第16話 放蕩無頼 源氏山 頼五郎(1864-1919)
久々の大相撲の海外巡業ということで、ロンドンは盛り上がっているようだが、国技大相撲の海外巡業を最初に実現させていたのは、ここに紹介する”天下無双の放蕩力士”源氏山だったかもしれない。
源氏山の「源氏」は『源氏物語』の光源氏に通じるものがある。
恵まれた容姿と類稀な才能を武器に、我が世の春を謳歌しながら、放蕩三昧で身を持ち崩して表舞台より消え、人知れずひっそりと人生を終えたという点において。
源氏山頼五郎こと青山又市は青森県北津軽郡内潟村今泉の農家の長男に生まれた。父親の職業は文献によっては船大工や運送業というものもあるが、体格がよく腕力も強かったというから、本業のほかに副業として種々の力仕事にも従事していたものと思われる。
全盛時代一七四センチ九十八キロの又市も職業力士としては線が細いものの、当時の若者の中では恵まれた体躯の持ち主であったため、十六、七の頃は「山猫又市」の四股名で田舎相撲津軽組の一員として各地を巡業していた。
旧藩士に師事し、手習いなどを受けていたというから、それなりに学もあったのだろうが、定職に就かなかったのは、男ぶりがよく素人相撲の人気力士として各地でもてはやされる生活に浸りきっていたからだろう。後に協会を脱退して源氏山一派として北海道、東北地方で興行を打つようになったのも、若い頃の経験で味をしめていたからに相違ない。そして一箇所にじっとしていられない放浪癖は、終生彼に付きまとい破滅へと導く元凶ともなった。
明治十六年十二月、自信過剰で野心家の又市は、花の東京で一旗揚げようと、仙台巡業中だった津軽出身の一ノ矢藤太郎(のちに大関)を頼って高砂部屋に入門する。
当時の角界は高砂浦五郎が仕切っていたといっても過言ではなく、横綱西ノ海(初代)、大関小錦(後に横綱)以下、一ノ矢、朝汐(後に大関)らが顔を揃える高砂部屋は、稽古相手には事欠かないばかりか、所属力士が番付面でも優遇されることも多かった。
それだけに新弟子希望者も後を絶たなかったが、入門当時からすでに身体の出来上がっていた又市は大勢のライバルの中でも際立った逸材として将来を嘱望されていた。四股名は出身地から今泉と名付けられた。
初土俵は明治十七年一月場所。そこから五年で入幕というのはかなりのスピード出世だった。
二十二年夏場所、新入幕で五勝一敗二分と好成績を残し、二十四年春場所まで一度も負け越すことなく前頭二枚目まで上がったところまではよかったが、酒と博打と女にのめり込んで借金を重ねたあげくに二月の横須賀興行をすっぽかして失踪してしまった。
二十五年夏場所から復帰が認められたのは、角界における高砂の絶大なる権力あってのことで、入門から二十六年まで脱走・破門を六度も繰り返している。
こんな放蕩弟子を見捨てなかったのは、師匠も弟子も鉄火肌で互いに通じるところがあったからなのかもしれない。練習嫌いで巡業等でのすっぽかしの常連だった又市だったが、色男らしからぬ闘志満々の相撲ぶりは華があった。
左差しから筈押しで一気に持ってゆく勝ちパターンは後年の栃木山に酷似しているが、軽量ゆえに速攻に活路を見出していた栃木山に比べると、ほぼ同体格であるにもかかわらず、左四つに組みさえすれば、重量級力士と水入りになるほどの大相撲になっても、動きを封じ込めてしまえるのが強みだった。これは持久力もさることながら体幹がずば抜けているからで、例えるならグレコローマンのオリンピック級のバランス感覚の持ち主というところだろうか。対戦力士の多くが源氏山の腰の重さに辟易していたのは、常に重心を移動させながら相手の力を逸らす術に長けていたからであろう。これはレスリングの極意にも通じるものである。
また所作も優雅だったので、後年同門の先輩小錦が横綱に昇進した時には、太刀持ちに抜擢されているが、太刀持ちの華麗さにかけては歴代屈指と評する声も多く、その人気ぶりは横綱、大関を凌ぐほどだった。
遊び人が本気になった二十六年夏場所は七勝〇敗一預と優勝次点の成績を収め、いよいよ彼の時代がやってきたかに思われた。ところがもてはやされると調子に乗る性格は相変わらずで、御祝儀は博打につぎ込み、化粧回しまで質に入れるほどはまり込んでいた。
