第22話 玄海の魔術師 福乃里 牛之助(1922-1995)
年に一度の九州場所なので、この機会になるべく地元九州にちなんだ力士を数多く紹介しておきたい。ここに紹介する福乃里は福岡県出身で、小型軽量を補うためにレア度の高い技を連発して好角家たちをうならせたものだが、三役になれなかったため昭和の相撲史の中では埋もれた存在になっているが、あまり芸のない
突き押し相撲だけで三役ー平幕を行ったり来たりしている三役経験者より、同時代の相撲ファンにとっては印象深い力士だったはずだ。
明治末期から大正初期にかけて絢爛豪華な相撲で国技館を沸かせた美男横綱鳳の宮城野親方が育てた最後の関取である。
宮城野部屋は大関鳳凰や横綱鳳を生んだ明治大正期の名門だが、鳳が部屋を継承して以降は弟子に恵まれなかった。平成の大横綱白鵬はこの往年の名門が生んだ二人目の横綱で、伝説の不死鳥である鳳凰に通ずる四股名をつけているところに、部屋の伝統がしっかりと継承されていることが伺える。
元鳳の宮城野が期待をかけた弟子には北九州出身という共通点がある。現役時代、福岡巡業中に土俵下でドスを抜いた北九州のヤクザ者たちと大喧嘩をやらかしそうになったこともある宮城野だけに(詳細は鳳の項を参照)、北九州の川筋男の気性の激しさをかったのかもしれないが、偶然の一致にしては出来過ぎといっていいほど、彼が育てた関取三名はいずれも北九州の遠賀郡折尾町の出身だった。
このうち最古参の小役丸勇吉(大正三年生まれ)は、十両に昇進したばかりの昭和十五年五月場所に怪我で休場した直後に応召され、そのまま昭和十七年一月に廃業届けを提出している。師匠譲りの業師として最も期待をかけられながら、戦争によって力士生命を奪われたのは残念だった。
その他にも北九州出身の幕下力士玄海が応召されており、期待の若手が相次いで兵隊に取られたことも宮城野部屋にとっては痛かった。引退後もかつての鳳人気で弟子の希望者が絶えなかったにもかかわらずなかなか関取が育たなかったのは、時代が逆風になったことも考慮すべきであろう。
昭和二十年六月場所、ようやく待望の幕内力士九州錦(大正十年生まれ)が誕生した。九州錦は極め出し、極め倒し、とったりといった腕を絡めた技を得意とする異能力士で、入幕から五勝二敗、八勝二敗の好成績で三役目前まで駆け上がったが、そこから伸び悩み、ついに三役にはなれなかった。
三人目の関取が、小役丸と入れ替わるように角界入りした大正十二年生まれの福乃里牛之助である。ちなみに牛之助は本名で田中牛之助という。
福乃里が入門した昭和十五年は、双葉山人気のおかげで相撲部屋入門希望者が多く、同期生は百三十名にも達したが、太平洋戦争という混乱期を挟んでいることもあって、幕に上がったのは福乃里、力道山、出羽錦、出羽湊、時津山、清水川、国登、信夫山の八名に過ぎない。このうち朝鮮出身の力道山以外は全員応召によるブランクを作っているため、戦前に関取になれたのは力道山一人だけである。逆にその他の同期生は、福乃里を含む六名が三十五歳を越える長い現役生活を送っている。
またこの八人の同期生は土俵上ではライバルであるにもかかわらず、例年になく厳しい出世争いを勝ち抜いてきたという戦友意識があるのか非常に仲が良く、プロレスラーに転向した力道山も含めて定期的に同窓会を開いていた。
福乃里が十両に昇進したのは昭和二十二年のことだが、そこから足踏みが続き、同い年の出羽湊と同時に入幕を果たしたのは二十八年五月、すでに二十九歳になっていた。
