第2話 再会
この白いマスコットグローブがもたらした物語は、都内マンションの一室から始まる。
昨年の十月
表札にSakaguchiと書かれたマンションの一室。
1Kの室内には、カウンターテーブルと椅子二脚、テレビ、冷蔵庫、そして、シングルベット。
カウンターテーブルの上には、コーヒーメーカーとマグカップ。
南に向いた窓にはオレンジ色のカーテンが掛けられていて、その下には、Taigaと刺繍さたボクシングシューズが無造作に置かれている。
窓から差し込んだ朝日が、ベッドに横たわる男の体を照らし、部屋の中を温めている。
ノースリーブのTシャツから出ている筋肉質の腕が、時計を目の前にもっていくと、また元の位置に静かに置いた。
そろそろ起きようか……、しかし、暖かくて心地いいベッドから出る気になれなかった。
昨夜の試合で痛んだ体を少し休ませたい。
それに、今日は完全なオフだ。
そんな事を考えているうちに再び眠りに落ちてしまった。
日差しで部屋の中が暖まったころ、俺は再び目を覚ました。
時計は午前九時を過ぎていた。
「あちゃー」
二度寝した事を後悔しながらも、ゆっくりと体を起すと、首や両腕、そして脇腹に手を当ててみた。
やはり、体のあちらこちらに痛みがある。
のそのそとカウンターテーブルまで行きつき、飲みかけの冷めたコーヒを口にすると、切れた唇に走った痛みで顔が歪んだ。
俺は、坂口大河、二十二歳のプロボクサー。
アマチュアでは全日本ランキング三位。
山崎ボクシングジムの会長にスカウトされて、プロの世界に入った。
スポンサーがついて、ボクシング優先の生活をさせてもらっている。
昨夜の試合は、勝つと全日本ランキングに名を連ねる事が出来るという、そんな大事な試合だった……。
アマチュアでの経歴から少しは期待はされていたようで、勝利を確信したテレビスタッフは、俺のコーナーの下でスタンバイしていたそうだ。
しかし、その期待を裏切って派手に倒され、俺は負けてしまったらしい。
それも、一ラウンド三十秒。
負けが決まった瞬間、テレビスタッフは慌てて相手側に移動したそうだ。
『らしい』『そうだ』とは、まるで他人事の様だが……、実は、試合をした記憶すらない。
試合が終わって、どれくらいの時間が経過していたのだろう。
パイプ椅子に腰かけた自分の両手が、まるで映画の始まりの様に、フェードインして視界に映し出された。
止まっていた時間が急に動き出したような、不思議な瞬間だった。
ゆっくりと周りを見渡すと、そこは控室だと認識することができた。
そして、試合の為に来たという事も認識できた。
しかし、これから試合をするのか、それとも終わってしまったのか、それが認識できなかった。
手のひらや甲を見ているうちに、テーピングの跡がわずかに残っていることに気が付いた。
(どうやら、試合は行われたらしい)
「試合って、終わったんですか?」
そばにいた山崎会長に声をかけた。
確認の為、いや、負けたに違いない現実を受け止めたくない俺は、『勝ったのを覚えてないのか』という返答を少しだけ期待していた。
「ああ、惜しかったけどな」
残念そうでもなく、無表情のまま淡々と言葉が返ってきた。
その時、自分は敗者としてここにいるという事を初めて知らされ、その現実を静かに受けとめるしかなかった。
それからの記憶も、途切れ途切れだ。
歩道橋の上、駅前のコンビニエンスストア、部屋のテレビの前……、まるでスナップ写真が次々に映し出されるような感じで、その間の移動手段や景色などが抜けている。 奇妙な感覚だ。
ボクシングとは、鍛え抜かれた人間同士が本気で殴りあうのだから、ある意味、非常に恐いスポーツだ。
グローブを着けているとはいえ、その衝撃は凄まじく、急所と言われる箇所にクリーンヒットすると、壊れたテレビのように、視界が一瞬砂嵐のようになる。
昨夜の俺のように完全なノックアウト状態だと、試合前後の記憶までも飛んでしまったりする。
そんな状態の俺が、新聞のインタビューできちんと受け答えしていたというのだから不思議だ。
「試合の事は覚えていません」
正直そのままではあるが……。
なによりも、試合を観に来てくれた両親には、本当に心配をかけてしまった。
息子が目の前でノックアウトされてしまったのだから、胸の内は想像できる。
そこで俺は、短い休暇をもらい田舎に帰ることで、両親を安心させてやろうと思った。
白いマスコットグローブを結んだバッグを肩にかけて、部屋を出た。
マスコットグローブとは、ボクシンググローブをそのまま小さくしたようなアクセサリーで、本物同様に左右のグローブは紐で結ばれている。
