第11話 相撲会所の大名 雲龍 久吉(1823-1891)
横綱土俵入りの”雲龍型”に名を遺す雲龍は、福岡県が生んだ最初の横綱(第十代)である。もっとも、彼の現役時代は廃藩置県前であるため、筑後柳川藩が出身地で柳川藩のお抱え力士である雲龍のことを筑前黒田藩や久留米藩の住民までが「地元の誇り」という認識を持っていたかどうかは不明である。
寺社奉行管轄の下、歓進相撲興行が制度化した貞享元年(一六八四)から明治初期にかけて、職業力士の暮らし向きは、現在とは比較にならないほど質素なものであった。
江戸時代の力士は全て諸侯のお抱えであったため、身分上は武士であり、おおむね幕内以上から諸侯より扶持米が支給されていた。ところが当時は、扶持米と興行ごとの給金は一旦師匠の懐に入ってから、改めて師匠から力士に支給される慣わしであったため、給金は師匠の裁量次第ということになり、概して小遣い銭程度の額だった。したがって、多くの力士は富裕な町人の後援者贔屓筋からの祝儀や彼らの食客として生計を立てざるをえず、自腹では化粧まわしすら作れなかった。
つまり、力士の現役時代の生活はスポンサー頼みであったのに対し、引退後に年寄の名跡を継げば、ある程度裕福な生活が送れるようなシステムになっていた。とはいえ、今日の相撲協会に該当する相撲会所も封建社会同様、完全なトップダウンで運営されていたため、職掌による所得格差は著しく、筆頭(取締)と筆脇(副取締)ともなると旗本並みの高給を得ていた。これは会所の出納に携わっているのが筆頭と筆脇だけで、組頭(今日の理事クラス)でさえ帳簿を見ることが出来ないため、純益の大半を筆頭と筆脇で折半していたことによる。
元横綱雲龍こと年寄追手風が筆脇・筆頭の時代は、会所が最も権勢をふるっていた時期で、その豪奢な生活ぶりは後世の語り草となっているほどだ。
夏場は屋形船二艘を両国の橋畔に繋留して涼をとり、夕食時になると山谷橋まで漕ぎつけて、そこから駕籠で大江戸随一の高級料亭「八百善」に入るというのが日課だったというから、旗本どころか大名並みである。
このように引退後の雲龍は横綱時代とは比較にならないほど羽振りが良く、金遣いも荒かったが、故郷に対する思い入れも人一倍強かったと見えて、大関、横綱披露興行に際して、地元の春日神社に鳥居や石灯籠を奉納したり、村に荒人宮(力の神)を寄進したりと太っ腹なところもあった。明治十七年に荒人宮を寄進した時は、田二反も合わせて神田として寄進し、その収入で維持費が賄えるように、と粋な心配りも見せている。ちなみに関東大震災で焼失した回向院前の大門も雲龍個人の寄贈であった。
雲龍こと塩塚久吉は福岡県山門郡大和村皿垣開の農家、塩塚久平治の長男として生れた。九歳の時、流行り病で両親を同時に失ったため、体格の良かった久吉は近所の田圃の雑草取りや馬の世話などをして弟二人と妹を養っていた。この時期、村人たちが幼い四兄弟に施してくれた恩は、久吉も終生忘れることはなかった。
大柄で大人顔負けに働けるということで、その後、柳川藩主立花帯刀の屋敷で賦役につくようになった。久吉の並外れた怪力ぶりは近境にまで知れ渡り、子供ながらに土木工事にまで借り出されていたという。
天保十二年(一八四二)、近郊へ追手風一行が巡業に訪れた時のこと。見物に行った久吉は、周囲から促されて飛び入りの土俵に上がることになった。これまで相撲など取ったこともなく、ただ押しまくるしか能がなかった久吉だったが、追手風が目を見張るほどの突進力を見せ、これを機に周囲の勧めで草相撲に参加するようになった。
もうじき二十歳という年齢からして、本格的に力士を目指すならこの時追手川に弟子入りするのが筋だが、弟と妹が独り立ちするまで面倒を見る決意が固かったのだろう。地元の素封家が旅費を工面し、大阪相撲に入門できたのは弘化三年(一八四六)のことだった。
大阪にいたのは一年だけで、翌年には上京して江戸の追手風に弟子入りする。すでに二十四歳になっていたが、経験を積み、身体も出来上がっていた久吉の力量を高く評価していた追手風は、弘化四年の冬には本場所の土俵に上がらせている。
