第13話 脱走と復讐のサンバ 陣幕 久五郎(1829-1903)
陣幕こと石倉慎太郎は、文政十二年五月三日、島根県八束郡意東村の農家に生まれた。腕力自慢だった慎太郎は、十八歳の時松江で行われた大阪相撲に飛び入り参加し、腕をかんぬきで折られながらも本職相手に二番勝ったことで自信をつけ、力士を目指すようになった。
この日、陣幕の腕をへし折ったのは大阪相撲の大関八角である。土俵際に追い詰められた際に、故意に体重をかけたもので、素人相手にここまでやるのは何とも大人気ないが、これがかえって陣幕の闘志に火をつけた。骨折はかなりの重傷だったため、八角に対する遺恨が、陣幕が故郷を出奔し、相撲の道を歩ませる原動力になったのだ。
出雲を後にした陣幕は、まず備後尾道の初汐という力士のもとで修行し、草相撲に参加していたが、それに飽き足らなくなり、大阪の朝日山部屋を経て、嘉永三年に江戸の秀ノ山雷五郎(元横綱)に弟子入りする。
同年十一月幕下付出で初土俵を踏むが、一度部屋を脱走し、安政二年に復帰を許されている。復帰場所となった安政三年一月場所は、九勝一休。四年一月にはこれまでの徳島藩から阿波藩お抱えとなり、四股名も黒縅巻之助から陣幕久五郎と改める。この場所七勝一引分で十両に昇進すると、十両も一場所で通過(七勝一敗一引分)し、五年一月に入幕を果たす。
出戻りの陣幕が急速な成長を遂げた理由は、かつて大阪大関八角に抱いたのと同じく「遺恨」が彼の闘争本能を強く掻き立てたからである。
幕下の陣幕が師匠に贔屓先へ番付配りをしていたところ、前方から関取の殿勝五郎が歩いてきた。陣幕は番付上位者に対する儀礼として挨拶をしたが、殿は見向きもしない。そこでもう一度丁寧に頭を下げて挨拶をしてみたものの、全く意に介さないようなので、傍に駆け寄って最敬礼した。それでも殿は胡散臭そうに陣幕を一瞥すると、無言で歩み去っていった。
この日から必ず土俵で借りを返すと誓った陣幕は見違えるように稽古に精進した。そして安政四年十一月場所、十両二枚目の陣幕は自らの希望で実現した前頭四枚目殿との対決に勝利し、以来殿を完全にカモにしてしまう。この殿こそ、後の横綱不知火光右衛門である。
色男の不知火は横綱土俵入りの美しさで人気があったが、実力が伴わず、陣幕からは親の仇のように徹底的に痛めつけられた。対戦成績は陣幕の十二勝〇敗二引分だが、仮にも綱を張ったほどの力士が、苦手とはいえこうも一方的に負け続けた例はない。しかも番付上では、不知火は常に陣幕よりも上位であり、横綱同士の対決となった最後の一戦の時も、東の正横綱は不知火であった。
不知火の妻は夫が陣幕に全く歯が立たないのを悔しがって、場所中は浅草の不動尊に跣参りまでして勝利を祈っていたが、願いは叶わなかった。部屋が不動尊の近くにある陣幕は、この願掛けのことを知っていながら、それをあざ笑うかのように情無用の勝負に徹した。
陣幕は入幕から三年目の万延二年一月場所で全勝優勝、さらに年号が変わった文久元年十月場所も五勝一引分で連続優勝するが、番付は前頭二枚目のまま据え置きだった。これは当時の阿波藩のお抱え力士である陣幕、鬼面山、大鳴門、虹ヶ嶽が「阿州四天王」と謳われるほどいずれも強く、陣幕だけを先輩力士を差し置いて番付上位にゆかせるわけにはゆかなかったからである。
張り出しを出さない時代は、上位が詰まっていれば優勝力士でさえも番付が一枚も上がらないことも珍しくなく、鬼面山も大鳴門も優勝しながら番付据え置きを経験している。
とはいえ、当時の書物に「阿州四天王の中では陣幕が最強」という論評が見られるように、自信家の陣幕にとって、番付上では四天王の中で最下位にいるというのは耐え難い屈辱だったに違いない。
