第17話 剛力無双 豊登 道春(1931-1998)
力士時代の豊登を覚えている方はごく少数に違いないが、力道山に次いで人気があったレスラー豊登となると、力道山時代から馬場・猪木が黄金タッグを組んだBI砲時代のプロレスファンにとっては印象深いものがあるはずだ。
豊登と聞いて力士を連想するのは、同郷人などごく一部に過ぎず、その名に聞き覚えのあるほとんどの人がレスラー豊登を連想するだろう。それもそのはず、力士としての豊登は幕内在位三場所に過ぎないのに対し、レスラーとしては、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木らとともに昭和三十年代から四十年代にかけてのプロレス黄金時代の主役の一人として大活躍した人気者だったからだ。
豊登のベアハッグといえば、力道山の空手チョップと並ぶ人気技で、これをがっちり決められた巨漢レスラーのキングコングが、「背骨が折れるかと思った」とブルっていたほどの怪力だった。
その並外れた腕力をアピールするための太い両腕を胸に上で交差させて「パコン、パコン」と音をたてるパフォーマンスは、外国人レスラーからは気味悪がられたが、日本の観客は大喜びだった。
まだ馬場と猪木が若く線も細かった頃、日本プロレス界の頂点たる力道山と豊登は海外の一流レスラーと互角に勝負できるという意味においても日本人の誇りであり、その人気ぶりは後年の馬場や猪木に匹敵するものがあった。
豊登こと定野道春は昭和六年三月二十一日、福岡県田川郡金田町に生まれた。国民学校卒業後は軍人を志して北九州八幡の海員養成所に入ったが、終戦と同時に閉所となったため、国民学校時代、相撲にかけては県下で無敵だった道春少年の才能をかっていた知人のすすめで立浪部屋に入門した。
昭和二十二年の入門時の体格は一七〇センチ六十七キロと小柄で、今日なら新弟子検査ではねられているところだが、子供の頃から薪割りで鍛えた腕力は本職の力士も顔負けだった。十三歳ですでに八十八キロあったという握力は、十六歳では百キロを越えており、新弟子検査の時、握力計を破壊してしまったという仰天エピソードを持つ。本人曰く「同年代では(握力)日本一だっただろう」というのもまんざら誇張とは思えない。なにしろ、当時の角界随一の怪力を謳われた部屋頭の横綱羽黒山でさえ、腕相撲では豊登に勝てなかったのだ。
巡業先の旅館では従業員に代わって薪割りをさせてもらい、暇さえあれば鉄亜鈴やバーベルのようなものを弄んでいたというから、今でいう筋トレオタクだった。
「食欲は底なし」と豪語していたように、その気になればいくらでも食べれたそうだ。体重があまり増えすぎないよう気を遣っていたレスラー時代でさえ、月の食費だけで十万円もかかっていたというから桁外れである(一般家庭のひと月の生活費が一万円の時代である)。
新弟子時代は衣食住は部屋持ちだから、遠慮なく食べ、身体もみるみるうちに大きくなった。
一七三センチ一〇〇キロ程度の体格に似合わず、豊登の相撲はあくまでも腕力頼みで、あまり器用な方ではなかったが、出世は順調で、昭和二十五年秋場所には十両に昇進した。
この場所の番付は非常に興味深い。横綱東冨士、関脇力道山、前頭十二枚目神若、十両十一枚目豊登の四力士は、後年プロレスラーとして同じ釜の飯を食うのである。力道山はこの場所全休で廃業するため力士としての対戦はなかったが、後に芳ノ里と改名する神若とは二度対戦し、いずれも豊登に軍配が上がっている。
話は秋場所前に戻る。稽古中に鯉の勢のぶちかましを止めた際に右手中指を負傷して以来、中指の感覚がなくなり、将来に不安を感じるようになった。案の定、秋場所は二勝十三敗と散々な成績だったため、場所後に発作的にマゲを切ってしまった。将来性のある力士だけに、この時は関係者が説得して、何とか引退を思い留まらせたが、こういう常識外れの行動が、豊登イコール変人、奇人というイメージを周囲に植えつけてゆく要因となった。
豊登はお世辞が言えず口数も少ないため、人付き合いは良くなかった。これは田舎者を自覚していた本人が、東京という都会になかなか馴染めなかったことに起因している。反面、炭鉱華やかなりし頃の筑豊で揉まれてきただけに喧嘩早い。口下手で一途なところのある豊登は、角界という鉄拳制裁が日常的な縦社会の中では完全な異端児で、理不尽なことがあれば兄弟子だろうがおかまいなしに殴りつけた。一たび暴れ出すと、現役横綱の羽黒山でさえ押さえ込むのに一苦労したほどだから、並みの力士の手に負える相手ではない。彼が部屋で孤立するのは当然の成り行きだった。
部屋の中でのごたごたはともかく、これだけの腕力を誇る豊登が強くならないわけがない。昭和二十八年秋場所には十二勝三敗で十両優勝。翌場所も十一勝四敗の好成績を残し、二十九年春場所前頭二十枚目で入幕を果たした。
新入幕の初日、対戦相手の楯甲は眼鏡を取ると至近距離からでも相手の顔が見えないという超ド近眼ながら、腕相撲は羽黒山と互角かそれ以上ともいわれる腕力自慢のベテランだった。勝ち味が遅く変化技に弱い豊登にとって力比べは臨むところである。一四〇キロの楯甲もゴリラのような豊登に褌を取られては身動きが取れず、上手捻りで一蹴されている。
相撲は稚拙でも力技だけは誰にも引けを取らない豊登は、両腕を抱えて投げ飛ばす腕捻り(かいなひねり)や腰投げ、上手櫓といった豪快な荒技を得意としたが、胸を合わせられると軽量が災いして吊られたり寄られたりすることが多かった。
