第13話 新たなスタート
2日間の休みのあと、ジムに行くと野口さんの姿が無かった。
(風邪でもひいたのかな)
ただそれだけの事なのに、ジムの中には張りつめた感じもなければ、和やかな雰囲気もなく、会話も聞こえず、縄跳びの音、サンドバッグを打つ音、パンチングボールを打つ音、時間を知らせるブザーの音、まるで、仕掛けられたジオラマが時間を刻んでいるだけのように思えた。
一時的なものだと思い、あまり気に留めなかった。
しかし、一週間たっても野口さんは現れず、電話をしても出る事はなかった。
「お世話様」
タクシーを降りた篠田が山崎ボクシングジムの近くに差し掛かった時、トレーニングウェアに身を包んだ大河がリング脇のベンチに腰掛け、険しい顔で一点を見つめている姿を目にした。
(どうしたの? 何があったの?)
物陰からジムの中の様子をうかがっていると、山崎がジムに現れスタッフルームに入って行き、それを追いかけるように大河も入って行った。
険しい表情の二人は、身振り手振りで言い争っている。
ただならない状況だという事は篠田にも伝わってきた。
「会長。 野口さん、どうしたんですか?」
次の瞬間、山崎の顔と態度が急変した。
「うるさいんだよ。 お前はロボットみたいにボクシングだけやってればいいんだよ! あの野郎、俺に指図しやがって!」
今にも殴り掛からんばかりの権幕だ。
「あの野郎、俺がお前の事を考えてないとか言いやがって。 大きなお世話なんだよ」
(野口さん、何かこの人に言ったんだ……)
「とにかくな、お前は俺の言うとりにすればいいんだよ。 分かったか!」
大河の胸元をグイっと掴んで引き寄せると言葉をつづけた。
「悪いが奴には辞めてもらった。 野口はもう来ないし、お前の前に現れる事もないだろう。 奴がその約束を守らないようなら、お前もこの世界から追放する。 俺とお前の契約は、まだまだ残ってるんだ、悪いが移籍も出来なからな!」
山崎は鬼の形相で、更に言葉を投げつけた。
「それでも俺に文句あるんだったら、あいつみたいに死んでしまえ!」
支離滅裂になった山崎は、ジムの壁に張られた試合のポスターを指さした。
そして、怒りに任せてドアを足で蹴りつけて開けると、ジムを出て行ってしまった。
山崎が指さしたそのボクサーとは、大河が上京してジムに入った時に、帰る方向が同じという事で一緒に電車で帰ったりする、兄のような存在だったが、不幸にも試合で命を落としてしまった選手だった。
大河は、その選手に対して発した山崎の言葉が許せなかった。
スタッフルームを出ると、リング脇のベンチに置いていた自分のボクシンググローブを手に取り、全身の力を込めて床に叩きつけ、奥まって外から見え辛いベンチに体を丸めると、顔を隠すようにして泣いた。
悲しいというよりも、とにかく悔しかった。
悔しくて悔しくて仕方なかった。
そんな、荒々しい大河を初めて見て衝撃を受けた篠田は、そっとジムに入り、叩きつけたグローブを差し出した。
そして、胸に抱き寄せて呟いた。
「大河君らしくないよ。 あんなに大事にしてたのに」
グローブを宝物のように大事にしている様子を目にしていた篠田は、自分を抑えられなくなっている大河を見ていられなくなっていた。
「早く立ち直ってまた強い大河君見せてね。 私たちの仕事って、そうやって夢を与える仕事でしょ」
その頃、真希を乗せたタクシーもまた、山崎ボクシングジムに向かっていた。
「ありがとうございます」
「その道を入るとすぐだからね。 道端からリングが見えるから、すぐ分かるよ」
「はい」
タクシーを降りる真希に、年配の運転手がジムまでの道を教えた。
(大河、私が突然現れてびっくりするかな?)
小さな交差点を曲がり、山崎ボクシングジムという看板が見えた真希は小走りで近づき、道端から中の様子をうかがったが人の気配がなかった。
不思議に思った真希は、更に奥を覗き込むと、衝撃的な場面を目にしてしまった。
そして、身動きする事ができず、その場に立ち尽くてしまった。
そこには、大河を胸に抱き寄せる篠田なぎさと、体を預けた大河の姿があった。
瞬きをすることすら忘れていた真希は、一歩、二歩と、後ずさりすると、走ってその場を立ち去った。
「ありがとうございます。 なぎささんのいう通りです。 夢を与える仕事ですよね……」
自分を取り戻した大河は笑みを浮かべると、深々と頭を下げた。
篠田もまた、優しく微笑み、うなづいた。
大河がポケットからバンテージを取り出し、リング脇のベンチで拳に巻き始めると、篠田も身を寄せるようにして腰掛けた。
あの日から、トレーナーのいないジムで、大河は黙々とトーレーニングに励んでいた。
雨でサッシのガラスが曇り、外の景色もうかがい知る事も出来ない、そんな日の夜、リングの上でシャドーボクシングをしていると沖田がキザに歩いてきた。
「おう大河、落ち着いたか?」
「はい、大丈夫です」
「美人のお姉さん、今日は来てねーみたいだな。 会長はまた麻雀だろ、お前の刃金も錆びちまうよな」
沖田はスポーツタオルをベンチに置き、くっ付きそうなほど顔を近づけると、肩を組んで大河の胸を小突いた。
「俺が教えてやってもいいぞ、大河」
「マジすか? お願いします」
沖田さんの技量を普段のトレーニンで十分わかっていた俺は、迷う事なく返事を返した。
「バカ、もっと早くにお前の方から言って来いよ、その時を待ってたんだけどな」
「ありがとうございます」
「ははは、でも、野口さんのようには出来ねーぞ」
「はい」
大河は深々と頭を下げた。
「じゃあ、明日からな。 せめて今日はゆっくりさせてもらうよ。 じゃあな」
沖田がいつものキザな挨拶をすると、それを待ってましたといわんばかりに、大河も真似をしてキザに挨拶をした。
「おー、勇気あんじゃねーかー」
ニヤニヤしながら顔を近づけると、大河の額を指で弾いて去っていった。