文久二年二月場所七日目、前日まで三勝一分けで二年間負けなしの二十四連勝中の陣幕は、番付こそ東前頭二枚目ながら優勝争いの本命と目されていた。
この日の対戦相手、西前頭三枚目の小柳平助は横綱雲龍からの金星も含めて六連勝と勢いに乗っていたが、この小柳をもってしても陣幕には歯が立たないと見られていた。ところが陣幕の鋭い寄りを土俵際でこらえた小柳が打棄りで大番狂わせを演じてしまう。初めて陣幕に勝った小柳は大喜びで、その夜の祝宴でもしたたかに酔っぱらって部屋に戻ってきた。
小柳は入幕三年目の有望株で、相撲も強かったが性格的に傲慢であったことから、力士仲間や部屋の若い衆からも嫌われていた。泥酔した小柳はこの日も付き人たちに当り散らしていたが、たまりかねた若い衆二人から刺殺されてしまった。これが世に言う「小柳殺し」で、森鴎外の代表作『渋江抽斎』の中にもこの一幕が描かれている。
これに嫌気が差した陣幕は文久二年十一月場所を最後に、郷土出雲藩の抱えに変わり、翌年ようやく関脇に昇進している。新三役の場所も七勝一引分で優勝し、この頃から「負けずの陣幕」と呼ばれるようになっていたが、移籍からわずか二場所で薩摩藩に移った際のトラブルがもとで謹慎一場所を含む二年間のブランクを作ってしまう。
スポーツ界でフリーエージェント制が浸透した今日ならまだしも、この時代に自分をより好条件で抱えてくれる藩へと次々に移籍を重ねる陣幕は、当然のことながらあちこちでひんしゅくを買った。
慶応元年、関脇から再スタートすることになった時は、すでに三十六歳ながら、相変わらず強く、そこから二度優勝し、慶応三年には横綱に推挙された。その横綱としての初場所(同年三月)、ついに因縁の相手との取り組みを向かえた。阿波藩蜂須賀家お抱えの大関鬼面山である。
かつて陣幕が阿波藩に属していた時分には先輩力士だった鬼面山は、三役昇進、大関昇進、初優勝と全て陣幕に先立ち、優勝回数も六回(陣幕は五回)を数える強豪で、目下二十連勝中と波に乗っていた。しかも、阿波藩を離れた後の陣幕に黒星を付けた唯一の相手でもある。
鬼面山の陣幕に対する敵愾心もさることながら、蜂須賀家と島津家の関係も非常にキナ臭く、取り組み発表の前夜、行司と勧進元が相撲係の役人から呼ばれ、両藩の藩士による斬り合いに発展する可能性を示唆されていた。「遺恨試合」の前評判に江戸っ子は熱狂し、当日の回向院は朝から札止めとなった。
両力士とも藩の面子をかけた戦いだけに見応えのある力相撲だった。まず陣幕が得意の左を差せば、鬼面山は右から絞りあげ、とったり気味に小手を振るが、陣幕ものめりながらよく残した。一八八センチと長身の鬼面山は、陣幕が得意の左上手をつかんでいるにもかかわらず、懐の深さを生かして半身のまま回りこみながら果敢に攻める。
陣幕は左十分の時は磐石だが、守りの相撲で勝ち味が遅いため、無敵ではあっても見せ場に乏しく、その強さが人気に比例しているとは言い難かった。対する鬼面山は、身体が硬く守勢に回ると脆いところはあるものの、常に観客を意識し、不利な体勢からでも攻める相撲を身上としていた。守りの陣幕と攻めの鬼面山の勝負は水入り後も決着がつかず、行司が引き分けを宣言した。
土俵下に鯉口を切って陣取っていた藩士たちも、藩の面目が保てたことで安堵の色を浮かべなが ら散会したが、どちらが勝っていても大騒動は避けられなかったに違いない。行司の式守伊之助も「同体でどちらかに軍配を上げていたら、私も斬られていたでしょう」と決死の覚悟で裁いていたことを後日述懐している。
