第19話 不死身の荒法師 玉乃海 代太郎(1923-1987)
土俵の上でも私生活でも”荒法師”という綽名がぴったりの個性派力士である。全盛時代は技巧派横綱として鳴らした栃錦を力でねじ伏せるほどの力量を持っており、ブランクがなければ大関間違いなしの器だった。
九州場所が本場所になったのは、昭和三十二年のことである。その栄えある第一回優勝者が、大分県大分市出身の九州男児、玉乃海である。
「たまのうみ」と発音する四股名は、戦前の玉ノ海梅吉、戦後の玉乃海代太郎、そして横綱玉の海正洋と漢字違いで三名が継承し、いずれもが師弟関係にあたる。横綱玉の海が存命中は、現役時代の四股名のまま玉ノ海がNHKの相撲解説をしており、玉の海の親方は元玉乃海の片男波親方と紹介されていたため、アナウンスだけ聞いていると非常にまぎらわしかった。
いずれ劣らぬ個性派力士で人気者だったが、揃いも揃って数奇な運命を辿っており、この四股名は縁起が良いのか悪いのか判断しづらいところである。その中でも飛び切りアンビリーバボーな相撲人生を送ったのが玉乃海代太郎である。彼の土俵人生は最初から少しネジが緩んでいた。
尋常小学校時代は野球に熱中し、旧制大分商業から勧誘されるほどの腕前だったが、これを固辞し、玉錦一行の大分巡業をきっかけに相撲に興味を持つようになった。もしこの時、大分商業野球部に入部していれば、後に親交を結ぶ児玉利一(中日・大洋の四番三塁手)が最上級生として在学していたため、ともに甲子園の土を踏んでいたかも知れない。
身体が大きいのを見込まれ、知人の紹介で上京したまではよかったが、郷土の大力士双葉山に憧れていた後の玉乃海こと三浦朝弘少年が連れて行かれたのは、双葉山の立浪部屋ではなく、現役横綱玉錦が二枚鑑札で親方を務めていた二所ノ関部屋だった。これは何事にも強引な玉錦が裏から手を回していたことによる。
初土俵は昭和十二年五月で、同部屋の神風は同期で同い年だった。二人とも角界では飛びぬけて野球が上手いことから気が合ったのか、程なく親友になった。
神風は鳴り物入りでの入門だけに、幕下時代から注目を浴びていたが、神風はむしろ玉乃海の方が大関、横綱級の器と評価していた。最高位は二人仲良く関脇であった。
神風が十九歳で十両に昇進した昭和十六年一月、福住の名で取っていた朝弘は幕下に上がったばかりだった。とはいえ、神風の出世が早過ぎるだけで、序ノ口優勝の経験がある福住も、ここまでは順調に関取への階段を上っていた。ところが彼のキャリアはここで閉ざされてしまう。前年秋の中支皇軍慰問巡業における不祥事の処分が決定したのだ。
昭和十五年十月初旬、未成年のくせに酒癖の悪い朝弘は、上海で旧友と飲み明かした帰路、乗車拒否の黄包車(中国の人力車)の車力と口論になり、ついには黄包車を振り回すやら近くの屋台をひっくりかえすやら手が付けられなくなった。そこに通りかかったのが3名の私服の憲兵が止めに入ると、こともあろうに憲兵たちを叩きのめしてしまったのである。
騒ぎを聞いて駆けつけた別の憲兵からあわや射殺されそうになったところで、偶然居合わせた師匠の玉ノ海(横綱玉錦の急死後、二枚鑑札となった)と羽黒山が代わりに詫びを入れてくれたことで事なきを得たが、この不祥事は大問題となり、大日本相撲協会は事実上の破門を申し渡した。
心ならずも土俵を去り、故郷に戻った玉乃島を待ち受けていたのは、軍属としての徴用だった。
