第1話「まずは難民から」
難民生活。
3日目。
すでに私はおうちに帰りたい気分になっていた。
悪臭。
栄養不足。
娯楽の欠如。
会話相手の不在。
暴行を受ける危険など。
欠点を上げればキリがないのだが。
極めて過酷な難民暮らしの中で、私は少しずつ精神をすり減らしていった。
どこへと向かっているのかも知らないままで一日中歩き続け。
食事の時間が来たらバカでかい鍋に群がって。
必死で人を押しのけて。
皿に汁を盛り。
素手でがつがつと食べるという、人なのか原始人なのかわからない生活を送っていたというわけだ。
これでも前世では一応お嬢様だったのだが。
もはや見る影もない。
異世界生活における冒険の気配にわくわくしていた初日のことも今はすでに昔。
あきた。
つかれた。
かえりたい。
そんな私が持っているささやかな祈りさえ、この世界は叶えてくれなかった。
『あぶないよー』
『こっちへよろー』
妖精さんが私の袖を引いている。
そさくさと端に寄った。
行き倒れた難民の死体からはぎとったボロ外套をまとっている私。
もはや美少女ではない。
オーラはもとより、体臭も健康状態も精神状態もそれとは程遠いものだ。
が。
もはや美少女ではないのだが。
そんな女でもいいという野獣共は、この界隈にはごまんといる。
「ちっ……セックスしてえなあ」
「昨日してただろ? 2回も」
「ババアやガキはもういいんだよ! 俺はまともな女とやりてーの!」
「無理だな」
「なんでだよ!?」
「売り切れてるからだよ。いい女なんてのはとっくに男のひも付きか囲われちまってるわけ。残ってんのはゴミ女と男だけだ」
「男はなあ……いや、このさい男でもいいのか? つーか、男でさえいいのは売り切れちまってるんだが」
「まーな」
「いっそ動物とか試してみる? 羊系統はけっこういいらしいぞ?」
「それぐらいならババアでいい」
「冒険心のないやつだ」
「おめーがありすぎるんだよ。レイプ経験が100回超えてるとか。それでよく生きてんな」
「俺は強運なんだ。すげーだろ」
「すげー。まじすげー」
「だろ」
「ふへへ」
「ひゃひゃひゃ」
男たちがゲラゲラと笑っている。
ひどい。
頭がくらくらする。
あんなにも下品な人間というものを私は初めて見た。
友愛の輪の中で育ってきた私にとって、難民の世界で過ごすのは驚くことばかりだった。
行き倒れが出たとしても誰も助けない。
弱った者から奪われる。
金も。
服も。
時には命さえも。
初日にいきなりスポーツバッグと道具箱を強奪された時は、あまりのことに呆然として一歩も動けなかったものだ。
人を食い物にする悪意。
ここにはそれが満ちている。
年端もいかない女の子や危険をさけるための気力体力が残っていない者などは、ああいった無頼者に捕まって骨までしゃぶられてしまう。
対策はとにかく逃げること。
目立たないこと。
危険と思われる場所には極力近づかないこと。
これらのルールを破った者は、周囲に充満している悪意によって次々と食われてしまうのだ。
彼ら自身もそれに食われている。
先ほどの下品な男2人組のうち、1人には片腕がなかった。
もう1人は片目がなく。
酒を飲んだかのようにふらついた足取りをしている。
もしかすると体が悪いのかもしれない。
難民の世界というのは8割がたが女子供と老人で占められており、たまにいる若い男というのも健康ではないことが多い。
いやまあ。
もちろん同情はできないが。
弱った女の子に群がって公開あれこれしているようなクズどもは全員死ぬべきだと思う。
本当にそう思う。
さて。
難民生活も3日目。
どうやら私は本当に異世界に転移してしかも帰れないようなので。
そろそろ具体的な行動というのを起こさなければならない。
そんな時期に来ている。
『妖精さん。妖精さん』
『なーにー?』
『まず根本的なことだが。私は元の世界に帰れるのか?』
『むりー』
『無理なのか』
『さいしゅうしょうしゃになれば、もどれるかも?』
『最終勝者?』
『くらすめいとを? みなごろし?』
『クラスメート? 私の同級生たちもこの世界に来ているということか?』
『そーかも』
つぶらな瞳で私をみつめる妖精さん。
とてもかわいい。
が。
その発言内容はまったくファンシーではないし、優しさのかけらもなかった。
『皆殺しとは穏やかではないが……それはやらねばならないのか?』
『どっちでも』
『どっちでもとは?』
『われわれは、めいんぷれいやあにかどのかんしょうをしない。すきにいきよ。うしなったじかんはもどらない』
妖精さんはくるくると飛び回り、しばらくすると空ににじむようにして消滅した。
なるほど。
失った時間は戻らないか。
そうかもな。
仮に元の世界に戻れるのだとしても。
それは今ここにおいて、私が夢の世界にいるということを意味しない。
ここだって現実だ。
投げやりに生きて身を持ち崩すのはバカのすることである。
まずはいま。
人間にならないと。
この貧困と悪意と犯罪とにあふれた人類社会の最底辺から脱出しないことには、明日という一日の安全さえ信じることができないのだ。
難民。
難民か。
難民ざんまい。
私は今現在、ボロをまとった難民の群れに紛れている。
彼らの多くは十分な栄養を取れずに干からびており、火をつければよく燃えそうなほどに水気がない。
食事は日に2回。
朝晩に大鍋をこしらえ、みんなでがつがつと食べる。
まるで餓鬼のようだ。
畜生。
どーぶつ。
生きているだけの下等生命体。
前世では特に自覚していなかったのであるが。
お嬢様育ちの私はこのように惨めな生活を送っている人々のことを強く軽蔑しているらしい。
それはそうだ。
彼らは違いすぎる。
前世で私のまわりにいた人々と比べて、あまりにも動物的でありすぎる。
みじめなのはいい。
貧しいだけならばなんの問題もない。
しかし。
そういう状況に置かれた人間というものが、どれほどたやすく犯罪に流れるのか。
生きるためという名目で人を傷つけるのか。
私はそれを知った。
悲しいことだ。
こんな場所に身を置き続ければ、清く正しいはずの私の心だって朱に染まり腐り切ってしまうだろう。
必ず這い上がる。
このみっともなくて哀れを誘う生活から絶対に抜け出してみせる。
私はそのように誓った。