温泉社会人百合
安藤美奈子は、会社員だ。今年三年目のそこそこ普通の会社員。今日も会社に行くため、最寄駅から快速にぎゅうぎゅうと電車内に詰められて、8時間の仕事をする。それはいい。幸運にも福利厚生がしっかりしたホワイトに入り込んだので、基本的に残業もなく、休日もしっかりある。あるのだけど、今日は、仕事の後に飲み会がある。
それはもう決定事項だ。基本的に断ってきたのだが、今回は美奈子が大口の契約をとれたお祝いと言うことで美奈子が主役なのだ。一週間前から決まっていて予約もされている。
あー、めっちゃくちゃ嫌っっ!!!
「……」
ドアが閉まります。
目の前を、限界まで人が詰め込まれた電車が発車していったのを見送り、美奈子は大きく息をついて、電話を手に取った。
「あ、もしもし、課長。ごほっ。すみません。今日、実は、ごほごほ。急に体調を崩してしまって。はい。そうなんです。せっかくお祝いしていただけると言うことで、頑張ろうと、なんとか駅までは来たんですけど、はい。はい。すみません。ごほごほ。お気持ちだけで私は大丈夫なので、ごほ。みなさんで、楽しんでください。ごほごほ。ありがとうございます。みなさんにもよろしくお伝えください。ごほごほ。はい、失礼しますごほ」
最後にはゴリラの語尾のようになってしまったが、何とか疑われずに、有休を取得することに成功した。
普段から実に真面目な勤務態度であることに加え、課長がとてもいい人であることが幸いした。まあ、いい人だからこそ、さすがに今回の飲み会を断り切れなかったのだけども。
「ふぅ……ふ、ふふ」
今日は金曜日だ。これで三連休をゲットしたことになる。正直、週明けのバタつきが多少恐いが、今日は重要な打ち合わせの予定もない。引き継がされるだろう後輩にはまた別に謝罪しておくとして、今日はもう忘れよう。
さて、しかし、せっかく家をでて駅まできているのだ。このままUターンは味気ない。せっかくなので、いずれ疲れた時にととっておいた、日帰りできる距離の温泉にこのまま向かおう。
電車で3時間なので、8時過ぎの今からなら乗り継ぎに失敗しても昼までにはつくだろう。
美奈子の趣味は温泉巡りだ。大きなお風呂で手足を伸ばして入るあの快感にかえられるものはない。仕事で疲れたり嫌なことがあった日は、必ず帰りに銭湯によるのが、毎日仕事を頑張るコツだ。
なので当然今も、鞄の中には着替えとお風呂セットが入っている。早速お風呂に向かおう。
スーツなのはマイナスだが、この際そんなことは気にしない。むしろ、世間が働いている中、悠々とお風呂に入る快感のスパイスになるだろう。
とりあえず、会社気分になる眼鏡をとってきっちり固めた髪をほどく。これで一息。お次は携帯電話でルート検索。10分後には電車が出発する。別のホームだ。美奈子は足取りも軽く歩き出した。
○
「一つください」
温泉街と言えば、温泉まんじゅうだ。駅を降りてすぐ漂ってくるいい匂いに、思わずそう注文していた。蒸かし機を扱っているおばちゃんはにっこり笑顔で取り出してくれた。
「はい。あつあつの出来立てだから、気を付けてね。そっちにお茶あるから、自由にのんでゆっくりしていってね」
「はい。ありがとうございます」
何はともあれ、無事、温泉街にたどりつけた。今日が憂鬱すぎて少し寝不足気味なので、途中で寝てしまい、危うく乗り過ごしてしまいそうだったが、足先を誰が蹴ってくれたおかげでぎりぎり乗り換えにも成功した。
急いでいたあの乗客も、今頃は仕事に追われているのだろう。そう思うと、なおさらお饅頭が美味しい。
「ごちそうさまでした」
「はーい、そこ置いといて。お仕事頑張ってね」
