第1話 青銅鬼 駿河海 光夫
朝青龍の横綱昇進以来、角界はモンゴル勢に席巻されてきた感があるが、かつて出羽海部屋には“青鬼”と恐れられ、モンゴル相撲の猛者たちを手玉に取った力士がいた。戦後はプロレスラーとしてもお茶の間を湧かせた美男力士、駿河海光夫である。
安芸ノ海、五ツ島の二大関に笠置山、肥州山、出羽湊他三役クラスがごろごろいた出羽海部屋華やかなりし昭和十六~十七年頃、入幕前から「出羽の仁王様」の異名を取り、将来の三役を嘱望された活きのいい二人の若者がいた。一人はいかめしい顔つきと赤銅色の肌から“赤鬼”と綽名された汐ノ海忠夫、もう一人が青白く精悍な風貌が汐ノ海と対照的であることから、いつしか“青鬼”が通り名になった駿河海光夫である。
年齢は汐ノ海が一歳上だが、入門は駿河海の方が早かったこともあって、二人は同級生のように仲が良く、いつも一緒につるんでいる親友の間柄だった。その二人が鬼呼ばわりされたのは、共に稽古の虫で、新弟子たちにとっては鬼のように恐い先輩であったからだ。しかも両名とも筋骨逞しい六尺豊かな大型力士だったため、並ぶと東大寺南大門の仁王像のような迫力があった。
静岡県静岡市(現・駿河区)生まれの杉山光男は、同郷の天龍三郎を慕って昭和十一年に関西相撲協会に入門した。ところが、十二年十二月に協会が財政破綻により解散したため、天龍がかつて所属していた出羽海部屋に引き取ってもらうことになった。移籍後最初の四股名である葵龍は葵の御紋(駿河は徳川家の直轄領だった)と天龍に因んでつけたものだが、若い頃の天龍とほぼ同体格で、力士にしては男前の容貌にしても天龍の後継者にふさわしいものを持っていた。
天龍の方も同郷のよしみというだけでなく、勉強熱心で頭も切れる弟弟子のことを高く評価しており、まさに角界のご意見番お墨付きの大器だった。
経験が買われて幕下付出待遇で東京相撲の土俵を踏んだものの、練習熱心すぎるあまり場所前に怪我をすることが多く、なかなか本来の実力を出し切れなかった。初めての勝ち越しはゲン担ぎに故郷の地名をとって駿河海と改名した昭和十四年夏場所のことだった。
昭和十六年夏場所の番付では汐ノ海に追い抜かれてしまった(汐ノ海が東幕下九枚目、駿河海が同十一枚目)が、これでライバル心に火が点いたのか、夏場所は仲良く七勝一敗の好成績で関取への切符をつかむことができた。ちなみにこの時の幕下優勝者は富士ヶ根部屋のホープ東富士で、赤鬼、青鬼の飲み友達だった。
揃って新十両となった彼らは若手三羽烏として注目を浴び、互いに競い合って相撲人気を盛りたてた。
相撲スタイルは三者三様で、東富士が素早い立ち合いからの怒涛の寄り、汐ノ海は激しい突っ張り、駿河海は長身と長いリーチを生かした投げと吊りを得意とした。
左上手さえ取れば汐ノ海や東富士も踏ん張りきれないほどの投げ技を持つ駿河海だったが、右膝に故障を抱えているため、相撲は受身で積極性に欠けるところが難点だった。
昭和十七年夏の満州巡業に参加した時のこと。日本の傀儡政権である蒙古自治政府の首都張家口に滞在中、地元の蒙古大学相撲部から稽古相手を務めてほしいという依頼があり、駿河海が序二段の出羽錦と三段目の東光山を連れて行ったところ、投げと蹴りのモンゴル相撲のルールとはいえ、後輩たちはモンゴル相撲の力士たちに全く歯が立たず、いいようにあしらわれてしまった。
駿河海は部屋の後輩二人がころころ転がされるのを笑って観ていたが、モンゴル力士たちはこの調子では兄貴分もたいしたことはないと思ったのか、関取にも稽古相手を務めるよう催促してきた。
ところが青鬼はモノが違っていた。モンゴル相撲の猛者連中を次々と投げ飛ばし、二十人ほどが地面に這った後は、もうブルって誰も挑む者がいなくなったという。
モンゴル相撲は土俵がなく、相手を倒さなければ勝負がつかない。そのうえ褌を締めていないため得意の左差しからの投げ技が効果的に使えないというハンデを背負いながら、短時間で二十人抜きしてしまうのだから、つかんで振り回すパワーは桁外れだったということだろう。
当時、駿河海の付き人だった出羽錦は後に三段目と十両で優勝を果たし、第一回殊勲賞に選出される後年の名関脇である。その出羽錦が舌を巻くほど足腰が強いモンゴル相撲の力士が、ルール上許されている足蹴り(ブーツを履いているので蹴られると相当に痛いらしい)を使っても、駿河海の前ではまるで子供扱いだったのだ。
駿河海は吊りも強烈だが、腰を落としたり足を絡めて踏ん張られると、櫓に振って相手の体勢を崩すのを得意とした。時にはそのまま豪快な櫓投げで一気に片をつけることもあった。