この場所の千秋楽は陣幕と不知火の両横綱による無敗対決だったが、不知火はまたしても陣幕に歯が立たず、陣幕が六度目の優勝を飾っている。
ところが風雲急を告げる幕末、西郷隆盛と肝胆相照らす仲となった陣幕は薩摩藩の志士として国事に奔走し、慶応四年一月場所の優勝を最後に江戸相撲から姿を消した。そのため陣幕の東京相撲でのキャリアは二場所連続優勝を含む二十五連勝で終わっており、歴史上一度も負けずに引退した唯一の横綱となっている。もちろん優勝して引退というのも陣幕だけだ。
幕内戦績は八十七勝五敗で、横綱としては谷風、梅ヶ谷(初代)に次ぐ高勝率である。都合三度ものブランクがなければ、優勝回数もゆうに十回は超えていたに違いない。
守りの相撲を身上とする陣幕は泉川(極め出し)を得意とした。ひとたび腕を極めてしまえば、いかなる相手も逃れることは出来ず、仮に陣幕が攻め切れなかったとしても、そこから逆転されることはなかった。
ここに陣幕がいかに泉川を極めていたかを示す格好のエピソードがある。
明治二十三年五月、黒田清隆伯爵邸で西ノ海嘉治郎(鹿児島県出身)の横綱襲名祝いの宴が催された時のこと。黒田伯は来賓の中に陣幕の姿を見つけると、「西ノ海に泉川を伝授してやってくれんか」と頼み込んだ。
すでに還暦を過ぎた陣幕は、現役の横綱相手に恐れ多いと断ったが、黒田伯があまりにも熱心なので、やむなく「おぬしの泉川はどういう塩梅でやるか、ちょっと型をやってみい」と二の腕をまくって差し出した。
両者の体格はほぼ同じだったが、怪力で鳴る西ノ海ががっちりと腕を極めているにもかかわらず陣幕の方は涼しい顔で、顔を真っ赤にして力む現役横綱の方があしらわれていた。陣幕に泉川の極意を伝授された西ノ海は、以後土俵で泉川を外されることはなく、彼の得意手の一つとなった。
大阪では府知事から大阪相撲の頭取総長に任命され大阪の相撲レベルの向上に努めた。任侠界とつながりが深かった大阪の角界にいきなり乗り込んできて、それを仕切ってしまうのだから、相当な根回し上手だったのだろう。
もっとも、現役時代から好角家の西郷隆盛と戯れに相撲を取るほど親しくしていたことを考えると、明治政府の大立者の一人である西郷が、その強大な政治力を背景に陣幕に便宜を図ったことも十分に考えられる。
自尊心が強く謙虚さに欠けていたため、あまり人から尊敬されるタイプではなかったが、陣幕から頼み事をされると、彼のことを快く思っていない人でも、つい承諾してしまうような押しの強さというか、人を乗せてしまう口の巧さがあったそうだから、調停役などには向いていたのかもしれない。土俵上では散々煮え湯を飲まされた不知火が、帰阪後には大阪相撲副頭取として陣幕を支えたのもその好例といえよう。
大阪相撲に加わった慶応四年四月、明治天皇の上覧相撲で当時前頭四枚目の八陣信蔵に足取りで苦杯を舐めさせられた時は、「あの陣幕が負けた」と巷で大変な話題になり、結果として大阪相撲が注目を浴びるきっかけを作った。
ちなみに江戸相撲の名横綱に勝ったことで自信をつけた八陣は、その後トントン拍子に出世し、明治四年には綱を張っている(大阪横綱)。
正式な引退は明治三年、西郷が陣幕の取り組みを見たいと言い出したことで、すでに四十路を超え三年間のブランクのある陣幕は、惨めな姿を晒したくないという理由で引退届を提出した。
すでに頭取として四股名と同じ「年寄陣幕」を名乗り、親方として後進の指導に当たっていたが、何事も仕切りたがる独善的な性格が疎まれ、西郷という後ろ盾を亡くした明治十一年限りで大阪を去り、再び上京した。
