第12話 播州特急 増位山 太四郎(1919-1985)
今年六月に亡くなった増位山のことではない。戦後世代には増位山といえば業師として鳴らした増位山大志郎が唯一の存在だが、同じ部屋の北の湖の師匠、三保ヶ関親方といえば記憶にある方も多いはずだ。当時の三保ヶ関親方こそ元大関増位山太四郎で大志郎の父である。
増位山の相撲は熱かった。
激しい当たりと強烈な上突っ張りは、軽量の戦闘機たる彼に重爆撃機に匹敵する火力をもたらしていた。それでいて動力性能は軽快この上なく、奇手・奇策を弄する相撲巧者にも付け入る隙を与えないほど守りも堅かった。
しかし、常にレブカウンターが振り切れるまで全力で立ち向かってゆく彼の相撲は、力士として恵まれているとは言い難い肉体を想像以上に酷使し、横綱まであと一歩のところでエンジンストールさせてしまった。同時期の力士たちが「戦後最強の大関だった」と口々に言うほどの技量の持ち主だっただけに、大関四場所目で引退を選んだのは惜しまれる。まだ三十歳の若さであった。
「私は一旦突っ張って出れば、徹頭徹尾、息の続く限り突っ張りまくるのを身上としています」と自身が公言するとおり、増位山の突っ張りは回転数が速く果断なく繰り出される。太刀山が一撃必殺のバズーカ砲なら、こちらは機関砲の掃射である。
突き方も特徴的で、一旦腕を引いてから突くというより、エンジンのクランクのように手首、肘、肩が滑らかに連動することでボクシングの連打に匹敵するスピードを生み出していた。
幕下時代から玄人筋から高い評価を受けていた突きの回転の速さと命中率の高さは群を抜いていたが、相手が突き返そうとタメをつくった瞬間に突くタイミングの計り方と相手の突き手をかわす技術にも長けていたため、重量級の力士でも容易に前には出られなかった。それも下方から上方に突き上げてくるぶん、咄嗟のいなしにも対応できるうえ、相手の上体が浮いた瞬間に素早く左を差せた。
ぶつかると鋼鉄の壁のようだ、と称された羽黒山は、突っ張りを得意とする力士をカモにしており、汐ノ海(大関)、輝昇(関脇)、桜錦(小結)には本場所で全勝しているが、増位山には二度も突き出しで敗れているのは、自分の突きをかわしざまにカウンターで突き返されたからである。
正面からの攻撃には磐石の羽黒山といえども、やや身体が堅いぶん、空振りして身体を泳いだところを突かれては防戦一方になってしまうのも仕方がなかった。なにしろ増位山の突っ張りの威力たるや、張り手の威力には定評がある前田山や重戦車のような突進力を誇る東富士にさえも通算対戦成績では勝ち越しているほどなのだ。
十八年春場所では、この場所好調の大関前田山を相手得意の突っ張り合いで押し勝ち、その威力は上位陣を震撼させた。東富士に至っては、対増位山戦の四つの黒星全てが褌を取れないまま、突き、押しで一蹴されたものだ。
さすがに、同時期の人気力士だった神風が、突っ張りの威力は千代の山と双璧だった、と絶賛していただけのことはある。軽量でありながら決まり手の三十パーセント強が突き出しという増位山にかかっては、平幕力士など数発で吹っ飛ばされることもあったという。
同時代において突っ張りに定評があった力士をその威力と技術をトータルで評価するとすれば、増位山に勝る者はいないと言っても過言ではないだろう。羽黒山も横綱になってからアキレス腱を断裂するまでの六年間で突き出されての黒星は増位山と千代の山に喫した二つだけである。
体格で勝る千代の山はまだしも、増位山が全盛期の羽黒山に勝てたのは、突っ張りの威力だけでなく、突っ張り合いになってもめくら滅法に突くのではなく、相手の突き手を受け流す反射神経にも秀でていたからだ。
また、目まぐるしく突っ張ってくるため、あまりそちらの方に気を取られていると、突っ張りのフェイントから前褌を取るのが巧かった。そこからの強烈な引きつけと吊りで巨漢力士でさえ一気に土俵の外まで運んでしまうさまは、観客をしびれさせた。
仮に長身の力士が土俵際で吊り返したところで、名人芸の外掛けがあるため、打棄るのも容易なことではなく、二メートル超えの超巨漢不動岩、大内山も全く歯が立たなかった。
まさに力と技を併せ持った欠点の少ない力士だった。
かつての名門三保ヶ関部屋も増位山の入門当時は貧乏な小部屋に成り下がっており、稽古相手にも事欠く有様だった。そんな彼に手を差し伸べてくれたのが人情家で知られる出羽海部屋の肥州嶽で、稽古相手にも事欠く増位山に「いつでも胸を貸してやるから来い」と声をかけてくれた。当時十両だった肥州嶽こそ後の大関五ツ島である。
これを機に出羽海部屋に出稽古に通うようになった増位山は、西村こと後の豊島と親しくなり、出世争いでは良きライバル、私生活では大親友になった。