俺は、それをスポーツバッグに付けていた。
新幹線から乗り換え、ベージュに赤いラインのディーゼル列車は、のどかな景色の中をゆっくりと走っていた。
乗客は疎らだ。
聞こえてくるのは、ディーゼルエンジンの唸る音と、レールのつなぎ目の音。
会話らしい声はほとんど聞こえてこない。
そんな列車の車窓から、ぼんやりと外を眺めていた。
しばらくすると、窓には街並みが映し出され、車内アナウンスにつづいて、列車はホームに滑り込んで静かに停車した。
列車から降りようと、扉の前に立った時だった。
足元に当たる小さな感触で落とした視線の先に、紐のほどけたマスコットグローブが一つ”コトン”と転がった。
もう片方は?と思い辺りを見回したものの、それらしいものが見当たらず、手に取ったものだけをポケットに入れ列車を降りた。
そして、久しぶりに帰ってきた田舎の空気を、胸の中に大きく吸い込んだ。
窓越しに浴びていた秋の日差しは眩しく暖かかったが、外の風は少し肌寒く、肘まで上げていたパーカーの袖を手首まで下して改札へ歩き出した。
その直後、肩が触れそうなほど近くを通り過ぎた長い髪の女性……。
すれ違いざまに目が合うと、魔法にかかったように二人とも視線を外せなかった。
ほんの一瞬の出来事なのに、時の流れが止まったかのように、静かに、そして、ゆっくりとした瞬間だった。
見つめ合ったままの俺たちは、少しの間立ち止まり、身動きが取れなかった。
その人は、芸能人でもおかしくないくらい綺麗な顔立ちで、サングラスの奥で少しだけ目を細め、何か記憶をたどっているような雰囲気だったが、軽く会釈をすると列車に向かい歩き出した。
俺もぎこちない会釈の後、気持は改札へ向かおうとしたが、視線は無意識のままその人を追いかけていた。
その人は、振り返ることもなく列車の中に消えた……。
「……」
冷たい風で我に戻った俺は、足早に改札へと向かった。
列車に乗り込んだ私は、景色が見えるようにボックス席の窓側に腰掛けた。
「きゃっ」
お尻の下に何かが当たるのを感じて慌てて立ち上がると、座席の上にボクシンググローブの形をした白いアクセサリーが転がっていた。
「これってマスコットグローブ……?」
手のひらに乗せて眺めていると、幼い頃の記憶がうっすらと蘇ってきた。
(さっき、すれ違ったのって……)
窓の景色を眺めながら、あの頃の記憶を懐かしんでいた。
俺は実家までの道を歩きながら、さっきの女性の事を考えていた。
(誰だったんだろう)
(向こうも俺の事見てたよな……)
(知ってる人? いや、知らない……)
(何なんだろう、このモヤモヤした気持は……)
(でも、綺麗だったな……)
答えが出ないまま実家の前まで来ていた。
「ただいまー」
扉を開けると、すぐに足音が聞こえてきた。
「大河、心配したよ。 大丈夫なの? 控室でもボーッとして喋らなかったし……」
控室で会ってたなんて記憶になかった……。
「し、心配ないよ」
顔を覗き込んできた母親のあまりの近さに、背中を大きく反りながら答えた。
俺が帰るという事で好物のカレーライスを作ってくれていたらしく、仕事から帰ってきた父親も交えて三人で食卓を囲んだが、久しぶりの3人だからなのか、言いたい事があるのに遠慮して言い出せないのか、少しの間沈黙の時間が過ぎた。
「いつまで続けるんだ? もう、辞めて帰ってきたらどうだ?」
元々、プロになることに反対していた父親は、言い辛かったのだろう、酒の勢いを借りて小声で言った。
「父さんね、あんたが倒れるところを目の前で見たもんだから気が動転しちゃったのよ。 そりゃあ、母さんだって同じ気持ちだけどね」
雰囲気を察して、母親が口を挟んだ。
「でも、いざとなったら女の方が肝がすわって強いのかもね。 大河の気がすむまでやんなさい」
母親は笑ったが、顔をみれば嘘だと言う事くらい息子の俺には理解できた。
二人とも思っていたほど心配なさそうだ。
いや、顔をみせたから安心したのだろう。
ゆっくり風呂に入った後、横になってテレビを観ていたが、田舎に帰って来たという安心感からかいつのまにか眠りについてしまった。
畳の上で眠ってしまった俺に布団を掛けてくれたようだが、田舎の朝は東京に比べると寒く朝方寒くて目が覚めた。
(何時だろう……)
近くに置いてあったスマートフォンで時間を確認しようとすると、メッセージが表示された。
「兼一か……」
食事会の件
次の食事会は明後日の土曜日、また連絡する。
Re:食事会の件
ゴメン!
