僕と悪魔と三つの願い
吐息も凍える真冬の夜、僕の前に一匹の悪魔が現れた。三ツ又のトライデントを持ち、山羊の角と蝙蝠羽、先の尖った尻尾の、僕がよく知る悪魔だ。唯一違ったのは悪魔が少女だったということ。彼女は僕の枕元をふらふらと飛んでいたかと思うと、じいっと僕の寝顔を見下ろした。
何処から入ってきたのだろう、と不審に思ったけれども、僕が暮らしている家はすきま風に事欠かないオンボロなので、深く考えることはしなかった。そもそも、悪魔にとっては隙間などなくとも関係ないのだろう。
「起きよ人間」
悪魔は僕に囁いた。実に悪魔らしい甘美な余韻を持った、雪夜の傷心に染み入る声音だった。僕の体はブランデーを呷ったときのような、芯からじんわりと熱が広がる不思議な心地に包まれた。
「起きよ人間」
再び悪魔は僕に囁いた。今度は正反対に鋭利なナイフのような声音だった。先程までの温もりは引き潮の如く消え失せ、代わりに身を切り裂かれるような冷ややかな冷気が押し寄せる。僕は堪らず飛び起きた。
「いい度胸だな人間。余に二度も呼び掛けさせるなど、場合によっては即座に殺していたぞ?」
「夢だと思っていたんだ」
「嘘を吐け。貴様、余がここに入ってきたときから気が付いておっただろう? 次嘘を吐いたら食い殺すからな?」
悪魔は不機嫌さを隠しもせず、トライデントを僕の枕に突き立てた。潰れた枕からナイロンビーズが溢れ、顔をしかめた悪魔はトライデントを横様に振り抜いた。枕は壁に当たってビーズを撒き散らして床に落ちた。
「……わかったよ。もう嘘は吐かないさ」
僕がそう言うと、悪魔はにんまりと笑った。ある種華々しいほど蠱惑的な笑顔だった。
「もし嘘を吐いたら、余はお前の魂を即座にもらいに行くからな。約束だぞ?」
「……わかった、約束だ」
僕は右手の小指を出した。悪魔は最初戸惑った素振りを見せたけれども、何事もなかったかのように咳払いをして、僕の小指をその小さな手で握りしめた。
「……」
「ん? どうした人間よ」
「約束をするときは小指同士を繋ぐんだ」
悪魔は何か言いたそうに可愛らしい口をぱくぱくさせていた。そして、僕を睨み付けると荒々しく小指を突き出した。僕はそれに小指を絡ませ、あの呪文を囁く。
「ゆびきりげんまん、うそついたら魂あげる、ゆびきった」
悪魔は不思議そうな顔をしていた。僕の小指と自分の小指を交互に見つめて矯めつ眇めつし、ぺろりと舌を出して小首を傾げたり、何やら得心しない様子だ。
「それで? 悪魔ちゃん。君は僕のところに何をしに来たんだ?」
「……ん? ああ、いやなに、今日はお前の命日だからな。ちょっとした提案をしに来た」
気を取り直した悪魔は、やはり小指とにらめっこをしながらさも何でもないように言ってのけた。僕は驚かなかった。何となく死期が近いことは直感していたので、僕も悪魔の真似をして、ふうんと呟いた。
「なんだ、驚かないんだな」
「何となく分かっていたからね」
「第六感ってやつか?」
「そうかもしれない。で? 提案って何さ?」
悪魔は小指で僕を指差した。
「お前の願いを三つまで叶えてやる」
「……」
「どうして自分なんだって顔に書いてあるぞ」
僕は右手で自分の頬を撫でた。無論、撫でたからといって悪魔が言うようなことは読み取れないけれども、何となくそうした。くくく、と悪魔が笑う。
「余は幾つか好いていることがあってな。まず一つ、人間を操ること。二つ、人間の死を見ること。三つ、人間を弄ぶこと。そして四つ、死に行く人間の最期を華々しく飾り立てることだ」
「それで僕……か」
「そうだ。ほら、何か願いを言うてみよ。三つまでなら叶えてやる」
「じゃあ……」
「おお、言いわすれていたが三つ目の願いが叶った二年後にお前の魂は戴くからそのつもりでな。不老不死とか無敵とか願ってもいいが意味は無いとだけ言っておく。三つ目の願いに約束を無効とする、というのもなしだし、願いの中に矛盾を含むものもなしだ。一つ目に不老不死と願ってから、三つ目に自分が死んだら等と願うなってことだ。お前の願いが何だろうが問答無用に魂は戴く」