「ありがとうございます」
スーツだからか仕事と思われた。愛想笑いで流しておく。
軽く小腹も満たしたところで、お風呂だ。一番日の高い時間に入ると思うだけでうずうずしてくる。
どの温泉施設に行くかについて、昔ながらのお風呂を回るのも楽しそうなのだけど、美奈子は小心者なので、基本的に冒険はしない。今回は特に着替えしかないので、サービスがしっかりした大きめのスーパー銭湯的施設を、移動中に調べておいた。
なので迷うことなく、地図アプリが示すまま歩を進めた。
「更衣室は向かって左側です。鍵は紛失されませんよう、お気を付けください」
「ありがとうございます」
「はい。では、どうぞごゆっくりお寛ぎください」
さすが接客業。見るからにサボりのスーツ姿の客にも笑顔のまま対応してくれた。館内着も雰囲気のある浴衣のような簡易服だ。少しだけ心もとなく感じたが、ひざ下まであるのだから贅沢は言えない。
館内着で食事ができるスペースもあり、金曜日の昼間だからか、そこそこお客の姿はあるが、もちろんお風呂が先だ。
更衣室のロッカーに荷物を放り込み、積んであるハンドタオルを一枚いただく。髪ゴムを忘れないのは最低限のマナーだ。先に洗面所で洗顔して化粧を落としてから中に入り、湯気に身震いしながら、入り口の大きな瓶から駆け湯をしてはやる気持ちは抑えつつ、まずはシャワー場へ。
シャンプーやリンスも備え付けのものをつかうのが、美奈子のマイルールだ。手に取り、しっとりした感触を楽しみ、匂いを堪能してから順に髪を洗い、体も洗う。
ぴかぴかに体を磨けば、髪をまとめて、いよいよ入浴だ。
「はあぁぁ……」
思わず声がもれた。はっとして周りを見るが、お昼時でもあるが、客はいる。が、数人レベルで、近くにはいない。こちらを注目している人はいない。大丈夫だ。
気を取り直して、まずは普通の天然温泉で体を温めたら、次は炭酸温泉。硫黄の匂いが強く苦茶色のお湯は、何とも言えない心地よさだ。そして他にも、効能のあるお風呂はたくさんある。日替わりのハーブ湯もそうだし、別の源泉からひかれた飲用もできる湯まである。
そっと飲んでみるが、思ったほど癖もない。体がぐんと健康になった気になる。その勢いで、今度は露天風呂だ。寝湯に壺湯、滝湯、と言った変わり種もあり、一番大きな露店風呂と交互に全て堪能して、最後に塩サウナでじっくり温まったら、水風呂ですっきりして、またお風呂で人心地ついてから美奈子はお風呂をようやくあがった。
「ふうぅ」
さすがに少しのぼせ気味だ。しかしまだ終わりではない。昼食を食べてしっかり休んで、もう一度だ。今度は岩盤浴も利用するつもりだ。岩盤浴もとても気持ち良いので、楽しみにとっておいたのだ。
美奈子は熱い息を整えながら、バスタオルで水気をとっていく。替えの下着はもちろんあるが、ここではいてしまうと、二回目の入浴後に同じ下着をつけることになってしまう。
美奈子はそれが好きではない。幸い、館内着は生地もしっかりしているし、しっかり紐を結べば大丈夫だろう。美奈子は周りを一度見まわして、客がいないことを確認してから素早く館内着を身に着ける。人には言えないが、割とよくやることだ。ノーパンでも気づかれなければ問題ない。
着替え終わった美奈子は堂々と更衣室を出て、バスタオルを肩にかけながら食堂に向かう。
メニューを吟味し、ここはしっかり食べたいので、地元のお肉をつかったかつ丼をチョイス。お風呂は結構体力をつかうのだ。
会計をすませ、さっさと受け取り席につく。セルフサービスのお茶を用意して、いざ食べよう、と手をあわせる。
「い」
「隣、いいですか?」
