表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
純愛  作者: 早能 せい
1/1

純愛

 1章  最後の夏と日に焼けた腕

 遥の投げた最後のボールは、ゆっくりとみんなの頭を越えて、スタンドに消えていった。


 これで夏が終わる。


 時間を巻き戻したい気持ちと、やっと普通の女の子に戻れる、そんな気持ちが、悠の中で交差する。

 最後のミーティング。

 自分が何を話したか、誰が何を話したのか、あの夏の日の記憶は、まるで失くしたパズルの様に埋まらないまま。



 三者面談の順番を待っていた瀧本悠たきもとはるかは、隣りで順番を待つ梶原叶大かじわらかなたの方をチラッと見た。

 半袖のワイシャツから出ている梶原の白い腕に比べ、女の自分の方が日に焼けて真っ黒な腕をしている。なんだかとても恥ずかしくなって、悠は梶原から見えないように母に隠れた。


「ちょっと来るのが早かったね。」

 母が悠に言った。

「うん。」

「悠の腕、日に焼けて真っ黒。ちゃんと日焼け止め塗ればいいのに。」

 母は悠の腕を撫でた。

「塗っても汗で取れちゃうの。」

 早く半袖の夏服から、長袖の冬服に変わってほしい。本当は可愛いはずのセーラー服なのに、自分にはどう見ても似合わない。


 小学4年生から始めた野球は、男の子に混じり、日が暮れるまで練習をした。野球を始めたばかりの男の子達は、怖いと言ってキャッチャーのポジションを嫌がった。監督が悠の方を見て、

「瀧本、おまえがやってみるか。」

 そう言った。

「捕手は女房って言うからな。」

 野球をやっていたあの頃の自分は、女の子が特別に扱われる事が嬉しかった。上手くできれば、褒められるし、ミスをしても仕方なかったと許される。たとえ捕手という、女の子とはかけ離れたポジションを守っていても、悩む事など一度もなかった。

 自分が守る位置からは、チームのみんなの顔が見える。試合の時、キャッチャーマスクを取って、チームの皆に気合を入れる自分が好きだった。みんなが自分の声に、木霊するように答える。

 ドロドロになる事や、日に焼けて真っ黒になる事は、野球に打ち込んでいる勲章のように、悠は誇らしく感じていた。


 中学を卒業すると、女子野球チームがある高校に進学した。

 同じ目標を持った仲間と、朝から晩まで野球をして、仲間の顔が誰よりも見える位置を必死で守ってきた自分は、もう全てを出し尽くした気持ちでいた。

 少し前から痛む肩は、これ以上使い続けると、腕が上がらなくなると医者から言われた。

 

 高校最後の夏。

 部活を引退した悠は、もう野球を続けるつもり気持ちなど残っていなかった。

 泥だらけになって練習した毎日など、これからは思い出になるだけでいい。


 野球をやめたら、髪を伸ばそう。

 少しオシャレもしてみたい。

 学校の帰りに寄り道するとか、他愛もない話しをして、普通の女の子らしい時間を過ごしてみたい。


 三者面談の順番を待っていた悠が前を向くと、教室の扉がガラガラと開いた。


 親と出てきた女の子は、確かサッカー部のマネージャーだった女の子だ。同じクラスなのに彼女とは、一度も話した事はない。

 悠の半分くらいしかない肩と、すらっと伸びた足は、制服が良く似合う。


 悠は小さくため息をついた。

 教室に入ろうとする叶大が、そんな悠の方を、ちらっと見た。


 3年生になってすぐ、数人の男子達が、クラスの女子の中で誰がタイプか、放課後の教室で盛り上がっていた。忘れ物を取りにきた悠の事など気にせず、体の線が細く、色白の数人の女子の名前が、次々に挙がっていった。

 突然、叶大が、

「俺はあいつ。」

 そう言って悠を指差した時、そこにいた男子達は一斉に笑った。

「瀧本なんか男よりも男だろう。ピッチャーの子ならまだかわいい顔してるけど、瀧本は完全に男だよ。キャッチャーやって股開いて、ずっとしゃがんでるって、女を捨てると同じだよ。」

 その中の一人が、悠に聞こえる様にそう言った。

 

 別に今更何を言われても動じない。

 高校に入ってから、ずっとそうやって言われ続けていたから。だいたい男が頼りないからだろう。悠は心の中でそう呟いた。

 

 野球を始めてから、勝ち気な自分は、女だからとバカにされないように、練習に明け暮れた。髪も短くしていたせいか、誰も自分の事を女だとは気が付かなくなった。

 中学に入学した頃、男女を分ける窮屈な制服が、とても煩わしく感じた。

 高校に入り、大人の真似事の様な恋愛が周りで始まると、悠の自尊心は、少しずつ空洞になっていった。

 

 叶大が教室から出てきた。


「瀧本は、決まったの?」

 悠にそう聞いた。

「まだ。」


 悠の名前が呼ばれ、母と教室に入る。


「進路は決めていますか?」

 若い男性の担任は悠の成績表を見ていた。

「まだです。」

「お母さん。はっきり言いますけど、あまり成績はよくありません。それでも3年間部活をやってきて、ある程度実績もある子なので、推薦で女子野球のある大学に行く方法もありますよ。」

 担任は母に悠の成績表を見せた。

「今から勉強するって言ってもね。推薦で入れる大学に決めてしまおうよ。」

 母はそう言った。

「野球はもうやりません。先生、これから死ぬ気で勉強するから、試験を受けて入るのは無理ですか?」  

 悠は担任にそう言った。

「厳しいね。」

 担任は小さなため息をついた。

「瀧本さん、もう一度家族で話し合ってみて。それと、部活を引退したんだから、今度の模試を受けてみたら?」

 

 夕食の時。

 中学生の妹の咲良は、バドミントンの大会で昨日から遠征に行っていた。

 母は三者面談での出来事を、父に話して聞かせた。

「どうせおまえには野球しかないんだろう。先生の言う通り、推薦してもらったらどうだ。大学に入れば、就職するまで4年あるんだし、いろいろ考える事もできるだろう。お前が男だったら、本当は良かったのにな。」


 公務員の父は、美人な咲良には甘いのに、悠にはずっと厳しかった。男だと思って期待してつけた名前なのに、生まれたら女の子だった悠を、父は男の子のように接した。

 妹の咲良が周りからチヤホヤされると、愛嬌がないなら、努力して生きていけ、そんな言葉をよく言ってきた。


「咲良は決まったんだろう。」

 父はそう言った。

「決まったよ。あの子は成績でもバドミントンでも、推薦を受ける事ができるから。」

 母はそう言って、父のお茶を入れる。

「悠、おかわりは?」

「いらない。」

「部活が終わってから、あんまり食べなくなったね。ついこの前まで、お父さんより食べてたのに。」

 悠は食器を片付けると、自分の部屋へ行った。


「進路決まった?」

 ピッチャーをしていた野田遥のだはるかから、ラインが来た。

「まだ。」

「遥は?」

「私は名古屋の女子野球チームがある大学に推薦してもらう。」

「野球、続けるんだね。」

「悠、ごめんね。」

「何が?」

「最後の球、悠とサイン通りにすれば良かった。」

「遥が投げたかったボールなんでしょう? 私は何も悔いはないよ。」

「悠とまだ野球を続けたいな。」

「遥はどこへ行っても大丈夫だよ。私はもう、やり尽くしたし。」

「考え直してよ。」

「肩がね、もう限界なの。情けないでしょう。」


 同じ名前の悠と遥は、高校に入ってからすぐに打ち解けた。何も手入れをしない悠に比べ、元々色白な遥は、いつも丁寧に日焼け止めを塗っていた。

 すらっとした遥がマウンドでフォームを゙構えると、とても絵になる。それに比べ、重い防具をつけてしゃがんでいる自分は、女である事が煩わしくさえ感じる。


 月1回の頭髪検査では、瀧本は列に並ばくてもいいぞ、と生徒指導の先生から言われた。

 前髪の長さが長いと注意され、泣いている子の気持ちがぜんぜんわからない。

 

 悠はベッドに入ると、読みかけていた本を開いた。

 野球をしなくなってから、最近はすんなり眠れなくなった。

 

 明日から、勉強しよう。


 悠は本のページを開く。

 好きな人のために殺人を犯してしまった主人公。

 彼女の幸せを願いながら、主人公の彼は生命が尽きる。

 どうせ作り話しだと思うと、少しも涙は出なかった。そんなに愛されたんなら、私なら彼と一緒に死のうと思うのにな。

 次は歴史ものでも借りてこよう。

 悠はそう思って布団にもぐった。


 2章  夕暮れの図書館と残したお弁当

 坂の上にある図書館は、古い本のにおいが立ち込める。

 そこにいる誰もが話しをする事なく、物語の中に自分を置いている。


 悠は適当に本を手に取ると、窓際に座ってそのページを開いた。男勝りのお姫様が、逃げたした将軍に成り代わり自ら男に扮して、攻めてくる敵から自分の国を守っていく、そんな話しだった。

 カッコいいなあ。悠はあっという間に半分まで読み進んだ。


 そう言えば、今日は勉強するためにここにきたんだ。

 本を閉じて机に置くと、鞄の中から問題集を出す。

 最初の問題からわからなくなり、答えを見て書き写した。受験どころか、私はこの1冊の問題集ですら、終る事ができないのかもしれない。

 もっとちゃんと、勉強してくれば良かったな。

 悠が窓の外に目をやると、隣りの救急病院に救急車が停まっている。青い服を着た救急隊員と、半袖の看護師達がストレッチャーを押していく。

 看護師さん達は、病院の中にいるんだもの、日に焼ける事もなく、みんなあんなに真っ白な腕をしているのか。悠はストレッチャーが、病院の中にあっという間に吸い込まれていく様子を、ぼんやり見ていた。

 女の子を品定めしている男子達だって、もしも私が看護師になって、あんなふうにテキパキと働いていたら、あいつは男より男だとか、女を捨てたとか、バカにするような事なんて言えなくなるだろうに。

 悠はたった1問しか解かなかった問題集をしまい、カウンターに行って、読みかけの本を借りた。

 外に出ると、焦げるような太陽が、白い病院の外壁を照らしている。図書館の窓ガラスに反射したその光りは、悠の日に焼けた腕を暖かく包む。


 帰りに本屋に寄った。

 悠が問題集を手にしていると、

「瀧本?」

 梶原が隣りにいた。

「瀧本、受験するの?」

「うん。」

「推薦で大学に行くって聞いてたけど。」

「それ、投手の遥。」

「そっか。」

 梶原は悠の手に持っている問題集を見て、

「医療系に進むの?」

 そう聞いた。

「毎日、土を見てるとね、白いものに憧れるの。」

 悠はそう言った。

「変なやつだな。」

 梶原は笑った。

「じゃあ。」

 悠は問題集をレジに持っていった。


 梶原は悠が手にしていた問題集を探すと、自分も同じ物を買った。

 いつも体育館で練習している自分と、グランドで練習している悠は会う事なんてほとんどない。3年間同じクラスにいたけれど、悠とはほとんど話した事はなかった。


 2つ違いの兄の大輝ひろきが、小学生6年生の時に、4年の女子なのにすごい子がやってきたと、よく父と話していた。違う学校に通っていた悠とは、同じ学年なのに会った事もなかった。

 叶大は兄の試合を応援に行った時、小さな体でキャッチャーマスクを被っている悠を見つけた。外野から内野へ繋がったボールを受け取った悠は、ホームを目指して走ってくるランナーを待ち構え、軽くタッチした。

 こいつ、本当に同じ年なのか?

 ベンチに下がり、マスクから帽子に被り直した悠の頭を、監督はよくやったと撫でていた。にっこり笑った顔から、バットを握って素振りをすると厳しい顔に変わった悠を、叶大は目で追い続けた。

 試合が終わり、迎えにきた家族と帰る悠の肩には、悠の体くらいの大きなカバンが掛かっている。

「悠、また明日な!」

 大輝が声を掛けると、振り向いた悠は笑って手を振った。母と楽しそうに何かを話している横顔は、さっきまで見ていた悠とは別人の様だ。

 偶然だけど、同じ高校になれたのに、結局、何も話せず、このまま卒業してしまうのか。  

 叶大は家に着くと、悠と同じ問題集を開いた。


 

 悠が家の玄関を開けると、家族の楽しそうな声が聞こえる。 遠征から帰ってきた妹が、母と夕食の準備をしていた。

「悠、おかえり。」

「お姉ちゃん、おかえり。」

「ただいま。」 

「お母さん、私さ、」

 悠が言いかけると

「咲良さぁ。シングルもダブルスも優勝だって。だから今日はごちそうにするね。悠も手伝って。」

 母はそう言った。

「わかった。」

 言いかけた言葉を飲み込むと、悠は食べ残したお弁当箱を母に渡し、自分の部屋に走って行った。


 夕食の時。

 妹のバドミントン試合の話しで、父は上機嫌だった。

「中学最後の試合も、いい思い出になったな。」

 父の一言が悠の胸に刺さる。いつもなら、笑っていられる父の話しも、最近はなんだか、自分に針を投げてくるように感じる。

「もういいの?」

 食器を片付ける悠に母はそう言った。

「うん。」

「お弁当も残してたし、具合でも悪い?」

 心配した母の言葉を被せるように

「今までが食べ過ぎだったんだよ。女のくせに。」

 父はそう言った。

「お母さん、ごめん。」

 悠は母に謝った。

「もう練習ないし、明日からもう少し小さいお弁当にしようか。」

「うん。」


 悠は部屋に入ると、さっき買ってきた問題集を開いた。

 もし私が看護師になって、お父さんやあの男子達が入院してきたら、心の中で笑ってやろう。どんなにバカにしてても、病気になったら、みんな弱くなるんだから。悠はそう思い机に向かった。


 眠れなくなるほどの悔しさは、いくつかの問題を解いていった。

 ひとつの数式を覚えると、素直に考えれば、自然に答えが導かれる。最初から用意された答えを求める事は、駆け引きや相手の心を探らなくていい。

 どんなサインを送れば正しいのか、そうやってもがいていた時間よりも、淡々とひとつの答えに導かれる事の方が、思ったよりも辛くない。

 

 空が明るくなり始めた。

 夕暮れの太陽と朝焼けの太陽は、同じ太陽なのに違う顔を見せる。

 机の上で眠ってしまいそうになった悠は、少しだけ布団に入ろうとベッドに向かう。時計を見ると4時半を過ぎていた。大丈夫。あと1時間くらいは、体を横にして眠れる。

  

 いくら、時間があっても足りないな。

 高校生でいるのもあと、8ヶ月。


 もうすぐ最後の夏休みが始まる。


 3章 花火の音と秋の風

 模試の結果を父に見せた。

 短い時間だったけど、勉強してきた成果が少しだけ見えてきた。


「看護師になるのか……。」

 父がそう言った。

「悠はね、元々優しい子なのよ。勉強だって小学校の時はよくできたし、野球をやってなければ、普通に受験だってできる成績だったわよ。これからは女の子らしく生きていってほしいわね。」

