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マスコットグローブ  作者: 三田哲王
8/16

第8話 スパーリングパートナー

「おう、坂口」

 夕方、ジムに入るなり、山崎会長の声がした。

 スタッフルームに入ると、大きな背もたれの椅子に座っていた山崎会長が手招きをし、ソファーに腰掛けた俺に身を乗り出しながら話し始めた。

「倉本ジムの林田って知ってるだろう」

「はあ、世界ランカーですよね」

「十一月に世界戦やるんだけど、チャンピオンのレックス・アレクシスとお前のボクシングスタイルが似てるからって、スパーリングパートナーの依頼があったんだ」

「俺ですか? だって、ランキングにも入ってないッスよ?」

「金になるんだ。 やれよ。 お前だって勉強になるだろ」

山崎は大河に有無を言わせないように凄んだ。

「……、分かりました」

「じゃあ、明日から三日間な」


 駅の改札を抜けて、倉本ジムに向かう線路沿いの道を、野口さんと歩いていた。

 倉本ジムは、世界チャンピオンを何人も輩出している名門のジムで、今日の対戦相手も世界ランカーという事もあり、俺は少し緊張していた。

「大河、緊張してんのか?」

「いえ、そんな事ないっす」

「嘘つけ、お前が何にも喋らないって事は、平常心じゃないって事だよ」

見透かされていた。

「怖いのか?」

「えっ? いや、あの、少しだけ」

「本心だな。 でも、それでいいんだ。 みんなそうだから。 殴り合いだから怖くて当たり前、だから殴られないようにする。 それで、強い選手から新しい何かを得るんだ。 大丈夫、今のお前と林田は、技術的にはあまり大差はない。 三日後にはそれが解る。 俺も楽しみだ」