「あ、どうぞ? え?」
いただきます、と言おうとした瞬間、テーブルの横にきた人に声をかけられ、気恥ずかしさから反射的に答えてから、美奈子はハッとしながら相手を見る。
お昼時を多少すぎた平日だ。8割が空席である。こんなに空席のたくさんある中、わざわざ相席、しかも隣なんておかしいに決まっている。
「へ?」
変な人だ! すぐ逃げないと! と思いながら相手を確認して、美奈子は再度奇声をあげてしまった。何故なら、隣に何食わぬ顔をして座ったのは、顔見知りだったからだ。
「あら、どうかした? 安藤さん」
「え、い、いえ。え、え? 篠山先輩? ど、どうしてここに?」
そこにいたのは、美奈子と同じく館内着を着た、会社の先輩である篠山玲子だった。
「もちろん、私もお風呂に入りに、に決まってるじゃない。偶然見かけたから来たんだけど、迷惑だった?」
「あ、い、いえ……全然。大丈夫です」
しっとりした髪をおさえながら、ふふ、と微笑んでいるが、おかしい。今日は会社が休みでもなんでもないのに。とは思うけど、美奈子が言える立場ではない。下手なことを言えば、仮病で病欠したことがばれてしまう。そうなれば、会社での信用は地に落ちる。
単純に玲子が事前に有休をとっていて、たまたまここに来ていて見かけたから、と言うなら、変に拒絶しなければ、美奈子も普通に有休をとっていたと解釈してくれるだろう。
動揺しながらも、美奈子は何とか笑顔で応えた。
「そう。ありがとう。じゃあ、いただきましょうか」
「はい。いただきます」
驚いたが、しかし、まぁ、仮病がバレさえしなければ問題ない。普通にばったり会っただけとして、お昼を食べたら分かれればいい。
そうだ。実は別の用事で有休をとっていたけど、急遽なくなったからお風呂にきたことにして、それで少し気まずいから黙っていて、とか言えば完璧だろう。友人の結婚式と言うことにしよう。急遽婚約破棄された友人には申し訳ないが、非実在新婦なのでいいだろう。
気を取り直して、普通に食す。美味しい。カツがさくっとしていて、お肉は肉厚。卵がとろりとしていて、ご飯が最高にすすむ。空腹のお腹に染みわたる。
がつがついきたいのを、先輩の前なのでさすがにマナーに気をつかいつつ食べる。
「美味しい? 安藤さん」
「はい。美味しいです。篠山先輩のは、トンテキですか?」
「ええ。豚が名産みたいだしね」
「篠山先輩にトンテキって、何だか意外な組み合わせですね」
「そう?」
「はい。あ、もちろん、いい意味でですけど」
玲子はいつも髪がかるくウェーブしてととのえられ、ほんわかした雰囲気で仕事をこなす。もちろん仕事もばりばりできてその空気感なので、ひそかに尊敬する美人先輩だったのだ。なので、いかにも肉、と言ったトンテキを食べるのは何だか意外だ。
もちろん、悪いことではないし、何となく親近感もわくから、むしろ少し嬉しいくらいだ。
「そう? ふふ。でも、意外なのは安藤さんの方じゃない?」
「え、そうですか? かつ丼、まぁ、一緒にランチを食べるとなると、あまり食べませんでしたね。どんぶり物を、綺麗に食べる自信がないので」
「ふふ、それもだけど、それだけじゃないわ」
「ん? 何かありました?」
「ええ。だって、真面目な安藤さんが、まさか仮病をつかうなんて」
「……え? 何のことですか?」
「ふふ。隠さなくてもいいわよ。いい意味で、意外に思っただけだから」
いい意味でって。先に言ったのは確かに美奈子だけども。だけどどう解釈してもいい意味には聞こえない。あれだろうか。弱みを握って脅すことができるようになったラッキーと言う、いい意味で?
