第14話 摩利支天の再来 荒岩 亀之助(1871-1920)
荒岩は明治以降の最強の大関の声も高い。現在なら横綱になっていても不思議ではないが、巡りあわせが悪かったことによる悲劇性も人気の要因の一つだった。負けたことが大騒ぎになるほどの強豪横綱がいたことも出世の妨げになったかもしれないが、そういう相手を倒すことに情熱を傾けられたという意味では、完全燃焼した土俵人生だったのではないだろうか。荒岩のようなタイプは金星を気前よくばらまくような横綱しかいなければ、気持ちが高揚せずかえってスケールの小さな相撲取りのまま終わったような気がする。
摩利支天とは仏教の神の一人で、陽炎を神格化したものである。目には見えても実体がなく、捉えどころのないことから、楠木正成、山本勘助、毛利元就といった武将たちから「護身」の神として崇められ、武士の間では摩利支天信仰が流行っていた。
明治の土俵を代表する業師荒岩は、その変幻自在の取り口から「摩利支天」の異名を取った大変な人気力士だったが、土俵生活の初期は、後年の颯爽とした姿からは想像がつかないほど、泥臭く要領の悪い男だった。
明治二十四年、鳥取の田舎(西伯郡大山町豊房)から大阪に出てきた荒岩こと本名山崎徳蔵は、「真竜」の四股名で相撲を取っていたが、ある日銭湯で兄弟子の背中を流していたところ、背中の流し方が悪いと兄弟子から思いっ切りひっぱたかれたうえ、部屋を追い出されてしまった。大方、吹き出物が膿んでいるところを力一杯擦ってしまったとか、足の指の股まで洗わなかったとか些細なことであろう。相撲部屋のスパルタ指導は軍隊より厳しいのが常識だっただけに、純朴な田舎者だった荒岩はこのような理不尽な仕打ちに耐えられず、大阪相撲から完全に足を洗ってしまった。
その後、同郷人の尾車親方を頼って東京で力士生活を再開するが、要領の悪さは相変わらずで、ここでも兄弟子の逆鱗に触れている。ある日の朝稽古の後、大関の大戸平から「アッサリを買って来いや」と金を渡されたものの、アッサリが漬物のこととは知らず、勝手に「あっさりとしたもの」と勘違いして、よりによって大戸平の大嫌いならっきょうを山ほど買ってきたというから、そそっかしいにもほどがある。
山盛りのらっきょうの皿をひっくり返して激怒した大戸平から目から火の出るような拳骨を喰らったうえ「貴様のような気の利かない野郎が、一人前の相撲取りなんぞなれるか。クビだ」とまたしても破門を言い渡されてしまう。幸い今回は、同僚や先輩力士の取りなしによって何とか首は繋がった。
一七一センチの小兵ながら、運動神経抜群で相撲センスのある荒岩の将来性を惜しむ声が多かったのだろう。実際出世は早く、二十七年三段目付け出しから再スタートを切ると、二十九年五月には新十両でいきなり優勝し、三十年一月には入幕している。
大戸平の拳骨は相当鮮烈な思い出だったようで、荒岩は人気力士になってからも「あの時殴られたからこそ今がある」と言っていたそうだ。クソ真面目で気転が利かないせいか、部屋ではいわゆる「いじられ役」で、先輩力士からからかわれるキャラだったが、異例のスピードで番付を上げ、あっという間に先輩たちを抜き去ってしまった。しかし自分が部屋頭になっても、決して若い衆をいびったり体罰を加えたりすることはなかったという。
明治三十年一月場所は新入幕の荒岩旋風が吹き荒れた。
初日、前頭九枚目の荒岩はいきなり横綱小錦と激突する。新入幕の力士が初日から横綱戦というのは異例である。小柄な荒岩は小錦の怒涛の寄りで一直線に土俵際まで追い詰められるが、体を開きながらの蹴繰りでつんのめらせると、右手を抱え込むようにして後方に捻り、横綱をものの見事に横転させた(決まり手は小手捻り)。この間、わずか十秒足らず。天下の横綱が新入幕の力士に秒殺されたのだ。