今、気が付いた。
明後日の食事会の件、了解。
昨夜のうちにくれたメールだったが、今、この瞬間まで気が付かなかった。
久しぶりの実家は居心地が悪いわけではないが、今となっては東京のマンションの一室が我が家だ。
何となく、早く帰りたかった。
「もう少しゆっくりすれば?」
「うん、でも、仕事にも早く復帰したいし、トレーニングも再会しないとね」
親は引き留めてくれたが、何だかんだ理由をつけて帰る事にした。
食事会は池袋駅に近い焼き鳥屋で行われることが多く、メンバーは最年長で会社社長の橋元さん、一歳年上で新聞記者の高見さん、小学校からの同級生で銀行員の兼一、そして、俺の四人。
東京で就職している同郷の仲間で、食事会とは言うが単なる呑み会で、不定期で集まりストレスを発散しあっている感じだ。
この三人は、先日の試合にも応援に来てくれていた。
「大河、体の方は大丈夫か? あんな強烈なパンチもらって痛かったろ」
乾杯すると、すぐに橋元が問いかけた。
「大丈夫です。 ただ、あの日の事は途切れ途切れにしか覚えてないんですよねー。 試合の記憶は全くないんすよ……」
「まあ、とりあえず、また一緒に呑めてよかったよ。 今、ここにいるという事が一番大事だからな」
橋元は驚きの表情を見せると、大河の肩に手をのせグラスを合わせた。
「でも、必死に立ち上がろうとしてたよな。 あれって無意識か?」
兼一は太い眉毛を動かしながら、驚いたような表情で大河の顔を覗き込んだ。
「勝たなくちゃいけないっていう使命感なのか、それとも闘争本能なのか、ボクサーって凄いな」
ハイボールのジョッキを上下させながら、高見もまた顔を覗き込んだ。
「チケット買ってもらったのに、あんな負け方しちゃってホント悪かった」
小さく肩を窄め頭を下げる大河に一同は労いの言葉をかけると、運ばれてきた料理をむさぼるように食べ遅くまで語り合った。
山崎ボクシングジムは、豊島区のとある駅の近くにある。
一階と地下にリングがあり、通りに面した一階の練習場はガラス戸のサッシが大きく開き、ファンが見学できるようになっている。
この日の大河は地下のロッカールームを出ると、目の前のリングで軽く体を動かしていた。
「おう! 坂口」
一階から階段を下りてきた会長の山崎が、休憩のブザーで動きを止めたタイミングを見計らって声をかけると、大河はリングから降りて駆け寄った。
「すいません会長、ご心配かけて」
「体調はもう大丈夫なのか? お前は俺が見つけたダイヤの原石なんだからな! 頼むぞ!」
肩を二度三度叩くと、背を向けた。
「それじゃあ、俺は用事があるから」
小さなバッグを小脇に抱え、再び階段を上がり出て行った。
「麻雀だろ……」
「もう、ちょっとなあ……」
トレーナーの野口が、顔を覗き込むように肩を組むと、大河は苦笑いした。
「今日は体を慣らすだけで止めとけ」
「はい」
「俺も今日は上がるわ。 飯でも行くか」
大河の頭に手を置くと、子供に接するように頭を撫でた。
この師弟コンビが初めて出会ったのは、大河が中学一年の夏休みだった。
プロボクサーに憧れていた大河は、新聞配達で貯めたお金で父親の知り合いだったボクシングジムに合宿する事になり、その時、トレーナーとしてジムに在籍していたのが野口だった。
中学生の大河にとっては、泣きそうなほどトレーニングに厳しい野口だったが、それ以外では父親のように優しい存在で、当時から師と仰いでいた。
その当時一緒に撮った写真を、今でも大事に持っているほど……。
それから九年の月日が流れ、プロになろうとした大河に声をかけたのは、その時のジムではなく、山崎ボクシングジムだった。
野口もジムを離れてしまい、もう会えない存在だと大河は諦めていた。
そんなある日、後楽園ホールで山崎と試合観戦していた大河は、数列前に座って観戦している野口を偶然目にした。
「会長、あの人って野口さんって方じゃないですか?」
「おう、知ってんのか」
当時の経緯を聞いて驚いた山崎は、野口に声をかけると大河を手招きした。
「こんにちは、坂口です。 その節はお世話になりました」
「ああ、どうも……」
野口は小さくうなずくだけで、それ以上の言葉はなかった。
