第10章 蜃気楼の男 不知火 光五郎(1844-1882)
またまた福岡県出身の幻の横綱である。といっても、こちらは前章の小野川とは違って横綱に推挙されたわけではない。最高位は大関であり、地方巡業の際に”自称横綱”として興行の看板を担ったに過ぎないが、地元民にとっては、自慢の種だったと見え、不知火はいまだに横綱として語り伝えられている。
不知火というのは有明海から八代海にかけて見られる蜃気楼のような自然現象でのことある。そのため不知火という四股名は肥後出身の力士に多く、そのうち不知火諾右衛門(宇土出身)と不知火光右衛門(大津出身)はそれぞれ第八代、第十一代横綱に推挙され、相撲史にその名を残している。
二人とも決して強い横綱ではなかったが、光右衛門が発案した不知火型は雲龍型とともに横綱土俵入りの型として今日も踏襲されている。
ちなみに不知火の四股名は、宝暦の不知火が初代であり、不知火型で有名な幕末の不知火光右衛門は四代目に当たる。初代は前頭三枚目が最高位だったが、二代目の寛政の不知火(玉名出身・初名は磐石荒五郎)も大関まで出世していることから、不知火は縁起のよい出世名といえる。
そんな由緒正しき不知火の四股名も、明治中期の藤ノ嶽光右衛門(最高位前頭四枚目)が継承したのを最後に風化の一途を辿っているのは寂しい限りだが、角界の頂点に君臨した肥後の三人の不知火のあとに大阪で大関を張った不知火も、地元以外ではほとんど忘れられた存在になっている。
この五代目不知火こと不知火光五郎は、肥後熊本とは全く縁もゆかりもない筑後国嘉麻郡の出身である。墓所のある現嘉麻市の安国寺には立派な石碑が立っており、かつてこの地で追善興行が行われた際、横綱玉錦が不知火型の土俵入りを行った後、綱を外して焼香したと伝わる。
それほどの著名人だけに、嘉麻市立上山田小学校では不知火の偉業を後世に伝えるために八十年以上にわたって「相撲体操」を続けているが、残念ながら嘉麻市民を除くとよほどの好角家でもない限り、不知火光五郎と聞いても三代目不知火光右衛門と混同するのが関の山だろう。
大阪相撲出身とはいえ、大阪以西では東京相撲より大阪、京都の関西相撲の方が人気があった時代の力士であり、優勝一回、最高位大関という堂々たる実績を残しながら、その名がほとんど知られていないのには訳がある。実は不知火を名乗ったのは現役最後の場所だけで、それまでは山響光五郎の四股名で土俵に上がっていたからだ。
不知火光五郎こと佐藤幸五郎は農家の次男坊で、近隣の杷木町出身の梅ヶ谷がまだ大阪相撲に所属していた頃に、二歳年上の梅ヶ谷に勧誘されて角界入りした(慶応三年と推測される)。
新入幕の明治四年七月場所に七勝〇敗三休で優勝力士熊ヶ嶽に次ぐ成績を残し、同年九月に京都で行われた三都合併相撲(東京・大阪・京都)では、本場所で十七連勝中の東京方の新鋭雷電震右衛門を破る殊勲の星を挙げている。
大阪では大関を張り力自慢で通っていた梅ヶ谷を力勝負でねじ伏せるほどの剛力の持ち主だった雷電に大阪で入幕間もない山響が勝てたのは、その頃の梅ヶ谷とはタイプが違い、技を主体とする相撲巧者だったからだろう。
東京相撲の第一人者に勝ったことが大きな自信となった山響は順調に番付を上げ、明治六年七月場所に関脇で初優勝(七勝一敗)すると、九年には大関に昇進した。この間、明治七年十月の合併相撲でも、東京方随一の人気力士朝日嶽(関脇)を破るなど、大阪力士としては雷電に二度勝った熊ヶ嶽(大関)と並ぶ看板力士としての実力を遺憾なく発揮した。
当時の横綱は尊称であり番付最高位は大関だったとはいえ、今後の実績次第では横綱免許も夢でではなかった山響は、ここで思いもよらぬ協会の内紛に巻き込まれる。改革をめぐって派閥争いが激化していた大阪相撲が明治十年秋場所後に分裂した際、山響は協会離脱組と行動を共にするのである。
翌年からは離脱組は別番付となり、東京、大阪、離脱組の合併相撲というややこしい興行となった。この時離脱組の東正大関を張ったのが、同年齢で同郷人(福岡県吉井町出身)の大錦大五郎である。
ところが合併相撲が挙行された十一年十月には、大錦、山響ともに地方巡業中であったため、本場所には間に合わず、揃って全休扱いとなっている。しかも運の悪いことに大錦は病に倒れ、闘病生活に入ったため、待望の大関の座を手に入れながら大関としては一度も本場所の土俵に上がらないまま引退を余儀なくされ、明治十三年に急逝した。