それ私にとっては悪い意味ー! と混乱しながら、美奈子は右腕がぷるぷるしだしたのでそっとお箸をおいた。
「いったいどうして、そのようなことを? 篠山先輩の仰っていることが、わかりかねます」
そしてくい、と眼鏡をかけなおそうとしてなかった。会社モードになりかけた気持ちが一瞬でポンコツに戻ってくる。
あわわわ。いったいどうすれば。と慌てる美奈子に、玲子はくすりと普段見せない妖艶な笑みを浮かべ、そっと身を寄せてきた。
「ふふ。そんなに警戒しないで。告げ口なんて考えてないわ。それより」
「ひゃっ、な、なんですか。女同士とはいっても、そんな、触らないでください。痴漢ですよ」
びびる美奈子に、玲子は左手ですっと美奈子の太ももを撫でてきた。友達でもないし、友達だとして、意味もなく太もも触るのはおかしい。ますます混乱する美奈子に、玲子は顔をよせてきて、そっと耳打ちする。
「焦るでしょ? だったら、ちゃんと下着はつけなきゃだめよ」
「っ……は、はははは。なーにを仰っておられるのでしょうかー?」
「あなた、今日初めて知ったけど、追いつめられると誤魔化すの本当に下手ね。可愛いわ。私も同じタイミングでお風呂からあがっているのだから、説明はいらないでしょ?」
「……いや、あの、別に、変な意味とか、趣味とかじゃないですよ? ただ、単純に一度脱いだ下着を身に着けたくないだけであって」
「気持ちはわかるけど、駄目よ?」
「はい……すみません」
正直、家ではかなり薄着で過ごしているので、外ならともかく、室内ならまぁいいかと、全然気にしていなかった美奈子だが、さすがに人に知られると恥ずかしすぎる。反省した。
今までお風呂は一人だし、誰かに絡まれたこともないので、なんら困らなかったが、まさかこんなことが起こるとは。今回は同僚女性だったので、普通に注意してくれただけみたいだが、気を付けよう。これからは、毎日替えの下着は二枚必要だ。
「それで、注意しに来てくれたんですか?」
「ええ、まぁ、本当は湯船から気づいていたけど、あなたは、コンタクトもしてないのよね? 気づいていないようだったから、どうしようかと思ったのだけど」
「はい……ありがとうございます。もう二度としないので、どうか、このことはご内密に願います」
「いいわよ。そんなにかしこまらなくても。私とあなたの仲じゃない」
「はぁ」
内緒にしてくれるのはありがたいが、私とあなたの仲とはいったい。新人時代の教育係ではあったし、尊敬してるし、たまにランチにはいくけど、私的な付き合いはないので、そう言う言われ方をすると、何だかむずがゆい。
「この後、予定は?」
「あ、はい。もう一度お風呂にはいって岩盤浴とかして、あがってアイス食べて足湯してから直帰します」
あ、つい詳細に報告してしまった。美奈子の言いように、玲子はくすりと微笑んだ。
「最高ね。これも何かの縁だし、ご一緒してもいいかしら?」
「え、はぁ」
正直、じっくりと自分のペースで楽しむものだと思っているので遠慮したかったけど、弱みを握られている側が言えることではないので、曖昧に頷いた。玲子は楽し気に微笑んだ。
○
「あー、楽しかったわ」
「はい」
楽しかったっっ!! 美奈子は玲子に全然気をつかわずにすんだ。無理に同じ湯船につかろうとはせずに、気にいったらまた一人で入ったり、別れたり合流したりを繰り返して、合わせることがなかったのが大きい。このお湯いいねーなんて気持ちよく感想は言い合えるのに、ペースは自分ペースでゆっくりできた。
それでいて、自然と同じタイミングで更衣室にたどり着いたし、一緒にアイス食べる時も別のを頼んで分け合って、感想言いあったり、誰かと過ごす楽しさと一人の楽しさのいいとこどりとしか言いようのない出来だった。
きっと温泉の楽しみ方がと言うか、リズムがほとんど同じなのだ。親と来ても多少は気をつかうのに、まさかここまで完璧にリズムのあう人間が、こんなに身近にいたとは。
それに美人で仕事はできるけど、なんとなくほんわか雰囲気の向こうには立ち入れないような、ちょっと一線引いた感を感じていたけど、今日は全然そんなことはなかった。普通に一緒にいて楽しい。ぐっと心の距離まで近づいた気がする。