 母は父の見ていた模試の結果を、どれどれと覗き込んだ。


「本当に野球を辞めるのか?」

 父は悠を見た。

「うん。」

「野球の推薦で入る大学なら、学費が掛からなくて済むと思ったのにな。」

 父は渋い顔をした。

「奨学金を借りるよ。病院から借りて何年か勤めたら、返さなくていい制度があるから。」

「おまえの希望している学校は、家からずいぶん遠いだろう。卒業したら、ここには戻らないって事か?」

「まだわからない。」

 父は少し考えたあと、

「なんでも勝手に決めて、そういうところが女らしくないんだ。少しは迷って相談してくるとか、弱い部分も見せないと、一生彼氏なんかできないぞ。」

 そう言った。 


 昼休み。

 学校の図書室で古い漫画の本を読んでいた悠のところに、遙が来た。

「悠、何読んでるの?」

「キャンディキャンディ。」

「ずいぶん古い少女漫画だね。」

「この前、叔母さんが亡くなってね、もらったの。」

「悠って前からそうだった?」

「何が?」

「そんな女の子らしい一面を見たのって初めてだよ。だって、少し前まで、野球の話しと食べ物の話しかしてこなかったじゃん。」

 悠はそう言って笑った。

「そうかな。」

 昨夜は遅くまで起きていたから、今日はとても眠い。

「大学、どこに行くか決めたの?」

 遥が聞いてきた。

「うん。看護大に行こうと思って勉強してる。」

「へぇー、なんで?」

「これ。かわいいじゃない、この赤十字のマーク。」

 悠が漫画を指さすと、遥は笑った。

「ねぇ、悠。放課後、ちょっと時間ある?」

「あるよ。」


 放課後。

 遥と悠は教室の窓からグランドを見ていた。

「2年生、まだまだまとまってないね。」

 野球部の練習を見ていた遥はそう言った。

「そうだね。」

 悠はすっぽ抜けたボールを追いかける捕手を目で追っていた。

「やっぱり、扇の要がしっかりしてないとダメだね。」

 遥は言う。

「こうして離れて見たら、捕手はみんなを見ていた様で、実はみんなから見られていたんだね。」

 悠はボールを拾った2年生の子を見てそう言った。

「私は悠しか見えなかったけどね。」

 遥はそう言って、また抜けたボールを追いかけるキャッチャーに、あ~あ、と言った。

「そう言えば、用事って何?」

 悠は遥の方を向いた。

「私、叶大に告白したの。」

 遥ははにかんで、悠にそう言った。

「そうなの!」

 悠は驚いた。

「今日、返事をもらうことになってて……。もし振られたら一人じゃ帰れないから、悠にも一緒にいてもらいたくて。」

 遥は悠の手を握った。

「返事って?」

 遥の顔を覗く。

「もうすぐここにくる。」

「じゃあ、私は隣りのクラスに隠れてるから。」

 悠は吸い込めない空気と吐き出せない空気のせいで、息ができなかった。早くこの場所から逃げ出したい。

「どんな返事だったか、後から悠に言いに行くから、絶対待っててね。」

 遥は振り返った悠にそう言った。

「うん。」


 悠は少し居心地の悪い違うクラスの中で、漫画の続きを読んでいた。相変わらず重たい空気のせいで、心が悲鳴をあげそうだ。

 バレー部のキャプテンの叶大と、女子野球部でピッチャーを勉める悠は、同じ大学に推薦を受ける予定だと、嬉しそうに遥から聞いた。

 

 漫画を読み終わっても、遥は呼びに来なかった。

 悠は2人がいるはずのクラスを覗くと、そこにはもう誰もいなかった。


 きっとうまくいったんだ。


 悠は持て余した空気を捨ててやろうと窓を開けたけれど、冷たい風が肩を抜けても、穏やかな気持ちになれず、窓を閉め、一人で教室を後にした。

 

 なんだかまっすぐ家に帰るのが嫌で、悠は図書館へ向かった。

 

 図書館へ着くと、いつもの窓際の席で問題集を広げた。

 病院の小さな玄関から、数人の女の人達が出てくる。

 みんな帰るんだ。

 悠は問題集に顔を近づける。

 いろんな気持ちが溢れてきて、なかなか文章が頭に入ってこない。

 少しずつ暗くなり始めた空は、そんな悠の心の底を浮き上がらせるようだ。

 

 悠、ありがとう。

 叶大と付き合うことになったよ。


 遥からラインがきた。

 静まり返った図書館に聞こえるラインの音に、隣り人がチラッと冷たい目を向けた。

  

 遥が羨ましい。

 ほしいものが簡単に手に入るなんて、神様は不公平だ。

 私はただ、遥の球を一生懸命に受けてきて、納得のいかないあの日の事も、自分の中に閉じ込めて生きているのに。

  

 おめでとう、よかったね。

 悠はラインを返した。


 夏休み。


 去年までは部活でほとんど学校へ行っていたけれど、今年はずっと家にいる。

 両親も仕事へ行き、妹は部活を引退しても、地元のクラブチームで朝から練習にいっているので、家には悠が1人で残っていた。

   好きなように起きて、勉強をしたり、ゴロゴロしていると、あっという間に1日は過ぎた。

 両親がいる土日は、図書館へ行って勉強していたので、終わらないと思っていた問題集も、あと数ページまでになっていた。 


 この頃、伸びてきた髪が邪魔になり、やっぱり切ってしまおうか何度も考えていた。


 夕食の時。

 お盆休みには母の実家の新潟に行こうと父が言った。

 悠は勉強があるから行かないと父に言うと、父はそれ以上、悠と話さなかった。


 いつの頃から、一人でいる時間のほうが居心地がいい。  


 家族が旅行に出掛けた日。

 一人残った家の中で、悠はコンビニから買ってきたシュークリームを食べていた。

 もっとたくさん食べれると思ったのに、家にいるだけの1日は、たいしておなかが空かなかった。


 食器を片付けるからとか、お風呂に早く入るように言う母は今日はいない。

 ベッドの上でお菓子を食べながら、参考書を開いた。


 今日は喉が痛む。

 少し眠ってしまったせいか、参考書がベッドの下に落ちた。


 悠は花火の音で目が覚める。

 少し窓を開けて外を見ると、高く上がった花火の端が見えた。


 花火を見るなんてなんて何年ぶりだろう。

 

 夜空に上がる花火よりも、ゆっくり消えていく白い煙を見ていた。

 やがてわからなくなる花火のあとの様に、あの日の記憶も消してくれたらいいのに。

 

 4章 学校祭とアイスクリーム

 夏休みが明けると、学校祭の準備で忙しくなった。高校最後の学校祭は、去年とは少し違う雰囲気だ。

 冷めた事を少しも言えない空気に、悠はとにかく早く終わってほしいと考えるようになった。

 なるべく目立たないようにクラス発表の衣装係になった。

 いつも図書館へ寄っている時間が、教室での作業に変わった。

「悠って見た目によらず、けっこう器用なんだね。」

 一緒に仮装の衣装を作っていたクラスの女子が言った。

「そんな事ないよ。裁縫は苦手。」

「えっ、上手だよ。だから私のもお願い。」

 その子は悠に作りかけの衣装を渡して、どこかへ行ってしまった。

「やられたね。」

 悠の隣りいた冴木唯さえきゆいがそう言った。

 悠の前に置かれた衣装についていた針を針刺しに戻すと、

「去年もそう。男子には私が作るからって言って人に押し付けて、出来上がったらそれを自分がやった様に持って行くの。去年、それでけっこうモメてね。ユキノ、今年は悠に押し付けたんだ。」

 悠はまだ手を付けられない数枚の衣装を、黙って見つめた。

「悠は文化祭って、初めてでしょう?」

「そうだね。この時期はずっと試合だったから。」

「どう? やっぱりこういう行事って苦手だって思う?」

「迷惑かけないようにしないと、そればっかり考えてる。」

 唯は手がつかずに残された衣装を見た。

「大丈夫。土日に頑張ったらいいところ終わると思う。今日はうちにおいでよ。」

「いいの?」

「いいよ。」

 初めて女の子らしい時間を過ごす事に、悠は自然と体が浮いてくる。

「帰りにコンビニでお菓子買っていこうよ。」

 唯がそう言った。

「そうだね。」


 悠と唯が持ち帰る衣装を紙袋に詰めるために畳んでいると、叶大がやってきた。

「瀧本、俺の分も作ってよ。」

 悠はまだ、裁断もされていない布を叶大から渡された。

「今から?」

 悠は唯の顔を見た。

「叶大のは、ユキノがやるって持ってたはずだけど。」

 唯が言った。

「今年は瀧本が作ってるって聞いたから、頼もうと思って。」

 叶大は悠の顔を見た。

 ため息をついた唯は、

「悠はキャパオーバーだよ。ユキノに頼んだら?」

 そう言って、布を叶大に返した。

「同じクラスだろう。」

「梶原、あんたみたいなでっかいやつの衣装なんか、みんな作りたくないよ。」

 唯はそう言って、また作りかけの衣装を畳み始めた。

「遥に頼んだら?」

 悠は叶大にそう言った。

「そうだよ、梶原は隣りのクラスの遥と付き合っているんでしょう?」

 唯が言った。

「それとこれのは別の話しだろう。」

「いいじゃん。それに彼女の作った衣装を着てあげた方が、嬉しいだろうに。」

 唯は悠が言いたい事を、梶原にみんな言ってくれた。

「瀧本、もし作ってくれるなら、石尾のサインボールあげるよ。」

「石尾って、ヤクルトの?」

「そう。」

「なんで持ってるの?」

「うちの兄ちゃん、この前、手に入れたんだ。」

 悠が迷っているのを見て、

「そういうの取り引きするなんて卑怯だよ。」

 唯は笑って叶大から布を受け取った。

「学祭の時、私にも焼きそば奢ってね。ねえ、サイズ測るから、そこに座って。」

 唯は悠にメジャーを渡した。

 叶大は椅子に座ると、ほらっと両手を開いた。

 悠は叶大と距離が近くなったせいか、少し鼓動が速くなる。

 叶大の顔をチラッと見ると、

「瀧本ってこんなに小さかったのか?」

 叶大が言った。

 悠がびっくりしてよろつくと、叶大は悠の肩を両手で支えた。

「大丈夫か?」

「ごめん、メジャーの先、見失った。」

 悠が謝ると、

「瀧本、本当にキャッチャーやってたのかよ。」

 叶大はそう言って笑った。 


 家に着いて、母に唯の家に泊まるからと言った悠は、着替えを取りに部屋に行った。

 一緒について来た唯は、悠の部屋にあった漫画を手に取った。

「悠、この漫画好きなの?」

「うん。」

「私も好きなんだ、この漫画。よく全巻手に入ったね。」

「亡くなった叔母さんが持ってたの。」

 唯はページをパラパラとめくった。

「キャンディ、初恋の人とは結ばれなかったんだよね。アンソニーは初恋泥棒。」

 悠はそう言った。

「そう、それがまたいいの。ねえ、借りてもいい?」


 悠の家に行った2人は、遅くまで衣装を作っていた。

 午前2時を過ぎたところで、悠のあくびが止まらなくなった。

「あとは明日にしようか。」

 唯が言った。

「間に合うかな?」

「ギリギリかもね。」

 2人はあと少しなのにね、そんな事を言いながら、結局30分後には床で眠りに落ちた。

 午前2時。

「悠、ちゃんと布団で寝ようか。」

 唯は悠を起こした。悠は目をこすると、

「1回寝て、続きは起きてからやろう。」  

 唯に言われた通り、布団にもぐった。

 

 朝7時。 

 唯の携帯のアラームがなる。

 2人は布団の中で大きく伸びた。

「おはよう。なんか体痛いわ。」  

 唯が言った。

「おはよう。私はけっこうぐっすり寝てからスッキリしてる。」


 居間に降りて行くと、唯の弟と、唯の母が朝ごはんを食べていた。

「おはよう。2人の分も用意できてるよ。」

 唯の母がそう言った。

「お母さん、今日は仕事?」

「そうよ。悪いけど、お昼は適当に食べててくれる?」

「光一は?」

「光一には、お弁当作ったから。今日は練習試合があるみたいなの。」

 悠は唯の弟の日に焼けた顔を見て、なんだかとても懐かしくなった。

「弟さん、何をやってるの?」

「悠と同じ野球だよ。」

 光一は不思議そうに悠の顔を見た。

「この人も野球やってたの?」 

「そうだよ。補欠のあんたと違って、ずっとレギュラー。」

 唯が弟に言った。

「ねぇ、どこ守ってたの?」

 光一が悠に聞く。

「キャッチャーで5番。」

 悠の代わりに唯が答えた。

「唯、詳しいね。」

「美術室からはグランドがよく見えるの。」

 唯は悠のコップに牛乳を注いだ。

「光一、水筒ここに置いておくね。お母さん、もう行くから。試合、応援に行けなくてごめんね。唯、後片付けよろしくね。」

 唯の母が仕事に言った。

「姉ちゃん、俺ももう行くわ。」  

 光一は水筒をカバンにつめた。

「光一、頑張ってね。」

「光一くん、頑張って。」

 悠が光一に声を掛けると、日に焼けた顔から白い歯がキリッと見えた。


 食器を洗いながら、悠が話しかける。

「唯のお母さんは何を゙してるの?」

「うちの親は介護ペルパーやってるの。夜はスナックで働いてる。うち、母子家庭だから、お母さんは休む暇がないの。」

「そうなんだ。」

「悠の所は?」

「父は市役所、母はスーパーでパートしてる。」

「兄弟は?」

「優秀な妹が1人。」

「悠だって野球で頑張ってたじゃん。」

「妹はキレイで勉強もできるの。バドミントンでもいい成績だし、家族の自慢。」

「悠も髪伸びて、印象が変わったよ。」

「そう? 私って正真正銘の高校球児だもん。」 

 唯は笑った。

「本当だね。ドラフトの時に、みんな髪伸びてるから、あれ、こんな人だった? って、そんな感じ。悠も同じか。野球部の人って、帽子も被ってないと別人に見える。」

「そう! そうなの。女子なんて特にそう。ユニフォーム脱いで違う学校の子から話し掛けられても、ぜんぜんわからない。私なんてマスクしてるから、余計にそうだったんだろうね。」

「悠、もったいないな、野球辞めてしまうの。マスクを上に上げて皆に声掛ける時、めっちゃかっこよくてさ。打席に入った時の構えとかもすごく絵になるのに。」

「毎年マスクのとおりに日に焼けるのよ。本当はずっと恥ずかしかった。」

「ねえ、スカートって制服以外ではいた事ある?」

「ううん。いつもTシャツと短パン。」

 唯はゲラゲラと笑う。悠も釣られて声に出して笑った。

「悠はそれが一番似合う。」

「私、化粧なんてする日が来るのかなぁ?」


 身支度を済ませ、衣装を縫い始めた2人。

「あと、どれくらい?」

「私はあと5枚かな。それと梶原くんの。」

「私はあと3枚。やっぱり家のミシン使うと早いわ。悠、叶大の方、先にやってあげて。」

「だって切る所からだよ。唯、一緒にやって。」

「わかった。切ったらあとはできるね。」

「うん。」

「叶大ってさ、背が高くて優しいし、女子なら皆一度は好きになるじゃん。」

「そう? あんまり話した事ないけど。」

「あのピッチャーの子と付き合うまでは、告白しても、みんな振られたみたいだね。」

「そうだったんだ。」

「ねえ、悠は好きな人とかいるの?」

「私が恋とかすると思う?」

「みんな普通にするでしょう。」

「私は男子よりも男だって言われてるんだから。」

 唯は笑った。

「ちょっと、笑いすぎ。」 

「ねえ、悠。私達の王子様、どこにいるんだろうね。」

「アンソニー?」

「それは初恋の人ね。」

「唯はいないの?」

「私はひとつ下の石山くん。同じ美術部なの。」

「どんな人だろう、下の学年なんて、ぜんぜんわからない。」

「あんまり、目立つ子じゃないよ。いつも静かに絵を描いてるから。」

「唯はその人のどこが好きなの?」

「絵を描く前の一瞬、かな。」

「何それ。」

「悠にはわからないよ。」

「今度どの人か教えて。」

「いいよ。じゃあ、学祭の時に教えてあげる。」


 学校祭の当日。


 あんなに頑張って衣装を作ったのに、悠は熱を出して学校祭を休んだ。2人が作った衣装を着たクラスのパフォーマンスは、最優秀賞をとったらしい。唯から次々にくるラインも、悠は体が辛くて見ることができない。

 繰り返し上がってくる熱。

 薬が効いてほんの少し体が軽くなる少しの間、そのラインを見たけれど、唯の家で遅くまで衣装を作った事が夢だったのか、現実だったのかわからなくなるくらい、体が辛かった。


 あっ、梶原くん。

 笑顔の叶大の写メがぼんやり見えた。 

 よかった、着てくれて。

 

 悠は水を飲もうとして、手を滑らせた。

 母が新しいアイスノンを持ってきた。

「お母さん、水、こぼしちゃった。」

「取り替えようか、そのTシャツ。」

「いい。どうせ汗かくし。」

「まだ、熱下がらない?」

「今、37.8℃」

「さっきより少し下がったけど、まだ熱高いね。」

 悠はぬるくなったアイスノンを母に渡した。

 新しいアイスノンは、ひんやりとして気持ちがいい。

「せっかくの学校祭だったのに、残念だったね。」

「仕方ないよ。」

「昨日、お父さんが悠に食べさせろって鰻買ってきたんだよ。」

「やだ、食べられるわけないじゃない。」

「お父さん、悠の事、心配してるのよ。」

「咲良ばっかり褒めるくせに。」

「野球辞めるって聞いて、ショックだったみたいよ。」

「勝手だね。いつも女のくせにってバカにしてたのに。」

「悠はお腹にいた時、お医者さんに男の子だと言われていたから、絶対野球やらせたいって、お父さんすごく楽しみにしてたのよ。きっかけは違ったけど、こうしてお父さんの夢は叶えてあげたじゃない。本当は自慢の子なのよ。」

