第6話 新たな火種
6月下旬
野口はリングに上がる階段の下段に立ち、冷たいタオルで大河の目を冷やした。
身長差で階段の下段に上がると、目の高さが同じになる。
高ぶりすぎる選手の気持を抑えるため、リングに上がる前の選手に対して、野口が必ずやるルーティーンのようなものだ。
大河も例外ではなく、それで気持を落ち着かせ
そして二人は、リングに上がった。
野口は、大河の肩に掛かったタオルに手をのせて言った。
「いつも通りで大丈夫だからな」
うなづいた大河は、軽く体を動かしながら、柔らかな表情で戦いの時を待った。
「大河、花束受け取れ」
振り返ると、花束を持って階段を上がってきた篠田なぎさに、野口さんがロープ最上段から手を差し出していた。
篠田の突然の登場に、会場にはどよめきと共に歓声があがる。
「すいません、ありがとうございます」
篠田は手を離すと、微笑みながら大河に花束を渡した。
それを高々と掲げ、野口に手渡すと、緊張の糸がプツリと切れてしまったように、野口の表情は崩れた。
「篠田なぎさの手、握っちゃったよ。 この花、俺もらっていいか?」
なんとも緩み切った表情だ。
「いいっすよ」
「おい! この花束、粗末に扱うなよ! お前、ずっと抱いとけ!」
セコンドの脇にいた若い練習生に、ロープの下から赤ん坊を渡すかのように、慎重に手渡した。
しかし、山崎はそれを憮然とした表情で練習生からもぎ取ると、別の練習生に渡し、控室まで運んでおくように指示した。
この日は、いつもの食事会のメンバーと一緒に、きれいに女装したママが一緒に観戦していた。
リングに登場した篠田なぎさを観ながら、ウーロン茶の入った大きな紙コップを口に付けて、ブクブク何かを言っている真希に気が付き、諭すように声をかけたママは、殺気にみちた真希の目にたじろいだ。
ブクブクと声はかき消されてはいるが、明らかに文句を言っているようだった。
リング上では、レフェリーが両選手を中央に呼び、反則などの注意を手短にしていた。
大河の対戦相手は、同じ階級か? と思わせるほど背の高い男で、レフェリーが話している間、上から鬼の形相で睨み、挑発し続けた。
それを見た真希は我に返り、高見に尋ねた。
「大河大丈夫かな……、相手、凄い怖そうだよ……」
「大丈夫だよ真希、大河のやつ、全然相手にしてないだろ」
高見がいったとおり、大河は相手と目も合わせず、柔らかな表情でレフェリーの声にうなずいていた。
「凄い挑発してたな。 睨み返せばよかったじゃねーか」
コーナーに戻ると、野口は大河の首を擦りながら尋ねた。
「いちいち挑発にのってたら、試合前に疲れちゃいますよ」
「落ち着いてんねー、いいねー」
大河の肩を軽く叩いた。
「セコンドアウト」
「油断だけはするな」
アナウンスと共に野口は一言残し、リングを降りた。
ゴングが鳴り、リングの中央でグローブを合わせると、相手はいきなり数発のパンチを繰り出した。
大河はそれを何事もなかったかのように左右にかわす。
身長差もあり、大河は慎重に距離を図っているようだ。
大河がじりじりと距離を縮めていくと、再び相手が数発のパンチを繰り出した。
今度は、それを肩や腕で受け止めた。
大河と野口の目があう。
野口はまるで『行け』というような仕草だ。
相手が繰り出した左ストレートをかわしながら、相手の胸元に入った大河は右ストレートを相手の顔面に打ち込むと、動きが止まった相手に連続したパンチを繰り出し、相手はリングに崩れ落ちた。
一度は立ち上がったものの、試合が再開すると一方的な大河の攻撃に、レフェリーが試合続行不可能の判断をし、ゴングが打ち鳴らされた。
