第2話 燃え尽きた妖星 大潮 又吉(1893-1964)
現在放映中の2025東京世界陸上では競歩の勝木と藤井が銅メダルを獲得し、福岡県民の意地を見せた。特に生中継で、今田美桜が”同じ福岡県人”として藤井を讃えている姿が印象的だったので、同じく福岡県人である私もそれに便乗して?、福岡県出身の飛び切りの怪力士を讃えるべく、ここに紹介させていただくことにした。大潮又吉は最高位は関脇ながら横綱、大関とも五分に渡り合い、上位陣の恐怖の的だった。
大潮という四股名は昭和以降に二人おり、いずれも四十歳まで土俵を全うした角界有数の長寿力士として知られる。明治三十三年生まれの大潮清治郎(最高位関脇)は三十九歳五ヶ月という昭和以降の金星獲得の最年長記録を長らく保持し(令和七年名古屋場所に玉鷲が四十歳八ヶ月で記録更新)、昭和二十三年生まれの大潮憲司(最高位小結)は一八九一番という通算最多出場数を誇る。
ここで紹介する大潮又吉は大正時代の力士で、前述の二人とは異なって力士生活も短命だったため、今日ではほとんど無名に近い。しかし、三人の大潮の中では文句なしに最強であった。
大潮又吉こと塩塚又吉は福岡県山門郡大和町の出身で、後年大潮の四股名を継いだ清治郎、憲司ともに同県人である。体重は九〇キロそこそこながら、一八二センチという身長は大正期の力士としては長身の部類に入り、ビルドアップされた肉体は無尽蔵のパワーを秘めていた。
三段目時代からすでに稽古場では関取連中にも引けを取らず、本場所が年に二場所しかないのがもどかしいほどだった。大正五年一月場所に幕下優勝を果たすと、十両は二場所で通過し、大正六年五月場所に二十四歳で入幕(西前頭十三枚目)した。そして新入幕早々、不敵な面構えの筋肉男は土俵に旋風を巻き起こした。
すでに平幕の下位では歯が立たないほど力量差のある大潮は悠々勝ち続け、九日目まで優勝争いの先頭に立っていた。千秋楽の紅葉川戦は、押し込まれた大潮の土俵際での打棄りが決まったかに見えたが、物言いがつき、協議の結果預かりとなってしまったため、すでに黒瀬川に勝ち九勝〇敗一預の大関栃木山と星が並び、優勝を逃している。
ところが大潮の預かりには裏があるとも言われている。
行司は紅葉川が先に落ちたと見て大潮に軍配を上げたが、控え力士から大潮の足が出ていたと物言いがついた。観戦者の大半が、物言いをつけるほどの勝負とは思っていたかっただけに、この判定は様々な憶測を呼んだ。
当時の出羽海部屋は角界屈指の大部屋であり、番付上の贔屓も横行していた。その筆頭が大錦で、入幕三場所で大関、五場所で横綱昇進という常識外れのスピード出世を果たしているのだ。これらはいずれも史上最短記録で、まず更新は不可能だろう。
さらには同門のライバル栃木山も、三役で六勝三敗一分を二場所続けただけで大関である。いくら大錦と栃木山が大器であり、ともに名横綱になっているとはいえ、この昇進の早さは作為的と勘繰られても仕方がない。
大正六年五月場所は、疑惑の昇進を果たしながら優勝戦線に喰らい付いている新大関栃木山と陰で暗躍したであろう出羽海部屋にとっても悪評を払拭するためのまたとない機会だった。だからこそ大潮の優勝を阻止するためにも、際どい勝負に物言いをつけて、勝ち星を与えない必要があったという可能性も棄てきれない。
これには伏線があって、栃木山が四日目に預かりとなった敷嶋戦も余裕の打棄りで敷嶋の勝利かと思いきや、栃木山の同門の九州山から敷嶋の踏み越しと物言いがつき、黒星を免れている。
さらに千秋楽では先に取り組みがあった栃木山が九勝〇敗一預で、その後取り組みがある大潮が勝てば栃木山の優勝はなくなるにもかかわらず、審判部では大潮が全勝した場合、単独優勝にすべきか、栃木山の預かりを白星とみなして同点優勝にすべきかで協議が行われていたというから、何が何でも栃木山を優勝させなければという気運が漂っていたことは否定できない。