これほどの実力者でありながら相撲道に精進できないのは、師匠高砂もはがゆかったであろう。
最後は師匠が庇ってくれるという甘えもあって、師匠が病に伏すまで行状は一向に改まらなかった。
横綱西ノ海の仲人で所帯を持ちながら埼玉県町田の興行先から姿をくらました時は、残された妻子が貧窮のどん底に陥り、あわや愛児を栄養失調で失うところだった(二十八年三月)。
二十八年五月に帰参を許されたのは、かつては無頼で鳴らした元大関大達の千賀ノ浦が身元引受人となり、地元警察署長や西ノ海らが角界の強い反発を宥めてくれたおかげである。
ここで心機一転、今泉から由緒ある源氏山へ四股名を改めた又市は、名も頼五郎と改名して五月場所に臨んだ。
左下手を取れば磐石の源氏山は、組むと勝ち味が遅く引き分けが多いのが難点だったが、観客にじっくり相撲を楽しんでもらおうという一種の演出的な要素も多分に含んでいた。
後の横綱大砲はずば抜けた体躯と怪力から、一たび守りに入れば常陸山ですら攻め手を欠くほどだったが、源氏山は三十一年頃まで三勝三敗一分と五分に渡り合い、この巨人力士を力でねじ伏せることさえあった。
十二歳より先代から英才教育を受け、当時としては異例の十九歳で入幕を果たしたエリート力士梅ノ谷(後に横綱梅ヶ谷・二代目)も、源氏山には手こずり、初顔から四連続引き分けの後、三連勝するが、大関として臨んだ両者最後の対戦は源氏山に屈している(通算では源氏山の一勝三敗四分)。
特に初顔からの四連戦は名勝負として名高く、両者十分の左四つから体重で数十キロ上回る梅ノ谷との投げの打ち合いを演じても、梅ノ谷の腰が浮くことはあっても源氏山は微動だにしなかったという。かつて巡業先で暴れ牛の角をつかんで捻り倒したことがある源氏山の怪力左腕で右腕を絞り込まれては、体重をいかして寄りながらの右上手投げを得意とする梅ノ谷も前へ出ることができなかったのだ。
梅・常陸時代のもう一人の雄、常陸山とは方屋が同じで本割りで顔が合うことはなかったが、花相撲では常陸山をもってしても源氏山に勝つのは容易なことではなく、寄って出たところに下手投げを打たれ、同時に土俵を割ることがしょっちゅうだったらしい。
その他、優勝三回を誇る名大関鳳凰も大関時代は源氏山に一度も勝っていない。
ほとんど稽古もしてないくせに、たまに土俵に上がると横綱・大関ともほぼ互角に相撲を取るうえ、決して力任せというわけでもなく、巧さも兼ね備えていた源氏山の得体の知れない強さには、並み居る関取衆も首をかしげていたという。
源氏山にとって最大の好敵手というと同時期に三役を張っていた海山であろう。海山は左を差されても腕を決めて小手に振るのが巧く、一勝一敗一分六預と全く互角の勝負を演じている。
源氏山唯一の勝利は二十九年夏場所五日目、右四つからの左下手投げで下した一番である。後に横綱小錦を捻り倒し、常陸山に関脇以下の力士としてはただ一人二度の黒星をつけた海山は同時代随一の怪力という評判だったが、その海山が右上手をがっちり取りながら一方的に投げ飛ばされたのだから、会場は大喝采だった。
逆に大の海山贔屓でこの場所の桟敷を十日間通し買いしていた後藤猛太郎(後藤象二郎伯の次男で探検家としても著名)は、呆気ない敗北に憤慨し、今後相撲は見ないと言って帰ってしまった。
大物政治家の御曹司が立腹したことに慌てた相撲協会の面々は、翌日海山を代表者として後藤邸にお詫びに出かけたというから、負けた海山は踏んだり蹴ったりだった。当時のような露天の小屋掛け興行では、贔屓筋への依存度が高かったことが伺える。源氏山が懲りない性格だったのは、全ての欠点を埋めても余りある人気のおかげだったということだろう。
がっぷり組まずに動き回りながら技を繰り出してくるタイプには手こずったようだが、自身はいなしたり、叩いたりという引き技や奇襲戦法は一切用いず、常に堂々と立ち合っていた。格上の強敵を正攻法で倒すことが彼の美学であり、どんな相手に対しても受けて立つという気迫に満ち溢れていた。