幕下付け出しからの初土俵は四勝一預と上々で、早速郷里柳川藩からお抱えの声が掛かったのは幸いだった。これで職業力士として生計を立ててゆく目処がついたからだ。
翌場所から七勝三敗、八勝〇敗、八勝二敗、八勝〇敗一預と快進撃が続くが、この間番付が上がったのはわずかに七枚である。当時は十両という区分がなく、幕下筆頭の上が幕内だったが、これだけの成績で幕下十二枚目に留め置かれたのは、明らかに大阪相撲出身者に対する差別と、小部屋所属という不利な条件が重なったからに他ならない。
幕下での五年九場所の勝率は八割を超えており、幕内力士との対戦でも全く引けを取ることがなかった雲龍は、これまでの鬱憤を晴らすかのように、嘉永五年二月の入幕以来、古参力士たちをなで斬りにしていった。
新入幕の場所、いきなり八勝〇敗一預で優勝すると、六年十一月場所まで四連覇という驚異的な勢いで勝ち続けた。新入幕からの四連覇は、雲龍と明治中期の小錦だけが持つ角界の最高記録である。
ところが、これほどの強さを示しながら嘉永七年二月場所の番付はようやく小結である。彼と同じく平幕から四連覇(新入幕ではない)した文化・文政の柏戸利助は関脇、初代小錦はその間に大関にまで昇進しており、雲龍の番付面での冷遇ぶりは他に例を見ない。
この二月場所の直後(二月二十六日)、再来航したペリー一行に幕府が白米二百俵を供給することになった。この時、神奈川詰奉行の命で人夫として狩り出されたのが、小柳、鏡岩らをはじめとする力士連で、雲龍もこの一員に選ばれている。五斗俵を両手にぶら下げて軽々と運ぶ力士たちの怪力ぶりはアメリカ人たちを驚嘆させたという。
雲龍が大関に昇進したのは安政五年一月のことで、すでに三十五歳になっていた。
入幕以来、角界随一の人気を誇った雲龍は関脇三場所を全て優勝か優勝同点で通過し、文句なしの昇進となったが、彼以前の横綱、稲妻雷五郎と不知火諾右衛門がそれぞれ優勝回数四回と〇回で大関に昇進しているのと比べてみると、優勝六回目での昇進は遅きに失したといえよう。
大関に昇進した雲龍は、この年先輩大関の小柳常吉とともに柳川で昇進披露興行を行い、ようやく故郷に錦を飾ることが出来た。
安政五年四月五日、回向院に米総領事タウンゼント・ハリス、秘書兼通詞ヘンリー・ヒュースケンらを招いて相撲興行が開催された。日本の相撲はペリー来訪時にも紹介されていたが、この時は土俵入りと稽古の見学という形に過ぎず、取り組みを披露するのは初めての試みだった。日米修好通商条約の締結を控えた時期ということもあって、一日だけの興行とはいえ、給金や賞品(三役のみ)まで用意され幕下から四十五番もの割りが組まれるかなり本格的なものであった。
雲龍は結びの一番で先輩大関の猪王山を下し、舶来の観客の前で角界第一人者の貫禄を示した。
しかし、雲龍の力士としてのピークはこの頃までで、大関としては一度も優勝することができなかった。大関時代の勝率は七割台(二十六勝九敗一預三引分)にもかかわらず、万延二年九月(一八六一)に横綱に推挙されたのは、当時の横綱は名誉称号であり、過去の輝かしい実績に対する功労賞的意味合いも含まれていたのだろう。
好敵手は平幕時代から出世を競い合った境川(優勝二回・後に大関)で、若い頃は雲龍の圧勝だったが、嘉永五年二月場所の対戦で雲龍からのしかかられた状態で土俵下に転落した境川が失神していまい、その後休場に追い込まれるというアクシデントが起こって以降、主客は転倒した。
常人とは鍛え方が違う力士が意識を失うほどのダメージを負ったのを目の当たりにした観客の中には、両者の間には相撲という競技の勝ち負けとは別の因縁があったと想像をめぐらす者がいたとしても不思議ではない。やがて雲龍は境川に含むところがあって殺意を抱いている、というデマが飛び交うようになると、悪役にされた雲龍の方が意識過剰になったのか、境川戦では全く精彩を欠き、何故かそこから一度も勝つことができなくなった(通算成績は雲龍の五勝七敗一分一預)。