「お母さん、あの時、ピアノを選んでいたらなぁ。もっと女の子らしくなってたのに。」

「何言ってんの悠、ピアノの先生もここまで拒絶させると思わなかったって、匙投げてたよ。」

 悠は少し笑った。

「新しい水、持ってくるね。やっぱり新しいTシャツに着替えなさい。」

「お母さん、アイス買ってきて。」

「わかった、お父さんに頼むから。」

「お父さんに頼んだら、小豆のやつ買ってくるでしょう。」

「いちごにしてもらう?」

「それがいい。」


 また熱が上がってきた悠は、ベッドの中で何度も寝返りを打っていた。

「悠、アイス食べるか?」

 父と咲良が部屋に入ってきた。

「伝染るから、来ないほうがいいよ。」

 悠はうずくまったまま返事をした。

「ここに置いておくからな。」

 父は悠の机に、アイスを置いていった。

「うん。ありがとう。」


 行きたかったな、最後の学校祭だったのに。

 少ししてから、悠は起き上がって、溶けかけたアイスを手に取り、蓋を開ける。

「これじゃないのに。」

 そう言って柔らかくなつたバニラのアイスを、スプーンですくって口に入れた。


 5章 ハルカとハルカ

 学校祭が終わり、いよいよ受験一色になってきた頃。

 悠は唯と図書室で勉強していた。


 2人とも赤十字のマークに憧れて、同じ看護大学を目指して勉強していた。

 唯は東京の赤十字大学を希望し、悠は秋田にある赤十字大学を目指していた。

「悠が秋田に行くなら私もそっちに変更しようかな?」

 唯がそう言った。

「唯のお母さんは許してくれるの?」

「無理だよ。だからさ、悠も頑張ろうよ。東京の同じ大学に入って、楽しくやろう。」

「私は家から離れたいの。それに、野球やってた事も隠くしたいし。」

「どうして?」

「女子を取り戻すため。」

 その言葉に唯は笑った。

「さすがにTシャツと短パンなら、学校に行けないよね。ワンピースとか着てる悠を見たら、びっくりしちゃうかも。」

「でしょう? だから、私の事を知らない人しかいない所へ行きたいの。」

「学校へ入ったら、野球をやっていた事を隠すの?」

「そうだね、隠したい。」

「なんかもったいないねぇ。頼りになるキャッチャーの悠も、すごくかっこよかったのに。」

「ねえ、唯なら、医大の看護学部とかでも入れるでしょう? 有名な看護大にも入れるだろうし。」

「だって、それなら赤十字のマークがついてないじゃん。」

「そこまで、キャンディキャンディにハマってるんだ。」

「それは悠もそうでしょう?」

「今の看護師さんってさ、ナースキャップはしないよね。もう少し早く産まれてたら、頭に赤十字のマークをつけて働けたのに。」

 悠は唯にそう言った。

「あれは、あるんでしょう? なんていうの、あの、ろうそくを持つ儀式みたいな。」  

 唯が言った。

「どうだろうね。看護師だって、だんだん慈愛とか博愛の精神じゃなくて、ちゃんとした技術者だってなってきたから、宗教掛かった事はやらないって学校も増えてきているらしいよ。それにさぁ、唯、あれは赤十字じゃなくて、ナイチンゲールでしょう。」

「そっか。ランプを持ってる像の人の事。有名だよね一生看護に捧げますって、そういう言葉も。」

「唯は夜中に一人で見回りって平気? 昔はろうそくだったなら、途中で消えたら怖かっただろうね。 」

「夜の病院の中って怖いよね。私、できるかな。」 

 唯がそう言った。

 

 学校を出て、唯と別れて一人で家まで歩いていると、

「瀧本!」

 叶大が悠を追ってくる。

「おまえ、歩くの速いな。」

 叶大は息を切らしていた。

「そう?」

「学校からついてきたけど、冴木がいたから、一人になるまでずっと待ってたよ。約束しただろう。ほら。」

 叶大は悠にボールを渡した。

「これ、石尾投手の?」

「そう。兄ちゃんにたのんで、やっと手に入れたんだ。」

「そんな、悪いよ。お兄さんのものでしょう、これ。」

「いいよ。約束だから。それに兄ちゃんは、悠と同じクラブチームで野球に入ってて、悠の事、よく覚えてるみたいだよ。」

「そうなの?」

 悠は記憶を巻き戻す。

「そうだ。ファーストの梶原くんって、いた。」  

 悠は梶原の顔を見た。目の大きな兄とは違い、目の前に立つ弟の梶原は、切れ長の目で涼し気な面立ちをしている。

「兄ちゃん、監督からキャッチャーやるように言われて逃げ回ってたら、悠が入ってきてくれて、本当に助かったって言ってた。」

「そう! あの時、キャッチャーのポジションから、みんな逃げててね。」

「瀧本はなんで野球始めたの?」

「ピアノの練習に行きたくなかったから、野球を選んだの。」

「本当に?」

「そう。私、ピアノの先生が苦手でね。ピアノを弾く前にリズムの練習とか言って、一緒に手を叩いて、間違えるとやり直し。ぜんぜんピアノ弾かないで帰る日もあって、家でお母さんに呆れられるし、もう嫌になってて。」

「だから、野球って……。」

「ボールがバットにあたるカーンって音が好きなの。今でもそう。私はそれを一番近くで聞いてたの。バットが風を切る音も。」

 悠は叶大の隣りを歩きながら、少し長くなった髪を耳にかけた。

「瀧本、髪伸びたな。」

 叶大が髪を触ろうとしたので、悠は少し先を歩いた。

「遥とは大学の試験は一緒なの?」

「違うよ。俺、推薦で行かないから。」

「どうして?」

「俺はバレーの選手の中じゃ、背が小さいんだよ。本気でプロを目指してる人達とは、一緒にできない。」

「そう。じゃあ、どこの大学を目指してるの?」

「俺は秋田の大学に行きたいと思ってる。顕微鏡を覗く仕事がやってみたいんだ。」

「それって、どんな仕事?」

「臨床検査技師っていうのやつ。」

「へぇー。大きな梶原くんに合う顕微鏡なんかあるの?」

「身長と顕微鏡は関係ないだろう。」

「そうだね。」

 叶大は悠を見て笑った。

「遥はなんて?」

「あんまり、よく思ってない。」

「そっか。バレーしてる梶原くんが好きなんだろうしね。」

「そう言えば、瀧本、おまえもハルカって名前だったよな。」

「そうだよ。」

「手紙くれたのって、おまえかと思ってさ。」

 悠は戸惑った。

「何言ってんの。」

 どうして、今頃そんな事……。

「俺、うまく言えないと思って返事を書いてきたんだよ。野田はそれを見て、勘違いしてさ。」  

 それ以上の事は聞きたくない。

「梶原くん、私の家そこだから。ボールありがとう。」

 悠は梶原に手を振ると、走って家に帰った。


 6章 受験と雪の日

 秋田へ向う新幹線の中で、悠は参考書を開いた。


 唯は少し前に受験を終えて、合格したと連絡がきた。成績が良かったので、特待生での入学が決まり、唯の母は、すごくホッとしていた様だ。

 遥は秋に推薦が決まり、すでに大学の練習に参加していると聞いた。

 

 新幹線の車内は、自分と同じような受験生らしい男性が、さっきから参考書を開いている。

 さっきまで晴れていた景色は、秋田に近づくにつれ、雪に変わってきた。灰色に見える空は、悠の心を不安にさせる。一人で泣いていれば、どこからともなく助けに来てくれる様な、そんな王子様が現れるといいのに。

 悠は参考書をカバンにしまうと、漫画を取り出して読み始めた。

 いつの間にか眠ってしまった悠は、終点を告げる音楽に慌てて目を覚ました。窓の外には、大粒の雪が見える。

 今日は大学まで行って、明日の試験の場所を確かめようとしたのに、この雪なら無理に行くのはやめておこう。そう思い、歩いて宿へ向かった。

 

 携帯を見ながら、宿まで歩いてるとさっきから自分と同じように携帯を見て後をつけてくる男性がいる。

 上着が雪で真っ白になった頃、やっと宿に着いて、チェックインの手続きをした。悠の後を歩いてきた男性が隣りに並ぶ。

 エレベーターに乗ると、その男性も乗ってきた。

「何階?」

 行き先ボタンを押し忘れていた悠に、男性は聞いた。悠は12のボタンを黙って押した。男性は8のボタンを押す。雪で濡れている上着のせいか、エレベーターの中はひんやりと冷たい空気が漂う。


 次の日。

 試験が終わり、悠は新幹線乗り場へ急いでいた。昨日の積もった雪のせいで、バスが1時間遅れた。 

 間に合うかな。これを逃したら、今日中に家に着かないかも。頭の中のものを全部出し切ったから、少しでも早く横になりたいのに。悠は停まっている新幹線になんとか飛び乗った。

 冬なのに汗をかいて、自分の座席を探していると、自分が乗るはずだった窓側の席に、昨日宿で会った男性が座っていた。悠が切符を持って立っているのに気が付いた男性は、

「ごめん、こっちだね。」

 そう言って立ち上がった。

「いいですよ。私は通路側でも。」

「そう?」

 男性はそう言って座り、また窓を見ていた。コートを脱ぎ膝に乗せると、肩がとても軽くなった。

 野球をしてた時の事を思い出す。プロテクターを取ってベンチに座ると、体が軽くなって、少しだけ気持ちが切れる。仲間の声で、また勝負している自分に戻ると、少しだけ水を飲んで、休む暇もなく今度はバットを握る。

 悠はカバンの中から飲みかけのお茶を取り出して飲んだ。ぬるくなったお茶は、喉の渇きを潤すどころか、口の中にただ苦い味を残す。時間があったら、冷たいお茶を買ってこれたのに。 隣りの男性が窓に置いている汗をかいてお茶が羨ましい。 

「席、代わってくれたから、これあげるよ。」

 男性は悠に、窓にあったお茶を出した。

「いいです。私も持ってるから。」

 悠が断ると、

「冷たいうちに飲みなよ。」

 男性は悠の手にペットボトルを置いた。

「どうもありがとう。」

 悠はさっそく蓋を開けてそれを飲んだ。緊張して、口の中には少ししかお茶が入ってこなかった。もうひとくちお茶を飲むと、

「受験生?」

 男性が聞いていた。

「そう。」

 悠はペットボトルの蓋を閉めながら答えた。

「どこの大学を受けたの?」

「赤十字。」

「へぇ~。看護の。」

「そう。あなたは?」

「俺は医大。」

「すごい! 医者になるの?」

「ううん。理学療法士。」

「リハビリの?」

「そう。社会人を辞めて、そっちの道に進もうかと思って。」

「今、何歳ですか?」

「24。大学を卒業して、就職してすぐに怪我して、ずっと続けていた野球を辞めたんだ。リハビリに通ってる時にさ、本当は歩くことだって、すごく大変な事だって思ってさ。」

「そうなんだ。」

「君は高校生なんでしょう? まだ18か。合格発表はいつ?」

「来週の金曜日。」

「じゃあ、俺と一緒だね。合格したら、なんか奢ってあげるよ。名前、なんて言うの?」

「瀧本悠。」

「俺は青田尚あおたなお

「野球って、どこを守ってたの?」

「ショート。」

「本当? めっちゃめちゃカッコいい。」

 悠は野球の話しができると思い、嬉しくなった。

「そんな事ないよ。」

 青田の方に体を向き直すと、

「私、ショートのポジションが一番の憧れ。」

 さっきまで曇っていた悠の目が、急にキラキラしている。青田は少し驚いたが、自分も悠の方に体を向けた。

「詳しいね。野球部のマネージャーでもしてた?」

 悠は少し考えて、そうだと答えた。

「足、速かったんでしょう。ボールが抜けないように追いついて、体の向きをかえて投げる時って、いいなぁって思う。」

 悠はそう言って青田の顔を見た。この人には、私がマネージャーに見えたんだ。男より男みたいだと言って笑ったクラスの男子の事が、霞んで見える。

「球が抜けたら点数が入るからね、必死で喰らいつかないと。ショートがカッコよく見えるのは、きっとそんな球を取って、投げるスピードが速いからだろう。」

 捕手はポジションからあまり動く事がなかった。全身に青痰ができても、とにかくボールを受け止めた。風の様にプレーするショートというポジションが、いつも羨ましく見えていた。

「野球はもうやらないの?」

 悠は男性に聞いた。

「靭帯を切ったからね。」

「そうなんだ。」

「好きな事が続けられなくなるって、けっこう辛かったよ。」

 悠は捕手というポジションが少し恥ずかしくなって野球を辞めた。女のくせとか、男みたいだとか言われた事で、あっさり好きなものを手放した。もし自分が遥みたいな絵になる投手だったら、風の様にプレーするショートのポジションだったら、今でも野球を続けていたのだろうか。

「野球はやめたけど、こうしてまたやりたい事が見つかったし。」

 青田はそう言うと、窓に置いてあったもう1本のお茶の蓋を開け、ひとくち飲んだ。

「窓が冷えてるから、すごい冷たくなってる。」

 そう言って笑った。

「試験、疲れたよね。ずっと打席に立ち続けたみたいだった。」

 青田は悠にもたれ掛かった。

「合格できるといいなぁ。この1年、ずっと勉強してたから。」

 自分も飲みかけたお茶を飲みたかったけれど、青田が寄り掛かっているせいで、腕を動かす事ができない。どうしようもなくなった悠は、思い切って座り直す。

「あっ、ごめん。疲れてるのはお互い様だったね。」

 尚は窓にもたれて目を閉じた。


 7章 水色のワンピースと手のひらのマメ

 合格した事を学校に伝えに行くと、玄関で叶大と会った。

「瀧本、大学決まったのか?」

「うん。梶原くんは?」

「俺も決まった。」

「どこに行くの?」

「名古屋の大学に行くことにしたんだよ。推薦じゃなくて、ちゃんと試験で入った。」

「名古屋なら、遥と一緒で、よかったね。同じ大学なの?」

「違うよ。別の学校。秋田はダメだったんだ。せっかく近くで暮らせると思ったのに……。」

 秋田と聞いて、悠は話しをはぐらかした。

「臨床検査技師って言ってたっけ?」

「そうだよ。」

「瀧本はやっぱり秋田に行くのかよ。」

「うん。」

「こっちになかなか戻って来れないだろう?」

「そうだね。」

「今日、これからご飯でも食べに行かないか? 一緒に合格祝いしようよ。」

「そういうのは、遥と行けばいいでしょう?」

「あいつはずっと練習に行ってるからいないよ。」

「そうだったね。」

「瀧本、あのさ、」

 叶大が何かを言いかけた時、バレー部の後輩が集まってきた。

 よかった。

 叶大とこれ以上話していたら、遥を裏切る事になる。

「先輩、おめでとうございます。」 

 あっと言う間に後輩が叶大を囲んだので、悠はその場を離れた。グランドに行こうとしたけれど、悠の携帯がなった。

「もしもし、悠ちゃん?」

「青田さん。」

「どうだったの、合格?」

「合格。青田さんは?」

「俺も合格したよ。」

「おめでとう。」

「悠ちゃんもおめでとう。」

「ねぇ、明日は空いてる?」

「うん。」

「じゃあ、映画見たあと、ご飯でも食べに行こうよ。」

「映画?」

「そう。」

「私、映画館って初めてかも。」

「そうなの?」

「どこか行きたい所があるんなら、映画じゃなくてもいいけど。」

「ううん。楽しみ。」

 悠は冷たい手を擦り合わせながら、家まで歩いてると、叶大が追いかけてきた。

「瀧本、歩くの速いな。」

「そう?」

「髪、ずいぶん伸びたな。」

「そうだね。今、おだんごにする練習をしてるの。」

「瀧本、すっかり変わったな。」

「いいでしょう、別に。」

 悠はそう言って笑った。

「明日って、用事ある?」

「明日は友達と映画に行くの。」

「映画?」

「そう。」

「瀧本から、そんな言葉聞くと思わなかった。冴木と行くのか?」

「ううん。受験の時にお友達になった人と。」

「ふ~ん。」

「卒業式の後の謝恩会は行くのか?」

「行かない。次の日は引っ越しするから、朝早いの。」

「そっか。なんか淋しいな。」

「みんなこれから新しい生活が始まるじゃない。淋しい気持ちなんて、すぐに忘れるよ。」

「相変わらず、冷めてるよな。」

「感情的になる事って、恥ずかしいからね。」

「さすがまとめ役だわ。なぁ、本当にもう野球やらないのか?」

「うん。」

「瀧本が打席で構える時、かっこよかったのにな。」

「嘘。梶原くんは体育館で練習していたから見てなかったでしょう。それに、私はバントの指示が多かったから、そんなに構えばっかりだよ。」

「朝練習してる時は、よく窓から見てたんだ。」

 梶原くん、これから遥だけを見ていてほしい。教室で男子達が私の事を笑っていたでしょう。梶原くんも一緒になって、あいつは男より男みたいだと、これからも笑ってよ。悠はそう思っていた。