一緒に帰りの電車に並んで座り、流れていく街並みを眺めながら、ふぅと玲子は色っぽくため息をついた。
「帰るのが名残惜しいわねぇ」
「そうですね。でも、まぁ、またいつでも、お湯は待ってますから」
「ねぇ、温泉好きなのは見てわかるけど、よく、あちこち行ったりしているの?」
「そうですね。よく行きます。日帰りがやっぱり多いですけど。あ、おすすめのところ、教えましょうか?」
玲子も温泉が自分と同じくらい大好きなのだろう、と心を開いたチョロインな美奈子は、これってもしかして温泉仲間なのでは? 情報交換して、今後の温泉ライフはもっと輝くかも! とご機嫌になってそんな提案をした。
「そうねぇ。元々、明日明後日は休みだけど、どこか行く予定はあったの?」
「はい。そうですね。今回は、近所のスーパー銭湯改装したので、そこに行こうと思ってます。行ったらレビューしましょうか?」
「そうね、じゃあ、一緒に行きましょうか」
「え?」
え? いや、確かに楽しかったけども。でもそんな、えー。一人で気ままに、好きなタイミングで思いついたときに行くのがいいのに、約束すると、ちょっと気持ち変わってくると言うか。
思わず返事に困る美奈子に、玲子はにっこりほほ笑みを崩さないまま、そっとまた顔を寄せてきた。なんだろう。今はちゃんとパンツはいているのに。と思いながら無警戒に耳を向ける。
「もちろん、今日二人で温泉に行ったことは、会社の人には内緒にするわ」
「……」
いや、それを今、あえて改めて言う意味。確実に脅している。ぎぎぎと首をまわして玲子を見ると、玲子はにーっこりと何となく裏のありそうな微笑みに見える。
「だから安心して、一緒に行きましょう?」
「は、はい。わかりました、篠山先輩」
「玲子でいいわよ。あ、私も名前で呼んでいい? 連絡先交換しましょ」
「は、はいぃ」
全然、安心できない。でもとりあえず、温泉仲間ができたと言うのだけは、喜んでおこう。きっと、先輩もそれで浮かれてやや強引にだけど距離をつめようとしてくれているだけなんだ。そう。だから弱みを握られているとか、そう言うのではない、はずだから。うん。今日は普通に楽しかったし。
美奈子は電車に揺られて帰りながら、今後の温泉ライフを想像して、何とも言えない笑みになった。
○
篠山玲子には、気になる後輩女性がいた。安藤美奈子。仕事の時間は基本的にクールで、愛想笑いもあまりしない。一生懸命で仕事はできるが、ひっつめ髪で厚い眼鏡をかけた、地味な印象だ。教育係をしたこともあり、仕事の相談を受けることもあり、社内ではそれなりに仲がいい方だ。
だけどそれだけだったけど、一度、二人で残業することになった時に、大変でしょ? ごめんねと言った時に、眼鏡をはずして休憩していた美奈子が、にっこり笑って、全然。楽しみを思えば、なんてことないですよ。と言った笑顔が頭から離れなくなった。
そこから意識するようになった。最寄り駅は違うけど、乗り換えする駅が同じだったと気が付いたのも、その時だ。それから毎日、その駅につくたびに会わないものかと目で探すようになった。
そんなある日、駅のホームの隅で、美奈子がしゃがんでいるのに気づいた。体調不良かと心配になって近づく玲子の耳に入ってきたのは、まさかの仮病連絡だった。
ここで見つかったら、気まずいなんてものではないだろう。慌てて人ごみに紛れる玲子をしり目に、立ち上がった美奈子は笑顔で眼鏡をとって髪をほどいて、鼻歌混じりに歩き出した。
ここが、きっと人生のターニングポイントだったのだろう。玲子はほとんど反射的に、何も考えずに、電話をかけていた。
「すみません。祖父が危篤と連絡がありました。休ませてください」
鬼気迫る声音に一も二もなく了承いただき、二人分の仕事を押し付けられるだろう共通の後輩には後でたっぷり謝罪をするとして、玲子は慌てて美奈子を追った。
温泉が好き、と言うのは軽く世間話で以前聞いていたので、途中からあ、もしかしてと予想はついた。隣県にある温泉地はあまりに有名だ。
