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角力狂時代 -埋もれかけた名物力士の再発掘-  作者: 滝 城太郎


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第15話 夭折の色男  福柳 伊三郎(1893-1925)

美男力士というのは、何か悲劇性を伴っているような気がしてならない。鳳、西ノ海(三代)、武蔵山と美男の誉れが高かった横綱は皆短命であったし、貴乃花(初代)は横綱に届かなかった。福柳は彼らほどの大物力士ではなかったかもしれないが、人気は全く引けを取らなかった。

 今も昔も力士はフグが大好物である。刺身で食べてよし、ちゃんこで食べてよしというので相撲部屋の食材としても人気があったが、今日ほど流通が発達していない戦前は、そうそうどこでも手に入る代物ではなかったため、力士たちは九州・山口方面の地方巡業を楽しみにしていたものだ。

 当時のフグは山口、福岡、大分あたりでは今日のような高級魚というわけでもなく、庶民が魚屋で買ってきて自分で調理して食べていたほどだから、牛肉を食べるよりはるかに安上がりでもあった。

 そのせいかフグ毒の怖さは知っていても、今日のような調理免許などの規制がないのをいいことに、どこの部屋でも九州・山口方面への巡業となると、素人の若い衆がさばいたフグを食すのが恒例だった。結果、時としてフグにあたる力士もいたが、体格が良いせいか多くは命拾いしており、現役の役力士の中で、フグ中毒で亡くなった例は二名を数えるのみである。そのうちの一人が、フグ料理の本場福岡市博多区出身の人気力士福柳である。

  

 福柳こと本名三浦伊三郎が出羽海部屋に入門したのは明治四十二年一月、東京相撲と大阪相撲の合同巡業が博多で行われた際のことである。一月十七日の千秋楽の後、柳町の一福亭で一門の納会を行っている最中に新入りとして紹介された蓮池町の豆腐屋の息子は、翌日には一同とともに巡業地に向かうことになった。

 全盛時は一七六センチ一〇五キロという軽量ながら均整のとれた体つきで、スピード感溢れる相撲を身上とした。大正七年一月、同門の同期生常ノ花(後の横綱)に遅れること一場所で入幕を果たすと、翌場所には初の横綱戦で鳳を下し、一躍注目を浴びるようになった。さらに八年一月場所でも鳳から二場所連続で金星を挙げた他、大関朝汐まで倒すなど華々しい活躍を見せ、小結に昇進した。

 入幕から三場所の成績は十八勝で、将来の横綱候補と目される常ノ花に星一つ及ばないだけである。この頃、「実力は常ノ花だが、取り口の上手さは福柳」と言われていたように、相撲は堅実でも横綱戦未勝利の常ノ花よりも、大物食いの福柳の方に華があった。柔軟性のある俊敏な取り口は、皮肉というべきか、彼に金星を配給した鳳に酷似しており、また美男ぶりでも角界随一と評判の鳳に引けを取らなかった。

 これで努力型の常ノ花ばりに相撲道に精進していれば、どこまで伸びるかわからないほどの逸材だったが、本人が三役クラスで満足してしまったところがあり、最高位は関脇どまりだった。

 上位に同門の大錦、栃木山(横綱)、常ノ花(大関)がいて上が詰まっていることも、彼のやる気を削いだ原因の一つかもしれないが、力士による初の野球チームを結成したり、カメラに夢中になったりと相撲以外の事に忙しすぎて本業に集中出来なかったようだ。力士には珍しく酒と煙草はやらない代わりに、女性にモテ過ぎたことも相撲道一筋にまい進する妨げになったと思われる。

 大正十五年の『武侠世界・相撲画報』の角界色男番付で第一位を占めているほどのモテっぷりたるや、男に散財させてなんぼの芸妓たちが競い合って貢ぐほど凄かった。本場所ともなると、桟敷席に陣取った芸妓連中の派手な応援ぶりに、さすがの福柳も顔を赤らめることしばしばだったが、そういうはにかんだ態度が玄人女性に受けた。しかも福柳は特定の女性に入れ込まなかったため、かえって芸妓たちのライバル心を煽ることになった。

