第21話 鎧袖一触 雷電 震右衛門(1842-1884)
相撲ファンなら雷電為右衛門の名前は聞いたことがあるはずだが、一時違いの雷電震右衛門となると、同じ雷電ということで混同しているか、聞いたこともないという方が大半を占めると思われる。それは”寛政の雷電”が強すぎて伝説化してしまっているからで、”明治の雷電”も明治以降の力士の中では、間違いなく十傑に入るほどの強豪である。しかも”明治の雷電”の方は幸い力士時代と引退後の写真も残っており、より身近に感じられるはずだから、相撲関係の番組でももっと積極的に紹介してもらいたいものだ。
雷電という四股名は止め名、つまり野球でいうところの永久欠番扱いになっていて、現在では誰も名乗ることができない。
それは寛政期に活躍した雷電為右衛門があまりにも偉大であり、雷電=史上最強の力士という固定概念がすでに出来上がってしまっていることによる。そのため、雑誌の企画等で最強力士を論じる場合は“近代最強”に限定され、明治以降の常陸山、太刀山、双葉山、大鵬、白鵬あたりを対象とするのが常である。
寛政の雷電と言えば、今日の優勝に相当する幕内最高成績二十六回という年二場所時代の最多を誇り、幕内勝率九割二分八厘(引分と預かりを除くと九割六分二厘)という全時代を通じた最高記録を持つ無敵力士だった。
この実績で横綱になれなかったのは、当時の横綱は尊称に過ぎず、番付上は大関が最高位だったというだけのことで、江戸時代最強の横綱だった谷風梶之助(優勝相当二十五回)をほぼ全ての記録で上回っている。
しかし、今日でこそ神格化されている雷電という四股名も、元々は信州松本藩ゆかりのもので、為右衛門が初代というわけではない。同時代に偶然ながら雷電灘右衛門という十歳年上の強豪力士がいて「二人雷電」というややこしい時期もあったほどだ。
最終的には、直接対決の結果も含めて実力で劣る灘右衛門の方が手柄山と改名したため、雷電を名乗る力士は一人になり、その傑出した強さから長らく雷電の名を継承する力士は現れなかった。
明治期の横綱大砲が同郷の谷風の四股名を継ぐことを固辞したように、雷電という四股名は自他共に認める強豪力士と言えども、恐れ多いところがあったのだろう。
ところが明治維新から間もなく、この伝説的な四股名を継承するにふさわしい力士が現れた。それが明治の雷電こと雷電震右衛門である。
これほどの四股名を堂々と継承し、角界でもそれを当然のこととして受け入れたのだから、二代目雷電の力量のほどは察しがつくだろう。しかし、二代目雷電は全盛期の強さこそ先代に引けを取らなかったものの、病により横綱にたどり着く前に力尽きたため、悲劇の大関として語り継がれている。
雷電の四股名は震右衛門を最後に「止め名」になった。
「雷電の再来」と騒がれた力士はその後も何人かは出たが、長身で怪力の持ち主というだけのことで、実力的には震右衛門の足元にも及ばず、四股名の継承など話題にさえ上らなかった。
雷電震右衛門こと楠和助は能登国羽咋郡若部村(石川県羽咋市)に生まれた。
文久三年、江戸に出て千賀ノ浦部屋に入門し、翌年八月に初土俵を踏んだ。
入門当初はころころと四股名が変わったが、兜山和助を名乗っていた三段目時代に姫路藩主酒井忠績の目に止まりお抱えとなる。入幕前にスポンサーがつくというのは珍しく、それほど彼の力量が傑出していた証と言えよう。
角界入りが遅かったため、明治三年四月に入幕した時はすでに二十八歳になっていたが、初顔でいきなり横綱鬼面山(番付上は大関)を破るなどすでに実力は大関級だった。
入幕二場所目に平幕で初優勝を果たすと、五年三月場所から六年四月場所まで三連覇。雷電の四股名を名乗るようになったのは関脇に昇進した六年四月場所からである。
先代が全盛時代一九七センチ一六九キロの巨人だったのに対して、二代目は一七七センチ一二五キロのずんぐり型で容姿は全く異なる。似ているのは破壊力抜群の突き押しを主体とした攻撃型というところだけで、雷電を彷彿させる無敵ぶりからその四股名を継承するにふさわしい力士と見なされたのだ。
事実、入幕から五年十場所の成績は、先代が五十九勝二敗一分六預、優勝五回であったに対して、明治の雷電も六十二勝三敗九分五預、優勝五回とさほど遜色はない。
震右衛門の入幕時、最強力士であった横綱境川とは番付で同じ東方にいることが多かったため、対戦が少なく一分一預だったが、大阪大関から東京相撲に加わり歴代横綱最高勝率を残す梅ヶ谷をも一方的に突き転がす腕力はまさに雷電の再来にふさわしいものだった。
