓碑と入幕記念の石碑は津屋崎天神町の万松山新泉岳寺にある。新泉岳寺は沖ツ海の入門の世話をした児玉恒次郎が四十七士の霊を祀るために東京高輪の泉岳寺から寺号と墓砂を分霊として貰い受けて大正二年に建立したものである。児玉は郷土の英雄のさらなる精進を祈願して入幕記念の石碑を建てたのだが、奇しくもそれから間もなく墓碑を築くことになろうとは何とも皮肉な話である。

 告別式(昭和八年十月)が行われた宗生寺のある生まれ故郷大穂(宗像市)の丘陵にも、親方である若藤福太郎建立(昭和九年三月)の「沖ツ海福雄之墓」があるらしく、おそらく遺骨はここに葬られているのではないかと思われる。


沖ツ海とは直接関係ないが、福岡県人としては、戦前は全く顧みられなかった沖ノ島が今や神の島と崇められ、一般人は抽選でしか上陸できず、女人禁制とは意図的なブランド化が見え見えで、厳島神社あたりに対する当てつけのような気さえしている。出光佐三が私費で発掘調査を行い、九州大学の歴史学者たちが過去の歴史に光を当ててくれたおかげで、今日の知名度があるのに何となく高飛車な感じがするのは私だけではないだろう。私は初期の発掘調査に携わり研究書を著した教授から直接話を伺ったことがあるが、その教授も「(神社ではなく)私たちのおかげで有名になったんだ」と力説しておられた。

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