親方時代には、薩摩藩の伝手を頼って、後に内閣総理大臣を二度拝命した山本権兵衛が弟子入りを志願してきたことがある。
山本は年齢を偽って海軍兵学寮に入寮したほど体格も良く、腕力も強かったので、下っ端の弟子を三人ばかり投げ飛ばしてしまい、陣幕が相手をすることになった。さすがに陣幕には真っ向勝負では勝てないと思った山本は、あらかじめ土俵の砂をまぶしておいた手で張り手を浴びせるや、砂が目に入って棒立ちになった陣幕を一気に押し出し、周囲を呆然とさせている。
山本は総理になってからも陣幕に勝ったことを自慢していたが、真面目な陣幕からすれば、卑怯なうえに態度が傲慢な山本には我慢がならなかったのだろう。この時は早々に追い返している。
結果として、山本が海軍大臣時代に東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命するなど軍事面で手腕を発揮したことを考えれば、陣幕の決断は日本に国益をもたらしたことになる。少なくとも東郷の司令官抜擢は年功序列を無視した異例の人事であり、人事権を持っていた山本の先見の明がなければ、日本海海戦はどう転んでいたかわからないからだ。
上京後の陣幕は、一時は回向院前で「横綱せんべい」を商って生計を立てるなど経済的には恵まれなかったが、後半生を歴代横綱顕彰に捧げ、横綱の碑を築いた。
明治二十八年頃、富岡八幡宮境内に横綱力士碑を建立するためのスポンサー募集にあたって、陣幕が宣材として自伝を著したり、江戸期から明治初期の番付を復刻したりと、草創期の相撲の歴史を堀り返してくれたおかげで、忘れ去られつつあった過去の力士たちの経歴に再びスポットが当たり、貴重な記録が整理されて次代に伝承されることになった。
東京相撲協会から依頼を受けたわけでもなく、陣幕の思いつきで始まった建碑事業が意外とすんなりはかどったのも、陣幕には人を説得して同意を得る天賦の才能があったからだ。
また、今日でも名誉なこととされている元横綱力士の還暦土俵入りも、陣幕が先駆といっていいだろう。
明治二十一年五月、靖国神社大祭と芝公園弥生社の祭典に、露払い栄鶴、太刀持ち利根川を従え て横綱土俵入りを奉納した白髯の老雄はちょうど還暦だったが、力士は概して短命だったため、非常に目出度いこととされ、その後昭和十二年に還暦に達した太刀山が上野精養軒で同じく横綱土俵入りを披露し、大きな話題となった。
しかし、この頃はまだ制度化されていなかったため、鳳のように還暦に達しながら土俵入りを披露していない例もあり、現行のような長寿祝いのセレモニーとなるのは昭和二十七年の栃木山以降である。
晩年の陣幕は、現役中に東京相撲を見限ったという遺恨もあってか、一連の相撲史の発掘事業なども単なる金集めと冷ややかな目で見られることも多かったが、激動の幕末から維新期の角界の生き証人である彼が過去の記録を形として残さなければ、資料は散逸し、明治期以前の相撲史は推測の域を出ない神代の歴史として扱われていたかもしれない。
古い文献の収集や出版事業に請っていたことから、陣幕は文才があると思われていたが、読み書きはもっぱら実娘の糸頼みで、自伝も口述筆記によるものだった。
存命中は、受身の相撲スタイルが「負けることを恐れた消極的な相撲」と見られ、谷風、雷電、稲妻に次ぐ素晴らしい実績も長らく過小評価されてきたのは気の毒だった。
しかし、絶対に待ったをせず、相手が立てば必ず受けて立つという土俵態度は、さすがに名横綱だった。この点においては双葉山以前の先駆者と言ってよく、今日では一流横綱という評価を得ている。




