第18話 吠える雷獣 碇潟 夘三郎(1879-1928)
雷獣とは古来言い伝えられている幻の獣で、一種の妖怪変化のことである。雷鳴に狂奔する猛獣と恐れられたその姿は、子犬と狸の合いの子のように描かれており、大きく鋭い鉤爪を持っているのが特徴である。実在の動物に例えるとハクビシンが最も近いかもしれない。
小兵だがハクビシンのように気性が荒くすばしっこいことから「雷獣」の異名を取った力士がいる。出羽海部屋の名物男、碇潟である。
大阪市南区の大工の棟梁の家に生まれた碇潟こと山口卯太郎は、明治二十九年、大阪巡業中の常陸山に弟子入り志願したが、一六六センチ八〇キロの小兵では相手にされず、しばらくは糸柳の四股名で京都相撲に身を置いていた。
それから五年後、京都では一応名の知れた力士になると、京都横綱大碇紋太郎の推挙により出羽海部屋入門が認められた。
常陸山が東京と比べるとかなり格下の京都力士を幕下付出しという好待遇で受け入れたのは、かつて東京相撲で大関を張り、若き日の自身が目標とする力士の一人であった大碇に対する敬意の表れといっていいだろう。これは糸柳の移籍が決まると、御大自ら「糸柳の四股名は捨てろ。大碇関の心を忘れぬよう、碇の一文字を四股名に貰え」といって碇潟と命名したことからも明らかである。
義理堅い碇潟は、人気力士になっても、東京行きを快諾し常陸山に推挙してくれた大碇の恩は忘れず、斜陽の京都相撲の一助にとしばしば差し入れをしていたようだ。
威勢がよく、愛嬌のあるところが御大常陸山に気に入られ、入幕後一時期は常陸山の太刀持ちを務めたことがある。この時の露払いは小常陸で、二人とも小柄だったため、常陸山の巨躯が実に映えた。
彼の名が有名になったのは、専売特許とでも言うべき飛び道具を武器に土俵狭しと暴れまわったからである。今日ではほとんど目にすることさえない「掻っ弾き(かっぱじき)」こそ、明治末期から大正初期の土俵を忍者のように飛び回った曲者力士、碇潟の十八番だった。
掻っ弾きというのは、はたきこみの一種だが、通常のはたきこみのように下がりながら相手を前ににつんのめらせるものではなく、立ち合いと同時に横に変化し、そこから勢いをつけて相手の側面にぶつかって土俵から叩き出す荒技である。つまり相手を上から下に押さえつけるのではなく、真横あるいは背後から突き飛ばすのだ。首を押さえるように突き落とす素首落としと似ているため、この技が滅多に見られなくなった昭和以降は、本場所でも決まり手を混同してしまうことがあった。
小柄で非力ながら足腰のよい碇潟は、せわしなく土俵を動き回って相手を攪乱し、引き落とし、はたきこみなどの引き技で勝負することが多かったが、難敵相手となると、この意表をつく荒技でしばしば番狂わせを演じたものだった。
明治三十九年五月場所は、自慢の掻っ弾きを連発して碇潟人気に火が付いた場所だった。この場所西十両筆頭の碇潟は、二日目に緑島、五日目に海山と人気幕内力士をいずれもこの奇手で土俵に這わせ、観客席をどよめかせている。
緑島は売り出し中の駒ヶ嶽の天敵で、後に常陸山から金星を奪ったほどの業師。かたや海山は関脇以下で常陸山に二度土をつけた唯一の力士だけに、彼らのお株を奪うような奇襲攻撃は好角家を唸らせた。もっとも、角界有数の酒豪である海山は、この日は一斗酒をあおっての登場ということもあって、掻っ弾きを巧みにかわしているうちに自ら足をもつれさせて転倒した自爆に等しいものだったが、見物している方は、千鳥足で逃げ回る海山とそれを追いかけまわす猿のような碇潟の捕物劇に大喜びだった。
これに味を占めた碇潟は新入幕の四十年一月場所、大関国見山にも掻っ弾きで奇襲を試みたが、しぶとい国見山は土俵を割らない。ではこれでも喰らえとばかりに大関の胸板めがけて魚雷のように頭から飛び込んでいった。
小兵の碇潟はならではのこのぶちかましは、助走をつけて胸板に頭突きをくらわすのも同然だけに、命中すれば大きな相手でもバランスを崩してしまう効果がある。
ところが国見山が咄嗟のところで体をかわしたため、碇潟は勢い余って自ら土俵にダイブ。しばらく起き上がることも出来なかった。まるで雷雲から墜落した雷獣である。この自爆でどこかを痛めたのか、残りは全休という締まらない幕内デビューだったが、四十一年五月場所は、国見山にリベンジを果たし、今度は国見山が休場に追い込まれている。
元々右足の股関節に脱臼癖を抱えていた国見山は、頭突きを受け止めた後、掻っ弾きを警戒して土俵を左に回りこんでいたところ、足に違和感が走りガクッと膝を落としてしまう。その瞬間、碇潟が猛然と頭から飛び込んできたから堪らない。胸板にまともに頭突きを食らった勢いでもんどりうってひっくり返り、そのまま昏倒してしまったのだ。