「瀧本、どうかしたか?」

「えっ? そうだ、梶原くんはもうバレーボールやらないの?」

「楽しみ程度にやるよ。」

「やり始めたら、やっぱり勝ちたいって思うくせに。」

「それは、瀧本も一緒だろう。」

「私はもう、辞めたから。」

 そう、高校の頃の思い出なんて、もう捨ててしまうから。

「そんな事言わないで、今度、俺の投げる球を受けてみろよ。」

「やだ。」

 悠は笑った。

「映画、観に行くのって、こっちの人?」

「……うん。」

「そっか。」

「梶原くんも、遥を誘えばいいじゃない。」

「なぁ、俺、どうやって女の子と付き合ったらいいかわからなくってさ。」

「そんな事、私に聞かないでよ。」

「瀧本ならさ、こうやって普通に話せるけど……。」

「私と梶原くんは、同じ運動部の仲間。遥と話せないのは、好きだから、きっと緊張するんでしょう。私に相談なんてしないでよ。女子の好きな漫画でも読んで考えたら?」

 悠はそう言った。

「瀧本がよく読んでたあの少女漫画か?」

「他にいろいろあるでしょう。」

「そんなの俺が読むと思うか?」

「じゃあ、動画でも見たら?」

 やっと家が見えた。

「ここだから。」

 悠はそう言って手を振った。本当は隣りに並ぶだけで緊張しているのに、叶大はそんな事、思わないんだ。私の存在って、なんだろうな。悠はそう思っていた。


 次の日。

 

 妹の咲良から服を借りた悠は、待ち合わせの場所に急いでいた。どうやって寝たのか、寝癖がなかなか直らず、結局シャワーを浴びた。野球をやっていた頃は短かった髪も、今は肩につくまで伸びていた。ドライヤーなんてかけた事もなかったせいか、鏡の前で混乱していると、妹の咲良がヘアアイロンで髪を整えてくれた。

「お姉ちゃん、デート?」

「違うよ。」

「服貸そうか? 短パンとTシャツなら恥ずかしいよ。」

「ほかにもちゃんと持ってるよ。」

「いいから、こっちきて。」

 咲良は水色のワンピースを悠に渡した。

「こんなの、着れないよ。」

「お姉ちゃん、リップつけてあげる。」

「咲良、今日、練習は?」

「今日は夜。今ね、ミックスもやってて、大人の人とも組んでるの。お姉ちゃんもバドミントンをやってみたら?」

「咲良はいいなぁ。」

「私はお姉ちゃんみたいに、みんなで円陣組むのが羨ましかったよ。バドミントンはずっと自分だけだったからね。」

「ねぇ、お父さんとお母さんの事、お願いね。」

「お姉ちゃん、一人暮らしできていいなあ。」

「咲良、今度一人で遊びおいで。」

「うん。」


 待ち合わせの場所に着くと、尚が待っていた。

「この前と違う人かと思った。」

 尚は悠の顔を覗き込む。

「青田さん、合格おめでとう。」

 悠は尚の目を見てそう言った。

「悠ちゃんも、良かったね。おめでとう。」

 尚は悠の手を握ると、そのまま歩き始めた。

 悠はマメを潰し続けた手が恥ずかしくて、尚が繋いでる手を離した。

「どうしたの?」

 悠は腕を後ろで組んだ。

「映画館までは、遠いの?」

 尚に手を繋がれないように、体を尚の方にむける。

「すぐだよ。」

「何を見るの?」

「字幕は苦手?」

「そんな事ないよ。」


 尚が選んだ映画は、余命半年の若者と、偶然出会った盲目の老人が旅をする話しだった。

 内容は少し難しかったけれど、言葉の一つ一つが、悠の心にスッと落ちてきた。この話し、本で読んでみたいなぁ。悠はそんなふうに思っていた。

 エンドロールが流れると、尚は悠の手を握った。

 悠はその手を離そうとしたが、尚は離さなかった。


 暗闇から出ると、

「私の手、こんなだよ。」

 そう言って、悠は尚に手のひらを見せた。

「ずっと野球をやってたの。マネージャーじゃなくて、選手の方。」

「そうだったんだ。ポジションは?」

「キャッチャー。」

「本当に?」

「そうだよ。」

「この肩で?」

「もう限界だったの。肩も、気持ちも。普通の女の子らしい高校生活、送ってみたかったな。」

 悠がそう言うと、

「バッティングセンター行こうよ。悠ちゃんの方が多く打ったら、その話しを信じるよ。」

 尚はそう言って悠の手を握った。

「えっ! 嘘じゃないって。」

 

 バッティングセンターについた2人。

「ここへくるなら、スカートはいてくるんじゃなかった。」

 悠はスカートの上から太腿をさすっていた。バットにボールがあたる高い音が聞こえてくる。

「悠ちゃん、本気だね。俺、負けないから。」

 尚が最初に打席に入る。スッと構えたフォームに悠の胸は熱くなった。尚の構えたバットには、ボールが次々にあたり遠くへ飛んでいく。この音がとても心地良い。少し前まで、休みもなく野球に明け暮れていた自分。野球を捨ててきたはずなのに、野球は自分を追いかけてくる。 

 今度は悠が打席に入る。

 足にまとわりつくスカートを少し上げると、バットをまっすぐに持ち、ボールが来るのを待ち構える。

 駆け引きのないバッティングセンターのボールは、タイミングがさえあえば、どんどん遠くへ飛ぶ。

「ちょっと、悠ちゃん。」

 本気になってきた悠は、尚がいる事を忘れていた。

 最後の球を打ち終えると、うっすら滲んだ額の汗をいつものように腕で拭った。

「わかった? 私、本気で野球やってたの。」

「わかったよ。」

 尚は笑っていた。

「がっかりでしょう?」

「何が?」

「男より男って言われてたから。」

「悠ちゃん、自分の事しか考えてないからわからないだろうけど、俺の方が打ってるから。」

「嘘。」

「野球をやってたのは信じるから、勝負は悠ちゃんの負け。」

「えっ~、」

「もう1回はダメだよ。もうご飯食べに行こうよ。」


 野球の事を話してから、悠は心が軽くなった。結局、自分が話せる事ってそれしかないんだから。

 少しお酒の入った尚は、野球を辞めた怪我の事を悠に話した。

「あんまり遅くなると、怒られるよね。」

 駅まで2人で歩いていると、尚が急に足を止めた。

「ご飯食べてくるって言ってあるから。」

 悠は足を止めて、動かない尚を見た。

「高校生と付き合ったりしたら、犯罪だよな。」

「えっ?」

「悠ちゃんは、5つ下か。」 

「そうだね。」

「なんか悔しいな。もう少し俺の方が打てると思ったのに。」

 尚は歩き出した。

「さっきの話し?」

 悠は尚になんの事か聞いた。

「1本の差だよ。」

「ん? その話し?」 

 悠は目を丸くした。

「卒業式はいつ?」

「3月1日。」

「そっか、今は少し早くなったんだよね。昔は3月10日だったから。」

「秋田へはいつ行くの?」

「2日に引っ越し。」

「俺は10日に行くから、向こうでまた会おうよ。」

「うん。」

 尚は悠の手を繋いで歩き始めた。

「キャッチャーって、チームで唯一、みんなを見て守ってるだろう。」

 尚が言った。

「そうだね。みんなからもキャッチャーが見える。」

 悠は尚の顔を見た。

「逃げたくなった事ってないの?」

 尚も悠の顔を見た。

「うーん。私はそれしかやった事がないから。」

 悠が少し遠くを見つめると、

「ねぇ、悠ちゃん。今度は俺が守ってやるから。」

 尚も同じ方向を向いてそう言った。

「えっ、何?」

 車の音にかき消されて、尚がなんて言ったのか悠はわからなかった。


 8章 卒業式と春のにおい

 卒業式。 

 胸につけられたピンクの花の色は、春を連れてくるようだった。


 静まり返ったグランド。女子野球部の部室の前で、後輩達が卒業生を待っていた。

「悠先輩、卒業おめでとうございます。」

 新しいキャッチャーになった子が、悠の前にきた。

「瑞希ちゃん、キャッチャーは大変?」

「はい。気持ちが切れる時もたくさんあります。」

「そうだよね。」

「悠先輩、すっかり感じが変わりました。」

 後輩が何を言おうとしているのか、悠にはわかる。

「風邪引いて、体力が落ちたからね。」

 悠は肩を触った。

「私も看護学校に行こうかな。普通の女の子になりたい。」

 悠はマメだらけの後輩の手を握った。

「悠、秋田へ行くんでしょう?」

 遥が声を掛けてきた。

「そうだよ。遥はもう名古屋の大学で練習してるんでしょう?」 

「うん。」

「大学生の練習は厳しい?」

「厳しいよ。みんなプロを目指してるからね。」

「遥もプロを目指すの?」

「そうだね。なれるならなりたいけど、今はまだ練習についていくのが精一杯。」

「一人暮らし?」

「ううん。寮に入ってる。来週、叶大がこっちにくるから、時々泊まりに行こうと思ってる。高校を卒業したら、本当に縛られるものは何もないんだなって、つくづく思う。」

「そうだね。」


 校門を出ると、唯と叶大が悠に向かって走ってきた。

「悠、謝恩会に出ないんだって?」  

 唯が悠の手を握った。

「少しだけでも顔見せろよ。」

 叶大がそう言った。

「ごめん、明日、早いから。」

 悠は2人の誘いを断った。

「学祭も出なかったし、それって淋しくない?」

 唯は悠の手を離さない。

 叶大を呼びに数人の男子達がやってきた。

「あっ、瀧本、おまえ、看護大に行くんだってな。男、やめたのか。」

 いつもクラスの中心にいる男子が悠にそう言った。

「失礼ね、あんたが病気になっても、悠は何もしないからね。」 

 唯はその子にそう言った。

「冴木もそうだったな。こんな怖い看護師のいる病院なんて、俺、絶対行かないわ。」

 男子とごちゃごちゃしている間に、唯が手を離した。

「唯、私、もう帰るわ。これから荷物取りに引っ越し屋さんがくるから。」

 悠が言った。

「えー、瀧本、謝恩会来ないのかよ。」

 さっきの男の子が、悠にそう言った。

「ごめん、これで帰る。元気でね。」


 悠は学校を後にした。

 暖かいのか、寒いのかわからない日だった。時々、冷たい風が吹くと思ったら、太陽の光が強くなる。

 

 唯。

 いつか一緒に働く日がきたら、また、寝ないでいろんな話しを2人でしようよ。

 思い出なんてなんにもなかった高校生活だったけど、唯と会えて楽しかった。


 家の前に着くと、叶大が待っていた。

「あれ? 謝恩会、行かないの?」

「遅れて行けばいいから。やっぱり瀧本も行かない?」

「ごめん。もうすぐ、引っ越し屋さんがくるから。」

「ずいぶん、早く引っ越しするんだね。」

「混んでるみたいで、明日しか空いてなかったの。梶原くんも、来週、名古屋に行くんでしょう?」

「うん、まあ。」

「遥、楽しみにしてたよ。」

「瀧本。俺、あいつに渡した手紙、本当はお前に渡すつもりだったのに。」

「梶原くん、手紙はちゃんと相手の所に行くの。」

「覚えてないかもしれないけど、小学校の時、瀧本が野球をやってるの見た時があって、それからずっと好きだったんだ。」

 叶大の真剣な顔を見たら、悠はその気持ちが嘘ではない事を感じた。

「ありがとう。でも、梶原くん、遥を裏切らないでね。」

 叶大は制服のボタンを取ると、悠の制服のポケットに入れた。

「忘れるな。絶対、迎えに行くからな。」


 9章 雨の音と秋田犬

 新しい生活が始まる。

 

 大学の授業は、聞き慣れない言葉が多く、ものすごいスピードで進んでいく講義に、ノートを取るだけで精一杯だった。そんなに友達が多くない悠にとっては、グループワークは一番苦手で、正々堂々と意見を言える人の話しを、とにかく頷いて聞いてやり過ごす。数人の友人もできたが、彼女達の話す言葉が聞き取れず、いつも笑うタイミングがズレた。


 悠はアパートの近くのファミレスでバイトをしていた。毎週のようにあるテストとバイトのせいで、眠れない日が続いた。

「悠、看護大は甘くないよ。キラキラした大学生活なんてないから。机の上の勉強が終ったら、今度は鬼のいる所へ実習に行くんだから。」

 仲良くなった笹本さつき《ささもとさつき》がそう言った。

「ファミレスじゃなくて、もっといいバイト紹介しようか。」

「それって、ヤバいやつ?」

「何言ってんの。病院だよ。透析のお手伝い。」

「大丈夫なの? それ。」

「透析って、毎日あるじゃない? 昼に仕事をしてる人は夜に透析を受けにくるの。夜って看護師さんが少ないから、物品の準備とか、後片付けはバイトがやるの。日給だし、10時までには終わるし、週3回、やってみない?」 

「そうだね。さつきも一緒?」

「一緒の時もあるし、違う時もあるし。ファミレスより絶対いいよ。今まで週4で夜の1時まで働いてたんでしょう?」

「うん。」

「よく彼氏、怒らなかったね。」

「彼氏?」

「いるんでしょう?」

「たまに話すくらいの人だよ」

「泊まったりしないの?」

「しないよ。彼氏じゃないもん。」

「向こうは彼女だと思ってるかもよ。」

「そんな事、思ってないよ。」

「さつきの彼は何してるの?」

「私だって彼なんかいないよ。今度、彩の友達と4人で集まる話しがあるから、一緒に行かない?」

「行かない。知らない人とご飯なんか食べれないもん。」

「悠、ずいぶん冷めてるね。」


 尚からは時々電話が掛かって来たけれど、尚もバイトと勉強に忙しいようで、会おうと約束をしては、その約束はまた今度と伸びていた。

 長い時間、話しをしたのは、あの映画を見た日が最初で最後だった。

 

 机の引き出しにしまってある叶大のボタンを見るたびに、いつも胸が痛んだ。

 遥は叶大の家に泊まりにきたのだろうか。

 2人の幸せな顔を思い浮かべながら、私はなんで、叶大の事を待っていなければならないんだろう。

 

 野球、やりたいな。

 ホームを目指して走ってくるランナーより早く、ボールを受け取って……。審判の大きなアウト! の声をもう一度聞きたい。

 

 ファミレスのバイトから帰ってきた悠は、勉強しようと拡げた教科書の上でそのまま眠ってしまった。


 金曜日。


 最後のファミレスのバイトを終える。

 明日は、さつきと透析室のバイトに行く。土曜日なので、朝からお昼まで。明日は少し早く起きなきゃ。悠はそう思いベッドに入った。

 今日も尚から連絡は来なかった。


 さつきと病院の前で待ち合わせ、悠は看護師長に挨拶に向った。

 物腰の優しいその女性は、

「学生さん? バイトって言っても、いい勉強になるから、頑張ってね。」

 そう言った。

 

 白衣に着替え、頭に三角巾をする。

「看護師とバイトはちゃんと区別させるためなんだって。」

 さつきがそう言った。

 仕事は忙しくなかったが、緊張して体のあちこちが痛くなった。さつきが車で家まで送ってくれると言うので、悠はそれに甘えた。

「こっちはね、車がないと困るよ。悠もそのうち、免許取りなよ。実習が始まったら、バスじゃ不便だからね。」

「そうだね。」

「ねぇ、今日の夜空いてる?」

「うん。」

「前に言ってたでしょう、彩の友達と集まるって話し。どうしても1人足りないから、悠、きてよ。」

「えーっ、私、そういうの苦手。」

「お願い。普通にご飯食べてればいいからさ。」


 さつきに押し切られて、待ち合わせの居酒屋へきた。二十歳になっていないのは、さつきと遥の2人だけだったので、男性が来る前に、何を食べるか、2人は盛り上がっていた。

 男性の4人が遅れてくる。 

「悠!」

 尚が悠の前に座った。

「知り合いだったの?」

 隣りに座る男性が尚にそう言うと、

「まあ。」

 尚は言った。

「未成年でしょう、飲んだらダメだからね。」

「知ってるよ。」

 不機嫌な尚と愛想のない悠。

 みんなが楽しく話しているのに、尚はずっと悠と目を合わせない。

「青田、さっきから、ぜんぜん飲んでないよ。」

 尚はあちこちからそう言われている。

「ちゃんと飲んでるよ。」

「向いの女の子とは、どこで会ったの?」

 隣りの男の人が尚に聞いている。

「いろいろ、あるんだって。」

 尚はそう言うと、悠をチラッと見た。

 