おそらく憲兵本部が手を回していたのであろう。太平洋戦争の開戦間もない十七年初旬、いきなりガダルカナル島に送られた玉乃海は、この激戦の島で奇跡的に生き残り内地に送還された。生き残ったとはいえ、衰弱した身体でマラリアを発症しており、助かる見込みは薄いと見られていたが、二所の荒稽古で鍛えられていたおかげで、三途の川を渡らずにすんでいる。
ようやく健康が回復し、大阪の日立造船所に勤めていたのも束の間、またしても召集され、今度は因縁の満州に派遣される。終戦後はソ連軍の捕虜になったが、ソ連国境付近で脱走し、中国人に成りすまして警戒網を突破。二十二年に復員船で日本に戻ってきた。
余談ながら、筆者の祖父も満州でソ連軍の捕虜になったが、ハルビン駅で脱走し、親しくしていた中国人の手引きで服を着替えて中国人を装い、何とか復員船までたどり着いたと聞いたことがある。玉乃海もある程度中国語が話せ、頼りになる中国人の友人がいたに違いない。
玉乃海の帰参が許されたのは昭和二十五年の夏、奇しくも親友だった神風が引退を決めた場所だった。復員後は故郷の大分市で学生や社会人相撲のコーチをしていたが、身体を持て余していたのだろう、一時期はプロレスラー転向も視野に入れていたというから、この時師匠から声が掛かっていなければ、この年限りで廃業することになる弟弟子の力道山とともに、プロレスのリングに上がっていた可能性も高い。そうなれば、体格、パワーともに勝る玉乃海の方が先にワールドチャンピオンになっていたかもしれない。
なにはともあれ、またしても玉ノ海の二所ノ関親方から救われた玉乃海は、その恩に報いるべく相撲道に精進した。
幕下二十八枚目からの再スタートだったが、そこからは一度も負け越すこともなく、一年後には十両、さらに二十七年九月場所には遅ればせながら二十九歳で入幕を果たしている。
入幕から二場所連続二桁勝利の快進撃で、十三勝二敗と大勝ちした二十八年一月場所では初の三賞となる敢闘賞を受賞した。圧巻だったのは二十八年秋場所で、吉葉山、栃錦、三根山の三大関を総なめにした他、関脇朝潮(後の横綱)、小結松登(後の大関)まで撃破している。
初日に優勝候補筆頭の吉葉山を強引な内掛けでねじ伏せた一番といい、七日目に鮮やかな二枚蹴りで三根山の巨体を宙に舞わせた一番といい、がっぷり四つからの奇襲攻撃の鮮やかさには目を見張るものがあったが、八日目の栃錦戦で、相手十分の双差しを許しながら体を寄せて首に腕を巻きつけるや、そのまま浴びせ倒した逆転劇は玉乃海の底知れぬ気迫と力を満場の観客に知らしめたという意味において、記憶に残る一戦だった。
決まり手こそ「浴びせ倒し」だが、上からのしかかるように首を捻られた栃錦が腰砕けになって沈んでゆくさまは、捕食しようとした蝦蟇から反撃されて逆に飲み込まれてゆく蝮のようだった。
引き手も十分で寄っていった力士が、外掛けなどの足技でなく、ほぼ上半身の力だけで潰されてしまうというのは珍しい。かなり身長差がある場合は鯖折りで膝が折れることがあっても、下半身の強さには定評がある栃錦が自分より若干上背が高いだけの下位力士に捻り潰されるなど誰が想像したであろう。これで三賞に選ばれなかったのは、北の洋戦での不戦勝を含めての八勝七敗という多分にラッキーな勝ち越しのせいだったのだろう。
この頃の玉乃海の相撲は破門前と同じく力任せの四つ相撲で、豪快な櫓投げや呼び戻しのほか、切れ味鋭い足技まで披露した。反面、師匠譲りの怪力に頼るあまり相撲が粗く、強引な技も多かった。『荒法師』の綽名はそんな荒々しい相撲ぶりからきたものだが、そのぶん怪我も多く、三十歳を過ぎても三役に届かない要因となっていた。