土俵下にもつれて倒れこんだり、倒れた膝の上に相手の体重がかかって負傷したりした際に、足を引き摺りながら土俵を後にするシーンは今でもしばしば見かけるが、昏倒したまま動けなくなるようなケースは年に一度あるかないかだろう。国見山が動けなくなった時は場内騒然となり、溜まりにいた千年川のほか取的たちが総がかりで支度部屋へ抱えていった。国見山は翌日から休場となったが、古傷を悪化させたのか、以後二年ほどは全休や途中休場が目立ち、精彩を欠いていった。
四十二、三年頃が全盛期で、四十二年五月場所は初日に伊勢ノ濱(小結・後に大関)、七日目に太刀山(大関)を下す活躍ぶりで六勝三敗。前頭二枚目でこの成績ならば、現在なら殊勲賞と三役昇進間違いなしというところだが、上位が詰まっていたため東の筆頭止まりで、これが自己最高位となった。
彼の最も輝かしい実績は太刀山に二連勝していることであろう。太刀山が三役に昇進した明治三 十八年五月以降、引退するまで連敗を喫したのは、碇潟の他には最大のライバルだった駒ヶ嶽しかいないだけに、その価値は計り知れない。それも、碇潟に負けてから破竹の四十四連勝を続けるのだから、駒ヶ嶽に連敗した頃より太刀山自身がさらに強くなっていることは明らかである。碇潟戦以降の土俵で喫した黒星はわずかに三つで(そのうち西ノ海戦は八百長と言われている)、その相手はいずれも後の横綱である。
四十二年春場所五日目、突き合いから右に変化しながらの素首落としで太刀山を泳がせた碇潟は強靭な粘り腰で踏みとどまり再び突きの連打を浴びせかけてくるところをフェイントでかわしざまのとったりでこの大豪にこの場所唯一の黒星をつけた。
碇潟は、同年夏場所七日にも足取りで太刀山を引っくり返している。
平幕力士など突っ張りの二、三発で突き倒す剛力の太刀山も、下から攻められるとは予期していなかったようで、支度部屋に戻るや「足を取られれば、馬でも倒れるさ」と大笑いしていたという。
悔しいというより、あっぱれという思いだったのだろう。
三役に上がる前には両国などの手取り力士の奇手に不覚を取ることもあった太刀山だが、関脇以降は磐石の安定感を示していただけに、碇潟の勝利には誰もが驚いた。
全盛期の太刀山は突っ張りに絶対の自信を持っており、駒ヶ嶽以外の力士は褌を取らせることなく腕力だけで一蹴できた。仮に懐に入られても伝家の宝刀、仏壇返しがあるため、相手の変化に惑わされず、自身の勝利の方程式に従いさえすれば負ける要素が見当たらないというほど強かった。
それ以前に大抵の力士にとっては戦車砲のような突っ張りの弾幕をかわすだけでも至難の業だったが、碇潟はその一枚上手をいったのだ。
立ち合いの変化が通じないとなると、得意の掻弾きや蹴返しと突っ張りの波状攻撃も役に立たない。小柄でも玉椿のような腰の重さと腕力があれば、褌に食い下がって引き分けには持ち込めるかもしれないが、生憎碇潟は玉椿よりも軽量で腕力にも乏しい。
そこで考えたのが、大男の腕力を封じる技である。
相手の片腕を両手で抱え込んで下方に捻るとったりは一種の立ち関節技であるため、いくら相手力士が剛力の持ち主といっても、関節を逆に極められた片腕で力士の全体重を支えることは不可能である。これを防ぐ手段は両手をがっちり抱え込まれる前に突き放す逆とったりしかない。
碇潟はそのスピードを生かして素早く腕を絡めて太刀山の腕力を封じたのだ。
二度目の足取りは言うまでもなく、片足立ちでは腕力に優れ腰が重い力士もほとんど力を出せない。つまり、碇潟は太刀山の腕力と重い下半身という利点が全く用を成さない方法を熟考したうえで土俵に上がったのである。
負けた太刀山も自身の相撲には全く落ち度がなく、碇潟の頭脳がその上をいっていたため、悔しいという気持ちより、その戦略家ぶりに感嘆してしまったのだろう。
結果、太刀山はこの敗戦を機に負けなくなった。西ノ海に叩き落とされたのは、八百長であるし、栃木山に突き出されたのは前日の相撲で突き指をしており、突っ張りにいつもの威力がなかったからだ。それ以外の力士のいかなる奇策も通じず、結局太刀山が背中に土俵の土をつけたのは、碇潟戦が最後となった。
三役昇進を懸けた四十三年一月場所も、人気沸騰中の新関脇鳳(後に横綱)を破り、このまま勢いに乗るかと思われたが、後半に伸び悩み、三勝四敗二引分で番付は変わらず、以後は幕内下位に低迷した。
明治四十五年、すでに盛りを過ぎた碇潟が最後の輝きを見せた。
五月場所は四勝二敗四休とまずまずの成績だった碇潟は、元々京都相撲出身ということもあって、六月二日から京都国技館で行われた京都記念大相撲大会に出場。見事八日間全勝で優勝をさらってしまったのである。東京方は平幕しか参加しておらず全体的なレベルは低かったとはいえ、前頭十四枚目の力士にしては出来過ぎであろう。
大正三年五月場所を最後に引退。後輩の面倒見がよかったことで御大からは重宝がられ、年寄山響として協会運営に携わった。