「悠も行こう。」

 さつきが二次会に悠を誘った。

「私はここで帰る。」

「えっ、どうして? 明日、休みでしょう、バイトもないし、一緒に行こう。」

「ごめん、楽しかった。また誘って。」

 悠はそう言って手を振った。

 

 店から少し離れると、悠の頭を、誰が軽く叩いた。

「おい!」

「尚。」

「こんな所で久しぶりに会うと思わなかったよ。」

「……。」

「こっちにきて、風邪引いててさ。」

「あっそ。」

 悠はそっけない態度をとる。

「本当だって。」

 どんどん歩いて行く悠の肩を尚が掴んだ。

「ちょっと、聞いてって!」

 尚は悠を自分の方に向かせようとした。


「あっ、ゴロウ止まれ!」

 夜の町を散歩していた大きな秋田犬が、飼い主の手をすり抜けて逃げ出した。

 飼い主は追いかけようとしたが、追いつけない。

 悠は自分の前に全速力で走ってくる秋田犬が来ると、体を使って犬を抱きしめた。

 倒れた悠の前に、小さな仔犬がやってくる。

「大丈夫か?」

 尚が悠に声を掛ける。

「うん。」

 さっきまで全速力で走っていた秋田犬は、仔犬を見て急に大人しくなった。

「すみません。怪我ないですか?」

 飼い主が悠に声を掛ける。

「大丈夫です。」

 起き上がろうとした悠は、右手が動かなかった。

「いや、大丈夫じゃないですよ。」

 飼い主の男性は、救急病院を調べた。


 尚が付き添って病院に着いた。

 レントゲン室から出てくると、

「右腕、骨折してるって。」

 悠は尚にそう言った。

 処置室から、ギプスを巻いた悠が来た。

 尚が心配そうに悠の背中に手をやった。

「痛むのか。」

「大丈夫。」

「ここね。折れてるけど、このままくっつきそうだから、ギプスで様子見ようって。」

 悠は手の甲と肘の間を指差した。

「あの犬はどうしたの?」

「飼い主さんと帰ったよ。連絡先聞いたから、後で連絡しておくよ。ここの分は、飼い主さんが払うって。」

「そんな、私の事なのに。」

「普段は大人しい犬なのに、チョロチョロしている仔犬を見つけたんだろう。それで、追いかけたみたい。きっと仲間意識が強いんだよな。」

「そうだったの。その仔犬はどうなったの?」

「飼い主さんが連れて帰ったよ。仔犬も秋田犬だろうって。」

「迷子かな?」

「どうだろう。」

「悠。今日は俺の家に泊まりなよ。この状態なら何もできないだろう。」

「治るまで、実家に帰ろうかな。」

 悠は小さな声でそう言った。

「こっちにいなよ。腕が動く様になるで、俺が悠の右手になるから。」

 尚の優しい言葉に、悠の胸は熱くなった。


 尚の部屋についた。

「明日、悠の着替えを取りに行こうか。」

 本当に男の人の部屋に泊まるのかと思うと、急に恥ずかしくなり、

「やっぱり、今日は帰る。」

 悠はそう言って俯いた。

「どうした? 俺が飲み会に行った事、怒ってるのか?」

「ううん。私も行ったんだし。」

「こんな時は甘えていいんだぞ。」

 尚は悠の頭を撫でた。

「情けないな。骨折なんて。」

 女の子らしくなりたいと思っていても、男みたいでいるほうがいろんな事から逃げていられた。さっきから、鼓動が速くなって息苦しい。

「あの全速力の秋田犬を止める事ができるのは、悠だけだよ。俺は怖くて逃げようと思ったし。」

 尚がそう言ったので、悠は少し笑った。

「ごめんな、なかなか連絡できなくて。」

「ううん。」

 尚は浴室の前に悠を連れていった。

「ほら、これに着替えな。」

 悠の左手に尚の服を置いた。

「これ、尚の短パンとTシャツ?」

「そうだよ。手伝うおうか?」

 尚は悠の顔を笑いながら覗いた。

「大丈夫。」

 

 なんとか1人でシャワーを浴びた悠は、母に電話を掛けた。

「お母さん、遅くにごめんなさい。」

「どうしたの?」

「腕の骨、折れちゃった。」

「えっ、大丈夫なの?」

「うん。なんとか。」

「治るまでこっちに帰ってくればいいでしょう?」

「勉強もあるから、こっちでなんとかやってみる。」

「どっちの手?」

「右。」

「あらら。すぐ食べれる物送るから、早く治るといいね。」

 

 尚がシャワーを浴びて出てきた。

 野球をやめたと言っても、腕や肩にはまだ筋肉がついている。遥は初めて男の人の厚い胸板が恥ずかしくて、尚から目をそらした。

「お母さん、なんて?」

 尚が近くにきた。温かい空気が、遥を包む。

「すぐ食べれる物、送るって。」

 遥は携帯を見ながら、尚に言った。こんなに近くにいたら、顔を上げる事なんてできないよ。

 尚は悠の隣りに座ると、遥の顔が赤くなってくるのがわかった。 

「ごめん。遥がいる事、忘れてたよ。」

 尚はそう言ってシャツと短パンを着た。

 もう一度、遥の隣りに座ると、

「悠、ブカブカだな。寝てるうちに脱げるかもしれないな。」

 そう言って短パンを引っ張った。悠が驚いて尚から離れると、

「まだ痛むのか?」 

 尚は顔を覗き込んだ。

「大丈夫。」

 遥は自分の顔を覗いている尚を見た。

「手、けっこう腫れてるぞ。」

 尚は遥の右手の指先を触った。

「なんとなく、重い感じがするの。」

 遥はそう言うと重いギプスを抱えた。

「こっちの手、下にして寝たらダメだよ。」

 尚は立ち上がると、クッションをひとつ持ってきた。

「ほら、おいで。」

 そう言って悠をベットに寝せると、腫れている右手の下にクッションに置いた。肩が腕の重さから解放されて、悠はホッとして目を閉じた。

「疲れただろう。ゆっくり休みな。」  

 尚は悠のおでこにキスをした。

「おやすみ。」

 尚、本当は話したい事がたくさんあるんだよ。手の痛みなんか、ぜんぜん感じない。もう少しそばにいてくれないの……。

 悠は背中をむける尚の服を掴もうとしだけれど、自由な左手は、尚のシャツに届かなかった。

「おやすみ。」

 心とは反対の言葉を、遥は尚に伝えた。眠りたくなんてないのに、だんだんと目が開かなくなってきて、いつの間にか深い眠りに落ちていく。

 

 尚、どこにいるの?


 朝5時。

 雨の音で目が覚めると、尚はソファで眠っていた。

 悠は尚の所に行くと、

「ごめんなさい。」

 寝ている尚にそう言って、ソファの下に座った。

 悠が近くにいる事に気がついた尚は、

「もう少し寝てればいいのに。」

 そう言って悠の髪を撫でた。

「ごめんなさい。そこで寝たら、体が痛かったでしょう。」

 悠は尚にそう言った。

「そんな事、気にしなくてもいいから。ほら、もう少し、寝なよ。」

 尚は起き上がると、悠をベッドに連れて行った。

「少し腫れは引いたかい?」

「今日が一番、腫れてるって先生が言ってた。」

「痛み止め持ってこようか?」

 遥は左手で、立ち上がろうとする尚のシャツを掴んだ。

「どうした?」

 遥は尚を見つめた。何かを言いたそうな遥の目をみると、尚は少し微笑んだ。

「仕方ないなぁ。」

 尚は悠の隣りに体を並べた。尚の体はとても温かい。悠は左手で尚の右手を握った。言いたい事がたくさんある。 

「遥。」

「ん?」

 尚は悠の肩に手を置いた。

 尚の顔が近づいてくると、悠は目を閉じた。

 尚の唇が悠の唇に重なる。

 尚が唇を動かすたびに、悠の体の力が抜けていく。

 薄っぺらになってしまった自分は、このままどこかへ飛んでいってしまいそうだ。

 本当は尚の事を思いっきり抱きしめたいのに。

 たくさん話したい事もあるけど、もういいや。

 悠は尚の胸に顔を埋めた。


 10章 ギプスと風の音

 悠の右手からギプスが取れた頃、医大と野球の交流戦を開催する話しが持ち上がった。

 学校祭のイベントのひとつとして行う事となり、さつきがメンバーを募っていた。

「悠、高校の時、野球やってたんでしょう? お願い、メンバーに入ってよ。」

「いいけど、私もしばらく右手使ってないから、投げれるかわからないよ。」

「そんな、本気で考えなくてもいいんだって。交流戦だし、楽しくできれば。」


 あれ以来、尚の部屋にいる事が多かった。自分の部屋には荷物を取りにいくだけ。これ以上、尚に甘えるわけにはいかないので、ギプスが取れたら、自分の部屋に戻ろうと、悠は思っていた。

 片手しか使えなかったけど、バイトとなんとか続けていた。もしかしたら、このまま左利きになるかもしれないと思うくらい、左手でなんでもできるようになっていた。


 バイトから帰ってきた尚に悠は言った。

「尚。ギプスが外れたの。」

「よかったね。」

 尚は悠の腕を手に取った。

「右手と左手の太さがぜんぜん違うよ。」

「ねえ、もうなんでも1人で大丈夫だから、明日、家に帰る事にする。」

 悠はそう言った。

「このままいても構わないのに。」

「ううん。いつまでも甘えるわけにいかないよ。」

「そっか。」

 尚は少し淋しそうだった。

「今度、医大と野球の交流戦があるね。」

 悠は尚の顔を覗いた。

「そうだね。メンバー集めてた。」

「尚は出るの?」

「俺はどうかな、悠は?」

「私は出るの。だから、今度の休みに練習に付き合って。」

「いいよ。その代わり、その日は悠の家に泊めてもらうからね。」

「えっ、うち?」

「いいだろう。」

「わかった。」


 ベッドに入ると、尚がそばに来た。

「ごめんね。尚の場所だったのに。今日は私がそっちで寝るよ。」

 尚は悠をベッドに戻した。

「ギプスがなくなっても、右手はまだ変な感じがするだろう。」 

「そうだね。」

 尚は悠の右手を握った。自分を見つめている悠に近づくと、静かにキスをした。 

 唇が重なり合う度に、気持ちが抑えられなくなる。

 尚は悠の腰に手をやると、悠の手がそっとその上に置かれた。

「悠、19か。」 

「そうだよ。」


 少し前の自分なら、求めるままに抱き合う彼女もいた。1年前、右足の靭帯を切る怪我をして、野球にも会社にも気持ちの整理をつけた時、大学時代から付き合ってた彼女の方から、突然別れを告げられた。

 自分は大切にしてきたつもりなのに、その思いの半分も、相手には伝わっていなかった。

 5つも年下の悠を、どんな風に好きになったら、この思いは伝わるのだろうか。


「なあ、悠。」

「何?」

「若い時って、なんでこんなに眠たいのかな。悠、いつもすぐに寝てしまってるよ。」

「そう? 尚はソファで寝てたから、眠れなかったんでしょう。」

「それもあるけど。」

 尚は悠の髪を撫でた。

「明日はバイト?」

「うん。バイト。」

「じゃあ、早く寝ないとね。」

「そうだね、おやすみ。」

「おやすみ。」


 日曜日。

 医大のグランドの隅でキャッチボールをしていた悠と尚。

 思った以上に力が入らない自分の右手に、悠はイライラしていた。当たり前のようにできていた事は、本当はたくさんの時間をかけて作りあげたものだった事に気がついた。

 尚が怪我をして野球を諦めた時の気持ちはどんなに辛かったのだろう。

「悠、そんなにムキになるなよ。それだけ、投げれたら十分だと思うぞ。」

「尚、バッティングセンターに行こうよ。」

「えっ、まだやるの?」

「うん。早く。」

 

 バッティングセンターに着くと、

「尚の方が多く打ったら、なんでも好きなもの作ってあげる。」  

 悠が言った。

「よし! 絶対だぞ。」

 尚はバットを構えた。

 お手本の様なスイングから放たれる放物線は、滞空時間が長く、いつも見惚れてしまう。

「悠の番だよ。」

 力んでいるせいか、なかなか思うようにボールが飛ばない。

「左でやってみたら?」

 最初は合わなかったタイミングも、少しずつコツを掴むと、ボールはキレイに飛ぶようになる。

「軸が変わったんだね。」

 尚はそう言った。

「悔しいな。勝てると思ったのに。」

「約束だからね。オムライス。」

「オムライス?」

「そう。なんでも作ってくれるって言ったでしょう。」


 初めて悠の部屋に泊まった尚は、悠がシャワーを浴びている間、少しだけ開いている机の引き出しに制服のボタンを見つけた。

 尚は見てはいけない物を見てしまった気がして、引き出しから目を逸らした。


 シャワーを浴びて戻ってきた悠に

「悠、あれって誰のサイン?」

 尚はそう聞いた。

 悠は叶大がくれた石尾投手のサインボールを手に取り、

「石尾投手。」

 そう言って尚に渡した。

「へぇ~、どこで手に入れたの?」

「高校の時にね、同級生がくれたの。」

 尚はそのサインを眺めた。

「好きなの? 石尾投手。」

「うん。球はあんまり速くないけど、いろんな球種があるからね。」

「やっぱり受けてみたいって思う?」

「どうだろう。ただ、すごいなぁって思うだけ。」

 悠は少し空いていた引き出しに気が付いた。

「尚。」

「ん?」

「私、ずっと野球しかやって来なかったから、高校の時って女の子らしい思い出もなくってね。それにほら、キャッチャーだったし、髪もうんと短ったから、クラスの子に、お前は男だって言われてた。」

「女子野球って、めずらしいからね。」

「最後の学校祭の時に、仲の良くなった同じクラスの女子と衣装係になって、その時に衣装のお礼だって、クラスの男の子から、このサインボールをもらったの。」

「そうだったんだ。」

 悠は引き出しを静かに閉めた。

「なんでキャッチャーなんか選んだんだろう。」

「どうして?」

「ピッチャーだったら、もっと違う思い出ができたのに。」

 悠は遥が叶大に返事をもらった日の事を思い出していた。

「それはどこを守ってても、思う時があるだろう。」

「ううん。」

 悠は首を振った。

「ピッチャーはマウンドにスッと立つじゃない。だけどキャッチャーって、重いマスクつけて、足広げてしゃがんで……。高校に入った頃から、なんだか急に恥ずかしくなって。監督に何度も、他のポジションにしてほしいって頼んだけど、結局誰もいなかったの。クラスの男子達が、自分の事を話してて、それ以来、どんな風に見られてるか、すごく気になるようになって、野球が楽しくなくなった。」

「高校の頃って、その中の世界が全てだからね。」

「好きな子と付き合えたピッチャーの子が、すごく羨ましかった。」

「野球を選んだ事、後悔してる?」 

「……たまにね。」 

 元気のない悠に、

「交流戦は、どこを守るの?」

 尚は聞いた。

「見たいなぁ、悠のキャッチャー。」

「やだよ。」

「みんな秋田犬だと思えばいいだろう。」

「もう! 尚はどこを守るの?」

「俺はせっかくだからピッチャーでもやろうかな。悠には、絶対打たせないから。」

「じゃあ、私もピッチャーにする。」

 悠は少し笑った。

「腕の感覚はもう戻ったかい?」

「うん。1ヶ月って長かった。尚、どうもありがとう。」

「手術にならなくてよかったね。」

「そうだね。」

「なあ、ずっと、うちにいてもいいんだよ。」

「ううん。時々、遊びに行く。」

「淋しくなるなぁ。」

「尚、ずっとソファで寝てたから、体、そうとう痛いよね。」

「大丈夫だよ。仕事してた時は、疲れて床に寝てしまう時もあったし。」

「そっか。仕事しながら、野球するって大変だったでしょう。」

「その時は、それしか考えてなかったからさ。」

 尚は悠の方を向くと、肩を掴んだ。

「悠。」

「何?」

「今日は一緒に寝てもいいだろう。」

 悠は恥ずかしくなって下を向いた。

 尚は立ち上がって悠の手を握ると、ベッドへ向かった。先にベッドに入った尚は、悠を自分の胸に呼び寄せた。

「本当に、キャッチャーやってのか?」

 尚は悠の肩を包む。好きだと言う言葉が、体中から溢れているのに、悠にそれを伝える事ができない。理性が壊れてしまいそうな自分を、何度も現実に引き戻す。

 悠はギプスが外れた右手を、そっと尚の背中に伸ばした。

「やっと、尚の背中、触ることができた。」 

 悠はそう言って尚の胸で目を閉じた。

「悠。俺がずっと守ってやるから。」

「うん。」

 尚は悠にキスをした。長いキスの後、尚は悠の体に少しずつ触れた。自分の体の下で小さくなっている悠は、触れるとこのまま壊れてしまいそうだ。何度も目が合い、自分を見つめる悠に、尚は優しく唇を重ねる。