 スパーリングの開始は午後六時からという事で、一時間前には倉本ジムに着き、ウォーミングアップを始めた。

手首、足首を回したり、体幹を左右に伸ばしたり、捻ったりしながら、リングの上で円を描くように動いていた。

 野口さんはというと、ジムの外に置かれた犬小屋を覗き込みながら、

「おっ、久しぶりだな」

などと犬に声をかけていた。


 そう、ここは以前、野口さんがトレーナーとして所属していたジムで、中学生の頃、俺が野口さんにボクシングを教わった、あのジムだった。

 小屋から顔を出した薄汚れた犬の顔を撫でている野口さんの顔、はどこか懐かしそうだった。


 リング脇のマットで、ストレッチをしている俺の背後から声がした。

「おっ、坂口君? よろしく」

振り向くと、まるで古代ローマの彫刻のような顔立ちの林田選手が立っていた。

オーラが漂いカッコよかった。 

 失礼がないように、すぐに立ち上がると深くお辞儀をした。

「坂口です。 三日間よろしくお願いします」

「ははは、律儀な奴だな。 よろしくな」

林田選手の方から笑顔で握手してきてくれた。

 俺にしてみれば、まだまだ雲の上の存在だ。 そんな人の方から握手をしてくれるなんて、凄く嬉しかった。

「俺から盗めるものがあったらどんどん盗んでいいぞ。 そして、いつか対戦できたら面白いな」

林田選手は俺の腕に手を添えると、ファンサービスに行ってしまった。


 初日、二日目、林田選手は五割程度の力、おれは七割程度の力でスパーリングをこなしていたと思う。 それでも、林田選手の方が有利な展開だった。


 倉本ジムでの三日目、ジムに入ると昨日までの雰囲気とは全く違っていた。

「坂口君、今日は四ラウンドな。 公開スパーリングでメディアがたくさん来てるけど、変に緊張しないでいつも通りでいいから。 がんばって! 」

 カメラマンの一人と話しをしていた倉本ジムの会長が、近くを通った俺の背中をポンと叩いた。

「野口さんもそれでお願いします」

野口さんは、手を挙げて応えた。


 ヘッドギアを装着してリングに上がると、まだ、ヘッドギアを装着していない林田選手が向こうのコーナーから近寄ってきた。

それだけの事なのにカメラのシャッタ音が凄い。

その雰囲気だけで緊張してしまう。

「坂口、今日は本気でいくからな。 いいか、お前も全力で来い。 でも、駄目だと思ったら無理をせず中止しろ。 わかったか? 俺は、お前を潰すつもりはない」

林田選手はグローブを俺の胸の前に突き出した。 

グローブを合わせて健闘を誓いあうと、林田選手は自分のコーナーに戻り、トレーナーにヘッドギアを装着してもらった。


「落ち着いていけば大丈夫だ。 後は俺を信じろ!」

野口さんが耳元で言った。


 ゴングの音が響き、スパーリングが始まると、一斉にカメラのシャッタ音が鳴り響いた。

明らかに、この二日間とはパンチのスピード、動き、何から何までレベルが違う。

そのパンチをブロックしたり、かわしたり、それで精いっぱいだ。

反撃などできなかった。


 一ラウンド目終了のゴングが鳴り、コーナーに戻った。

数発のパンチは受けたが、致命傷となるようなパンチは受けなかった。

「早いな。 林田、本気だな。 その割には善戦してるんじゃないか? あいつもお前を認めたって事だ。 気持で負けんな」

「はい」

野口さんの言葉に、それしか言えなかった。

余裕などなかった。 


 二ラウンド目終了のゴングが鳴り、コーナーに戻ろうとした時、山崎会長が現れ、リングの上から会釈すると、手を挙げて応えた。

 コーナーに戻ると、野口さんが聞いてきた。

「まだ怖いか?」

「あっ、いつの間にかなくなってます」

「いんじゃないか? それ大事。 思い切って行け」

「はい」

それだけの会話だったが、勇気がわいてきた。


 三ラウンド目、五分五分に打ち合えるようになり、俺のパンチも林田選手に当たるようになってきた。


 そして、四ラウンド目にハプニングが起きた。

林田の放ったパンチをかわして、大河が打ち込んだボディーブローがクリーンヒットし、林田の顔が苦痛にゆがむと、大河はロープに追い詰めた。

カメラのシャッター音が一斉に鳴り響いた。

しかし、大河はここで倒しに行かなかった。 今、林田を追い詰めると、世界戦を控えた林田にとってマイナスになってしまうと考えた大河は、スピードはそのままで、強くは打ちこまなかった。


 少しの時間が経過し、林田は回復すると再び激しい打ち合いとなった。


 ゴングが鳴り、予定の四ラウンドは終了した。


「もう一ラウンドやろうぜ」

林田選手はプライドを傷つけられたかのように、俺に迫ってきた。

「え?」

メディアには注目されたい。 俺にはそんな欲もあった。


「大河、止めとけ」

野口さんの声が響いた。

林田陣営が懇願しても、野口さんは首を縦に振らなかった。


 公開スパーリングが終了すると、野口さんは用事があるという事で先に駅に向かい、着替えを済ませた俺は、ジムの関係者にお礼の挨拶をして、外に出ようとした。


「坂口」

林田選手が肩を組んできた。

「ありがとうな。 今日は練習で助かったよ。 今日のが試合だったらトドメさされてたよ」

「いやあ、そんなことないっすよ」

下がり気味に返した俺の首を強く引き寄せると、林田選手はいった。

「お前な、お前がプロなら俺だってプロだ。 あの時、お前が気を使ってくれた事ぐらい分かってるんだよ。 俺は次の試合で必ず世界チャンピオンになる。 そしたら、お前が挑戦してくるその日まで、チャンピオンで待ってるからな。 絶対、世界への階段上って来いよ。 いいな!」

林田選手が握手を求めてきた。

そして、差し出した俺の手を、痛いほど力強く握った。

「気を付けて帰れよ」

「はい、ありがとうございます」

笑顔でお辞儀をすると、林田選手は手を挙げて応えてくれた。


 帰り道は山崎会長と駅まで一緒だった。

「坂口、これでコーヒーでも飲んで帰れ」

山崎会長は、ポケットから千円札を一枚取り出した。

「後は使っちゃったよ。 使っちゃったもんは、しょーがねーよ。 諦めてくれ」

よく話が理解できなかった俺は、それをポケットに入れると駅に向かった。


夜遅く、野口さんから電話があった。

「どうだ、いい勉強になったろう」

「はい、なんだか自信がわいてきました」

「ただ、それで油断しちゃっちゃあ、進歩ないぞ」

野口さんは笑った。


「ところで野口さん、あの時、どうしてもう一ラウンドやらせてくれなかったんですか? 俺、やれたのに」

「バカ、あそこでやめたからよかったんだよ。 長いラウンドに馴れている林田が、本領発揮するのはあの後からだ。 お前が不利になるのは目に見えてるんだよ。 上手くいかなかったら、せっかくの自信が崩れんだろー」

「え? そこまで考えてくれてたんですか? ありがとうございます」

「あったりまえだろー、お前、俺を誰だと思ってるんだよ」

電話の向こうで、野口さんは自慢げに笑った。


「そういえば、ちゃんとお金貰ったか?」

「はい。 千円もらいました」

「それだけか?」

「はい……」

 その時、『使っちゃったもんはしょーがねーよ』の意味がようやく分かった。


「大河、俺がちゃんと言ってやるから」

 しばらく間が空いた後、シビアな声が聞こえた。 明らかに、いつもの野口さんではない声だった。

 俺は敢えて、それを静止した。

山崎会長と野口さんの間に亀裂が入ることが怖かった。


「いや、俺は許せない」

そういった野口さんを、もう一度静止すると電話を切った。


 野口は、受話器を置いて缶ビールを呑干すと、少しの間、物思いにふけった。 

そして、冷蔵庫から新たに取り出した缶ビールを、一気に呑みほした。

「あいつらは命かけてボクシングやってるのに……。 大河、きちんと言ってやるからな……」

少し酔いがまわってきたのか、テーブルの上に顔を伏せた。

「なあ……、そうだよな……」

薄目を開けて、カラーボックスの上に飾ってある若いボクサーの写真に向かって言った。


 午前一時、野口の部屋にはテレビの音だけが響いていた。

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