源氏山を目標にしていたという名大関荒岩は、初顔で立ち合いと同時に蹴手繰りを決めて以来、対戦成績では五勝〇敗二預と圧倒している。研究熱心な荒岩は、左を差されると不利を免れないことを熟知したうえで、左を差される前に足を払う練習を日に何百回、何千回と繰り返していたそうだが、二度目の対戦(三十年夏場所)では蹴手繰りが通じず、水入り後に引き分けという大相撲になった。
この場所優勝した荒岩をもってしても、源氏山からじっくりと受けて立たれると、足技も掬い投げも残され、攻め手を欠く有様だった。新入幕で横綱小錦を蹴手繰って名を挙げた荒岩だが、小錦戦はあくまでもリハーサルで、本命は源氏山の方であった。
二十九年夏場所、七勝〇敗一分一預の好成績で関脇に昇進。一旦、小結に落ちるも、三年間は小結の座を死守している。この頃が源氏山の全盛期で、抜群の腕力を生かした力相撲は「白無垢鉄火」と称され、小錦に匹敵する人気を博した。
二十九年から三十四年まで一度も負け越しがないのは大したもので、当然大関の声もかかっていたが、番付に対する執着は乏しかった。なにしろ全国の巡業地に愛人を囲っていたというから、遊び金を工面するために相撲を取っていたようなものだ。練習嫌いで巡業中に行方をくらますのは、愛人宅と鉄火場巡りで忙しかったからだ。
この間、鉄火場通いが仇となって横浜で博徒からの伏撃に遭い、頭部を負傷して入院したこともあるが、目撃者によると、鉄パイプで殴りかかる博徒に抵抗することなく素手で鉄パイプを受け止めていたという。もし源氏山が本気で反撃していたら、博徒の方が死んでいたかもしれないとも言われており、酒や博打に溺れても、キレて暴力を振るうようなタイプではなかったようだ。
人間としてはいい加減でも、不思議な魅力があった源氏山にはタニマチも多く、彼自身の気前のよさも相まって、角界には源氏山一派ともいうべき人脈があった。
御大常陸山は角界では人望も厚かったが、女には見境がなかったのに対し、素行不良のレッテルを貼られていた源氏山は、そのワルぶりも堂に入っていて、大物の風格さえ漂わせていた。
当時の力士は給与等の待遇面で恵まれず、タニマチ頼みのところがあったため、将来の保障もなく今を楽しむという風潮があった。そのため風紀も乱れ、力士のトラブルも現在とは比べ物にならないほど多かった。だからこそ、厳格な常陸山より、話が分る源氏山を慕う力士が結構いたのだ。
三十三年夏に大阪横綱八陣調五郎一行の東京興行の勧進元を依頼されたのも、興行関係を仕切る裏社会に顔が利いたからだろう。この興行は大成功を収め、源氏山も大金を掴んでいる。
三十七年初頭、すでに不惑を迎えながらたまに土俵に上がると相変わらず強い源氏山の人気はいまだ衰えず、彼の知名度を利用して大きな興行を打とうと画策する者たちが「海外巡業」という企画を持ち出してきた。
銀行頭取や興行主が中心となって、源氏山を総大将に力士一行をセントルイスで開催される万国博覧会に送り込もうという壮大な計画に、野心家の源氏山はすっかり魅了されてしまった。
彼の声掛けで高砂部屋の力士を中心に密かに巡業団が形成される一方で、興行主たちもパンフレットを作成して大々的に宣伝し、渡航許可の申請までこぎつけたが、源氏山による引き抜き工作を恐れた高砂一門の親方衆や常陸山による妨害工作により、計画は頓挫した。
常陸山が阻止に加わったのは、源氏山以下の面子では日本の国技を海外に紹介するには役不足と考えたからである。
この時は源氏山が頼りにしていた弘前市出身の珍田捨巳外務次官が間に入り、常陸山立ち合いのもとで、日露戦争が終わったら双方承諾の上で海外巡業の許可を与えるということで渡航を思い留まらせたが、三年後には彼に何の相談もなく常陸山一行の渡米巡業が実現している。
怒り心頭の源氏山は常陸山に脅迫文とともに決闘状まで送りつけたが、幸い警官隊が常陸山を警護したおかげで、物騒な事態だけは回避された。