「わかった。それと、願いの重ね掛けってしたらどうなるの?」
「古い方が優先されるから、意味がないな。だが、願いとしてはカウントされるから気を付けておけ」
「なるほど」
僕は彼女を悪趣味な悪魔だとは思わなかった。寧ろ、想像通りの悪魔だと感心すらしていた。聖書などにも悪魔は人間を惑わす邪悪な存在だと書かれているが、僕が思うに悪魔は人間の欲望の具現化である。悪魔こそ人間を蒸留していった先に残る、最も純粋なものではないだろうか。
そんな悪魔が僕の前に現れたということは……現れてこのような提案をするということは、僕は数いる人間の中でも悪魔の気を引く程度には欲深い人間なのだろう。
きっとそれが正しい。僕は確信できた。
「一つ目を言え」
「じゃあ、僕を不老不死にしてくれないか?」
「さっきも言ったが、そのような願いをしても無駄だぞ? 余はそんなものを超越してお前の魂を喰えるのだからな」
「知っているとも」
「……まあいい。ほれ」
悪魔は指をぱちんと鳴らした。すると、僕の頭上からキラキラ光る粉のようなものが降ってきた。それは僕に触れると、雪のように溶けて吸い込まれていった。
「これでお前は二年間だけ不老不死になった。次の願いを言え」
「『君は僕に絶対的に惚れる』」
「……くくく、せめてもの意趣返しか。やはり人間は浅はかな生き物だ。余がお前に惚れたとして、結局二年しかないのだぞ?」
「知っているとも」
「いくら余がお前に惚れていても、情が移って魂を取らないなんてことは絶対に無いからな。二年で必ずお前は魂をとられるのだ。これは契約だからな。一度契約すれば必ず遂行されるのだぞ?」
「言われずとも」
「んなっ! それに余はお前に惚れたとしてもべたべたしたりせんぞ? お前が妄想するような猥褻なことはないと思え」
「承知の上だ」
「くうっ!」
「どうした? 怖じ気付いているのか?」
「そ、そんなわけあるか。余は悪魔だ。人間なぞ歯牙にも掛けぬ。精々二年の辛抱なら構うことはない。わかった、その願い叶えよう」
悪魔は一度躊躇ったが、一呼吸おいて決心がついたのか指を鳴らした。今度の音は先程のものよりも高らかに響いた。キラキラ光る粉が悪魔に降り注ぎ、その後には沈黙だけが残った。
僕は悪魔自身に効き目があるかどうか疑問だったけれども、悪魔が中々目を合わせない様子をから効き目があるとみてよさそうだ。
「気分はどうだい?」
「最悪に決まっておろうが!」
「口先ばっかり」
「……っく!」
「まあ、僕は君と初対面だし、別に君のことは好きでもなんでも無いんだけどね」
「そんな!」
そこまでに悲壮感を漂わせなくても、と思わないでもなかったが、考えてみれば彼女は僕に心底惚れているのであり、そんな人物から拒絶されれば、確かにこんな反応をしてしまうだろう。少しばかり意地の悪いことをしてしまった。
悪魔は、やや潤んだ両目を僕に悟られまいと瞬いている。その姿があまりに露骨なので僕は指摘する気も起きず、静かに落ち着くのを待っていた。
「じゃ、じゃあ、最後の願いだ」
「……うむ。言ってみよ」
既に隠すことを止め、両腕で零れ落ちる涙を拭いながら悪魔は鼻をすすった。
「『君は僕を嫌いになる』」
三つ目の願いを言い終わるや否や悪魔は、
「あ、ああーー! それはズルい! 汚いぞ人間!」
と叫んだ。悪魔はトライデントを放り出して僕に掴みかかるも、その力は非常に弱い。
それもそうだろう。惚れた相手に暴力を震える者など存在しないのだ。もしいるのならば、その者は悪魔以上の極悪である。
「どうとでも言え。僕は人間だ。貪欲な人間なんだ」
その言葉を聞いて悪魔は観念したのか、泣きじゃくりながら指をぱちんと鳴らした。最後の音は今までで一番の音色だった。窓ガラスを清らかに震わせ、悪魔にあるまじき純情さが響き渡る。その残滓は僕の中にいつまでも留まり続けた。
「僕のことは嫌いになれた?」
「なれるか!」