 大正の終わり頃、博多の新柳町に石炭王貝島太助の御曹司が入れ込んでいた若太郎という芸妓がいたが、若太郎は散々貢がせた金で満州巡業中の福柳を追いかけてゆき、ねんごろになったというから色道の方は横綱級だった。一方、裏切られた格好になった御曹司はというと、相手が福柳では勝ち目がないと思ったのか、若太郎の心変わりにも寛容だったという。

 筑豊御三家と謳われた石炭王、麻生、貝島、安川の中でも、軍部と結びついて最も羽ぶりがよか った貝島家の御曹司の愛妾を本気にさせるほどのモテ男も、自意識過剰に陥って痛い目にあったことがある。

 大正十四年の満州巡業で知り合った緑新館の春駒という美妓と相思相愛になったまではよかったが、相手にはすでに贔屓の旦那がいて、福柳の妾になるには手切れ金が必要ということになった。ところが福柳は春駒を独占するために大枚を叩きながら、ものの見事に金を持ち逃げされてしまったらしい。

 元々、童心に溢れる男で、手練手管で女を落とすようなタイプではなかったため、騙される時は造作もなかったのだろう。周囲からちやほやされる職業のわりにはえらぶったところがなく、女子供にはやさしかった。巡業先で偶然知り合ったような子供たちまで相撲場に招待するような気の置けないところがあったから、ファン層も幅広かった。

 なまじ学問をかじっていたせいか理屈屋で滅多なことでは自論を曲げない頑固者だった出羽ヶ嶽が、唯一福柳には素直に従っていたというのもわかるような気がする。 


 福柳というと練習嫌いでも有名だった。常陸山というスパルタ師匠のもとにありながら、「俺には小手投げさえあれば十分なんだ」とうそぶいていたくらいだから、度胸は座っていたようだ。

 縦横無尽の取り口はいかにも派手で、魅せる要素を十分に備えていた。横綱常ノ花でさえ対戦を嫌がった「タンク」の異名を取る剛力の若葉山を、高無双(太腿を担ぎ上げるようにして無双を切る)崩れの一本背負いという四十八手中極めつけの大技で、一度ばかりか二度までも土俵上でひっくり返しているように、見た目の色男ぶりとは裏腹に相撲は結構荒っぽかった。現在では滅多にお目にかかれないこの奇手で、当代きっての業師と謳われた大ノ里を神宮外苑での花相撲で一蹴した一番などは、異能力士の面目躍如たるものがあった。

 本人が自画自賛していた小手投げにしても、彼の場合は福柳スペシャルとでもいうべき独特の工夫がなされていた。軽量の福柳は投げをうっても一気に勝負に出ず、相手が少しバランスを崩した状態から下手を切り、体を開くようにして腰を落としながら遠心力で振り回すのだ。決まり手は小手投げになったり上手出し投げになったりとまちまちだが、つんのめった相手を引き回すように出し投げをうつことから、俗に「引き摺り投げ」とも呼ばれていた。


 最高位が関脇でありながら五割を超す勝率を残していることもさることながら、大正十五年の第二回全日本相撲選士権で、すでに横綱になっていた常ノ花に決勝で敗れて準優勝、同年の第一回東西合併連盟大相撲では見事優勝と、これからでも十分大関を狙える実力を秘めていた。

 そんな彼を突然の悲劇が襲った。

 大正十五年十二月十一日、九州巡業中の出羽海連合一行は北九州の戸畑に滞在していた。福岡出身の福柳は、前日博多の自宅で過ごしてから午前中には戸畑に戻ってきたが、相変わらず稽古はそっちのけで支度部屋のちゃんこ鍋の前に陣取った。その日は小学校が同窓の蒲瀬という退役少佐が福柳の大好物フグを届けることになっており、楽しみにしていたのだ。

