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このなんとも言えぬ独特な浮遊感――。
物語などで読んでいたとおり、幽霊とは宙に浮くものらしい。
そしてわたしの目の前には見たこともない男子がいる。
たぶんこの子は生者、いきている。
男の子は、ごしごしと一心不乱に歯を磨いている。
どうやら一人暮しらしい。
まさかわたしが見えてなどいないだろうが、間違って物音を立ててしまったらきっと怖がらせてしまうだろう。ポルターガイスト現象の発生源になってみたい気はちょっとするけれど。しばらくはこのまま宙に浮いた状態でおとなしく漂っていることにしよう。
ぽよーんと壁に当たって跳ね返る。
気持ちがいい。
幽体なのだから、たいがいのものは通り抜けてしまいそうなものだが、なぜだか壁は通り抜けできないらしい。
でもなんだかぽよぽよでとってもよい心地なので気にしない。
生前、宇宙へ行ってみたかったけれど、思わぬところで無重力体験ができるとは思いもよらないことだった。もしかしてこの状態のまま窓から外へ出て行ったら風に飛ばされて何処までも飛んでいき、そのうち成仏できたりするのかもしれない。
「しかしなー」と、呟いた。
千だか万だか知らないが、まだ風とかにはなりたくないな。
だからしばらくここにいてこの男の子を観察していよう。
男の子はわたしと同じくらいの年。
風貌は――うん、正直いうとちょっと好みだ。
そもそも、わたしが命を落としたのは、不治の難病が原因だった。
長期にわたる、とても苦しい病気だった。
思い出すだに恐怖で身震いしそうになるけれど、今となっては痛みもない。
それどころかふわふわして気持ちがいい、本当に天国に来たみたいだ。
でもここはたぶん、現世なんだろうなあ。
わたしが生きてきた場所と異なる世界だとは到底思えない。
好きだったアイドルがテレビでスナック菓子の宣伝とかしてるし、コンビニの袋とかカップ麺の容器とか散乱してるしね。
もう少し片付ければいいのにな。
机の上に放置されたままの封書に目をやると、宛名が見えた。「佐藤有紀哉様」となっている。それがこの男の子の名前なのだろう。「ゆきや」と読むのだろうか。
書棚に並んだ本の背表紙を一見すると、大学生とかだろうか。
ふわりんと浮いていって彼のほうへ。
反動で体がくるっと前転して逆さになるが、むろん頭に血がのぼったりはしない。
壁には当たって跳ね返るけど、人は通過する。
男の子をするりと抜けたところで回転が止まり、ちょうど顔の真正面に上下逆になった彼の顔がある。ほんのいたずら心で、歯ブラシをくわえたままの男の子にどうせ聞こえはしない小言を言ってみた。
「駄目だぞユキヤくん、もうちょっと小綺麗にしないと女の子にモテないぞ~」
「余計なお世話だよ」
は!?
なななななな!
どうして?
「何をそんなに慌てている……」
「だって、えっ、み、見えてるの? 聞こえてるの?」
「見えてるし、聞こえてる。だから答えてる」
有紀哉くんは不機嫌そうな声でそういった。
「わ、わたし、たぶん幽霊だよ?」
「そうみたいだな」
「怖いとか、ないの?」
「昔からそういう体質だからへーき」
そういうもの、なの?
「やっぱそういう人いたんだ……霊能者……ってやつ?」
「まあ、そうかな」
話には聞いてたけどね。
だからこの人のところへ出ちゃったのか。
そしてわたしはどうやらやっぱりまちがいなくたしかに、幽霊になっていたみたいだ。
でも不思議だ。自分が幽霊だという実感がまったくない。
「死んだらぼんのーとかもなくなって心持ちが穏やかーとかなるのではと思っていたのだけど、生きてた時とまるっきり一緒なのね」
「ぼんのーがなくなってねーから成仏できてねえんじゃねーの?」
「はっ! おっしゃる通りです……」
消え入りそうなくらい恥ずかしかったけれど、気をとりなおして宣告した。
「ということで、ユキヤくん。あなたわたしの成仏に協力しなさい!」
「無理」
「なんですとー!」
「単なる学生のおれにそんな方法がわかるわけがない」
「いちいちごもっともだな!」