全盛期でも一七六センチ八十五キロというちょっと体格のいい一般人と変わらない福乃里の生命線はスピードだった。親方自身が軽量という弱点を克服するために、鳳の名を不朽のものとした「ケンケン」(掛け投げ)に磨きをかけたのと同様に、北九州出身の弟子たちの中でもとりわけ素質の乏しかった福乃里には、組まずに動き続ける相撲を徹底させた。
四つになると勝負にならず、相手が力を出し切れない半身の体勢から師匠直伝の内掛け、掛け投げを得意とした。相手の足を一瞬のうちに払う内掛けは、決まれば鮮やかだが、勝負はそれこそ一瞬である。それに対して掛け投げは、内掛けで倒せなかった相手を片足立ちのまま引き摺るようにして投げ飛ばす大技であるため、見た目も派手で勝負がつくまでの間の緊張感をじっくり堪能できるという点において、観客うけもいい。
昭和二十八年九月場所十三日目に、二メートルの巨人大内山をケンケンで引き回して横転させた一番などは、それより四十数年前に新入幕の鳳が横綱候補の駒ヶ嶽(大関)をこの大技で仕留めたところを目の当たりにしたことのある老好角家には、鳳の再来に見えたに違いない。入幕当時の鳳は福乃里とほぼ同じ体格で一八八センチ一三五キロの駒ヶ嶽を翻弄したが、例えるなら一般人がプロレスラーのようなごつい大男を投げ飛ばしているようなもので、見ている側からするとこれほど胸のすく相撲はない。
同じ足技の達人でも琴ヶ濱は内掛け一辺倒で、強引すぎるがゆえに軸足を掬われて(小股掬い)逆に倒されることもあったが、動作に無駄のない福乃里は、内掛けを踏ん張られると、身体から遠い方の足を腕でかつぎあげて後方にひっくり返す大股も得意としており、相手力士にとっては、有利な体勢になっていても、いかなる逆転の奇手が飛び出すかわからない怖さがあった。
本来大股は小股掬いが決まらない場合、あるいは小股掬いと見せかけて逆の足を狙う形で仕掛けるため、リーチの長い長身力士でないと使いこなすのは困難な技である。そのため小股掬いの達人であった幡瀬川でさえ、手が届かないという理由でこの技は封印していたほどだ。
それほど難易度が高く体格的にも不向きな技を得意とするのは、よほど相手の動きに対する反応が速く、身体も柔軟だったのだろう。
大股の名手というと後に相撲教習所の教官として活躍した那智ノ山も有名だが、この二人は同時代のライバルでもあった。
出羽海部屋の那智ノ山は運動神経抜群で体格にも恵まれ、部屋のホープ的存在であったにもかかわらず、戦時中に腰を痛めたため、正攻法から手取り相撲に切り替えた力士である。幕内はわずか二場所に過ぎないが、十両陥落後も長らく人気十両力士として関取の座に留まっていられたのは、元両国の出羽海親方と部屋の作戦参謀だった笠置山の二大業師がみっちりと技術指導してくれたおかげである。
本人も幕内では通用しないことがわかっていたため、珍手・奇手で観客を喜ばせることに徹していたふしがあり、強さよりも派手なサーカス相撲で人気を博していた。
その点、福乃里は二年間幕内にいただけあって、技のキレは一枚上手だった。那智ノ山の大股による勝利は十一番で福乃里は九番だが、両者の直接対決(全て十両時代)では十二勝五敗と福乃里が圧倒している。
平成では二度しか記録のないこの奇手を、年五場所時代の昭和三十二年だけで福ノ里が五番、那智の山が四番決めており、まさに免許皆伝の腕前といっていい。惜しむらくは、当時の二人は幕にいなかったため、この偉業も参考記録に過ぎない。ただし幕内通算(昭和以降)に限ると福ノ里の三番が「大股」の最多記録になっている。
前頭十三枚目が最高位の福乃里は、現役の横綱・大関との対戦はなかったが、後に横綱となった若乃花、柏戸、栃ノ海からも勝ち星を挙げている。