もちろん最終的には大潮の取り組み次第だから八百長ではないが、大潮は優勝していれば新入幕で全勝優勝という角界唯一の記録を打ちたて、相撲史にその名を残すところだった。
せめてもの救いは、東西対抗では東方の勝利となったため、新入幕ながら大潮が優勝旗手の栄誉に預かったことだろう。
明治四十二年六月に国技館が開設されて以来、大相撲は個人優勝と団体優勝が制度化された。取り組みも今日のような部屋別総当りではなく、東西対抗の形を取っていた。そのためファンも個人の成績だけでなく、出羽海系中心の力士団対その他の連合力士団という団体戦にも関心が集まるようになった。
結果、東方同士、西方同士の対戦がなくなったとはいえ、総合成績で勝った方には団体としての優勝旗が授与されるなどセレモニーもなかなか盛大で、東西対抗制度は相撲観戦の楽しみの一つとして昭和二十二年六月場所まで存続した。この東西対抗戦で団体優勝旗を授与されるのが、勝った側の横綱・大関を除く力士中、最高成績を収めた者で「旗手」と呼ばれた。
大潮は大正九年一月場所でも旗手を務めているが、平幕で優勝旗手を複数回経験しているのは、彼の他には両国勇次郎、阿蘇ヶ嶽梶右衛門、大蛇山酉之助、源氏山大五郎、輝昇勝彦だけである。優勝決定戦がなく番付上位者が優勝者に選ばれていた時代、優勝旗を掲げる旗手になることは、戦後に制定された三賞以上に注目を浴びる晴れ舞台であった。
翌大正七年一月場所も初日こそ大ノ高と預かりになったものの、二日目には場所後に大関に昇進した九州山の巨体を高々と吊り上げ、豪快な下手櫓で仕留めると、三日目には新入幕優勝経験者の曲者両国(関脇)の執拗な足技を凌いで下手投げで下し、入幕以来の連勝を十一に伸ばした。これは明治以降では小錦、常陸山に次ぐ記録だった。
四日目の相手は横綱栃木山だった。場所前から一月場所の目玉と目されたこの一戦、大潮が立ち合い鋭く得意の右を差したと思いきや、栃木山はこれを絞り上げながら右から強烈な筈押しで仰け反らせ、一気に寄り切った。
この取り組みでどこかを痛めたのか、翌日から休場した大潮の成績は二勝一敗一預六休というものだったが、内容が評価されたのだろう、九州山の大関昇進によって一つ空いた関脇の座に収まることになった。入幕から三場所目での関脇昇進は、三段目時代から出世を競い合ってきた常ノ花よりも早く、大関争いでは一歩リードした形になった。
新三役で迎えた大正七年五月場所、初日から三連勝の大潮はこれで入幕以来十四勝一敗と抜群の安定感を見せていたが、同郷の福柳に連勝を止められたのを機に栃木山、常ノ花と出羽海勢に三タテを食い、よもやの負け越しで関脇の座から滑り落ちてしまった。
軽量を補って余りある腕力は、四つに組めば横綱大錦と五分に取れると言われ、投げと連動した足技のキレも一級品だった。土俵際に追い詰められてからは実にしぶとく、寄ろうとした相手の腰が伸びた瞬間に投げを打ってきたり、足を飛ばしたりと、完全に土俵を割るまで油断のならないところがあった。
反面、不利な体勢からでも強引に技を仕掛けるところがあり、そういう時には腰高で軽量なところが災いして逆に吊り上げられてしまうことが多かった。
もう少し体重を増やして、腰を落としてじっくり攻めるようになれば、大錦、栃木山の両横綱の強敵になりうる逸材、とまで評価されながらそれを果たせなかったのは、ひとえに本人の不摂生にある。
力士の酒好きは常識、と言っても、本場所の土俵に立てないほど泥酔してしまうというのは常軌を逸している。梅常陸時代の名脇役だった海山のように、支度部屋で泥酔しながらそのまま土俵に上がり、正気に戻った時には相撲を取ったことさえ忘れていたというとぼけた例もあるが、大潮の場合は、飲み過ぎで体調を崩して休場することしばしばというのだから、まさに言語道断である。