 

 風の音で、尚が目を覚ます。

 自分の腕の中で眠る悠の頬を撫でた。

 そのうち、ちゃんと話してくれよな、あのボタンの事。もし、悠と同じ時間を刻んできた相手だったら、何もためらわず、恋人同士になれるんだろうけど、悠を守れるのは、俺しかいないんだって、そう思ってくれよ。

 

 11章 消えたボールと日焼け止め

 交流戦の日。

 揃いのTシャツの腕に入った赤十字のマークを見て、悠は嬉しくなった。

 

 丁寧に日焼け止めを塗ると、

「気合入ってるね。」

 さつきがそう言った。

「さつき、野球やった事あるの?」

「私、ソフト部だよ。」

「そうだったの?」

「悠、キャッチャーで本当にいいの? 男子に代わってもらおうか。」

「ううん。私はずっとここだったから。」

「嘘。悠、そんな肩じゃないでしょう。」

 さつきは悠の肩を触った。

「坂井くーん、キャッチャーやってよ。」

「やだよ、俺。やった事ないし。」

「頼りないな、本当に。」

「キャッチャー、誰やるの?」

 4年の藤本匠海ふじもとたくみがやってきた。

「藤本くんが投げるの?」

 さつきが聞いた。

「そうだよ。坂井が受けるのか?」

「俺はやらないよ、瀧本さんが、やるって。」

「えっ、真面目に?」

「坂井くんが逃げたのよ。数少ない男子なのに。」

「俺は仕方なく出たんだよ。人がいないって言うから。俺、ずっとテニス部だったし。」

「坂井、瀧本さんが可哀想だろう。代わってやれよ。」 

「大丈夫。」

 悠は少し離れた場所に藤本と立たせると、膝をついた。ボールを待つ構えに入る悠に、びっくりした藤本の球は少し逸れた。悠は難なくそれを受け止めると、藤本にボールを返す。再びボールを゙待つ真剣な顔になると、

「中学以来だから、あんまりいい所にいかなくて、ごめん。」

 藤本はそう言った。

「大丈夫。相手はきっと振ってくれるから。」


 ベンチに戻ると、藤本は悠の隣りに座った。

「瀧本さんって、1年生?」

「そう。」

「俺は4年。なんでも聞きにおいで。」

「じゃあ、過去問もくれる?」

「あげるよ。国試が終ったら、問題集もあげるから。」

「本当に?」

「本当。」

 ベンチに戻り、悠は医大のチームの中にいる尚を探した。尚が悠に手を振っている。

「悠の彼氏?」

 さつきが聞いてきた。

「そう。」

 悠がそう言うと、さつきと一緒に手を振った。

「彼氏には絶対、打たせないからな。」 

 藤本がそう言って笑った。

 

 悠のチームは、エラーで2点を取られ負けていた。

 最後の回。

 四球で1塁にさつきが向うと、ピッチャーを交代した尚が、マウンドに向う。悠は左手の打席に入ると、尚に向かって真剣な目を向ける。

「おい、あいつら本気だぜ。」

 周りは少しざわついた。

 1球目を見逃すと、悠は再び、バットを構える。

 2球、3球とストライクゾーンから外れる。

 4球目の球はファールになり、悠の後がなくなった。

 一度、地面にバットをつけ、尚の顔を見た。

 悠は少し考えて、バットを構えた。

 

 尚の投げた球は、外野の頭を超えて消えていく。


 頭を抱えた尚の周りを、悠は悠々と走っている。

 ホームで待っていたみんなに笑顔でハイタッチすると、最後にさつきと抱き合った。

 

 試合は2対2の同点。

 

「瀧本さん、打ち上げいくでしょう?」

 藤本が声を掛ける。

「そうだね。」 


 悠は尚を目で追うと、こっちに気がついて、悠に手招きをした。悠は尚の所へ向かった。

「悠、このあと打ち上げ行くのか?」

「うん。尚も行くんでしょう?」

「行くよ。」

「じゃあ、一緒に行こうよ。」

 悠は尚にそう言った。

「なんか、悔しいよな。左にしろって言うんじゃなかった。」

 尚が汗を拭いていると、

「青田の彼女だったのか。いるのは知ってたけど、おまえ、すごい子と付き合ってるんだな。」

 尚の友達がそう言った。

「青田くんの彼女なの?」

 2人の周りに人が集まってきた。

「私、やっぱりさつきと一緒に行くから。」

 悠はそう言って、歩き始めたさつきの後を追った。


「悠、彼氏と一緒に行かないの?」

 さつきが聞いた。

「うん。後で会えるから。」

「やっぱり気まずいよね。彼女にホームランなんか打たれると。」

 坂井がそう言うと、

「彼女にエラーした所を見られる方が恥ずかしいぞ。」

 藤本はそう言って笑った。

「それを言うなって。」

 坂井は少し前を歩く、女の子の隣りに行った。

「瀧本さん、野球やってたの?」

 藤本が聞いた。

「私ね、小学校の時にピアノの練習に行きたくなくて、野球を選んだの。そこの監督がキャッチャーがいないからって、それから。」 

「そうだったのか。」

 藤本はそう言って悠の隣りに並んだ。

「キャッチャーは女房って言うからって、てっきり女らしいとポジションだと思ったのに、監督にまんまと騙されたと思った。」

「女子でキャッチャーなんて、あまりいないからね。」

「だったら、女房なんて言わなきゃいいのに。」

「このまま野球を続けようと思わなかったの?」

 藤本は聞いた。

「うん。私、もう出し尽くしたから。それに、赤十字のマークをつけて、どうしても仕事がしたくて。」

「数ある病院の中でも、日赤の看護師になりたかったの?」

「キャンディキャンディって漫画知ってる?」

「ああ、昔のアニメの。話しはよく知らないけど、そっか、確か主人公は看護師だったよね。珍しいね、普通はドラマでカッコいい医者役の俳優さんと看護師が恋をするのを見て、この仕事に就こうとかって思うのに。」

「藤本さんは、そうなの?」

「違うよ。俺はちゃんと使命感を持ってこの仕事を選んだよ。憧れとか、優しさだけじゃ、この仕事は続かないよ。」

「そうだね。」

「医大の彼は、医者を目指してるの?」

「ううん。理学の方。」

「それで、体がしっかりしてるんだ。」

「そう?」

「一緒にいるのにわからない?」

「あんまり。」

 悠は恥ずかしくなって、下を向いた。

「夏休みが終ったら、約束の過去問あげるよ。」

「本当に?」

「いいよ、全部あげるから。」


 店に着くと、尚の隣には別の子が座っていた。

 その子が代わろうかと尚に言うと、

「いいよ。悠、あとでな。酒はダメだからな。」

 と尚は悠にそう言った。

 藤本が悠の隣りに座った。

「まだ、飲めないんだった?」

「うん。」

「じゃあ、俺もウーロン茶にする。」

「飲めばいいのに。」

「飲まないよ、だって隣りで酔っ払われたら腹立つでしょう?」

「そんな事ないよ。」

 悠は楽しそう乾杯をしている尚に目をやった。

「何食べる? ここ、いろいろ美味しいよ。」

「よく来るの?」

「俺は地元だから。」

「そうなんだ。」

「瀧本さんは?」

「私は千葉なの。」

「へぇ~。向こうにも赤十字大あるのに。わざわざ秋田に来たのはなんで?」

「自分を知ってる人のいない所に来たかったから。」

「高校の頃ってあんまりいい思い出ないんだ。」

「そうだね。」

「ほら、食べよう。」


 少し酔った尚は、ずっと藤本と話している悠を、時々見ていた。

「青田くん、彼女呼んでこようか?」

「いいよ、後で話せるから。」

「橋本、青田のプライドは今、ズタズタなんだぞ。」

 近くに座っていた男子がそう言った。

「なんで?」

「あんな小さい子にホームラン打たれるなんて、しかも彼女だって言うし。」

「あっ、そっか。ごめん青田くん。」

「もう、悔しいな。あいつ、こっち見て、少し笑ったんだ。それで少し迷ったんだ。」

「青田の心が、読まれてたって事か。」

「そうかもな。」

「どうやって知り合ったんだ?」

「受験の日が同じだったんだよ。新幹線の席が隣りで。」

「へぇ~。運命だな、それ。」

「青田の実家ってどこなの?」

「千葉。」

「じゃあ、卒業したら戻るのかよ。」

「まだ決めてない。」

「彼女は?」

「あいつは、しばらくここにいると思うよ。奨学金借りてるみたいだから。」

「青田も残れよ。」

「うーん。まだ迷ってる。」


 居酒屋の玄関を出ると、二次会に行くメンバーが、数人の塊を作って歩いて行った。

 肩を抱えられている尚が、

「行かないの?」

 と悠に声を掛けた。

「私は帰る。」

「じゃあ、後でラインする。」

 そう言って、尚は数人と歩いて行った。


「送って行くよ。」

 藤本が悠の後を追いかけてくる。

「いいよ。ほら、みんな、次のお店に行ったよ。」

「瀧本さんは行かないの?」

「私、ちょっと苦手なの。」

「俺は瀧本さんともう少し話したくて……。」  

 藤本は、悠の隣りを歩き始める。

「こっちはたくさんの雪が降るの?」

「そうだね。」

「冬の間はグランドが使えなかったら、どうやって練習するの?」

「雪の中でもやるんだよ。雪の中の方が眩しくて日に焼ける。」

「そうなんだ。」

「藤本さんは、中学まで野球をやってたの?」

「そう。高校は部員がいなくて、合同チームになるって感じだったから、野球を辞めて、硬式テニスをやったんだ。」

「テニスにも、種類があるの?」

「あるよ、軟式と硬式。野球と同じでボールは違うけど、ボールは同じ。テニスは坂井と一緒にやってて、それはそれで楽しかった。」

「藤本さんは、なんでもできるんだね。」

「今度、テニスもやってみる?」

「ううん。やめておく。」

「どうして?」

「授業でやったけど、加減がわからないの。」

「あー、みんな遠くに打っちゃうんだ。」

「そう。」

「普段は何して過ごしてるの?」

「バイトがない時は、図書館にいる。」

「どんな本を読むの?」

「何ってわけじゃないけど、古い本のにおいが好きなの。適当に手にとって、ダラダラ過ごしててるかな。この前まで、右手を骨折してて図書館にも行けなかったけど。」

「そっか。それで左に入ったんだ。」

「とるのは右のままだけどね。」

「彼は優しい?」

「優しいよ。」

「優しいなら、普通、彼女を置いて二次会に行かないでしょう。」

「むこうにも、いろいろと付き合いもあるんじゃない。」

「瀧本さん、都合のいい彼女になったらダメだよ。」

「大丈夫だよ。後で会えるし。」

「ねぇ、彼氏と別れて俺の所へおいでよ。」

「何言ってるの。」

 悠は笑った。

「そうだよな、やっぱり。夏休みは帰るの?」

「うん。少しだけと帰ろうも思ってる。」

「じゃあ、こっちは戻ってきたら、連絡をくれる?」

 藤本は携帯を出した。

 悠も携帯を出す。

「画面、彼氏じゃないんだ。」

 大きな秋田犬の画面の悠の携帯を見て、藤本はびっくりした。

「かわいいでしょう。この犬、秋田にきて、私が最初にタッチアウトした相手なの。おかげで右手が折れちゃったけど。」

「秋田犬が止めるなんて、瀧本さんくらいだよ。」

 2人は携帯を見て何度も笑った。

「この仔犬は?」

「迷子みたい。今はこの犬の飼い主さんの所にいる。」

「飼い主さんって、この近く?」

「住所聞いたけど、これってどこなの?」

 悠は手帳を見せた。

「この近くだね。」

「なんかね、仔犬が気になって、突然走り出したみたいなの。仲間だって、感じたんだろうね。」


 夜中に、悠の家のチャイムがなった。

 恐る恐る、のぞき窓を見ると、数人の友達に抱えられた尚が外にいた。悠は慌ててドアを開ける。

「ごめん、寝てたでしょう? 青田、ちょっと潰れちゃって。全部、君が悪いからね。」

 友達はフラフラになっている尚を、笑って悠に押し付けると、

 じゃあね、頼んだよ、そう言って消えて行った。


「ちょっと、尚。大丈夫?」

 悠は尚をおんぶすると、ベッドまで運んだ。

「お水持ってくるから。」

 悠は尚を起こして、水を渡した。

「悠、少し笑っただろう。」

「何が?」

「左なんて教えなきゃ良かったな。」

 尚はそう言うと、悠の手を握ってそのまま眠った。

 

 次の日の朝。


 頭が痛む尚に、悠はスポーツドリンクを渡した。

「お酒、早く出してしまわないと。」

 尚は悠が一気にそれを飲んだ。

「私、バイトに行くけど、お昼には帰ってくるから。」

「ごめんな。」

「尚は、バイトあるの?」

「今日は休み。」

「そっか。それなら、もう少し寝てれば。」

「そうする。」

「飲まなきゃダメだよ。冷蔵庫にまだ入ってるから。そうだ!」

 悠はアイスノンを持ってきた。

「気持ちいいでしょう。」

「情けないな、俺。」

「今日はここにいて。昨日、あんまり話せなかったから。」

「そうするよ。」

 尚はもう一度眠った。


 12章 夏休みと藤色の手紙

 学校が夏休みに入ると、尚の運転する車で、悠は千葉へ帰った。

「少し離れていただけなのに、懐かしい感じがするね。」

 悠はそう言った。

「一週間したら、迎えに行くから。」


 久しぶりに実家の玄関を開けた悠に、咲良が出迎えた。

「お姉ちゃん、おかえり。」

「ただいま。」

「お母さん、お姉ちゃんが帰ってきたよ。」

 母が出てくる。

「駅まで迎えに行くって言ったのに。」

「送ってもらったから。」

 悠は荷物を置きに自分の部屋に向かった。居間に降りてくると、

「腕、大丈夫なの?」

 母が悠の腕を見た。

「もう、平気。」

「右手だったから、困ったでしょう?」

「そうだね。」

「1人でよくやったよ。」

「お母さん、一緒にいてくれた人がいるの。」

「そうだったの。」

「夏なのに日に焼けない悠を見たら、そうかもって思った。」

「お姉ちゃん、どんな人?」

「こっちの人だよ。理学療法士の勉強してる。」

「悠はどこが良かったの、その人の。」

「どこかな?」

「お母さんはお父さんのどこが良かったの?」

 咲良が母に聞いた。

「うーん、どこかな。」

 答えられない母に

「ほら、そんなもんでしょう。」

 咲良は冷蔵庫に向かった。

「お姉ちゃん、アイス食べる? お父さん、買ってくれてたよ。」

「うん。食べる。」

 咲良はいちごのアイスを持ってきた。

「お姉ちゃんはこっち。」

 抹茶のアイスを悠に渡すと、

「お父さん、これじゃないのに。」

 悠はそう言った。

 

 夕食の時。

「悠。明日から新潟に行くけど、一緒に行くだろう?」

 父がそう言った。新潟は母の実家だった。

「おばあちゃんにも、しばらく会ってないだろうから。」

「そうだね。いつまでいるの?」

「明後日、今年はあんまり休みが取れなかったんだ。」

「わかった。」


 部屋に戻ると、去年夏、1人で見た花火の事を思い出していた。

 夕暮れの図書室。風邪を引いた学校祭。もう、ずっとずっと昔の事の様に感じる。やり直しが叶うなら、私はピアノを選ぶのかな。それとも捕手じゃない別のポジションを選ぶのかな。