横綱としての雲龍は、力士としての実績以上に、不知火型の横綱土俵入りを創始したことで角界にその名を記すことになった。
当時の横綱土俵入りは、拍手を打ったり四股を踏んだりとある程度の型はあったが、それ以外の所作は個人の自己裁量に任されており、露払い、太刀持ちにしても必ずしも二名とも従えて土俵に上がるとは限らなかった。しかし伝統行事たる相撲の美しさにこだわる雲龍は、両手を広げてせり上がる勇壮な不知火型を完成し、絵になる横綱土俵入りを演出したのである。
その後、彼の次に横綱に推挙された不知火光右衛門が雲龍型を考案し、今日に至っている。
なぜ雲龍が考案した方が不知火型で、不知火の方が雲龍型と呼ばれているのかというと、明治期に考案者が混同されたまま伝承されたことによるものだ。実際、一七八センチ一三五キロというがっちりした体格で剛力が自慢の雲龍の所作は見るからに「剛」で、一七五センチ一二〇キロの優男で業師の不知火の所作はいかにも「柔」である。
雲龍が横綱になった頃の最強力士は、のちにともに綱を張ることになる陣幕と鬼面山だった。
大関昇進以降、かつての無敵ぶりが薄れつつある雲龍を尻目に鬼面山が三回、陣幕が一回それぞれ優勝を飾っており、雲龍は今一歩及ばなかったが、文久二年の秋に、横綱披露の興行を柳川で行い、地元でお祭り騒ぎの大歓迎を受けたのが効いたのか、十一月場所はかつての勢いを取り戻し、およそ七年ぶり八度目の優勝を飾っている。これが最後の優勝だった。
土俵生活の晩年は後の横綱不知火に苦戦を強いられ、人気・実力ともに後塵を拝することになったが、全盛時代はその強さと派手な土俵入りが相撲好きの江戸っ子を虜にし、文政~天保の稲妻以来の人気力士と謳われたものだ。
リアルタイムの資料が少ない時代の力士は、世代を超えた伝承によってイメージが膨らみ、過大評価されがちであるが、幕末の行司木村庄之助の寸評は、ファン目線のような偏見がないぶん、辛口で信憑性が高いように思える。
実際に土俵を裁いてきた彼の横綱評では、九代横綱秀ノ山と十一代横綱不知火は相撲はあまり強くなく、相撲は下手だが体格が良く力のある十代横綱雲龍の方が力量は上としている。さらには、十三代横綱鬼面山は雲龍よりも明らかに強く、それを凌ぐのが十二代横綱陣幕である、と評しているところからすると、雲龍は同時代の横綱としては平均レベルだったと言えそうだ。
元治二年に引退すると、師匠の名跡である追手風を継承し、筆頭となってからは現役時代と打って変わった羽振りの良さで世間の注目を浴びた。
慶応元年五月、駒込蓬莱町の海龍寺で営まれた師匠の葬儀は、松井町一丁目から会葬者が長蛇の列をなすほどの盛儀だった。しかも雲龍は施主側の参列者全員に三階菱の紋付を、会葬者全員に浴衣を配るという粋な計らいを見せている。
三回忌の法要として増珠寺境内で行われた追善相撲でも、金に糸目をつけず、興行の一切を請け負った豪商紺屋に必要経費の天保銭を搬入するのに(おそらく大八車であろう)三日も要したという。
雲龍は十両時代に先代の養子に入り、その後先代の養女おこま(追手風の実兄徳兵衛の娘)と婚姻したため、実家は弟の久七が継いでいたが、大酒飲みの久七が田畑を全て酒代で失った時にも、一町二反の土地を買い与えたらしい。おかげで久七の子孫が塩塚家を守り、雲龍の生家も現存している。
雲龍は自身が若い頃に冷遇されたせいか、協会トップに君臨しても気前がよく誠実だったため、人望は厚く、明治十七年三月、芝延遼館での天覧相撲に際しては相撲副長を仰せつかった。
雲龍は髷結姿のリアルな肖像画と晩年の家族写真が残っているため、錦絵のみで伝えられている力士と違って現役時代の風貌もだいたい想像がつき、なんとなく身近に感じられる。現役時代の横綱の写真は雲龍の次の不知火(第十一代横綱)以降しか確認されていないが、雲龍の前の第九代横綱秀ノ山は没年が幕末である
ことから(1862年没)晩年の写真が残っている可能性は捨てきれない。




