モンゴリアン・チョップ
起きて五分後、サプリメントを水道水で流し込むと、急いで家を飛び出た。口には塩素の強いせいか、苦味が残ったままだった。快速電車が出るまであと十二分、駅から遠い安アパートからだと、早足でぎりぎり間に合う、といったところだ。
駅へ向かう道には急ぎ足の人間がちらほらと、いつの間にか細い路地から続々と合流してきて、やがて大河となった。俺も流れのひとつとなり流されるままに歩いていく。歩みを緩めてはならない。それはこの流れを押しとどめることになりかねなかった。
隣ではスーツ姿の男が腕時計をちらちらと見ては、その度に歩調を速めた。合わせて隣の隣も、そのまた隣も歩調を速めた。俺も抜かさず、抜かれず、と気を使いながら歩調を速めた。
駅のエスカレーターを昇って降りると、構内に割れた声のアナウンスが響く。
「まもなく3番線に東京行き快速列車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください」
ジャストタイミング、スーツの男はだてに時計を気にしていた訳じゃなかった。彼に一緒に歩いたことに少しばかり感謝した。
赤、皆そういうが実は朱色をした電車がホームに滑り込んできた。吐き出される人は少なく、せわしなく三列×五人の新たな乗客を吸い込むと、ドアを閉め発進した。
車内はすでに混沌としていた。なんと言ったいいのだろうか、入り口近くの矩形の角っこ、座席の端に座る人の前に俺は流されていた。
この場所は最悪だ。カーブのたびに、あるいは電車が速度を緩めるたびに背中からの強い圧力に押された。だが、前には支えもなく、ただ顎を上げて軽いいびきを立てながら客が座っているばかりだ。
俺はつり革につかまりながら、ケンタウルスの弓を思わせるしなやかなポーズをとらざるをえなかった。突然背中に肘鉄か荷物角が突き刺さった。
やや、これはヘラクレスの毒矢とでもいうのか? とすれば、俺はケンタウルス族を代表するケイロンだ。神の血を引くケイロンは苦しむものの死ぬことも出来ず、我慢するしかないのであろうか。やがて神々が哀れんで「いて座」として夜空へ放ってくれるまで耐えるしかないのだろうか。果たしてそうだろう。この場合の夜空は東京駅なのだが。
ところが運よく東京駅に着く前、御茶ノ水でつい先ほどまで脳卒中ではないかと心配になるほどの鼾をかいていた男が、はっと目を覚ましたかと思うと、俺や脇の人々を乱暴に押しやり、カバンをいたるところに引っ掛けながら出て行こうとした。
俺は安堵の息を吐き、脱・ケイロンを果たすべく目の前に開いた空席を目指して体を回転させた。
尻に何かが当たる違和感に振り返ると、俺の横に立っていたはずのババアがすばやく体を潜り込ませて、すでに目を閉じていた。
クソッ! ババア! 死ね!
心のうちで呪いの言葉を吐きかけた。だが、ババアは涼しい顔で荷物を抱え、ちょこんと座ったままだ。
死ねっ! 死ねっ! 死ねっ!
僅かに声に出してみた。だが、何の変化もなかった。よく見ると、ババアは薄目を開けて微笑んでいるように見えた。俺の中の何かが弾けた。
アチャーッ!
気がつくと俺はジャンプ、着地と同時に両手でババアに耳そぎチョップを食らわせていた。しかも全体重を乗せた俺の靴は、ババアの靴の上にあった。
ギニヤーッ!
ババアが叫んだ。俺はそれで満足、のはずだった。ところが足場が不安定だったために、そのまま後ろに倒れこんでしまった。後頭部をしたたか打ち付けて俺も悶絶した。
起き上がると、俺の周りには円を描くようにぽっかりと誰もいない空間が広がった。
なんだ、こんなにスペースがあるじゃないか。するってえと、さっきまでお前らは努力もせずに俺に体重を預けていたのか? え?
優しい俺も限界だった。人垣に飛び込み、誰彼かまわずにモンゴリアンチョップの制裁を加えていった。
アチャーッ! アチャーッ! アチャーッ!
俺はこの状況にうっとりとしていた。嬌声ともいえる甲高い雄たけびだけが車内にコダマし続けた。
<了>