 悠は、着替えを鞄に詰める。


 次の日。

 短パンとTシャツ姿の悠を見て、咲良は笑った。

「お姉ちゃん、やっぱりその格好。」

「おばあちゃんの家なんだし、別にいいじゃん。」

「彼氏の前でもそれなの?」

「学校へ行く時とか、もっとちゃんとしてるよ。」

「ねぇ、新潟へ行ったら、おばさんに髪の毛切ってもらおうよ。」

「そうだね。」


 新潟へ着くと

「久しぶりだね、悠。」

 祖母が麦茶を持ってきた。悠はそれを一気に飲むと、仏壇へ行って手を合わせた。

「真理おばさんから、たくさん漫画をもらったの。」

「悠がもらってくれてよかった。」

「ねえ、友理おばさんの所で髪を切ってもらってもいい?」

 咲良が祖母と母にそう言った。

「行っておいで。」

 母が言う。

「お姉ちゃん、行こう。」

 咲良は悠の手を掴んだ。

「お姉ちゃん、ずいぶん髪伸びたね。」

「縛ると楽だから。」

「咲良は、けっこう切るの?」

「うん。顎まで切ってもらう。ねぇ、帰りにかき氷買っていこうよ。」

「いいよ。」

 

 叔母の美容室についた。

「久しぶりだね。咲良。あら、悠もいるの?」

「こんにちは。久しぶりです。」

 悠は咲良の後ろから顔を見せた。

「悠、すっかりお姉さんになって。看護師さんの学校に行ってるって聞いたよ。」

「そう。」

「少し待ってて、今準備をするから。」

 悠は机に置かれたファッション雑誌をパラパラとめくった。スラーッと伸びた脚にちいさな鞄を持ってにっこり笑うモデルさんを見ると、物語の人なんだとさえ感じてしまう。

「悠、それくらいに切ろうか。」

 後ろからおばさんが声を掛ける。

「これなら、お団子できないよ。」

「お団子なんてしなくてもいいでしょ。肩に髪がつかないんだもの。」

 悠は椅子に座ると、おばさんはジョキジョキと肩に掛かっている髪を切っていった。

「少し、バーマかけるよ。その方が跳ねないから。」

「うん。」

「悠、いつも真っ黒だったのに、色白くなったね。」

「野球、やめたからね。」

「もったいないね。なかなか、できる事じゃないのに。」

「肩、ちょっと痛めてね。」

「そうなんだ。」

「今いくつ?」

「19。」

「まだまだいろんな事ができるか。」


 新潟から戻ってきた日。

 咲良は花火大会があるからと、母に浴衣を着せてもらっていた。咲良は友達が迎えに来て、出掛けていった。

「悠は行かないの?」

「うん。」

「それなら、鰻でも食べるか。明日、帰るんだろう。」

「そうだけど、鰻いらないよ。」

「鰻食べないと夏は乗り切れないぞ。」

「そんなのこじつけだよ。」

「ちゃんと根拠があるんだ。」

 父はそう言って、鰻注文していた。

「お父さん、高校最後の試合になった日、悠に鰻食べさせなかったせいだって、後悔してるの。」

「だって、前の日、お母さんはカツを揚げてくれたじゃない。」

「そう。だから、お前が悪いって、私も責められた。」

「鰻の呪縛にかかってるよ。お母さん、私ちょっとコンビニに行ってくる。」


 悠が、コンビニまで歩いてると、浴衣姿の遥に会った。隣りには叶大がいた。

「悠、帰ってたんだ!」

 遥が声を掛ける。

「うん。2人で花火見に行くの?」

「そう。悠は行かないの?」

「私は家で見てる。」

「悠の家から花火見えるの?」

「少しね。」

「向こうに行ってから、どうしてるかなって思ってたんだよ。」

「なんかね、毎日忙しい。」

「元気なら良かった。叶大、行こう。始まっちゃう。じゃあね、悠。」

 悠は歩き始めた。

 

 次の日の朝。

 新聞を読んでいた父が悠に手紙を渡した。

「切手も貼ってないから、なんだろうな。」

 悠は部屋に戻ってその手紙を読んだ。

 薄い紫色の便箋を開くと


 ハルカ、

 絶対迎えに行くからな


 そう書いてあった。

 きっと叶大からの手紙か。

 遥と付き合ってるのに、なんだろうあいつ。

 悠はその手紙を机にしまったが、もう一度出して、鞄に入れた。


 尚が迎えに来た。

「今から出ると、向こうに着くのは夜の遅くになるね。」

「ごめん、尚に運転させてばかりで。」 

「途中でなんか食べて行こうよ。」

「うん。」

「友達とは会ったの?」

 悠はドキッとした。

「新潟のおばあちゃんのところへ行ってたから。」

「そっか。」

「俺はけっこう会ってきたよ。今度、悠も連れてこいって。」

「尚はたくさんの友達がいるんでしょう?」

「そうでもないよ。やっぱり、部活の仲間が中心かな。」

「尚の野球部には、マネージャーいたの?」

「いたよ。」

「悠、気にしてんの?」

「そうじゃないけど。」

「髪、切ったんだね。」

「うん。おばさんに切ってもらった。これなら寝癖つかないよって。」

「そんな理由で短くするなんで、やっぱり悠らしいわ。疲れたら隣りで寝てな。」

「私が寝たら、尚も眠くなるでしょう。」

「大丈夫、疲れたら俺も休憩するから。」


 13章 たるんだ包帯と制服のボタン

 夏休みが明ける。


 藤本が学校の図書室へ悠を呼び出した。

「過去問あげるって、約束しただろう。」

 藤本は悠に段ボールを渡した。

「藤本さん、ありがとう。」

「髪切ったの?」

「うん。けっこう切った。」  

 頭を触る悠を見て、

「なんか変わった感じがしたから。」

 藤本は悠の髪に触りたくなった。

「雑誌を見て切ってもらったんだけど、こんなだったかなあ? って思うの。」

「そう? すごく似合ってるよ。」

 藤本は悠の頭を撫でた。

「藤本さん、国試の勉強ってやっぱり大変?」

 自分を見つめている悠を見て、

「そうだね。だけど今更焦るもんじゃないし。」

 藤本は少し格好をつけた。

「藤本さんは頭がいいんだね。過去問もみんないい点数ばっかり。」

 段ボールを開いた悠は、自分がやってきたテストを見ている。瀧本、俺はずっとトップの成績だったんだよ。早く気がつけよ。

「俺、本当は医者になりたかったけど、医大に落ちてね。」  

 俺は君の彼氏とは、志も実力も違うんだ。

「そうだったの?」  

 悠は思った通りの反応をした。

「瀧本さん、今日少し時間ある?」

「これからバイトなの。」

「じゃあ、バイトが終ったら少し話そう。」

「遅くなるかもよ。」

「それでもいいから。だけど、彼氏は怒るかな?」

「何の話し?」

「後で話す。グランドで待ってるから。」

 

 22時半。

 バイトを終えて、悠はグランドへ向かっていた。

「バイトで遅くなる。先に寝てていいから。」

 尚からラインが来た。

 悠は少しホッとしていた。

 藤本と2人だけで会うのは、尚を裏切っているようで心が痛んだ。

「瀧本さん、こっち。」

 藤本は悠の腕を掴んだ。


 藤本は悠に犬を見せた。

「瀧本さんを骨折させた秋田犬がいたでしょう。」

「うん。」

「その犬が追いかけたのが、この子。」

「えーっ、そんなに大きくなったの?」

「捨てたんじゃないんだよ。逃げ出したんだ。」

「そうだったの、この子も秋田犬?」

「そう。たまにこんな風に毛がフサフサなやつが生まれるんだ。」

 悠は犬の頭を撫でていた。

「もらってきたその日に逃げ出して、探してたんだよ。瀧本さんの話しを聞いて、やっと見つかったんだ。」

「そう、良かったね。この子、なんて名前なの?」

 悠は犬の頭を撫でながらそう聞いた。

「ムネ。死んだ弟の名前がムネノリ。」

 悠はびっくりして、藤本の顔を見た。

「4年前、病気で亡くなってさ。生まれつき体が弱かったから、10歳まで生きたのは奇跡だって。この犬は、ムネが可愛がってた近所の秋田犬の子供。生まれたらもらう約束してて、母さんはすごく楽しみにしてたんだ。急にいなくなって、ずっと探してたんだけど、瀧本さんの携帯に写ってたのを見て、この前、迎えに行った。」

「そうなんだ。ねえ、この子、たくさんご飯食べるんでしょう?」

「食べるよ、たくさん。」

「すっごいかわいい顔してる。」  

 無邪気な悠の事を、藤本はますます好きになっていた。

「瀧本さん、家まで送るよ。」

「大丈夫。」

 悠はそう言って立ち上がった。

「遅いし、危ないから。」

 藤本は悠を引き止めようとした。

「ううん。藤本さん、過去問ありがとう。国試頑張ってね。」 

 悠は走っていった。足元で鼻を鳴らしている犬の様に、藤本の心には、淋しい気持ちがまとわりついていた。


 悠が家に着くと、尚が待っていた。

「遅かったね。」

「ごめん。」

「悠、これ何?」 

 尚は段ボールに手を置いていた。

「これ、過去問。先輩にもらったの。」

「悠が誰と話そうと自由だけど、やっぱり、あんまりいい気持ちはしないよ。これは?」

 叶大からの手紙を悠に見せた。手紙はボタンと合わせて、机の上に置いたままだった。後でちゃんと、机の奥へしまおうと思っていたのに。

「大切な゙ものなら、ちゃんとしまって置かないと。このボタンも。」

 尚は視線をそらさず、ずっと自分を見つめている。私は何も悪い事をしていないのに、悠はそう思っていた。叶大の事も、藤本さんの事も、ちゃんと区切りをつけてきた。それを上手く尚に伝える言葉が見つからないだけ。全部説明しないと、ひとつもわかってもらえないの?

「ごめんなさい。」

 悠は尚に謝った。尚は謝る事よりも、ちゃんと悠から話しを聞きたかった。

「悠。話してよ、この手紙は何?」

 悠は叶大が両手を広げて笑った顔が浮かんだ。喉に引っ掛かる言葉を飲み込むと、

「言えない事なの?」 

 尚が顔を覗き込む。

「違う。」

 悠は大切な思い出のさらけす事が、なんだかとても辛くなった。

「俺、嫌なんだよ、こういうの。」

 尚は悠の肩を強く掴んだ。

「尚、違うの、隠してる事なんて何もない。」

「今日はこれ以上話したくないよ。」

 尚は部屋を出ていった。


 少しずつズレてきた縫い目は、最後には余分な布地を残す。初めからやり直してしまえば、悩む事もないけれど、なんとかなると思い、余っている布を隠そうと考える。

 尚に叶大の事をなんて話そう。ハルカとハルカを間違えたなんて、わかってもらえないし。

 藤本さんの犬の事も、今更話したって、ただの言い訳にしかならない。

 尚だって、勝手に勘違いして出ていったくせに。

 悠は1人になった部屋で、膝を抱えた。


 部屋に戻ってきた尚は、ポケットに悠の家の鍵が入っていた事に気づく。ため息をついて、それを机に置くと、ベッドに横になった。悠の腕が折れた時、いつもここに手をおいて寝ていたんだよな。尚はベッドに置いてあったクッションに胸を抱いた。 

 悠はなんにも考えないで、誰にでもあんなふうに笑うんだろうな。相手が勝手に勘違いして、悠の事を好きになる。悠は悪くないのだろうけど、いい加減、それで傷ついてるやつがいる事に気がつけよ。

 あんまり時間が経たないうちに、悠と会って、話しをしよう。

 尚はそう思っていた。


 次の日。

「青田くん、包帯巻く練習させて。」

 尚は同じ大学の看護学科の橋本由依はしもとゆいに教室に呼ばれた。

 交流戦の時に知り合った由依とは、学校の中で会うとどちらからともなく話すようになっていた。

 教科書を見ながら、腕に包帯を巻いていると、包帯が落ちて、転がっていった。

「あぁ、やり直し。」

 由依は包帯をもう一度巻きなおす。

「青田くんの彼女は、赤十字だったよね。」

「そうだね。」

「向こうは災害看護とかもやるんだよね。赤十字の看護師って、昔から有名だし。」

「そうなの?」

「誇りがあるっていうか、赤十字精神っていうの、そういうのがある。」

「看護師はみんな変わりないだろう。」

「違うよ。むこうは平等に人を助けるとか、看護の理念をしっかり勉強するらしいよ。」

「へぇ~。」

「私は去年、赤十字が不合格だったの。なんでだろうね、模試はA判定だったのに。ひとつしか受けてなかったから、浪人するしかなくってね。悔しくて今年は医大に絞って受験したの。ほしいものが手に入ってる青田くんの彼女が、ちょっと羨ましい。」

「それって去年がたまたま悪かったんじゃない?」

「そうかな……。はい、できたよ。」

「ちょっと、ここがもたついてるぞ。」

「本当だ。ダメだなあ。また居残りだ。」

「もう一回、やれよ。バイトまでまだ時間があるから。」

「いいの?」

「ほら。」

「青田くん、バイトって何やってるの?」

「家庭教師。」

「へぇ~、青田くんが先生なら、勉強に集中できないな。」

「何言ってんだよ。」

「彼女は幸せだね。」

「いろいろあるんだって、こっちも。」

「そういえば、実家からさくらんぼ送ってきてね、食べきれないから、青田くんにもあげるよ。彼女と食べて。」

「橋本の実家って、どこ?」

「山形。秋田の隣り。」

「山形は、こっちと言葉が違うのか?」

「わかる?」

「ぜんぜんわからないよ。」


 悠は尚と話しをしようと、バイトが終わる時間に、尚の家の前で外で待っていた。

 生暖かい初夏の風が、時々悠の肩をなでる。21時を過ぎた頃、髪の長い女の子が、箱を抱えてやってきた。

「こんばんは。」

 透明なその子の腕が、悠の目の前に青白く光る。

「こんばんは。」

 悠は小さな声で挨拶をする。車から降りてきた尚が、その子の細い腕から箱を受け取る。

「橋本、わざわざ届けてくれたのか?」

「うん。あまり日持ちしないから。」 

「遅いから、家まで送っていくよ。」

「いいよ。ここから近いから。」

「乗れよ。」

 尚はその子の肩に軽く手を置いた。

「中で待ってて。」

 悠に自分の部屋の鍵と、その子が持っていた箱を渡すと、尚は車にその子を乗せて行ってしまった。

 悠は彼女の白い腕を見た時、高校生の苦い思い出が蘇った。男の子はやっぱり、ああいう女の子が好きなんだよね。悠は尚の家の鍵を、彼女の持ってきた段ボールの上に置くと、自分の家に帰った。

 やっと涼しくなった夜の風が、頬の涙を乾かしていた。


「いいの? 彼女、勘違いしたんじゃない?」

 由依はそう言った。 

「そんなに簡単に壊れたりしないよ。」

 尚はそう言った。

「青田くんと彼女が壊れたら、私は待ってるから。」

 そう言って由依が笑う。

「嘘。ちゃんと、2人で食べなよ。私、悪者になるの嫌だから。」

「そうする。じゃあ。」


 尚は急いで家に帰ると、悠はいなかった。机の上に置いてあった悠の部屋の鍵がなくなり、代わりにさっき、悠に渡した自分の部屋の鍵がさくらんぼの入った箱の上に置かれていた。

 勝手に勘違いして。

 少しは待てなかったのかよ。

 悠の意地っ張りも、時間が経てば、そのうち何もなかったように、戻ってくるだろう。

 尚はさくらんぼを冷蔵庫にしまった。


 14章 失恋と窓際の席

 尚とはあれから話す事もなく、今年が終わる。

 楽しみにしていたクリスマスも、尚からの連絡は来なかった。自分だって意地を張っているくせに、尚の事を責めてばかり。本当は会って、ちゃんと話しがしたい。

 

「瀧本さん。秋田犬のゴロウの家が、クリスマスに彼氏と家においでって連絡があったよ。」

 藤本は悠にそう言った。

「ゴロウ?」

「瀧本さんが、受け止めたあの秋田犬。」

「あの犬、ゴロウって名前なの?」

「そうだよ。クリスマスの日。ゴロウのお嫁さんがやってくるんだって。」

「へぇ~。」

「秋田犬って、そうやって血を繋いでいくんだ。」

「じゃあ、ゴロウのお嫁さんも秋田犬なの?」

「そうだよ。仲良くなるといいんだけどね。」

「瀧本さんは、彼と一緒にいる予定なんでしょう? だったら、ゴロウの家に一緒に行きなよ。」

「藤本さんは?」

「俺は勉強があるから、行かないよ。」

 瀧本さんが一緒にいたいって言ってくれたら、すぐに予定を入れるのに。藤本はそう思ったが、悠の答えは違っていた。

「そっか。藤本さん、国試頑張ってください。」

 やっぱり、あの彼氏には敵わないのか。


「青田くん。クリスマスは予定あるの?」

 由依は尚に聞いた。

「別にないよ。」

「彼女は?」

「バイトじゃない。」

「クリスマスなのに?」

「たぶん。」

 尚の素っ気ない返事に、2人はうまくいっていないことを察した。

「青田くん、良かったらケーキの配達のバイトしない? 知り合いのケーキ屋さんが、バイトをさがしててね。」

「そうなんだ。」

「彼女が帰って来るまでには終わると思うから。」

「考えておく。」 

 バイトが終わってから、1人で家に帰る尚がいたら、偶然を装って一緒に過ごそう。由依はそう思っていた。

 次の日。尚は結局、家庭教師のバイトが入ったからと、由依のバイトは断ってきた。


 大学生になって、せっかく自由になったと思っていても、悠も尚も、いつもと変わらない時間を過ごしていた。渡したいと思って探していたプレゼントも、会ったら話そうと思っていた事も、何も準備できず、雪の降らない、ただ寒さだけが通り抜ける、そんなクリスマスが過ぎていった。 


