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5th Race:日曜日の静寂


 ノックの乾いた音が軽やかに控室に響く。ドアが開くと、入って来たのはやはり彼女だった。



「あらっ? おはようございま~す」


「あっ……おっ、お早うございます」



 かなり体勢を整えて待ち構え座っていたはずだが、少し動揺して立ち上がった。彼女はロッカーから自身のユニフォームを手に取ると、控室を出て更衣室に入っていった。

 雑音混じりの彼女の声しか知らなかった僕は、クリアでまろやかな声の余韻に浸り、呆然と突っ立つのみ。



 ホールのユニフォームに着替えた彼女は、着ていた服をロッカーへ戻すと、何か一言僕に言い残して、就業時刻の十分以上前にもかかわらずそそくさと行ってしまったらしい。

 声を聴いた途端に軽く意識でも飛んでいたのだろうか。次に入ってきた先輩に声をかけられ、我に返った。時計を見ると、就業時間の五分前だった。慌ててキッチンへ向かい、何事も無かったように仕事に就いた。



  調理をしながら合間を縫って閉店作業。しなければならない事が山ほどありなかなか大変なのだが、彼女と同じ空間にいることは、気持ちを前向きにさせてくれた。



 忙しいほど体感時間は短く、あっという間に時計の針は午前二時。

 調理の練習も兼ねて、まかないにハンバーグを二枚。パティの真ん中を軽く窪ませ、焼こうと思えば二〇枚くらいは一度に焼けそうな、大きくて高温の鉄板に置く。

 塩コショウで下味付けて、湯煎されている袋入りのホワイトソースで和えただけの、シンプルなポテトグラタン。

 パティの両面を焼く間に、アイスクリーム用ディッシャーを使って、一人前用の冷めた鉄板にパコっと乗せる。

 焼色がついただけの生焼けパティも盛り付け、オーブンへ。三分少々すると焼き上がる。木板に取りソースをかけて完成。



 パントリーの様子だと、ライスだとかお冷やだとか食器だとか、彼女が先回りして用意してくれているようだ。朝五時まで勤務の先輩に挨拶し、ハンバーグ両手に控室へと急ぐ。



 控室の中から足音を聞きつけた彼女は、僕の両手が塞がっている事を察して、ドアを開けてくれた。



「おつかれさま」


「あっ、お疲れ様です」


「きょうは吉野くんが作ってくれたのね」


「美味しく出来てると良いんですけど」


「だいじょうぶ! ちゃんと出来てるわよ……っていうか、いまの今までちゃんと挨拶できてなかったわね。あらためて、松雪です。よろしくね」


「あっ、吉野っていいます。こっ……こちらこそ宜しくおねがいします」


「さぁ、さめないうちに食べよっか」


 彼女の名前は松雪栄子。存在を知り早や一月半。すれ違うのみ、会釈するのみだった彼女は今、僕の目の前に座っている。



 本心では、自分が愛情込めて作った料理を食べてもらいたいと思っていた。まぁそれがたとえマニュアル調理されたまかないだったとしても、誰かに食べてもらえることは根本的にはありがたいことで。