玉乃海の相撲が変わったのは、二十九年夏場所以降のことである。この場所六勝四敗で迎えた十一日目、大蛇潟から寄り倒された際に脳震盪を起こして土俵下で動けなくなったため、若い衆に抱きかかえられて控え室に運ばれた。翌日から休場を余儀なくされ、三役のチャンスを逃している。この時の脳震盪が本人には相当ショックだったようで、それからは強引な攻めは慎むようになり詰めの厳しい相撲へと変わっていった。
この慎重さが功を奏したか、三十一年春場所から二場所連続二桁勝利で、三十三歳にして初の小結の座を射止めると、そこから三場所連続で三賞を受賞する一方、関脇で二場所連続十一勝を挙げいよいよ大関も時間の問題となった。
実は三役三場所で三十一勝十四敗の玉乃海は、この年まで準本場所扱いで、翌年より本場所となる九州場所で優勝していることを考えれば、大関に推挙されても不思議ではなかった。しかも直近三場所で対横綱戦四勝五敗、対大関戦四勝〇敗と内容も申し分ない。
ところが、東の関脇玉乃海を差し置いて、西の関脇朝潮が同じく三場所計三十一勝十四敗で大関に推挙されたのである。直接対決では玉乃海が二勝一敗とリードしながらも、朝潮が春場所に優勝したことが評価されたのだ。それでも、二桁勝てば内容いかんでは大関昇進の可能性が高いと見られていた夏場所、突然の病魔に襲われてしまう。
ガダルカナルで患ったマラリアの再発と肝機能障害、胆のう炎のトリプルパンチで、大関獲りの場所、強行出場も虚しく初日からよもやの五連敗を喫して六日目から休場。無理が祟って完治までに六ヶ月を要してしまった。一二〇キロあった体重も一時は九〇キロ台にまで落ち、さすがにこの時は引退も考えたという。
しかし、連日送られてくる激励のファンレターで気持ちを繋ぎ、十一月の九州場所出場を決意する。地元九州では初めてとなる本場所で有終の美を飾るつもりだった玉乃海は、親方(この時点では、かつての兄弟子でもあった元大関佐賀の花が部屋を継承)に「九州場所に出たら引退する」とまで公言し、悲壮な覚悟でその日を迎えた。
久々に土俵に上がった玉乃海の褌は、これまで誰も見たことのない黄金色に輝いていた。これはかつて三ヶ月だけ在職していた日立造船所から寄贈されたものである。黄金の褌というと多くの相撲ファンが最初に思いつくのは輪島かも知れないが、その先駆は玉乃海だった。ただし、テレビ中継が白黒で雑誌のグラビアもモノクロ写真が主流の時代だったので、本場所に足を運んだファン以外はほとんど現物にお目にかかる機会がなく、それほど大きな話題にはならなかった。
体重こそ元に戻ったが、体力的に難のある玉乃海は、前頭十四枚目での再出発ながら、序盤は下位相手に不安定な相撲が続いた。三日目に潮錦を土俵際で打棄った一番も、慎重になりすぎて動きが堅いのが傍目からもわかるほどで、本人曰く「土俵中央で投げを打たれたが、もう一度打たれていたら、ダメだっただろう」というほどの際どい一番だった。
取り口ががらりと変わったのが六日目の岩風戦からだった。「潜航艇」の異名をとる岩風の低い立ち合いで身体を起こされた玉乃海は、咄嗟に右手をつかんで捨て身の網打ちを仕掛けるが、重心の低い岩風は腰を落としてこれをしのぎ絶対的に有利な体勢となった。ところが玉乃海は物凄い怪力でそこから強引に揺り戻して上手を切ると、左上手投げを打ちながら身体を寄せ、そのまま寄り倒して逆転勝利。久々の豪快な勝ちっぷりで自信を取り戻したか、八日目も鶴ヶ嶺に双差しを許しながらも、寄ってくるところを右手を首に巻きつけて、左上手投げで崩して寄り切ってしまう。
