前編
「メガネっ娘にシチュとしてせまられたなら」の後日談になります。
独立して読めますが、メガネっ娘を読んでからでも、楽しめるかも。
日差しは暖かくなったけれど、まだ少しだけ冷たいの風が吹く渡り廊下を渡って、階段を駆け上がる。
今から部活の時間。でも、漫研の先輩たちが行ってこいって言ってくれたので、私は今日もここに、せんぱいに会いに来るのです!
「せんぱい、きましたよ〜」
コンコンと理科準備室の木戸を叩いて返事を待たずにガラリと開ける。
大きな窓の左端にある事務机にせんぱいこと坂本亮さんはいつもの白衣を着て顕微鏡に向かっていた。
古ぼけたソファにカバンを置いて、少し猫背気味のせんぱいの近くに寄って見ると、せんぱいは手前の白いカードに何やら小さい丸を乱雑に描いていた。
顕微鏡を見ながら描いているので、カードはだんだんと右斜めにずれて行き、もう少しで机に書きそうになっている。
これは声をかけたほうがいいのかなぁ?
迷っていると、もう鉛筆がカードの外に出ていったので、思わずせんぱいの右手を掴んだ。
「なんだ、佐伯くんか」
せんぱいは手を握られてやっと私に気づいたのか、顕微鏡から顔を上げてこちらを見た。
サラサラストレートの前髪は天パの私から見るとうらやましいくらい。くっきりとした二重まぶたの涼やかな眼差しは、やっぱり漫研の加川先輩じゃないけれど、漫画に出てきそうなイケメンっぷりだ。
でも今は跡がついているからおまぬけさんだけど。
「せんぱい、顕微鏡のアトがついていて、イケメンが台無しですっ」
「うん、別にどうでも良い」
「よくないですっ、吹きます」
「誰が?」
「私が」
「なら、なおの事良し」
「え?」
意味がわからず、目をぱちぱちさせてせんぱいを見ると、両目に綺麗な丸いスジをつけたせんぱいがクラクラする笑顔をこちらに向けた。
「佐伯くんの笑った顔はうちの桃に似ているからな。可愛い」
「か、かわっ……まって、せんぱい。桃って、たしか先輩の家の……」
「チワワだ。うちの桃は可愛いぞー、いつもひゃんひゃんまとわりついて来て、抱くまで離れない。佐伯くんみたいだ」
「やっ! 私そんなまとわりついてませんっ! しかも、だ、抱くまでだなんて……きゃーーーーいやーーーー」
「妄想から離れるんだ、佐伯くん。今日はどうした?」
せんぱいにぎゅーして貰っている妄想をきゃあきゃあ言いながら脳内再生していた所に、現実に引き戻すせんぱいの容赦ない声。
今日はどうした、じゃないですよっ、せんぱい!
三月一日で卒業したせんぱいは、本来はもう理科準備室に来なくてもいい筈なのに、顕微鏡を使いたいが為にほぼ毎日夕方の部活の時間にはこちらに来ている。
卒業したのに良いんですか? と聞くと、卒業しても籍としてはまだ高校にあるからいいんだとかなんとか。
理科学部の顧問の先生もいい加減だからそこら辺、なあなあなんだろうな、と思う。
私はもちろん毎日せんぱいと帰る事が出来るから両手を挙げてばんざいなんだけれど、せんぱいの方は純粋に顕微鏡命。
私は二の次、三の次。
バレンタインの猛攻撃でなんとか彼女になれたけれど、なんだかその後も普通に喋って帰るだけだし、 土日にデートに行こうとも誘われないし。
私、ちゃんとせんぱいに愛されているのかなぁ。
そんな疑問を持ってもおかしくなんてないと思う。
「せんぱいっ! 今日はなんの日か知っていますか? 先月も同じ質問しましたけどっ」
「ローマ司教を死に追いやった男女が結ばれた日」
「ホワイトデーです!! なに、そのローマ司教とか、死に追いやっただとかっ!」
「いや、佐伯くんは一度きちんと知識を入れた方がいいぞ? 僕が言っているのは……」
「私の言っているホワイトデーは、男子が公然と女子にキスしていい日なんです!!」
「なにっ?! それは知らなかった……」
「もう、やっぱり……」
せんぱいは世間の常識からちょっと……だいぶズレていて、私は少しだけ心配になる。
これから大学生で一人暮らしなのに、大丈夫なのかなぁ。あと、美人さんが寄って来てもちゃんと断ってくれるかどうかとか。
だいたいせんぱいはパッと見イケメンだから、あの調子で、んー、って生返事している間に彼女になったとか言われても不思議じゃない。いつだったか、いっぷいっぷとかよく分からない事を言っていたけど、本人の自覚無しに気がつけば二股、三股になってたとか……あり得そうで怖い!