一方山響は、大阪相撲の番付に再度名を連ねることになった明治十四年七月、尊敬する三代目不知火光右衛門の四股名をそのまま継承した。一般に不知火光五郎と呼ばれるのは、三代目と混同することを避けるためであり、不知火光五郎名義の番付や協会文書は存在しない。したがって番付には不知火光右衛門と記載されている。
大錦亡き後の大阪力士の中では、実力、実績ともに第一人者という自負もあったのだろう。本場所前の大阪難波の巡業では綱を締めて横綱土俵入りを披露している。
当時は東京の高砂一門でも巡業の目玉として“自称横綱”の土俵入りをしばしば行っていたように、熊本の吉田司家や京都の五条家の免許状がなくとも、知事クラスの承認によって巡業中は横綱を名乗ることが例外的に許されていた。
これは、相撲人気が低迷していた時期だけに、看板力士がいるのといないのでは興行収入に大きな差が生じたからで、巡業先の地方行政組織としても地元経済活性化のために黙認するケースがあったと考えられる。
結果、正式な横綱免許状を持たないにもかかわらず、綱を締めた錦絵が販売された力士もおり、東京、大阪、京都の本場所を見る機会がない地方在住者は、巡業中の土俵入りや錦絵だけで本物の横綱であると思い込んでしまうことが多かったようだ。
嘉麻市にある不知火光五郎の記念碑と新装された墓石に「天下無双、大横綱」と記されているのは、地元の英雄だけに誤認を正さずあえてそのままにしておくことでその存在感を際立たせたいという住民たちの思いがあったのだろう。
写真が残っておらず、記念碑に描かれたやや漫画風なタッチの立像も他力士の錦絵を拝借したもと言われているため、そこから素顔を想像するのは困難だが、色白の美男だったと語り継がれる。
巡業用に横綱を自称しながらも、長期の離脱がたたって番付では張出小結に下げられた山響改め不知火は、ブランクを感じさせない強さを発揮し、六勝一敗一分の好成績で十四年七月場所(合併相撲)を終えた。
唯一の黒星は全勝の大達に喫したもので、梅ヶ谷に次ぐ第三位の成績だった。しかし、不知火としての本場所の土俵(大阪力士にとっては合併相撲も本場所扱い)はこれが最初で最後となった。
翌十五年二月、東京で相撲を取る決心をした不知火は梅ヶ谷の門下に入り、七月に日本橋で開催された東京、大阪合併相撲にも参加したが、その二日目に急死した。
初日後の宴席では元気だったことから、彼の不可解な死は毒殺と噂された。強すぎるためにライバルから消されたという説が巷に流布されたが、死因は不明のままである。
この頃の東京相撲における最強力士は梅ヶ谷で、それに次ぐのが大関の若島か三役常連の武蔵潟あたりだったことからすると、所詮は三番手以下の不知火を「強すぎる」という理由だけで葬り去ろうというのはどうも辻褄が合わない。しかも梅ヶ谷は同門で本場所での対戦がないため、不知火の存在がその地位を脅かす心配はない。
その一方で、山響、大錦という看板力士の離脱が、当時は東京相撲に勝るとも劣らぬ盛況を呈していた大阪相撲没落の要因の一つであったことは間違いなく、興行上侠客と深い繋がりがあった大阪方による報復と考えられなくもない。しかし侠客がらみであれば、脱退前に脅しをかけるなり他に引き止める手段があったはずだ。したがって、「怪死事件」というゴシップ記事にすることで売り上げを伸ばそうと目論む大衆誌の出版社あたりが話を膨らませたと考えるのが妥当な線ではないだろうか。
天覧相撲における梅ヶ谷-大達のライバル対決が世間の注目を浴び、相撲人気復活の起爆剤となったことを考えると、不知火ほどの力量を持ってすれば東京相撲の人気力士として華やかな土俵人生が待っていた違いない。
とりわけ福岡県民にとっては、梅ヶ谷の横綱土俵入り(横綱推挙は二年後)に不知火が露払いか太刀持ちを務める姿が拝めたかもしれないだけに痛恨の極みだっただろう。
同時期に大関を張った同県人の大錦の写真は現存するのに不知火(山響)の写真は未見である。横綱として
云い伝えられているほどの大物力士で、大錦より知名度が高いのだから、西郷隆盛なみの写真嫌いでもない限りどこかに埋もれているはずである。