 12月28日。 

 混み合った新幹線で帰ってきた悠は、家に着くと具合が悪いとすぐにベッドに入った。雪のせいで新幹線は2時間も遅れた。

「悠、大丈夫?」

「うん。」 

「明日、大掃除しようと思ってたから、悠も手伝って。」

「わかった。」

「ねぇ、ちゃんと食べてるの?」

「食べてるよ。」


 結局、大掃除は手伝えなかった。大晦日は具合が悪いと寝てばかりした。初詣も人混みが嫌だと言って、悠は1人て家に残った。家の中でシュークリームを食べていると、玄関のチャイムがなった。

 お母さん達、帰ってきたなら、そのまま入ってくればいいのに。悠は玄関を開けた。

「瀧本、明けましておめでとう。」

「梶原くん、どうしたの?」

「少し、話せない?」 

「いいよ、あがって。」

「みんなは?」

「初詣に行って、その後親戚の家によるみたい。」

「瀧本は行かなかったの?」

「人混み、苦手でね。それに、帰省ラッシュの新幹線で、少し具合悪くなって。」

「そっか。」

「座って。何か飲むでしょう?」

「いいよ、気を使わくても。」

「ちょっと待ってて。」

 悠はシュークリームと缶ジュースを持ってきた。

「瀧本って、甘いもの食べるんだな。」

「食べるよ。」 

「いつも辛そうにお弁当食べてる印象しかなかったから。」

「なかなか体力つかなくて、監督にご飯を食べろ食べろって言われ続いた。」

「メシハラだろ、それ。」

「その反動かな、野球辞めて、お菓子ばっかり食べるようになった。」

 2人は久しぶりに笑った。

「中学までは、野球してる事がすごく楽しかったの。だけど高校に入って、野球をやってるのが苦痛になってね。高校の最後の夏、本当はホームランを打たれて、これで終ったって清々したの。」

「俺は野球してる瀧本が好きだったよ。」

「梶原くんより日に焼けてて、恥ずかしかった。」

 悠は自分の腕を触った。

「瀧本、なんかまた小さくなったよな。勉強はそんなに大変なのか?」

「ううん、楽しいよ。」

「梶原くんは学校、楽しい?」

「普通だよ。なあ、本当にちゃんと食べてるのか?」

「食べてるよ。」

 叶大は悠の顔をずっと見ていた。

「俺、遥と別れたんだ。」

「うそ!」

「遥に好きな人ができたみたいで、手紙の相手を間違ったのは、俺の方だったけど、遥と一緒にいて楽しい事もたくさんあったし、少し落ち込んだ。」

「梶原くんはそれでいいの?」

「遥といても、ずっと瀧本の事が忘れられなくて、悪いのは俺の方なんだ。今日はちゃんと言いに来た。」

 叶大は遥の手を握った。

「梶原くん、もう高校生じゃないんだよ、私達。」

「知ってるよ。ずっと待たせてしまったな。」

 悠は梶原のまっすぐな目を見た。

「ごめん。私、待ってる事、できなかった。」

 悠がそういうと、梶原は悠を抱きしめた。

「俺が手紙を間違えたから。」

 どうしてか、涙が出てくる。

 遥を待っていた教室の夕日が、歪んで見えたあの日。図書館で目に止まった「長距離走者の孤独」という本。何度ページをめくっても、文字も何も頭に入ってこないのに、孤独という言葉だけが自分の中で響いていた。

 遥がただ、羨ましかった。

「瀧本、ずっと好きだった。」

 叶大はそう言うと、悠の顔に近づいた。

 悠は首を振った。

「梶原くん。私ね、梶原くんの事が好きだった。遥の事がすごく羨ましかった。」

「だったら付き合おうよ。」

 悠はもう一度顔を近づけようとした梶原の胸を、両手で押さえた。

「瀧本。」

「私、ずっと待ってる人がいるの。待ってるし、探してるし、なんだかずっと迷ってる。もう待ってても来ないかもしれないのに、苦しいね。なんだろう、本当に。」

 悠は泣き顔で笑った。

「そっか。」

 叶大は悠が自分の胸を押さえていた手を、下に下ろした。

「梶原くん、バレーボール、続けてるの?」

 悠はそう言った。

「うん。緩くね。瀧本は?」

「ボールを受けるのが、すごく怖くなった。」

 下をむいた悠は、もう自分の知っている悠ではなかった。あの頃、自信に満ち溢れていた肩は、今は小さく震えている。

「あんなに鉄壁の守りだったのに、なんでそんなに、辛くなってるんだよ。」

「……。」

「瀧本が受け止めた人ってどんなやつだよ。アウトにならなったのか?」

 悠は笑った。

「大きな秋田犬。」

「まさかだろ。」

「犬を受け止めて、私が怪我をして、その時ずっとそばにいてくれた人。」

「それは大変な出来事だったな。どうして、その人を探してるとか言うんだよ。たくさん助けてくれたんだろう?」

「ちょっとした事だったの、気持ちを聞けないまま、会わなくなった。」

「瀧本、大丈夫か? 本当に。」

「うん。」

 梶原は悠をもう一度抱きしめた。

「たくさん泣けよ。俺に失恋したのは、おまえの方だからな。」

 叶大の優しさがとても痛む。心のどこかで、このまま叶大に受け止めてもらえたら、どんなに気持ちが楽になるだろうと、そう思ったりもする。

 だけど、尚の事を忘れるなんてできないよ。


 次の日。

「悠、もう帰るの?」  

「うん。新幹線が混まないうちに。」

「そうとう、トラウマになったのね。」

「お姉ちゃん、お餅持って行ったら? ぜんぜん食べれなかったじゃない?」

「明日、鰻でもとるつもりだったのに。」

「また鰻。お父さん、私、鯖の方が好きだよ。」

「なんだ、悠は鯖の好きだったのか。それなら今度、鯖寿司買って持っていくよ。」

 家族に駅まで送ってもらうと、冷たいお茶を母が買ってきた。

「ちゃんと食べるのよ。」

「うん。」


 駅にいた尚は、悠を゙見かけた。

 年末、雪で国道が通行止めになったので、新幹線で帰省していた。親戚達がいろいろと聞いてくる実家の正月は、なんとなく居心地が悪い。早めに帰って課題をやってしまおうと思い、秋田へ帰る切符を買っていた。悠が新幹線に乗り込むのを見た尚は、座席を変更したいと、車掌に伝えた。

「今日は空いているから、どこに座っても、隣りに気を使うことはないと思いますけど。」

「知り合いが乗っているんです。どうしても、近くで話しがしたくって。」

 

 お正月の間のせいか、空いている車内。きっと、隣りの人はこないだろうと、悠は窓側に座った。

 ガラガラのホームを見ていると、発車ベルがなる。

 悠の横に、男性が切符を持って立っている。

「あっ、ごめんなさい。」

 空いているのに、わざわざここに来るなんて、なんだか少し変な感じがしたするけれど……。

 悠が席を移ろうとしたら、

「いいよ、通路側で。」

 聞き覚えのある声。

 男性は悠の隣りに座ると、窓に置いてあるお茶に手を伸ばした。悠は伸ばした手の先を、チラッ見た。

「尚!」

「早く気がつけよ。」

 そう言うと、尚は窓に置いてあるペットボトルのお茶を飲んだ。

「悪かったな。ちゃんと話しも聞かないで。」

 尚は悠の手を握った。

 握っている尚の手の上に、悠の涙が落ちる。

「たくさん、時間があるからさ、何から話す?」

 

 15章 約束

 やっと解けた引きつった縫い目。自由なった布同士が、穏やかに向かい合う。

 ごまかそうとすればするほど、次にどうやって繋げたらいいのか、あんなに悩んで迷っていたのに。

 糸をほどいてしまう事は、本当ら簡単だったね。

 その勇気が、なかなか出なかっただけ。


 秋田に戻ってきた次の日。

 悠は寝込んだ。年末からずっと体調が悪かったけれど、なんとなく、そのうち治るだろうとやり過ごしていた。昨日、自分の部屋へ戻ってきた安堵からか、悠はとうとう高い熱を出した。

 そばには、ずっと尚がいる。

「伝染るから、自分の家に戻って。」

 悠はそう言ったが、尚は離れなかった。

 悠が何度も寝返りを打つ横で、尚は大学の課題をやっていた。

「明日、病院へ行こうか。」

「大丈夫。もうすぐ下がるから。」

 尚が悠の額に手を当てる。

「まだ、下がらないみたいだね。」

「うん。」

 悠は目を閉じた。

 

 少しすると、

「ねえ、私の手袋が片方ないの。」

 悠は何かを探している。

「どうした、悠?」

「これじゃあ、打席に立てないよ。」

 悠は尚の服を引っ張った。

「悠、野球はもうしなくていいんだ。」

「せっかく買ってもらったばかりなのに。」

 虚ろな悠を、尚は落ち着かせる。

「ほら、薬飲みなよ。明日は病院へ行こう。」

 そう言って、市販の解熱剤を悠に渡した。

「ありがとう。」

「水、少し多めに飲まなきゃダメだよ。」

「うん。」

「悠。ちゃんと食べてたのか。」

「だって監督が食べろって、いつも言うじゃない。私、ちゃんと食べてるよ。」

 さっきから、悠は辻褄の合わない事を言っている。

「もう、わかったから。」

 尚は悠をベッドに寝かせた。

 ぬるくなった悠のアイスノンを取り替えた。俺が酔っ払った時、悠はアイスノンをあててくれたよな。

「大丈夫か?」

 悠はさっきから腰をさすっている。

「痛むのか?」

「平気。」

 悠、やっぱり、キャッチャーは辛かったんだろう。尚は悠のさすっている腰に手を置いた。悠は安心したようにまた眠りに落ちる。

 何度も寝返りを打つ悠は、さっきから夢の中と現実を行ったり来たりしているようだ。辛そうに背中を丸める様子を見ていると、なんだかこのまま、消えてしまいそうだった。

 

 午前2時。 

 課題をやっていた途中で、眠ってしまった尚を、悠は起こした。

「そんな所で寝てたら風邪引くよ。」

 悠の熱い手が尚を手を掴む。

「悠こそ、大丈夫なのか?」

「ここにもう一つ布団があるの。尚、使って。」

「そうだったな。」

 ペットボトルの蓋が、なかなか開かないでいる悠を見て、尚はそれを開けて悠に渡した。

「ありがとう。尚に何度も助けられたね。」

「また、熱が上がってきたんだろう。」

 尚は悠のおでこに手をあてた。

「大丈夫だよ。」

 悠はそのまま、床に倒れ込んだ。


 どれくらい眠ったのか、眠り過ぎて体のあちこちが痛む。

「悠、気がついた?」

 母が悠の顔を覗いた。

「お母さん、どうしたの?」

 悠は上を見上げると、真っ白な天井がひろがる。腕を動かそうとすると、その手には点滴が繋がっていた。

「病院なの?」

 父の後ろに尚が見える。

「尚。」

 悠が呼ぶと尚が悠の近くに来た。

「悠、聞いて。」

 母が話し始める。

「悠、子供の頃からよく熱を出してたでしょう。ほら、溶連菌ってよく言われてた風邪。本当は熱が下がっても、ちゃんと菌がいなくなったか検査が必要だったんだけど、元気になったからって、病院なんて行かなったよね。少しずつ体の中に残ってた菌が、腎臓に溜まって、時々悪さをしてたみたいなの。今はね、点滴で溜まった菌をなんとか追い出そうとしてるんだけど、なかなかすぐにはキレイにならないみたい。片方の腎臓はもうあんまり働けないかもって、先生が言ってた。」

 悠は母の顔をじっと見ていた。

「ごめんね。お母さんがちゃんと病院に連れて行っていたら。」

 悠は首を振った。

「お母さんのせいじゃないよ。」

 悠は尚を見つめると、また目を閉じた。


 1週間後。

 退院した悠は尚の部屋にきていた。

「ごめんね。いろいろ迷惑掛けて。」

「良かったな、腎臓も良くなったみたいだし。」

「熱を出してから、入院してた時の事、あんまり覚えてないの。みんな切り取られたみたい。」

 尚は悠の肩に手を回した。

「熱でうなされた時、探し物したり、俺の事を監督と間違えてたり、そうとう辛かったみたいだよ。」

 悠の頭を尚は自分の肩に乗せた。

「そうだったの? ぜんぜん、覚えてない。」

「辛い時って、辛い時の思い出しか出てこないのだろうな。昔、自分がそれから乗り越えた方法を、なんとか思い出そうとするのかも。」

 尚は悠の顔を見つめた。

「そうなのかな。ねえ、尚。私、他になんて言ってた?」

 悠は尚の袖を引っ張った。

「それはね……、教えないよ。」

 尚は意地悪な顔をした。

「なんで?」

「こう言うこともあったんだなって、思ったから。」

「ねえ、教えて。」

「教えない。」

 尚は悠を抱きしめた。

「これから、なるべく熱を出さないようにしないとね。」


 浴室から出た尚は、窓を見ていた悠の背中を抱きしめた。

「こんなに小さくなったら、ホームランなんか打てないな。」

「打たなくていいよ。バントするから。」

 悠はそう言って笑った。

「本当に勝ち気だね。」

「尚だって、意地っ張り。クリスマスも1人だったんでしょう。」

「そうだよ。悠は?」

「私はあの秋田犬ゴロウの家に呼ばれた。」 

「ずるいな。俺も誘えよ。」

「あの仔犬、藤本さんの家から逃げたしたみたいだよ。」 

「そうだったんだ。」

「今はね、藤本さんの所にいる。」

「あのフサフサは雑種なのか?」

「秋田犬だって。たまに、そういうのか生まれるらしいよ。」

「冬はあったかいだろうな、」

「本当だね。」 

「そろそろ、寝ようか。疲れただろう。」

「うん。」

 尚の腕枕で、悠は目を閉じる。

「いろんな事があったね。」  

 尚がそう言った。

「本当に。」

 悠は尚の胸に顔を近づけて目を閉じた。

「悠。」

「何?」

 目を開けた悠は、尚を見上げた。

 尚は悠の頬に手をやると、何度もキスをして悠の体を包んだ。

 

 朝。

 まだ眠る尚の手を悠は握った。

「おはよう。」

「おはよう。悠、まだ早いから、もう少し寝ようよ。」

 尚は悠を胸に抱いた。 

「悠。」

「ん?」

「あと4ヶ月で、やっと二十歳か。」

「そうだね。尚は?」

「俺は26になるのか。19の彼女なんか、少し前まで、信じられなかったわ。」

 尚は悠の髪を撫でた。

「尚……。」

「どうした?」 

 尚は悠の背中を優しく包む。

 言いたい話しはたくさんあるのに、どんな風に伝えたらいいか言葉が見つからない。

 2人の間に静かな空気が溶けあって流れていく。


 悠はそのまま眠っていた。

 起こしておいて、先に眠るのかよ。

 尚は眠っている悠に静かにキスをした。


 もう一度人生が選べたとしても、

 また同じように君を探すよ。

 たまたま隣りに座っただけじゃない。

 こうして隣りに座る日を、俺はずっと待っていたんだ。

 君が見た歪んだ夕日も、降り続い雪も、キレイに線の入ったレントゲンも、左で構えた真剣な目も、引き出しにあったボタンも、机に置いてた部屋の鍵も、君に繋がった点滴も、窓に置かれた汗をかいたお茶も、

 ひとつずつ停まって、やっとここまできたんだね。

 この先の景色は、2人で見ようか。 

 疲れたら寄り掛かっても眠ればいい。

 君に見せたい景色が広がったら、また起こしてあげるから。


 終。

 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