櫓投げというのは、相手の太股の内側に入れた膝を蹴上げるようにして片足立ちで吊りながら投げ飛ばす荒技で、上手で投げれば上手櫓、下手で投げれば下手櫓という。この技は腕力というよりむしろ脚力と下半身のバランス、仕掛けるタイミングの三拍子が揃ってなくてはなかなか決まらないため、多彩な技を持った大型力士が少なくなった近年では滅多にお目にかかれなくなった。
この技があれば、褌を締めていないモンゴル力士を投げ飛ばすのも造作なかっただろう。土俵際に追い詰められても櫓気味の打棄りや、ねじり倒すような掬い投げがあり、突っ張りや出足のない力士にとってはやりにくい相手だった。
右膝の調子が良かった昭和十七年春場所は十三勝二敗、続く夏場所も十四勝一敗で連続十両優勝したのは、彼の実力からすれば当然のことだった。しかも夏場所前には、京都、大阪での地方場所も連覇しており、十両では敵なし状態だった。
駿河海が青鬼の本領を発揮すれば、親友二人も気合が入るのがこの三人の面白いところで、春場所の準優勝は十二勝三敗の東富士、夏場所の準優勝は十三勝二敗の汐ノ海だった。
東富士は足を痛めた夏場所に負け越したため一足遅れることになったが、駿河海と汐ノ海は揃って十八年春場所に入幕を果たした。
汐ノ海はここまでただ一人優勝経験がなかったが、準本場所である名古屋場所では十四勝一敗で十両優勝を果たしており、いよいよ赤鬼と青鬼が幕内で大暴れするところが見られると思いきや、駿河海の快進撃はここで頓挫してしまうのである。
五勝二敗の好成績で迎えた十八年春場所八日目、双見山戦で古傷を痛めた駿河海は急に失速。七勝七敗一分とかろうじて負け越しは免れたが、汐ノ海が十二勝三敗、東富士が十両で十四勝一敗(優勝)と奮闘する中で、全く期待外れの成績に終わってしまった。
翌夏場所は怪我による途中休場で十両に陥落し、昭和二十年夏場所に再入幕するまで苦しい土俵が続いた。
右足が踏ん張れなければ腰の入った投げが打てないばかりか、出足が遅いぶん、常に守りの相撲を余儀なくされてしまう。一八六センチ九十八キロの身体は、十両あたりまでは腕力だけで通用しても、身体の出来上がった幕内相手となると、軽量ゆえにおっつけられると、得意の左を取っても身体が起きてしまい、投げ技があまり決まらなくなかった。
突っ張りがあれば三役間違いなしの器と言われながら、左さえ入れば磐石という過信が大成を阻む一因となったともいわれる。
再入幕から二場所連続負け越した駿河海は、二十年秋場所を最後に髷を切り、角界を去った。
廃業後は本名の杉山にちなんだ「寿喜屋」というとんかつ屋を営み、これが結構繁盛していたが、プロレスラーに転向したばかりの旧知の力道山と道でばったり会ったのが運のつき。
練習相手を探していた力道山から頼み込まれてスパーリングパートナーを務めているうちに再び闘争心が掻き立てられ、昭和二十八年にプロレス界に入った。
力士時代に膝を痛めていたので、当初は力道山と芳の里のスパーリングパートナーの他、興行の交渉など裏方的な存在に徹していたが(力道山のボディガードまで請け負っていた)、昭和三十一年に吉村道明を破って初代日本ジュニアヘビー級王座についてからは人気レスラーとなった。
青銅の彫像を思わせるビルドアップされたボディは、マッチョな外国人レスラーにも引けを取らないほど見栄えがし、女性ファンの増加にも一役買っている。
駿河海は力士時代も女性ファンが多かったが、とある巡業中の取り組みで褌がほどけてしまったことがあり、その時以来女性人気が急上昇したそうだ。もちろん褌がほどけた時点で勝負は終わるから(不浄負け)、通常なら力士は股間を隠してそのまましゃがみこむところだが、駿河海は両手で股間を覆ったまま、土俵を駆け下りてきたという。少々のことでは動じない青鬼も、この時ばかりは真赤な顔をして一目散に走り去ったそうだから、いつもの凛々しさから一転して、慌てふためいた姿がかえって女性ファンの母性本能をくすぐったのかもしれない。
また力道山とのタッグで会場を賑わせた東富士のプロレス入りも、親友である駿河海の説得によるところが大きい。おかげで東富士は横綱時代よりも稼ぎが良くなり、力道山と並んで外車を乗り回す身分になったが、膝を痛めている駿河海を毎日稽古場まで送迎するなど、親友に対する心遣いはトップレスラーになっても変わりはなかった。
力士時代同様盛りは短く、三十二年にタイトルを失ってからはリングに立つ機会が減り、三十四年に東富士とともにプロレスを引退した。東富士はまだ第一線で活躍していたが、力道山のワンマン経営に起因する内輪揉めに嫌気が差して、駿河海の後を追ったといわれている。
力士が米寿まで存命するのは極めて稀だが、駿河海は戦後の幕内力士の中では唯一卒寿を迎えることができた。2010年11月24日没、享年90歳。