一ラウンド、二分だった。
レフェリーに手を挙げられ、観客席に目をやると、ガッツポーズしている兼一と高見さんが見え、俺も自然と笑顔が漏れた。
リングを降りると、篠田なぎさが駆け寄ってきて抱き着いてきた。
「ドキドキしちゃった。 かっこよかったよ」
カメラのストロボが光っぱなしだった。
再度観客席に目をやると、真希とママの姿は消えていた。
控え室に戻って、野口さんと試合を振り返っていると、兼一と高見さんが入ってきた。
握手を交わし、肩を組んだりして勝利を祝い、そして叫んだ。
「橋元さんに、ご馳走さまです。 合掌!」
『大河、今度の試合でお前が勝ったら、次の呑み会は全部俺が面倒見るぞ!』
三人は、橋元のあの言葉を忘れていなかった。 横並びで合掌すると深々と頭を下げた。
「しかも、約束通り二連勝だしな」
兼一は不敵に笑った。
その頃、橋元は駅に向かう人の流れの中で、兼一と高見を探していた。
「あいつら、どこ行っちゃったんだ?」
真希からのメールは『お疲れ』の題名だけで本文はなかった。
(真希、仕事に向かったのか?)
気に留めていなかった。
野口さんに、三人の写真を撮ってもらい、真希に送った。
もちろん三人、Vサインだった。
兼一と高見さんが控室を後にすると、山崎会長がセコンドのユニホームや救急箱等が入ったバッグを差し出した。
「坂口、俺はこれから用事があるから、この荷物を明日ジムまで持って来てくれるか?」
「あっ、ハイ。 わかりました」
「会長、こいつ疲れてますから、俺が明日持っていきますよ」
野口さんが気を使ってくれ、バッグを手にとろうとした。
「一ラウンドしかやってないのに、疲れたとか言ってんじゃないよ」
山崎会長は急に不機嫌になり、俺の前にバッグを放り投げ怒鳴った。
「あっ、ハイ。 分かりました。 俺、持っていきます」
「おう!」
野口さんは、それ以上口を挟まなかった。
「じゃあ、お疲れさん」
山崎会長は憮然とした表情で控室を出て行った。
大きなため息をついた野口さんは、俺の肩を二、三度叩いた。
「飯行くぞ」
それにうなずくと、バッグに手を伸ばした。
「お前は持たなくていい」
「はあ、すいません」
野口さんはバッグを手に取ると肩に担いだ。
山崎が後楽園ホールビルから出ると、スポーツ新聞の記者が待ちかまえていた。
「山崎会長、坂口大河選手と篠田なぎささんの熱愛報道について、一言お願いします」
山崎は記者からメモ帳を奪って地面に投げ捨てると、睨みつけて怒鳴った。
「奴はボクシングだけやってればいいんだよ。 ロボットと一緒だ。 お前らも余計な記事書くんじゃねーぞ。 いいか!」
そして、足早に駐車場に向かった。
記者がメモ帳を拾い上げて汚れをとっていると、バッグを担いだ野口と、身軽な大河がエレベーターから降りてきた。
「坂口選手、篠田なぎささんとの熱愛報道について一言お願いします」
「……」
俺は突然の事に、どうしたらいいのか分からなかった。
「それなら俺に聞いてくれる?」
野口は薄手の上着をさっと脱ぎ捨てると、記者に背中を向けた。
「これ見てくれる? こんな大きなサイン。 なぎさちゃん、俺にはこんなに大きなサインくれたのに、こいつはサインの一つも持ってない。 だから、あり得ない!」
記者は呆気にとられてペンを動かす事すら出来なかった。
「それでは僕達、お食事にまいりますので」
野口さんの大袈裟な表情の迫力というか、振る舞いに、記者は何も言えなかった。
俺に言わせると『神対応』だった。
「チッ」
駐車場に向かう路地から、一部始終を観ていた山崎は、舌打ちをすると足早に駐車場に消えた。