その後は磐石の力相撲で危なげなく白星を重ね、十四日目に優勝決定。千秋楽も圧勝し、ついに史上初となる休場明けの平幕力士の全勝優勝という快挙を成し遂げた。
本来、関脇クラスの実力者が幕内下位で取れば、上位と当たらないぶん絶対有利であり、この優勝も驚くに当たらないという声もあった。しかし、病み上がりの玉乃海は場所が始まる四、五日前まで病院通いを続けていたほど肉体的には毎日が綱渡り状態だった。岩風に勝った日などは、風呂場のたたきで目まいを起こしてのめっていたところを目撃されている。
九州場所が単なる花相撲から十日間の準本場所となった昭和十五年十一月、元師匠玉ノ海が一横綱二大関を撃破し(九勝一敗)九州男の意地を見せたシーンが玉乃海の脳裏に甦った。
この場所中に父を亡くした玉乃海は、それを弔うかのような師匠の奮闘ぶりが忘れられず、九州場所が準本場所として再開された三十一年十一月に見事優勝を果たしている。しかし、これはあくまでもリハーサルで三十二年の本場所こそが本番だった。
満身創痍の玉乃海は、元師匠と亡き父に記念すべき九州本場所の優勝を捧げる覚悟だったのだ。
九州場所の優勝が数奇な土俵人生を歩んだ玉乃海の最後の輝きだった。三十四年には交際していた女性から訴訟を起こされるなど(最終的には棄却)、相変わらずのトラブルメーカーぶりを発揮してマスコミを賑わせた。喧嘩早さも相変わらずで、とある巡業先で地元のヤクザ者らしき男たちを路上に正座させて説教している姿が目撃されている。
三十六年初場所後に引退し、同年の九州巡業に地元の大分球場で引退興行を行っているが、この時の面子が凄かった。何と締め込み姿の若乃花、朝潮、大鵬、柏戸の四横綱を従えて大観衆の前で引退の挨拶を行っているのだ。
三役力士がこれほど豪華な引退興行を催せたのは、同郷人である時津風理事長の働きかけがあったからだろう。太刀持ち双葉山、露払い羽黒山という空前の豪華版だった男女ノ川の引退土俵入りも双葉山の粋な計らいによるものだったことを考えると、時津風にとっては親友(玉の海)の愛弟子にして同郷の後輩である玉乃海には、特別な思い入れがあったとしても不思議ではない。
ところがこの男、引退後も何かに祟られているかのようにトラブルが続く。今度は片男波部屋を立ち上げる際、二所ノ関の部屋付き親方だった頃の内弟子を連れて独立しようとしたところ、親方と揉め、相撲協会まで巻き込む大騒動に発展した。
事の起こりは、かねてより二所ノ関親方(元大関佐賀ノ花)が、弟子の独立には前向きな考え方を見せていたことによる。それならばと玉乃海は遠慮なく弟子たちを移籍させようとしたのだが、前途有望な力士も少なからず含まれていたことで親方が難色を示したのだ。何度かの話し合いの末、あまり事を荒立てなくない二所ノ関は、玉乃島だけ残留させることを条件に独立を認めるというところまで妥協したが、頑固な玉乃海はその提案を一蹴し、両者は骨肉の争いとなった。
先代の元関脇玉ノ海は、清廉潔白で男気があり、玉乃海も絶対的な信頼を置いていたが、佐賀ノ花は昭和二十年代の二所ノ関部屋内部紛争の火付け役で、典型的な策士タイプだったため、正義感の強い玉乃海からすると性格的にも受け入れられなかったようだ。
最終的には本人の意思を尊重するということになり、玉乃島が片男波(玉乃海)に付いてゆくことを表明したことで騒動は一応の収拾を見た。この玉乃島こそ、後の横綱玉の海である。
元職場の先輩が玉乃海の弟子だった玉ノ富士(元関脇)の夫人と知り合いで、玉ノ富士のことを何度か伺ったことがあるせいか、師匠玉乃海にも理由なき愛着のようなものを感じている。