それにしても、移動中の美奈子はとても無防備だ。仕事中はいつも気を張り詰めているのか、固い雰囲気なのに、眼鏡をとって髪をほどいただけで、まるで別人のようにふぬけている。
それをこちらもぼんやり見ている。眼鏡をはずしたからか、多少視界の端に入っても、全然気づかない。仕事中ならいつも目端が利いて、電話応対に集中している時でも、デスクの端においたメモにだってすぐ気が付くのに。
そのギャップが何だか可愛くて和んでいると、すぐに時間が経つ。一度乗り換え、人の少ない田舎路線に乗り換えると、美奈子はますますぼけーっとして、あまつさえ居眠りまで始めた。目的駅のアナウンスが聞こえてきたのだけど、美奈子が起きないので玲子は慌てた。
ここのはずだ。一つ前の乗り換え時に、携帯電話の画面を確認しているのを後ろから覗き込んだので、間違いない。大胆に近づいたのに気づかれなかったのには拍子抜けしたけど、さすがに正面から起こしたら気づくだろう。
「ふぇっ!?」
悩んだ結果、急ぎ足に下車してその勢いで伸びている足を軽く蹴った。飛び上がるように起きた美奈子の様子を見たいが我慢して、そのまま時刻表の反対側にたった。
慌てた足音がして、美奈子が降りたのがわかった。ほっとしながら、その後ろをつけていく。すぐ近くに饅頭屋があり、そこでにこにこ笑顔で食べだした。なにその笑顔可愛い。
店内の持ち帰り商品を見ているふりをしながら美奈子の様子を伺い、美奈子が立ち去ったので慌てて持ち帰りでお饅頭を購入し、ぱくつきながらついていく。
確かに美味しい。
目的地はスーパー銭湯だ。ここなら替えの下着もあるだろう。よかったよかった。安心しながら、多少の距離を確保しながら中に入る。受付で並んだら最悪だ。
何とか靴箱にいる間に先にすすんでくれたので、受付をすませる。更衣室に入ると、ロッカーは連番ではなかった。
服を脱ぎながら、さて、と玲子は考えた。いったいいつ合流しよう、と。完全に勢いでここまで来てしまって、流れでこそこそしてしまったけれど、このままではストーカーだ。
自然な流れで合流して、せっかくの機会なので、連絡先を交換して会社だけではなく私生活での付き合いがあるようになりたい。そしていずれはその笑顔を自分に向けてもらいたい。
そうだ。ここはひとつ、湯船につかっているところを狙おう。裸になれば人間どうしたって気が緩む。いやすでにかなり緩んでいるように見受けられるけど、さらに、心の扉が開いていることだろう。そこを狙う。
お湯でぼんやりした頭なら、偶然ね、とか言えばいけるだろう。普段の仕事モードならともかく、今のぼけぼけした感じなら、いける!
確信した玲子は、勇ましく入浴し、声をかけることなく出てきた。
いや、だって。なんか全力で温泉の全てを楽しんでいて、その全部で、めちゃくちゃ油断した蕩けた可愛い顔しているのだ。まさか知り合いがいるとは思ってもいない、無防備な姿だ。そこにいきなり登場できるはずがない。というか滝湯の時なんて隣に並んだのに気づかないってどういうことなのか。
もしかして、美奈子は玲子の顔を覚えていない……? という不安に襲われ、結局そのまま出てきてしまった。鏡越しに美奈子の様子を伺いながら、どうしようかと考えながら体を拭き、館内着を。あ、下着買い忘れた……さすがに、もう一度同じ下着を着るのはちょっと。
しょうがないのでそのまま館内着をきた。分厚いし、わからないだろう。少し落ち着かないけど、と思いながら美奈子を観察していると、まさかの、美奈子もそのまま館内着をきていた。お揃い! とかしょうもない喜びを見出している場合じゃない。
今回玲子は、美奈子をつけるために直で来たので、下着を忘れたのだ。だけど美奈子は自分のペースで来たのだ。いくらでも寄り道して、下着を買う瞬間はあっただろう。なのに、ない? はかない? それっていつもはいてないってこと!?
頭の中で、はいてない。はいてない。はいてない。ノーパンツ。とぐるぐる回る。これは、まずい。これはさすがにまずい。なんとか注意しないと。
と思っているうちに、さっさと更衣室を出てしまう。ええっ! その早さ、完全にノーパンになれている! こうなったら、何とか早く話しかけないと!