増位山がセンス抜群の若手有望力士として注目を浴びるようになったのは、昭和十四年夏場所に幕下優勝した頃からである。その素質をいち早く見抜いたのが双葉山で、系統も違う小部屋の幕下相手に熱心に稽古をつけてくれた。
これに感激した増位山は、期待にたがわず精進し、十九年春場所には大横綱から恩返しの勝利を挙げている。
昭和十五年夏場所に十両優勝し、翌年春場所に入幕を果たした増位山は大親友である豊島と競い合いながら番付を上げていった。三役昇進は豊島が先だったが、十九年春場所には小結に昇進し、関脇から陥落した豊島を抜き去った。
十九年春場所はライバルの昇進に触発された豊島が久々に好調で、中日八日目を終わって双葉山、羽黒山、佐賀ノ花、増位山、豊島の五力士が一敗で並ぶ大混戦となった。豊島はその後脱落したが、増位山は十日目まで八勝二敗と優勝争いに踏み留まり、十一日目、佐賀ノ花とともに優勝争いを先導する双葉山との対戦を迎えた。
過去の対戦では全く歯が立たなかったが、この場所は豊島が作戦を授けてくれていた。
「いっぺん引っ張ってみな。それで相手が動いたと思ったら、そこに付け入って押してみな」
この場所好調の増位山の機関砲のような突っ張りも双葉山には通じない。少し後ずさりして上体がわずかに起きただけで、懐に飛び込もうとする増位山を右から抱え込もうとしてきた。その時、豊島の言葉が脳裏を過ぎった。
飛び込みのフェイントをかけてから素早く下がると、双葉山がバランスを崩してつんのめった。そこに低い体勢から飛び込んだ増位山は、右から掬ってくるのに合わせて右足を内掛けで払いながら横綱に体を預けた。
アメフトのタックルのように腰にしがみつかれたうえ足まで払われては、二枚腰の双葉山もたまらない。掬いきれないまま腰砕けになって土俵に崩れ落ちた。
念願の双葉山戦初勝利を挙げた増位山は十一勝四敗の好成績で翌夏場所には関脇に昇進し、十勝五敗で小結に復帰した豊島とともに初めて二人で三役に名を連ねた。
入幕から双葉山に勝って関脇昇進を手繰り寄せた十九年春場所までの七場所で二桁勝利が四回というのは、先に関脇になった豊島に匹敵する好成績で、親友とともに将来の大関候補に名を連ねていたが、食糧不足と腎臓病の影響で体重が落ち、そこから三場所連続で負け越してしまったのは痛かった。
昭和二十三年秋場所は十勝一敗の東富士(大関)と増位山(関脇)による優勝決定戦となった。
本割では立ち合いで咄嗟に体を開いて叩き込んだ増位山が勝利をつかんでいるが、巨体のわりに出足が鋭い東富士にそう何度も奇襲攻撃が通用するはずがない。共に昇進がかかった決定戦は、増位山の突っ張りと東富士の怒涛の寄り身のぶつかり合いとなった。
この一番、強烈な突っ張りを浴びながらも恐るべき突進力で距離を詰めた東富士が左四つから休まずに攻め立てたが、弧を描くように回り込んだ増位山の起死回生の打棄りが決まり、ついに初優勝と大関の座を手に入れた。
昭和二十四年夏場所は、新大関で迎えた前場所、右手の負傷により七勝六敗と期待を裏切った増位山にとっては汚名返上をかけた大事な場所だった。
十日目までは大混戦で、一敗が羽黒山、羽島山、常ノ山の三人、二敗が東富士、前田山、輝昇、増位山の四人という状況だった。前頭十七枚目の羽島山、同二十枚目の常ノ山は三役以上との対戦がないが、増位山は三横綱、一大関との対戦を控えており、苦戦が予想されたが、十一日目には羽黒山を突き倒し、十二日目には東富士を押し出し、十三日目には前田山を寄り切りと、三横綱を全て真っ向勝負の押し相撲で三タテし、万丈の気を吐いた。
千秋楽は相撲巧者の大関佐賀の花と土俵を三周するほどの攻防の秘術を尽くした熱戦を展開し、最後は押し倒しで優勝決定戦出場の切符を掴み取った。
十三勝二敗同士の決定戦は、羽島山を一気に寄り切って二度目の優勝。右手がほとんど使えない状態でありながら、小細工を弄することもなく、力相撲で再度の決定戦を制した増位山の根性には頭が下がる。
神風と照国に喫した二つの黒星にしても、相手の注文相撲で体勢を崩されたもので、この場所の増位山は押し込まれて引くという場面がなかった。後に綱を張る鏡里、吉葉山といった重量級力士さえも難なく力でねじ伏せており、相撲内容からしても増位山の横綱昇進はもはや時間の問題とみられていた。気の早い後援会は横綱土俵入りに備えて三つ揃いの化粧廻しまで準備していたが、結局それはお蔵入りとなった。