新入幕で優勝したほどの梅ヶ谷が最も苦手としたのが雷電で、初顔で一蹴されて以来、初勝利を挙げるまで六年を要している(この間二敗二分)。その後、梅ヶ谷が連勝して対戦戦績を五分に戻すも、ようやく勝てるようになったのは雷電が難病を患い下降線を辿り始めてからのことで、それまでは怪力で鳴る梅ヶ谷の方が完全に力負けしていた。
雷電は明治四年十一月場所五日目から九年一月場所三日目まで四十四連勝を記録する。これは奇しくも先代と同じ数字であり、本場所で四十連勝以上も先代以来のことだった。
まさしく寛政の雷電が明治に甦ったような強さを発揮した震右衛門は遅かれ早かれ綱を張るのも時間の問題と思われたが、これだけの成績を残しながら関脇留め置きという不運に泣いた。
これは番付上の最高位が大関だった時代ならではの不運で、東方に横綱境川、西方に大関綾瀬川が健在だったため、境川が引退するか綾瀬川が陥落する以外に大関の座に就くことは出来なかったのである。
綾瀬川に六勝一敗と一方的に勝ち越していることから考えても、綾瀬川が昇進時にそうであったように張出大関にする手もあったはずだが、協会は何故か雷電の昇進には好意的ではなかった。
「相撲じゃ陣幕、男じゃ綾瀬、程のよいのが朝日嶽」と俗謡で詠われたように、美男の人気力士だった綾瀬川に比べると、雷電は色黒で凶暴そうな顔つきをしていたため、その不人気ぶりが災いしたのかもしれない。
もし、雷電を張出大関に推挙すれば、その実力からして翌場所からは正大関の座に就き、協会の看板たる綾瀬川がずっと張出に甘んじる可能性が高いからだ。
もっとも性格的には、綾瀬川が優柔不断で信用がおけないお調子者的なところがあったのに対し、雷電は酒も博打もやらない品行方正な真面目人間だった。
ただし、雷電の義母というのがなかなかの食わせ者で、無許可で花札を販売したかどで逮捕された時には、雷電までが警察から拘留されて取り調べを受けている。後日、雷電は無関係であることが証明されたとはいえ、身内の醜聞が協会の覚えを悪くした要因の一つになったことは間違いないだろう。
そのうえ、正体不明の難病に冒され八年四月場所を全休するという不幸にも見舞われたことでさらに昇進が遅れ、ようやく大関に推されたのは綾瀬川が引退した九年四月場所後のことだった。
ところが、大関になったのも束の間、病の悪化により大関として本場所の土俵を務めたのは九年十二月場所(五勝二敗一分一休)の一場所だけで、翌場所から三場所連続全休し、平幕まで落ちてしまった。
ふがいなさを恥じた雷電は、復帰場所となった明治十二年一月場所からは四股名を阿武松和助と改めたため、大関雷電として土俵に上がったのはたったの一場所ということになる。
「悲運の大関」と呼ばれることはあっても「最強の大関」と表現されることがほとんどないのは、優勝は全て平幕から三役時代に限ることによるものだろう。
明治最強の一人である梅ヶ谷とは対戦経験があるだけに、全盛期の強さだけで比較すると、梅ヶ谷、常陸山、太刀山に勝るとも劣らぬ力量の持ち主だったと考えて差し支えない。
欠点らしい欠点は見当たらないが、巻き落としなどの豪快な技を得意するぶん、攻めに強引なところがあり、鬼面山や武蔵潟のような長身で懐の深い力士を一気に攻めきれずに不覚を取ることがあった(武蔵潟には三勝三敗、鬼面山には入幕前に三連敗し、入幕後は一勝〇敗)。
明治十三年一月場所、東関脇の阿武松は満身創痍でありながら当時第一人者の梅ヶ谷と引き分けを演じるなど奮闘し、六勝二敗一分の成績で六度目の優勝を果たしている。
しかし、これが燃え尽きる前の最後の輝きで、以後は一度も土俵で勝ち名乗りを受けることなく再度平幕に落ち、十五年五月場所後に引退した。
■参考■入幕から五年十場所の記録
雷 電 為右衛門 59勝 2敗 1分7預 8休 優勝5回
雷 電 震右衛門 62勝 3敗 9分5預11休 5回
梅ヶ谷 藤太郎 61勝 3敗 8分2預16休 4回
小 錦 八十吉 55勝 3敗 3分4預25休 6回
常陸山 谷右ェ門 67勝 5敗 4分 13休 3回
雲 龍 久 吉 64勝 8敗 8分2預13休 6回
安政2年が興行中止のため合計十場所(六年)の記録
横綱大ノ里は、かつての名大関の四股名を継いだものだが、石川県出身力士だけに、二、三十回優勝を重ねたら、郷土の英雄(明治の)雷電の後継者の声は上がらないだろうか。