二日目は関脇朝汐に不覚を取ったものの、その後順調に勝ち進んだ荒岩は、九日日に終生のライバル逆鉾与治郎を退け、小錦以来の初入幕初優勝の快挙を成し遂げた。
翌五月場所、前頭三枚目でまたしても小錦を蹴手繰りで土俵に這わせ、六勝一敗二引分で連続優勝を果たした。
新入幕初日が金星という派手なデビューを飾り、二場所連続の金星を挙げたことで、蹴手繰りは荒岩の代名詞となったが、元は憧れの力士だった源氏山頼五郎(最高位関脇)に勝つために人知れず磨きをかけた一種の秘密兵器だったため、手の内を晒したくなかったのか、滅多に人前で見せることはなかった。
小錦戦では、追い詰められた結果として咄嗟に足が出てしまったというのが真相のようで、実際に本場所で荒岩の蹴手繰りを目の当たりにした者は少数だったという。
多彩な技を持つ荒岩だが、どちらかといえば怪力を生かした下手投げ、小手投げ、掬い投げといった投げ技が得意で、小兵ながら左さえ差していれば四つに組んでも大型力士をさほど苦にしなかった。
これは入幕前から手取り相撲では大関になれないという考えから、兄弟子の大砲相手に四つ相撲に取り組んできた成果と言えるだろう。大砲が音を上げるほどの連日の申し合わせの結果、四つに組めば横綱、大関の攻めにもビクともしない幕内最巨漢を、時には掬い投げで土俵に這わせるほどになったというから、研究心と集中力は群を抜いていた。
加えて兄弟子の大砲が、その鈍重な相撲ぶりとは裏腹に頭の回転が早く、蹴手繰りは上位を脅かすには面白い手だ、として後押ししてくれたことも大きい。荒岩の蹴手繰りは、相手の出足を内側に蹴り込んで体勢を崩してから突き落とすという連続技で、蹴るタイミングを会得するために柔道の道場に通い、小内刈りの修練を積んでいる。
荒岩と逆鉾は共に超一流の技巧派だったため、二人の取り組みはスピード感溢れる技の応酬で実に見応えがあった。その技の切れ味は、雷取締役(初代梅ヶ谷)をはじめ明治・大正・昭和初期の相撲を観戦してきた多くの評論家、相撲通から相撲史上の双璧と謳われたほど素晴らしかった。一瞬の隙に打つ投げ技のタイミングの良さはまるで神業といってもいいほどで、褌を取られると、さすがの逆鉾も勝ち目が薄かった。
雷によるとスピードは逆鉾、力は荒岩とのことだが、立ち合いの踏み込みの良さは荒岩が勝っていた。というのも、荒岩は仕切りの際に両足の親指で土俵を掻いて土の中に埋め込んでいるため短距離走の時のスターターのような効果があったのだ。こうすれば足を滑らせることなく、蹴り足鋭くトップスピードで相手にぶつかってゆけるというわけだ。
技の切れ味で大向こうを唸らせた荒岩だが、当たってからの突っ張りも強烈で、突きの威力に関しては近代随一といわれる太刀山でさえ、突っ張り合いで後ずさりすることもあったほどだ。
小結に昇進した三十一年一月場所は、七勝一敗一引き分けで小錦以来の新入幕三場所連続優勝は逃したものの(結果は準優勝)、場所後に関脇になった。ここまでは小錦と同じスピードである。ところがこの荒岩を猛追し、一気に抜き去った男がいた。雷の秘蔵っ子、梅ノ谷である。
前場所に三度目の優勝を果たし大関のかかった三十三年一月場所、六日目に逆鉾に敗れて休場した荒岩は四勝二敗三休の成績だったが、西大関鳳凰の引退によって西方の大関に空きが出来た。順当なら直近二場所の成績が十二勝三敗の西関脇荒岩が繰り上がってもおかしくないところだったが、何とこの場所五勝二敗、二場所通算でも十一勝四敗の西小結梅ヶ谷が関脇を飛び越えて大関に昇進してしまったのである。