十両への陥落と幕内復帰を繰り返しながら昭和三十四年まで二十年に渡る土俵生活を全うした福乃里が、最も輝いていた場所が二十八年九月場所である。この場所は特に動きがよく、レア度の高い技を連発し、コアな好角家を喜ばせた。
勝った九番の決まり手は、下手捻り二番、足取り、突き出し、内掛け、掛け投げ、打棄り、大股、叉股返し(さまたがえし・内無双の変化形)各一番とまるで技の見本市である。それも派手な大技が多く、見ている方はこたえられなかっただろう。前述の大内山との一番もこの場所だが、「曲者同士の一番」と注目された十四日目の琴ヶ濱戦も土俵際逆転の打棄りで制している。
これだけ難易度の高い技を披露しながら技能賞を見送られたのはちょっと解せない。というのも、この場所の敢闘賞が上位と当たらず十勝五敗だった前頭六枚目の琴錦で、技能賞が新入幕で十二勝三敗の好成績を挙げた成山だったからだ。
平成の舞の海が技能賞を受賞した四場所ともに平幕で一桁勝利だったように、技能賞は必ずしも二桁勝利が必要というわけではない。技能賞の該当者がいない場所も少なくない昨今に比べ、当時は技も豊富だったとはいえ、一場所にこれだけ珍しい技を連発したのは極めて稀である。成山の三賞受賞は当然のこととしても、その勝ち星の大半は押し相撲であることからも、この場所は敢闘賞が成山で技能賞が福乃里というのが妥当のように思われる。
参考までに土俵生活晩年の三十二年五月場所も、番付は十両(五枚目)とはいえ、なかなか見せ場の多い手取り相撲を披露しているので紹介しておきたい。この場所は足技のオンパレードで、正攻法による勝利が寄り倒しで勝った一番だけというのが特徴である。その他の内訳は内掛け四番、掛け投げ二番、切り返し、大股、首投げ各一番で、五日目から九日目までは五日連続足技で勝利しているところが凄い。さすがに鳳の愛弟子だけのことはある。
あまりにすばしっこいことから、二十四年五月場所には四股名を牛若丸飛之助に変えたこともある。さすがに牛若丸牛之助では、牛が重複していて素早いのか鈍くさいのかよくわからないから、しゃれっ気を出して飛之助としたのだろうが、ふざけていると思われたのか協会から叱責を受け、せっかく勝ち越したこの場所限りで元の四股名に戻している。
昭和三十一年十一月に病気静養中の師匠宮城野が亡くなると、現役中に年寄株を譲渡された横綱吉葉山が主宰する吉葉山道場に移籍し、三十四年九月場所後に引退・廃業した。
師匠の娘を娶っていたこともあって、宮城野の名跡は福乃里が継ぐものと思われていたが、福乃里がなかなか幕内に定着せず宮城野も心を決めかねていたところに、吉葉山からの譲渡の依頼を受け、これに応じてしまったことで、福乃里も角界に残るのを諦めてしまったのかもしれない。
昭和三十三年に引退した三歳年上の那智の山が年寄峰崎として後進の指導にまい進していただけに、足技にかけては琴ヶ濱と並んで戦後の双璧ともいわれる福乃里が後継者の育成に携われなかったことは惜しまれる。鳳、福乃里と受け継がれた「掛け投げ」の奥義はここで途絶え、以後この技を自家薬籠中のものとした力士は出ていない。
令和七年九州場所四日目の相撲は見ごたえがあった。伯桜鵬に土俵際まで一気にもっていかれた安青錦の逆転の首投げも豪快だったが、まさかの内無双で琴桜を土俵につんのめらせた高安には驚かされた。アナウンサーが突き落としと勘違いするほどの早業は芸術的ですらあった。力相撲で勝った高安より、こういう勝ち方を見た方が観客もすごく得をしたと感じたのではないだろうか。福乃里は平幕だったが、相撲の勝ち負け以上に結びの一番以上に観客を喜ばせることに生きがいを感じる「美味しいとこ取り」の男だったのかもしれない。