人気力士だけに、場所中でも贔屓筋から宴席に誘われることが多かったとはいえ、ここまで自覚のない男も珍しい。酒癖が悪く、付き人も止めるに止められなかったのだろう。
とかくエキセントリックなところが多かった大潮は「怪人」「狂いの力士」(本来は番狂わせという意味だが、彼の場合は女狂いという意味も含まれている)などという有難くない綽名を付けられていた。兄弟子の玉ノ川と大喧嘩をやらかして指を食いちぎられそうになったことなどまだ序の口で、大正八年一月場所の途中休場は、入れあげていた芸妓に袖にされたことで悩み続けたあげくに、脳貧血で倒れて土俵に上がれなくなったという冗談のような理由だった。
病み上がりの八年五月場所の台風の目は大潮だった。
初日に新大関対馬洋を得意の下手投げで土俵に這わせると、六日目には常ノ花(関脇)、千秋楽には源氏山(前頭五)の連勝を止め、優勝争いを混沌とさせた。常ノ花、源氏山ともにこの場所唯一の黒星が大潮戦であり、特に後に三代目西ノ海として綱を張る源氏山に至っては、初日から九戦全勝で横綱栃木山とトップを並走していただけに悔しい一敗だった(前場所からの連勝も十四で途切れる)。
年が明けて九年一月場所も東方出羽海勢にとって大潮は鬼門だった。
目下五連覇中の無敵横綱栃木山と五日目に顔が合った大潮は、栃木山の強烈な右筈押しで土俵際まで追い詰められたものの、あろうことか剛力をもって横綱の右腕をつかんで引き剥がしてしまった。狼狽した栃木山は、左を差して一気呵成に攻め立ててくる大潮の前に防戦一方となり、最後は渡し込まれて土俵を割ってしまった(決まり手は大渡し)。
これで栃木山の連勝は二十五でストップし、寛政の雷電以来となる六連覇の夢をも打ち砕かれた。大潮はこの一戦に先立つ九州巡業でも栃木山を下しており、これで二連勝となったが、この殊勲の星には影の立役者がいた。元荒岩の花篭親方である。
現役時代から洞察力に優れいた花篭は、相手力士の欠点をつかむのが巧く、引退後も、太刀山にめっきり勝てなくなった駒ヶ嶽に策を授けて久々の勝利をもたらしたことがある。
大潮は栃木山に勝てる器と目されながら、過去三度の対戦で勝てなかったのは、右差しにこだわりすぎて不利な体勢からでも右をねじ込んでゆき、体を起こされたためである。大潮が栃木山に勝ちたい一心で花篭に教えを乞うたところ、花篭は過去の敗戦の要因を説明したうえで、相手に正対せず、やや斜めから低い体勢で仕切って左から差すよう指示し、それがうまく当たったのだ。
大潮が涙を流して花篭に感謝の意を示す一方で、負けた栃木山は大潮の相撲がいつもと違っていたことが腑に落ちず、支度部屋に戻ってからもしきりと首かしげていたという。
千秋楽の常ノ花戦も水入りの熱戦だった。過去の対戦は一勝一敗一引き分けと全くの五分。前回の対戦では双差しになって土俵際まで追い詰めながら、大潮の内掛けで逆転負けを喫した常ノ花は慎重になりすぎたか攻め手を欠き、両者の動きが止まったところで水が入った。控にいた栃木山は大関昇進がかかる常ノ花のことを案じ、引き分け狙いで防御に徹するようアドバイスを送るが、かえって闘争心を掻き立てられた常ノ花は打って変わって前に出た。
蹴返しを狙えば、足を絡めて防ごうとする常ノ花を上手で捻り、両者ともに死力を尽くした戦いとなったが、力が拮抗しているせいか、互いに勝負手が決まらずついに行司が引き分けを宣した。土俵から降りた常ノ花がその場にうずくまってしばらく立てないほどの消耗戦だった。
優勝力士の大錦に惜敗した以外は、栃木山(横綱)、対馬洋(大関)、源氏山(小結)と東方の上位陣を一蹴した大潮は、西方勝利の立役者となり、二度目の優勝旗手を務めている。