満身創痍の増位山は、夏場所五日目に力道山を一方的に土俵下まで突き出した際に、左手小指を裂傷していた。たかが小指でも、小指を斬られると剣の達人も全く力が発揮出来ないのと同じで、突っ張りも威力が半減し、褌を取っても力が入らない。しかも怪我の状態はかなり深刻で本来なら休場してもおかしくないほどだったが、テーピングで固定して強行出場したため患部が化膿し指先の神経まで麻痺してしまっていた。結果、綱取りがかかった二十五年春場所は、本来の相撲が取れず途中休場に追い込まれるはめになった(三勝六敗六休)。
増位山は優勝と引き換えに力士生命を縮めてしまったが、このような例は他にもある。
近年でいうと、足を引き摺りながら決定戦に臨み、武蔵丸を下して二十二回目の優勝を飾った二代目貴乃花の鬼気迫る相撲は特に印象深い。国技館に駆けつけた小泉総理が「感動した!」と声をかけ、自らの手で内閣総理大臣杯を手渡した場面は日本国中で大きな感動を呼んだものだが、その後の貴乃花は怪我が完治せず、休場を繰り返したあげくに二十八歳の若さで引退を余儀なくされている。
平成二十九年、新横綱の場所に日馬富士戦で左胸筋を部分断裂する重傷を追いながら強行出場を続け、決定戦で照ノ富士を捨て身の小手投げで破った稀勢ノ里もその代償は大きく、連続休場、連敗記録等の横綱としてのワースト記録に名を連ねるはめになった。
彼らもプロである以上、無理をすればこうなることがわかっていたはずである。それでも相撲道にかけるひたむきな性格が「動ける限りは土俵に上がる」という一種の散華にも似た自身の美学を貫かせるという結果を招いたといえよう。
増位山と親しかった朝日新聞記者、酒井芳蔵によると、「増位山は非常に神経質な性分でやや気が弱い方なのだが、一旦土俵に上がると、別人のように湧き上らせて敢闘する力士である」とのことだ。
昭和二十年夏と二十二年夏の二度にわたって廃業を決意したところなど、増位山の神経質でネガティブな側面が現われているといえるかもしれない。
昭和二十年は親友の豊島と師匠を相次いで亡くし、気持ちの張りを失っていた頃である。小部屋出身の悲哀を味わい、相撲社会の古い因習にも辟易していた彼は、角界から足を洗うことを真剣に考えていたという。
二度目は昭和二十一年の秋場所に十一勝二敗という好成績(準優勝)で華々しく復活し、次期大関候補の声がかかりながら、練習中の右足首捻挫により、二十二年夏場所の土俵に立てなかったことによるものだ。場所前から活躍が期待され、本人も大関獲りに手応えを感じていただけに、その失望感は大きく、力士を辞めて何か商売をやる決意を固めていたらしい。幸いこの時は酒井の連日の説得により前言を翻したが、三度目は再起する気力すら枯渇してしまっていた。
引退後は年寄三保ヶ関を襲名し、後進の指導にまい進したが、長らくこれといった弟子に恵まれず気の毒だった。そんな彼がようやく掘り当てた特大の大粒ダイヤモンドが北の湖である。
大鵬の記録を破る史上最年少で横綱に昇進した北の湖は、彼の全盛期を見てきた好角家の多くが後年の千代の富士、貴乃花(二代)、白鵬を凌ぐ大鵬以来の最強力士として名を挙げているほどで、マナー、風格、技量ともに申し分のない大横綱だった。
その後、長男である増位山太志郎まで大関に昇進したことで、史上初の親子大関を実現させ、悲劇の名大関もようやくわが世の春を迎えた。
一字違いの太志郎は、体格こそ父親を上回っていても、力士としてはやや線が細く、技巧に頼るきらいがあったため、大関の器ではなかったが、力士生活の後年に多用した内掛けと内無双の切れ味は素晴らしかった。輪島、三重の海、若乃花(二代)、隆の里といった新旧四人の横綱が二度ずつ引っくり返された内掛けはその道の達人、琴ヶ濱に匹敵する巧さで、腰が重くしぶといことでは人後に落ちない貴乃花(初代)ですら四度もこの技で苦杯を喫しているほどだ。
突き押し主体の父親が生涯でたったの三番しか褌を取ってからの投げ技で勝ったことがないのに対し、息子の方は投げ技を得意としていたところが面白い(最も多い決まり手が上手投げだった)。
増位山は相撲にかけては一途で求道者のような趣があったが、私生活ではなかなかの芸達者で、相撲甚句などの日本調の歌謡を歌わせるとちょっと右に出るものがおらず、宴席の人気を独り占めにしていた。また集中力を養うという理由で絵を描くのを趣味としており、こちらは二科展に入選するほどの腕前だった。
親子で相撲のスタイルは異なっていても、美声の方はしっかりと遺伝していたらしく、息子の太志郎が現役中の昭和五十二年にリリースした演歌『そんな女のひとりごと』は、過去にレコードを発売した力士中最高となる販売枚数五十四万枚の大ヒットとなった。
増位山の絵というと、私は以前紹介した松浦潟をモデルにした相撲小説『虹はつかめなかった』の装丁画しか見たことはないが、挿絵画家として十分にやってゆけるレベルだった。それほど手先が器用な彼が息子と真逆の力技で勝負する力士になったところが面白い。