追いかける。この際自分のノーパンツは気にしていられない。すでに食事を購入している。さすがに、お店の前でノーパンツについて話せるわけがない。
落ち着こう。まずは自分も買って、さりげなく相席をして、かるく話をして落ち着けてから本題だ。なんでもいい。一番人気の商品を購入。
「隣、いいですか?」
「え?」
驚いているが、強引に座る。さすがに正面から見てわからないほど、視力が弱いわけではないようで、すぐに玲子だと気が付いた。
それで少し気持ちに余裕ができた。どうして!? ととても混乱していたので、偶然と強調すると、それ以上突っ込まれなかった。よし。
すぐに話してはまずいだろう。世間話だ。いい具合に、美奈子から食事の話を振ってくれた。トンテキは意外だと。意外、意外ねぇ。そうだ。まずは、そんなに温泉が好きだったのかと軽く話をふってみよう。
「ええ。だって、真面目な安藤さんが、まさか仮病をつかうなんて」
思い出すと本当に、おかしくなってしまう。あの真面目な後輩が、まさか突然仮病で休んで、その脚で温泉に入りに来るなんて。そしてその、全力で楽しむ姿の可愛いこと。今日一日、どれだけ驚いても足りない。
と本当に微笑ましくて笑ってしまった玲子だったが、当然いい意味では受け取られなかった。見るからに顔を青くさせた。
「いったいどうして、そのようなことを? 篠山先輩の仰っていることが、わかりかねます」
そして存在しない眼鏡をかけなおそうとする動きをして、慌てたように手を下ろした。可愛い。
そんなに慌てなくてもいいのに、何故か玲子は正当にここにいると思っているらしい。おかしくて、笑ってしまうのを我慢しながら、告げ口をしないことを伝えて、それより、と場も温まったところで強引に下着の件を伝えた。
当然のようにノーパンツだとしたら、その意識を改善してほしいので、危機感を持ってもらうためにも少し際どいところに触れてみた。
館内着越しでも柔らかい。と思いつつ、それは表に出さずに注意すると、趣味ではないとは弁明したので、さすがに普通のことだとは思っているようで安心した。さすがに、毎日ノーパンツだとしたら、明日からどんな顔して会社で顔をあわせられるのか、セクハラしない自信がないところだ。
安心したので、このまま勢いで一緒にいよう。予定を尋ねると、訝しがらずに答えてくれたので、当然のように一緒にと言うと、少し不思議そうだったけど、OKしてくれた。
「あー、楽しかったわ」
「はい」
美奈子を遠くから見るのも楽しかった玲子だったが、傍で見ると、全然違う。都度感想を短く言いあうだけで、すごく一緒にいる感がある。気をつかわせないよう、タイミングを程よく合わせたり、距離をとったりしたおかげで、美奈子も違和感なくゆっくりしてくれたようだ。
楽しかったの感想に、微笑みさえ浮かべて同意してくれたので、先輩へのおべんちゃらではないだろう。
よし。それではもうこれで、お友達といっても過言ではないだろう。少なくとも同じ温泉好き仲間と思ってもらえたはずだ。なので明日の予定を聞いてみたところ、笑顔で答えてくれたので一緒に行こうと誘ってみた。
「そうね、じゃあ、一緒に行きましょうか」
「え?」
え? 普通に不思議そう、と言うか遅れてちょっと、えー、遠慮したいなーと言う感情が透けて見える顔になった。普段はそんな顔も隠しているので、素直な表情には可愛いとは思うけれど、さすがにこれは看過できない。
仕方ない。ここは、非常に心苦しいけれど、多少強引に話を進める必要があるだろう。玲子はそっと、美奈子に耳打ちする。
「もちろん、今日二人で温泉に行ったことは、会社の人には内緒にするわ」
美奈子は目を見開いて、口を半開きで沈黙している。
ここであえて言うと、まるで内緒にしないことを条件に、一緒に行くことを強制しているように聞こえただろう。実際には玲子も会社をさぼっているし、言われたらとても困る。まして危篤とか勢いで言ったし。
だけど素直で可愛い美奈子は、そんなことは全く考えもつかないようだ。
実際に脅し的要素込みで、強引に話を進めたいわけだけど、実際に言うつもりはない。ここは念押しして安心してもらおう。
「だから安心して、一緒に行きましょう?」
「は、はい。わかりました、篠山先輩」
よかった。これで玲子が口を閉ざすつもりなのは伝わっただろうし、一緒にも行くことになった。WIN-WINである。
玲子は笑顔で、連絡先の交換をして、名前で呼び合う権利も手に入れた。
今日は最高の日だった。そしてこれからも、最高の日が続く予感に、玲子はニコニコしながらノーパンのまま帰路につくのだった。
こうして、二人は一緒に温泉巡りをして、いつしか二人ともそれが当たり前になり、今よりずっと仲良くなるのだが、それはまた別のお話である。