 その対象が、一瞬で世界がひっくり返る程の一目惚れをした女性。


 二人きりのこぢんまりとした空間。

 彼女の控えめな口の大きさに合わせるように、デザートフォークに刺さった小さな肉片がひとつ、ゆっくり吸い込まれてゆく。



「吉野くんは大学生?」



 緊張が伝わっているのだろうか。ほんの少しの間すら保てなくて、彼女から沈黙を破る声を掛けてくれた。



「あっ、はいっ」


「もしかして、そこの蔵本キャンパスだったりして?」


「あっ、いや、常三島の化学科なんです」


「あら、そうなの。ここまで来るの、たいへんね」


「いえいえ、そんなことないですよ。松雪さんは? お昼間は何かされてます?」


「うん。派遣で事務やってるの」


「昼も夜もだと、時間的にかなり大変じゃ?」


「こっちは毎日じゃないから、だいじょうぶよ」



 至って普通の日常会話的やり取り。ただそれだけなのに、緊張でガッチガチなのに、実は楽しくてしょうがない。



「あ〜っ! そうそう。きょう出勤したときどうしてたのよ?」


「んっ? 何かありましたっけ?」


「いつもは暗いから、何かおかしいとおもったのよ。ボーっとしてて放心状態だったじゃない?」


「えっと、閉店作業覚えるの大変だなぁって考え事していて……」


 固まっていたのは貴女のせいだとは、言える由もなかった。



 かなり遅めの二人きりのディナータイムは、あっという間にお開きに。食器を返却口に置き、キッチンに向かって、


「ごちそうさまでした〜」


と、投げっぱなしの挨拶をする。



 面接の日はここまでバスで来たのだが、採用されてからは自転車で通勤していた。盗まれたりしないよう、自転車を裏口からバックヤードに退避させている。

 コックシューズを慌てて履き替えると、いつもより大きく、下駄箱の蓋が鳴り響いた。自転車を出しているうちに、彼女は先に帰宅してしまったようだ。最後に挨拶出来なかっただけなのに、少し胸が痛む。




 ウイークデーは基本的に次の日が授業なので、深夜二時に上がって彼女とまかないを食べる、という勤務だった。ただ土曜日に限っては、次の日曜日が休みかつ当日の昼間に休息は取れるので、十時から翌朝まで働くこともあった。彼女も同じく、土曜日のみ翌朝までの勤務だった。


 そうすると、休憩時間に一緒にご飯を食べて、くだらない話をして。さらに閉店後には、お客様のいない客席のソファで本日二度目のおしゃべりタイムがやってくる。


 夜が明けて、外は秋口のややひんやりと澄んだ空気。週末の早朝の国道を走る車はほぼいない。清々しい気分で彼女と一緒に飲む、午前五時のモーニングコーヒー。美味しさと共に、つくづく日曜日の静寂は素晴らしいと感じるのだった。




 仲良くしてもらうまではそんなに時間はかからなかった。当然のことながら仕事を一緒にしているわけで。できることが多くなるにつれ、たとえそれがキッチンとホールで分かれていたとしても、意思疎通は増える。少しずつ信頼関係も構築されていく。



 休憩時間や日曜の朝だけでなく、彼女を独り占め出来る時間は他にもあった。


 彼女は、レストランから僕の帰宅する方向へほんの十分弱ほど進み、交差点を渡ってすぐのマンションに住んでいたので、そこまで送ることが習慣のようになっていた。


 いつからか彼女は、自転車の支度が整うまで待ってくれるようになっていた。準備が出来てふたり歩き出すと、僕は右手でハンドルを持ち、車道側に陣取る。


 彼女の一歩前を歩いては、こんなに綺麗な人を連れて歩いてるんだと優越感に浸る。

 横並びで歩いては、楽しく会話をする。

 また、一歩下がっては後ろ姿を眺めてみる。


 毎度毎度のご褒美は、何よりも楽しかった。



「おつかれさま」


「お疲れ様です。松雪さん、次の出勤はいつでしたっけ?」



 彼女が明日シフトに入っていない事くらい、当然ながらとっくの昔に把握している。

 ただ一緒に居る時間が少しでも延びるように、綺麗な声が少しでも長い間聴けるように、あえて知らないフリをしてみる。



「えっと、あしたは入ってないから、あさってね」


「そっかぁ、明日は会えないのかぁ、残念。お昼のお仕事頑張ってくださいね。じゃあ、おやすみなさい」


「吉野くんもちゃ~んと授業うけるのよ! またあさってね~。おやすみ~」



 彼女がマンションの奥へ吸い込まれていくのを確認して、自転車を漕ぎだす。このままでいいのか……。もっと先へ進みたいのか……。


 自転車で切り裂く夜の風は激しく、彼女のマンションから距離が離れるほどに、冷たさを増していった。

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