(やっぱり、俺の事覚えてなかったか……)
すっかり大人になった大河を見て、それが誰なのか、すぐには理解できるはずもなかった。
「野口さん、十年近く前らしいんですが、田舎から中学一年生が合宿に行ったのを覚えてますか?」
山崎が切り出した。
「ええ、よく覚えてますよ。 新聞配達でお金貯めたっていってましたね」
野口は、腕組みしながら記憶をたどった。
「こいつが、その坊主です」
「えー?」
野口は驚きの表情を見せると、再会した息子を見るようににこやかな顔になった。
「坂口って、お前、大河か!」
「そうです。 お久しぶりです」
「お久しぶりじゃねえよ。 元気だったか!」
大河の腕を叩いたり、肩を組んだりして再会を喜んだ。
山崎はこれまでの大河の経歴を説明し、トレーナーの打診すると、フリーだった野口はトレーナーになることを了承し、師弟関係が復活することになった。
探していた人に会えただけではなく、自分のトレーナーになってくれることを了承してもらった大河は心の底から嬉しかった。
しかし、この大都会東京で、大河にはもう一つの再会が待ち構えていた。
数日後
自宅でサッカーの試合を観ていると、兼一からメールが届いた。
食事会の件
土曜日の五時、大丈夫か?
Re:食事会の件
大丈夫だよ。 でも、トレーニングがあるから少し遅れる。
(五時? いつもより二時間も早いってどういう事だ? まあいっか……)
再びサッカーの試合を観ることにした。
食事会の日、俺は一時間近く遅れて店に着いた。
タレの香ばしい匂いがトレーニング後の胃袋にはたまらない刺激だ。
「腹へったー」
「いらっしゃいませ。 お二階でお待ちですよ」
店に飛び込んだ大河に、焼き鳥を焼いている店員が二階を指さした。
階段を駆け上がって二階の入口から中を覗き込むと、一番奥の四人掛けテーブル席で兼一と高見さんが手を振っている。
俺も手を挙げて応えたが、ふと、いつもと違う事に気付いた。
背中を向けている橋元さんはいつも通りだったが、いつもは俺が座る右隣に誰かが座っていた。
どう見ても女性のようだ……。
(橋元さんの奥さんにしては若すぎるな……)
「ゴメンゴメン、遅くなっちゃって……」
席に近づいて声をかけると、橋元さんの隣に座っていた女性が笑顔で振り向いた。
「こんにちは」
あの時、駅ですれ違った女性だった。
ガタガタ、ガタン。
俺は後ろの椅子を倒してしまうほど驚いた。
「あっ、ど、どうも……」
後ずさりしながらの、その一言が精一杯だった。
「この前、会ったんだよねー」
「う……、うん、会ったと言うか……、すれ違ったというか……」
笑顔でサラリと言った彼女に対し、俺はしどろもどろだ。
(あの時、ジーっと見たりして、気持ち悪いとか変態だとか思われていないだろうか……)
俺の頭の中は混乱していた。
「心配しなくて大丈夫だよ。 変態だなんて思ってないから」
完全に見透かされていた。
手で顔を覆い天井を見上げると、記者の高見さんが追い打ちをかけた。
「お前、何やらかしたんだよ! トップ記事だな!」
「いやいや、何にもしてないって。 それに、俺なんか記事にしたって売れっこないし」
「『今話題の売れっ子、北園真希に変態のような視線を投げかける、坂口大河』ってな」
高見さんはハイボールをゴクリと呑み込むと、両手の親指と人差し指で四角形を作り満足げに叫んだ。
「バーン!」
「バーンじゃないっつうの!」
「ウチも、口座凍結しちゃおっかな」
兼一までが悪ふざけだ。
「きたぞのまき? タレント? 誰? え? 何?」
俺はプチパニックになっていた。
テレビはあるものの、スポーツ中継以外の番組はほとんど観た事がない。 それにも増して芸能界には疎い。
「まあ、座れ」
橋元さんがレモンサワー片手に、七福神のような笑顔でいった。
「芸能界に疎いお前でも、真希ちゃんの子供の頃は知ってるはずだぞ」
立ったままだということに気付いた俺は、離れた所に置いてあった椅子を持ってきて腰掛けると、女性の顔を覗き込んだ。
「俺と、子供の頃に……、会ってるの?」
女性は、ラムネを入れたグラスを目の前に持って行くと、俺を覗き込んだ。