ちゃんとつなぎとめておかなくっちゃ、
ちゃんと確認しておかなくっちゃ、
せんぱい、私、本当にせんぱいの彼女だよね?
「で、今日はホワイトデーだからここにキスされに来たと」
「やぁっせんぱいっ! そんなあからさまに言っちゃやですっ!」
「あからさまにしても影に隠してもヤるこた一緒なんだがなー」
「や、やるなんてっ! そんな直接的な事言っちゃダメ!」
「あのね、何を妄想しているか知らないがキス以上の事を公共施設の場でする訳ないだろう。下手すると捕まるわ。佐伯くんは私を罪人にしたいのか?」
「やですっ! せんぱいと会えなくなっちゃう……」
私は涙目で、もわもわと妄想する。
監獄の牢屋に入れられたせんぱい。分厚いガラスで仕切られた面接部屋に二人、手を伸ばしても触れ合えず、ただひたすらに涙を流しながらせんぱいっと言う私。
ーー佐伯くんすまない、僕の理性が持たなかったばっかりに。
ーーせんぱいっ! 私が望んだ事です。私も同罪です! どうかお側に!!
ーー馬鹿だな、君が無事ならそれでいいんだ。
ーーやですっ! せんぱいと一緒に!! 地獄の果てでもついて行きます!
ーー佐伯くんっ
ーーせんぱいっ
「おーい、戻ってこーい」
「せんぱいっ、死ぬ時は一緒ですっ」
「今度はどんな場面で妄想しているんだ。何度も言うが僕たちの事を小説にした時点でこの関係は終わりだ」
「せんぱいっ、ひどいっ!」
「酷いのは君の方だと僕は思う」
「創作女子にとって、妄想でさえも好きな人を小説に登場させられないのは拷問に近いしょ、し、しぎょう」
「所業」
「ショギョーですよ!」
「……今、カタカナで言ったな?」
「き、気のせいです」
「では、書いて」
「なんでーー!」
「小説家たるもの所業の一つや二つ書けないでどうする」
「今はスマホが変換してくれるからいーんです!」
「……現代文、再追試になってもいいのか?」
「な、なんでその事を……」
「理科学部の田村先生は?」
「……私の担任です。ってタッキー何、個人情報流してるのーーーっ! 訴えてやる!!」
「まて、いろいろ間違っている」
かたりとせんぱいが事務椅子から立って、腕を組んでゆっくりと理科準備室を歩き始めた。
あああ、始まってしまったっ、せんぱいの、例の、長ゼリフ!!
「そもそも文章を書くと言う事は、一つだけ書いて満足、と言うわけではないんだろう? 何百、何千というパターンの中から選び出し、十万語の中から厳選に厳選を重ねて選び出された言葉を駆使し、推敲に推敲を重ねてこれぞ最良! というものを表に出すのではないのか? それを何回も何回も繰り返すのだからどれだけの語彙量がいると思うんだ。ひらがなだけですますのか? 全てひらがなで書くというのか、どうなんだ?」
「書きませんっ! そんなかえって難しい事しません!」
「……やってみたのか、自分の漢字力が無いが故に……やるな、佐伯くん。その心意気や良し」
「漢字、漢字が欲しいとあれほど思ったことはなかったです、せんぱいっ!」
「うむ、それならば書くのだ」
「はいっ! ……ってちがーーーーう! せんぱい、ホワイトデーの話はどうなったのですっ」
「無理矢理戻すとは、やるな、佐伯くん」
「だんだんとせんぱいの事、分かって来ましたからっ」
ぜいぜいと肩で息をする私の側まで来たせんぱいは、両手でふわっと私の頬を包んだ。
至近距離で見られると逃げたくなる程のイケメンさん。私は少しだけ震えてしまう。
「請われてやらん男などどこにも居ないのだよ、佐伯くん」
「せんぱいっ」
受け入れ態勢ばっちりで目もつむるけれど、本当は、少しだけ……
カタ、という物音に、せんぱいの気配が離れた。
「やらん男は居ないが、見られてやる趣味は、無いといつも言っているのだがな!」
せんぱいの声と共にガチャっと理科室への扉が開かれると、そこには某格ゲーの主人公の必殺技を決めている田中先輩とそれをバシャバシャ撮っている漫研名物部長、加川先輩の姿があった。
つづく