 やがて蒲瀬がやってきた。折からの時化でフグがなかなか手に入らず、方々手を尽くしてようやく手に入れたフグはかなり鮮度が落ちていたが、フグには目がない福柳はそんなことはかまわず、仲の良い行司の式守義松も交えて三人でフグを平らげてしまった。

 しばらくすると桟敷で稽古を見学していた蒲瀬が気分が悪くなったといって帰宅した。すると福柳までがどうもおかしいと身体の異変に気がついた。ちゃんこ番の諏訪錦があわてて医者を呼んだ時には福柳も義松も苦悶の表情を浮かべていた。もはやフグにあたったことは誰の目にも明らかだった。義松はフグの前に消化の悪い半煮えのタコをたらふく食べていたおかげで大量に嘔吐し、意識を失うまでには至らなかったが、空腹状態でフグの肝まで平らげた福柳は、酒も飲んでいないため、吐くにも吐けず、胃を洗浄した後も意識は混濁したままだった。

 午後三時に蒲瀬死亡の連絡が入った。

 一行は福柳欠場のまま戸畑巡業を終えると、福柳と義松を残して次の巡業地である四国へ船で向かったが、高松港に到着した時に福柳死亡の電報が届いた。死亡時刻は午後六時だった。

 奇跡的に命を取り留めた義松は、昭和三十八年、第二十四代式守伊之助を名乗り柏鵬時代の名行司として活躍した。彼が娘の名を福子、柳子と名づけたのは兄貴と慕った福柳に対する供養の気持ちの表れであった。


 人気力士の死に衝撃を受けた出羽海部屋では以後フグを厳禁とし、こっそりと食しているところを見つけられると、鍋に下駄を放り込まれたり鍋ごと庭先でひっくり返されたりしたという。それでも一度フグの味に魅せられてしまうと、なかなか止められないらしく、昭和六年にも大関間近と言われた沖ツ海が二十三歳の若さで巡業先の萩でフグ中毒死している。さらには昭和十年代に幕内中堅どころで活躍した龍王山(福岡県飯塚市出身)も引退後に夫婦ともども自宅で調理したフグで命を落としている。

 フグは危ないと言われながら彼らが同じ過ちを繰り返したのは、中毒死しかかったにもかかわらず全く懲りなかった先人がいたからかもしれない。その一人が明治後期の名大関荒岩である。

 荒岩は別府巡業中にフグにあたって身体が痺れ始めると、首だけ出して身体を砂に埋めるという民間療法を試みた結果、なんとか命を取り留めたが、砂の中で少し気分が良くなると、付き人たちに「回復したら残りのフグを食べるから、誰にも食べさせずに残しておけ」と命じたほどの命知らずだった。

 荒岩と同時代に角界一の酒豪として鳴らした海山も命知らずという点では引けを取らない。なにしろ、フグ鍋をつついている最中に身体が痺れて箸が持てなくなると、今度は手掴みで食べ始め、完食してしまったというからこちらも凄い。この二人ははある種の特異体質だったのだろう。こういう悪しき先例が後の悲劇を生んだのかも知れない。

  

 話は変わるが、稽古嫌いの福柳が特に目をかけて稽古をつけてきた力士がいる。昭和初期の名横綱玉錦である。福柳の晩年に入幕を果たした玉錦は、稽古場で福柳が本気を出しても持て余すほど力をつけており、福柳もその将来を嘱望していただけに、玉錦からすれば、兄貴分に綱を張った晴れ姿を見せることが出来なかったのはさぞかし無念だったに違いない。しかし、玉錦も福柳同様の豪放磊落な性格が災いして、虫垂炎を単なる腹痛と思い込み処置が遅れたのが仇となって地方巡業中に客死している(玉錦の師匠が先述の海山だったことは、何とも因縁めいている)。

 福柳の葬儀は博多祇園町の万行寺で行われ、出羽海一門をはじめとする六百名が参列する壮大なものだったという。

福柳と同期入門で後に横綱になった常ノ花は、理事長退任後の昭和三十五年、九州場所のため福岡滞在中に胃潰瘍で亡くなったことになっているが、夕食をとった高級料亭でフグ中毒死したという説も根強い。

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