「大河は子供の頃から変わってないもんねー」
「好美ちゃんだよ」
耳打ちした兼一が、それでも気付かない俺に『よく見てみろ』とでも言いたげに目で合図した。
おしながきで顔を隠しながらチラチラ見ていると、幼い頃の好美ちゃんが脳裏に蘇ってきて、大きな声が出ないように手で口に蓋をすると彼女を二度見した。
好美ちゃんは小学校の頃、みんなのアイドル的存在だった。
もちろん俺も、その姿を遠くから眺めている男子児童の一人だった。
今はモデルやタレントとして活躍しているのだという。
本名を表に出さない方が何かと便利な事もあるらしく、あえて芸名の真希で呼ぶ事にした。
そんな話をしていると店員が近寄ってきて、俺の顔を覗き込んだ。
「トニックウォーターですね?」
「まさに、その通り」
店員は行ってしまった。
「ご注文、頂きましたー!」
この店でトニックウォーターを注文する事が多かった。 店員も把握済だ。
乾杯が済むと、先日の真希との出会いを追及された。
本当に不思議な出会いだった。
「ほんの数秒の出来事だったけど、俺はずっと気になってたんだ」
「私は列車の中で気が付いたんだー。 それで親に電話して、兼一君のお母さんにアポとってもらったの」
「なるほどな」
まんざらでもなさそうな顔で兼一はビールを呑んだ。
「それで俺の電話番号知ったのか」
「そうだよ」
「悪用すんなよ」
「こっちのセリフです!」
「何だかドラマみたいな話だな」
高見が割って入った
それにしても、真希と会うのは小学校の低学年以来だ。
子供の頃もカワイイ存在ではあったが、あの頃の面影も見つけられないほど、本当に綺麗な女性になっていた。
俺はいつの間にか、その仕草や表情を目で追ってニヤけていた。
それから一時間が過ぎた頃、真希が口を開いた。
「ゴメンネ、明日の仕事朝早いから、そろそろ帰るね。 すごい楽しかった」
「おう、これからは五人で会おぜ!」
俺は、真希の肩をポンと叩いた。
「いや、次回からは四人だろう。 大河は多分、今日限りだ」
深刻そうに話す高見さんの顔を見ながら、何故、俺がその枠に入っていないのか理解でず、みんなの顔を見回していると、更に深刻そうな顔で話しを続けた。
「『今話題の売れっ子、北園真希に変態のような視線を投げかける坂口大河』で、お前は捕まっちゃうから」
「えー? そこに戻るの? 高見さん……」
「さ、オチがついたところで、帰えろ帰えろ」
高見の言葉に、五人は笑顔で外に出た。
真希は大きめのマスクをすると、橋元さんの大きな体の影に隠れるように、タクシーの側まで行った。
「あ~、何だか楽しかったな。 幼なじみっていいね。 また誘ってね。 大河も今度は試合に誘ってね」
そう言い残すと、タクシーで走り去った。
「大河、今度の試合でお前が勝ったら、次の呑み会は、俺が全部面倒見るぞ!」
真希の存在が気分を良くしたのか、呑んで気が大きくなったのか、橋元さんはタクシーのテールランプを見ながら、力強くいった。
「よっしゃー」
四人は肩を組みながらその場を後にした。
「今の言葉忘れないでよ」
「忘れないよ。 いや、二連勝にしよう」
「兼一! メモっとけ」
「バカ、口約束でいいんだよ、高見」
「俺も入ってるよね」
「お前は捕まってるっつーの、なあ、兼一」
「がんばって二連勝するから枠に入れてくれよ」
四人の人影は、池袋の人波に紛れて消えた。
朝五時半、
枕元で目覚まし時計が鳴りだすと、布団の中からゆっくりと出てきた手が、ズルズルと引きずり込み、その音は鳴り止んだ。
ボクサーの朝は早い。
心肺機能や足腰の筋力をつける為の、ロードワークという大事なトレーニングが待っている。
だが、朝が苦手な俺にとっては、早起きすること自体が、辛いトレーニングのようなものだ。
着替えを済ませ入念にストレッチをすると、山崎会長が作ってくれた約十キロメートルのコースに出た。
ある日、ロードワークを終えテレビの電源を入れると、朝の番組に真希が出ていた。
シャワーの後の濡れた髪の毛を、タオルで乾かしながら観ていた。
この前一緒に食事していた人がテレビに出てるなんて、何だか不思議な気分だった。
(真希って、可愛いな……)