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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第20話 錆びた鉄馬車  豊国 福馬(1893-1942)

豊国は実力、風格ともに横綱級の力士だったが、貪欲さや執念に欠けるきらいがあり、綱までの道のりを遠回りした結果、終着駅間近で錆びついて停車してしまった。

 福岡-大分間の高速バスの名は「とよのくに」号と呼ばれており、「豊の国」というのは豊後府内の別称でもある。

 大分県出身力士というと第一に角聖双葉山の名が浮かぶが、双葉山は同じ大分県でも豊前宇佐の出身であり、県内でも黒田官兵衛の豊前中津城下と大友宗麟の豊後府内城下では文化圏が違う。

 そのため、府内大分では市内下郡滝尾村出身の大関、豊国福馬の方が地元出身力士という親近感が強かった。市内出身力士としては、初の九州本場所で全勝優勝を果たした玉乃海代太郎(最高位関脇)も有名だったが、昭和四十年代の終り頃までは大分市内の相撲好きの老人が口にするのは豊国の方が多かった。

 豊国が大分県出身初の大関にして優勝力士でもあったことはもとより、晩年も故郷で過ごしたという点で、東京人に成り切ってしまい墓所まで東京にある双葉山よりも地元愛を感じるところがあったのではないだろうか。


 豊国こと高橋福馬は元々職業力士を目指していたのではない。徴兵で小倉野戦重砲隊に所属してい頃、隣接していた騎兵大隊の連隊長から堂々たる体躯を見込まれ、角界入りを勧められたのがきっかけである。

  除隊後、上京した福馬が井筒部屋に入門した時はすでに二十一歳だったが、一八一センチ八十キロ強で上体の発達した身体は、相撲に順応するのも早く、序二段、三段目は全勝で通過、全場所一敗以内で十両に駆け上った。

 その強さは新弟子時代にかの常陸山から目をかけられたほどで、常陸山の陸と井筒親方(二代西ノ海)の旧四股名錦洋の錦を合わせて陸錦と名付けられた。

 上背も目方(全盛時代一二〇キロに達した)も理想的な豊国は、突っ張りを主体とする長身力士も重量級力士も苦にしない万能型だったが、発達した上半身のわりに下半身が華奢なため、腰に粘りがなく、大ノ里のようなフェイントの巧い小兵力士はやや苦手としていた。

 その代わり、出羽海部屋のホープである天龍、武蔵山のような正攻法の力士は豊国には歯が立たなかった。

 相撲のスタイルは堂々と受けて立つ横綱相撲で、立ち合いこそ拙いものの、ひとたび組み止めて泉川に極めてしまえば、ライバル大関常陸岩のような吊りを得意とする力士ばかりか、新海のような足癖のある力士も身動きが取れなくなり、そのまま持ってゆかれることが多かった。


 三役になったのは大正十五年五月場所ですでに三十一歳になっていたが、新三役の場所が九勝二敗、翌昭和二年一月場所が七勝四敗、同年三月場所が九勝二敗(準優勝)と大関の声が掛かってもおかしくないほどの好成績を続けた。

 この成績で昇進しなかったのは年齢的に先がないと見られたのかもしれない。しかし、豊国はこれにめげず五月場所も九勝二敗(準優勝)で大関の座を手に入れた。この場所の優勝は横綱常ノ花だったが、横綱の全勝優勝を阻んだのが豊国だった。

 大正中期から後期にかけては大錦と栃木山の出羽海コンビが優勝を独占していたが、余力を残したまま栃木山が引退した後、昭和初期は一人横綱の常ノ花が孤軍奮闘し、出羽海勢初の二桁優勝に到達している。

 この時期の常ノ花の最大のライバルが豊国で、大関豊国対横綱常ノ花の対戦成績は豊国が五勝四敗一分でリードしているのだ。常ノ花は豪快な櫓投げを得意としたが、吊り合いとなると豊国に分があった。栃木山に歯が立たなかったのは、スピードについてゆけず持ち味を生かせなかったからで、正攻法で豊国と互角以上に渡り合えたのは玉錦くらいのものだった(豊国の七勝八敗)。


 温厚過ぎるがゆえに勝利への貪欲さに欠けるきらいはあったものの、誰からも好かれる人格者でその落ち着いた佇まいと風格は、まさしく横綱級だった。若き日の双葉山が憧れた力士というだけあって、立ち姿もよく似ている。

 連敗が少なく生涯大負けすることがなかったのは、勝敗に執着しない淡白なところがあり、負けを引き摺らずに開き直るタイプだったことにもよる。


 豊国には綱取りのチャンスが三度あった。

 最初が四年一月場所に九勝二敗で準優勝のあと、三月場所九勝二敗で初優勝を飾った時である。

 常陸岩、大ノ里の両大関を連破し、横綱常ノ花にも一勝〇敗と上位陣に完勝しながら、関脇玉錦に連敗した他、取りこぼしがあったため勝率が低くなり、昇進は五月場所の成績次第ということになった。満を持して臨んだ綱取り持ち越しの場所、中盤まで六勝一敗で常ノ花とともに優勝争いの先頭に立っていたが、八日目、九日目と苦手の玉錦、大ノ里に連敗し、昇進はご破算となった。

 五月場所の終盤四連敗の印象は最悪で、三十五歳という年齢も考えると気持ちが切れてしまったと思われても仕方がなかったが、九月の名古屋場所によもやの優勝同点で豊国は再起する。優勝ラインが低く八勝三敗であったとはいえ、優勝力士の常ノ花には勝っており、まだ燃え尽きていない老雄の底力を見せた場所だった。

 年が明けた六年一月場所、ダークホースの豊国はあれよあれよと勝ち進み、本命の常ノ花も撃破して九勝二敗で二度目の優勝を飾った。しかし、これが最後の輝きだった。三度目の綱取りがかかった三月場所は大関になって初めての負け越しとなり十月場所限りで引退した。綱取りに失敗して一年以内に引退というのは特異なケースであろう。

 豊国は査定が甘い時代であれば横綱に推挙されても不思議ではないほどの実力も有していたが、大正から昭和初期にかけて鳳、西ノ海(三代)、宮城山といったB級横綱を濫造した反動で、協会も慎重になっていたのに加えて、三十代後半という年齢も伸びしろが少ないと判断されたようだ。

 とりわけ昭和二年から七年にかけてはそれまでの二場所制から四場所制になったおかげで、昇進スピードが早くなったため、力士の実力査定もシビアになっていた。豊国も不運なところがあったが、最終的に綱を締めたとはいえ、玉錦に至っては、大関で三場所連続優勝しても昇進は見送られ、横綱になるまでに関脇で一度、大関で四度の優勝を積み重ねる必要があった。

 もっとも玉錦の場合は土俵の外での揉め事が多く、協会幹部から品位に欠けると見なされていたこともあるが、それを割り引いても横綱が制度化された明治二十年代以降ではこの時期が最も横綱、大関の昇進が厳格化を極めており、豊国も連続優勝でもしない限りは綱は厳しかったと思われる。

 引退後は年寄九重を襲名し、検査役、理事など協会内でも重きをなしていたが、病気のため十二年五月限りで廃業して郷里に戻り、若くして没した(享年四十八歳)。

玉乃海に続く大分県出身力士である。大分県は双葉山という偉大な横綱を輩出しているが、他があまりぱっとせず、大関まで昇進した力士も豊国しかいない。ただ双葉山は豊前中津の出身で文化圏も今日の福岡県に

属するため、豊後府内出身の玉乃海と豊国の方が別府、大分方面では郷土力士という認識が強いようだ。

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