世間的には常陸山は「角聖」と称えられ、源氏山は「性格破綻者」のように見られていたが、常陸山も結構策士的なところがあり自己顕示欲も強かったため、平幕に落ちながらも大口のスポンサーを何名も抱え三十人もの力士を束ねることができる源氏山が目障りで仕方がなかったのかもしれない。それでも常陸山は、稽古場では力量がほぼ自身と互角であることから、力士としては源氏山には一目置いており、内心はともかくとして人前では敬意を表していた。だからこそ、さしもの角聖も源氏山からの決闘状にはブルってしまい、しばらく外出も出来なかったらしい。
すでに横浜港にチャーター船が停泊し出港目前だった源氏山一行に角界、政界まで巻き込んだ妨害工作が成されていなければ、巡業の成功、不成功はさておき、角界初の渡米巡業の総帥として源氏山の名は相撲の歴史に深く刻まれていたことは間違いないだろう。
一流横綱とはいえ、現役時代の実績だけ見れば、前後の大横綱梅ヶ谷(初代)、太刀山に劣る常陸山が彼ら以上の知名度を保ち続けているのは、出羽海部屋興隆の祖であったことに加えて、海外巡業の成功によって相撲の知名度を国際的に高めたという角界への絶大な貢献度によるところが大きいからだ。
渡米巡業が中止となり面子丸つぶれの源氏山は、三十七年夏場所を最後に東京相撲を脱退し、自ら新力士団を結成した。明治十一年に警視庁が制定した相撲取締規則により、東京府下の相撲団体は一つと規定されていたのだが、二十四年の内務省令の改正ですでに無効になっていたため、相撲協会と常陸山による再度の妨害工作も、この時ばかりは叶わなかった。
かくして明治三十七年九月に旗揚げした源氏山一派約四十名の新興力士団は、福島県下を皮切りに馴染みのある東北地方への巡業に旅立った。この中には後に角界初の生存叙勲の栄誉に預かった名物呼出し、呼出し太郎(戸口貞次郎)も混じっていた。
名人芸と言われた太鼓の打ち分けでは右に出る者がおらず、番付に呼び出しの名が記載されるきっかけを作ったほど協会幹部からも一目置かれていた太郎も、若い頃は血気盛んで源氏山に共鳴するところがあったようだ。
ところがこの年は降雪が早く各地で足止めを食ってしまい、源氏山一人が東京に戻って金策に走り回るという事態に陥った。しかも、まとまった金の工面がつくと、力士団を置き去りにしたまま鉄火場に入り浸るという節操のなさである。
一時期は大阪相撲や京都相撲の一行との合同興行という形で窮地を切り抜けてきたものの、源氏山に対する不信感から次々と力士が去り、三十九年限りで新興力士団による興行も打ち止めとなった。
その後、青森県の蠣崎で博徒の群れに入り自堕落な生活を送っていたが、大正八年八月、函館市で客死した。物置小屋のようなところで行き倒れ同然の死を迎えたため、郷里の知己がその死を知ったのは何年も経ってからのことだったらしい。
故郷の今泉神明宮には彼が幕下時代に奉納した絵馬が残っているが、私生活こそでたらめでも故郷を想う気持ちだけは強く、東北巡業の際には足代まで出して村の知己を招待することもあった。
力士団解散に当っても、顔の利く大阪相撲に一部の力士を身請けしてもらうなど、面倒見は良かったので、現役時代、角界のトラブルメーカーの異名を取ったわりには、地元では敬慕されていた。
没後十七年目にあたる昭和十年には東奥日報社や地元青年団が中心となって源氏山の石碑を建立し、大々的な落成式まで挙行されている。
又市の後に由緒ある源氏山の名を継いだのが、後の横綱西ノ海(三代目)である。明治四十三年の初土俵から源氏山大五郎を名乗り、浅黒いエキゾチックな容貌で人気があったが、先代の轍は踏まず、真面目一徹、角界の頂点にまで昇りつめた。
ところが性格まで先代とは真逆で、根暗で小心であったため、弱い横綱という汚名だけ残し、引退から五年後には病で早世している。
そういう意味では、源氏山という四股名は艶やかではあるが、ある種の悲劇性も伴っているようだ。
源氏山は明治以降最強の大関の声もある荒岩が目標としていた力士である。関脇どまりにもかかわらず、横綱、大関から恐れられた力量は推して知るべしだが、素行が悪すぎて過小評価されているのが残念である。
ドラマティックな人生だけに小説か映画向きのネタは尽きないように思うのだが・・