新入幕の場所は九勝六敗と健闘したものの、持病である腎臓結石の悪化もあって夏場所六勝四敗五休、秋場所六勝九敗と伸び悩み、秋場所後にはついに引退の道を選んだ。奇しくもライバル芳ノ里(当時十両三枚目)も同時に廃業届けを提出している。
ややトウの立った芳ノ里はまだしも、まだ二十二歳と若く、荒々しい力相撲に一種独特の魅力があった豊登の突然の引退は不可解だった。当の本人は怪我と持病、番付面の理不尽さ(といっても自分より努力している他の力士に対する同情の方である)などを理由に挙げていたが、真相は師匠羽黒山との不仲が原因だったようだ。
羽黒山は無骨な田舎者で頑固一徹、それでいて妙にクールで計算高い一面も兼ね備えていた。対する豊登はマスコミから放浪癖、ギャンブル癖が指摘されたように、自由奔放なタイプで相撲一筋というわけではない。そのうえ社交性に乏しく誤解されやすいため、世渡り下手である。
先代立浪(元緑島)は豊登に良く似たタイプの若羽黒を可愛がっていただけに理解もあったが、几帳面な羽黒山には目に余る存在だったのだろう。それを考えると、喜怒哀楽が激しく超ワンマンの力道山が自己中心型の豊登とうまくやっていけたのはいまさらながら違和感がある。おそらく力士時代から豊登の性格を熟知していただけでなく、角界のはみだし者同士という連帯感もあったに違いない。
二度目のマゲを切った豊登は、同年十月、力道山門下に入り、レスラーとして第二の人生を歩み始めた。九月には芳の里が一足速く入門しているため、弟子入り第二号ということになる。
翌二十九年十月には元横綱東冨士も協会に廃業届けを出し、力道山傘下に入ったが、東冨士廃業の原因も年寄株を巡るトラブルで立浪(羽黒山)がクレームをつけてきたことによる。羽黒山は親分肌で面倒見のいい男だったが、人の好き嫌いは激しく、気に入らない相手に対しては冷淡だった。
レスラーとしての豊登も最初の頃は順風満帆というわけにはゆかなかった。三十年十月、アジア選手権大会の最中に突然失踪してしまうのだ。原因は腎臓結石の悪化で、手術があと三日遅れていたら命がなかったかも知れないほどの重症だった。
ところが興行の最中に休みたいとは言えない豊登は、人知れず姿を消し、術後も仲間のもとには戻りづらかったようだ。これが豊登失踪の内幕である。
力道山はそんな豊登を見捨てることはなかった。三十二年にはアメリカ修行に帯同し、三十三年にも海外遠征をさせるなど自身の後継者として厚遇した。
力道山が最も可愛がった弟子は大木金太郎こと金一だが、これは同国人というよしみであって、レスラーとして期待をかけていたのは豊登の方だった。窮地のところを救ってくれた力道山に恩義を感じた豊登は、ボディビルに励んで身体を鍛え直し、昭和三十六年頃にはセメント(真剣勝負)なら力道山さえ勝てないほどに成長する。タッグマッチの時に自分がやられ役になって力道山に華を持たせていたのは、カリスマ的存在である力道山をヒーローにした方がプロレス界全体の発展につながると割り切っていたからであって、当時の同門だったレスラーの多くが「(晩年の)リキさんよりトヨの方が強かった」と証言している。
昭和三十八年十二月、力道山が刺殺され頭目を失った日本プロレスは、敬子未亡人を名目上の社長に立て、重鎮レスラーだった芳の里、吉村道明、遠藤幸吉、豊登のカルテットで再出発をはかる。
国民的ヒーローを失って前途が危ぶまれたプロレス界だが、これまでナンバーツーの座に甘んじてきた豊登が本領を発揮する一方、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の「BI砲」の台頭により力道山の独り舞台の時代と変わらぬ人気を維持した。
昭和三十九年十二月四日には、覆面魔王ザ・デストロイヤーを二対一で破り、ついにWWA世界ヘビー級チャンピオンの座に就いた。メジャータイトルのベルト奪取は力道山に次いで二人目、純粋な日本人としては初の快挙だった(力道山の現役中は表向きは長崎県大村市出身ということになっていたが、純粋な朝鮮人だった)。相撲の世界では挫折した男が、プロレスの世界でグランドチャンピオンに輝いた瞬間だった。
力道山亡き後は取締役として大きな権力を握ったが、ギャンブル癖が再発して二千万円もの借金を作ったため、仲の良かった芳の里からも見放され、借金を退職金で相殺する形で日本プロレスを去ることになった。
しかしレスラーとしてはまだ自信があった豊登は、ジャイアント馬場と対立関係にあったアントニオ猪木と組んで東京プロレスを立ち上げたが、どんぶり勘定の経営ぶりに嫌気が差した猪木から途中でソッポを向かれ、短期間で廃業に追い込まれた。その後は後輩レスラーだった吉原功が主宰する国際プロレスのエース格として活躍し、四十五年一月に引退した。
力道山の死後、日本のプロレス界が細分化し、馬場対猪木のようなビッグカードも見られなくなったことや、豊登が暴走して自滅したことなどを考えると、守銭奴で性格破綻者の力道山は暴君ではあったかもしれないが、トップダウンの経営だったからこそ空前のプロレスブームを現出し、有望選手を多数輩出したともいえる。例えるなら強権的であってもテロもないイラクの平和を維持していたフセイン大統領のような必要悪だったのかもしれない。