まだ二十二歳の梅ノ谷は、優勝経験もないまま史上最年少の大関となったが、これは尾車親方(元大戸平)が大関どまりだったのに対し、梅ノ谷の養父雷親方は明治の大横綱梅ヶ谷藤太郎で、協会トップの地位にあったことと無関係ではないだろう。少なくとも荒岩があと一番勝っていれば、いくら雷の力をもってしても、梅ノ谷を番付上位である荒岩を差し置いて大関にすることは不可能だったはずだ。
しかし、その一方で荒岩自身にも大きな落ち度があり、尾車親方が梅ノ谷の昇進に反対できない事情もあった。それが、明治三十一年十月、高知市で開催された東西合併大相撲興行中に起こった賭博事件である。興行中に大阪方の力士らと花札賭博に興じていた荒岩は県警に拘引され、検察に書類送検されていたのだ。幸い証拠不十分で三審では無罪を勝ち取ったものの、審理中は事実上の謹慎処分に付され、三十二年一月場所の出場は叶わなかった。
対面を重んじた相撲協会は、持病のリウマチ悪化を理由に荒岩を休場扱いとし、翌場所の番付も関脇から小結への降格に留めている。梅ノ谷の特例ともいえる大関昇進は、雷親方に借りを作った尾車親方が、借りを返す形で同意あるいは支持したと考える方が自然かもしれない。
発奮した荒岩は、三十三年五月場所千秋楽に八勝〇敗一分の常陸山を下して全勝優勝を遂げると、三十四年五月場所も制して、今度こそ大関間違いなしと思われたが、上位に同系の大砲(横綱)梅ノ谷(大関)がいたため、再度足止めをくってしまう。五度もの優勝を果たしておきながら大関にも上がれないというのは不運というのを通り越して異常事態であった。
番付上では不運続きの荒岩だったが、こと人気となると後に梅・常陸時代を築いた東西の大関常陸山、二代目梅ヶ谷(梅ノ谷から改名)を凌ぎ、花柳界でも人気ナンバーワンであった。凛々しい面構えはもとより、彼の仕切りの美しさは角界一との評判で、兄弟子に当たる横綱大砲の土俵入りの際も、観客の大半は太刀持ちの荒岩の優雅な所作に見入っていたほどだ。体重九〇キロそこそこの小型軽量であっても、均整の取れた体躯は風格があり、とにかく絵になる男だった。
普段の荒岩は特別偉ぶったりすることもなく、人付き合いも良い方だったが、相撲に関してはとかく神経質で、支度部屋でも控えにいる時でもずっとその日の作戦を練っていたという。したがって人気力士になってからも、奢ることなく遊びと相撲のけじめだけはきっちりとつけていた。荒岩の生真面目さを表す次のようなエピソードがある。
三十三年五月場所の頃、荒岩には新橋芸者の梅香という相思相愛の女性がいた。梅香は前場所(途中休場)痛めた腰の調子が思わしくない荒岩の勝利を祈願するために摩利支天尊に赴き、御本像の掛け軸まで借り受けて毎日一心不乱に勝運を祈っていた。そして優勝がかかった九日目、荒岩勝利の報告を聞いた梅香は、半狂乱の態で柳橋の旅亭に向かい会見を申し入れたが、荒岩は「そんな浮つく場合ではない」とそっけなく拒絶した。憤激した梅香は、摩利支天の掛け軸を真っ黒に塗りつぶして荒岩に送りつけたという。
この逸話は『黒塗り摩利支天』として講談や浪曲の元ネタとして長らく語り継がれたものである。「勝って兜の緒を締める」、無骨だが実直な荒岩の人柄は誰からも好かれた。
「横綱・大関たるものある程度体格に恵まれていなければ」という角界の偏見も、荒岩の出世を遅らせた原因の一つと考えられている。確かに小錦も梅ヶ谷(二代目)も上背こそ荒岩に劣っていたものの、体重は当時の幕内の平均を上回る一二〇キロ以上はあったため、見た目も堂々としており、正攻法の四つ相撲が取れた。これに対し荒岩は、軽量ゆえに目方で上回る相手には時に奇襲戦法を取らざるを得ず、相撲自体は面白くとも横綱・大関の貫禄には欠けるところがあった。
実力以外の要因で出世を阻まれたのは何も荒岩に限ったことではない。荒岩が入幕以来三連敗を喫した初代朝汐太郎も、上位が詰まっていたためなかなか大関になれず、横綱の機会を逃している。