場所後に三役(小結)に復帰すると、大正九年五月場所も六勝三敗と勝ち越し、翌大正十年一月場所は関脇に返り咲いた。ところが、いよいよ次は大関獲りかと期待されたこの場所を全休した後、突如引退を表明し、周囲を唖然とさせた。(番付上は十年五月場所も張出前頭として記載)後に横綱となる常ノ花に一勝一敗二分、西ノ海(三代目)に三勝〇敗、同時代の大関九州山に一勝一敗、対馬洋に二勝一敗、千葉ヶ崎に一預という成績を見る限り、実力的は大関クラスだった。
第三十代横綱西ノ海に至っては、「怒れるキリン」と形容された大潮の顔を見ているだけで気持ちが挫けてきたというから、仕切りの最中も殺気じみた気迫がみなぎっていたのだろう。
これだけの力量を持ちながら酒で健康を害し、力士生命を棒に振ったのは自業自得というほかはない。同郷の先輩九州山が酒で身を持ち崩してわずか二場所で大関を陥落するところを目の当たりにしているだけに、全く同じ道を辿ったのは惜しまれる。(九州山の大関在位は大正七年夏から八年春まで)
ちなみに栃木山に勝った九年一月場所の頃からアル中はかなり進行していたようで、以前より肉が落ちて顔色も青白く、いかにも不健康そうだったという。それほど劣悪なコンディションにもかかわらず、栃木山を連破(巡業も含む)したことで、相対的に太刀山の後継者と目されていた栃木山の評価が下がったこともあった。雑誌のインタビューでは、栃木山が最も取りにくい相手として大潮の名を挙げていたことからも、底知れぬ力量の持ち主だったことは間違いない。
大潮と九州山が体調不良による引退を余儀なくされた後は、福柳、沖ツ海という大関候補が相次いでフグ中毒で死亡するなど、福岡出身の有望力士は次々と土俵外のアクシデントで角界を去ってゆき、平成十二年に魁皇博之が大関に昇進するまで、大関どころか大関候補さえ現われない冬の時代が続いた。
幕内通算三十四勝十五敗三分三預という成績は、三役どまりの力士の中では傑出しており、勝率六割一分八厘は、大関目前で急死した沖ツ海の六割四厘、平成の大関魁皇の六割二厘をも凌ぐ。
出羽海部屋の九州山が、同部屋の大錦、栃木山、常ノ花、大ノ里といった看板力士と対戦しなかったことを考えれば、彼らとまんべんなく対戦し、常ノ花、大ノ里とは全く互角に渡り合った大潮の力量のほどは想像がつくだろう。
協会には残らず、地元福岡に戻ってからは料理屋を経営し、中々の繁盛ぶりだったらしい。
年寄入間川を襲名した後も体調が戻らず、三十七歳で早世した九州山に比べると、角界から足を洗ったことで酒量が減ったのか、大潮は同時代のライバルたちの誰よりも長生きした。ちなみに彼が対戦した明治二十年代生まれの四横綱四大関は不思議と短命で、二横綱四大関が四十代までに物故している。
協会理事長にまでなった常ノ花にしても、協会の汚職問題で追求されて自殺未遂を起こすなど晩年は散々だった(享年六十四・フグ中毒死説もある)。そういう意味では、地元で地道に商売を続けながら天寿を全うした大潮は、誘惑の多い華やかな世界で挫折し、一般人に戻って正解だったのかもしれない。それでも、元人気力士で余力を残しながらの引退というだけあって、地元では一目置かれ、土地の顔役のような存在だったという。
章題の「妖星」というのは、近年ではほとんど使われないが、かつては番狂わせを起こす力士のことを指す比喩表現として用いられていた。大潮は意外性だけでなく、鋭い眼光にも妖気を感じさせるようなところがあり、「妖星」と呼ばれるにふさわしい怪力士だった。
大正時代、相撲雑誌として最も権威があったのは『野球界』増刊の相撲号と『武侠世界』増刊の相撲画報だった。年に二場所時代のため、どちらも年に二冊しか刊行されず、表紙を飾るのは横綱か大関が定番だったにもかかわらず、大潮は小結時代の大正九年五月の『武侠世界』相撲画報の表紙を飾っている。写真ではなく大潮の特徴をよくとらえたイラストではあるが、目次には表紙絵が大潮であることが記載されている。年に二冊発行するうちの一冊の表紙が三役力士というのは異例だが、横綱、大関をしのぐ人気があったという証とも言えそうだ。