荒岩の不運は続く。三度目の大関挑戦がかかった三十五年、部屋で稽古をつけていた藤見嶽ともつれて倒れた際に腰を痛めてしまい、持病のリウマチを悪化させてしまう。
しばらく低迷していた荒岩に再びスポットライトが当たったのが三十七年一月場所である。この場所好調の荒岩は六日目常陸山と全勝同士で対決した。新横綱の常陸山は三年間負けなしと絶好調で、荒岩にも初顔合わせで敗れただけで以来四連勝と圧倒している。
この一戦は大変な評判となり、小兵荒岩が巨豪常陸山を倒せば、会戦間近と囁かれる日露戦争も日本が勝利するという予想まで飛び交う始末だった。
この勝負、荒岩が左四つで頭を付けると、それを閂に決めた常陸山が一気に吊り上げた。軽量の荒岩は胸を合わせられては万事急すと見えたが、右足で常陸山の左足を内掛けに絡めたまま褌を引き付けて体を浴びせると、さすがの常陸山もバランスを崩して土俵際に後退し、俵に足がかかったまま左に切り返す。その刹那、右足を抜いた荒岩が左筈から右で突き放すと、常陸山もたまらず土俵下に落下した。
荒岩贔屓は涙を流して万歳を連呼し、中には花道を引き上げる荒岩の背中に百円札を貼り付ける者もいたというから、回向院はパニック状態だったに違いない。この日だけで鞄から溢れるほどの御祝儀が集まったが、気前の良い荒岩は、薄給で働いている呼び出しや取り的に全額を配っている。
ほどなく市中では「荒岩、常陸山を破る」の号外売りの鈴の音が鳴り響き、中には「日露開戦」と勘違いし、慌てて号外を買い求めた者もいたほど荒岩の勝利は満天下を揺るがせる事件だった。日露戦争が始まったのはそれから四日後のことだった。
常陸山戦の勝利で自信を取り戻した荒岩は、三十八年一月場所(八勝〇敗一引分で準優勝)後、念願の大関に推挙された。翌五月場所は、日本中が日本海海戦の勝利に酔いしれる中、新大関で全勝優勝。日露戦争に小国日本が勝ち、土俵でも小兵荒岩が横綱に昇進すれば、好角家にとっては願ったり叶ったりだったが、世の中そう何もかもうまくゆくものではない。
綱取りのかかった三十九年一月場所二日目、日頃から稽古をつけてやっていた玉椿の内掛けで土俵中央に叩きつけられ、翌日から休場。リウマチが再発した荒岩は、大負けはしないものの、この場所以降は休みがちになり、明治四十二年一月場所の全休を最後に土俵に別れを告げた。
大関としての通算成績は三十勝五敗四引き分け四十一休、勝率だけ見れば横綱級である。さぞかし悔いの残る引退だったことだろう。
引退後は年寄花籠を襲名したが、自身が若い頃に散々いびられてきたせいか、新弟子たちに厳しく接することができず、指導者には不向きだった。
また相撲協会の職務においても、若い頃と同様にチョンボが多く、実務面では「愚鈍な男」とレッテルを貼られる始末だった。太っ腹だが、お人好しで何でも人任せのところがあり、実務には不向きなところがあることを元常陸山の出羽海理事長は承知していたが、それでも花籠を邪険に扱わなかったのは、現役時代から仲が良かったこともあるが、若い者にその至高の名人芸を伝えることにこそ彼の存在価値があると考えていたからである。
しかし、自己管理が出来ないところは相変わらずで、大正九年八月の満州・朝鮮巡業に役員として同行した際、帰国の前日にホテルの屋上で泥酔したまま寝込んでしまい、翌日の船上でおそらくそれが原因と見られる腹痛を訴え始めた。船医は腸カタルと診断したが、当時大連から神戸までは船で三日を要したため、まともな治療を受けることができないまま、船が瀬戸内海に入ったところで心臓発作を起こし、帰らぬ人となった。
荒岩と逆鉾の取り組みは、明治以降の近代相撲の中では業師同士の取り組みとしては最高の一番だったに違いない。本割でこの二人の取り組みを堪能できた当時の相撲ファンが羨ましい。




