第1話 序章
七月の朝
ホテルのロビーに集合した十人ほどの面々は、スタッフに誘導され建物の外へ出た。
絵の具で塗りつぶしたような鮮やかな青い空と、痛いほどの日差し、そして暑い空気が外に出た彼らを包み込んだ。
タオルを頭から被る人、うちわやパンフレットで顔を扇ぐ人、冷たいペットボトルで顔を冷やす人…、それぞれの方法で暑さをしのいでいた。
皆、ホテルが企画したオプショナルツアーに参加する。
私も、その中の一人だ。
ただ、、、水着同然で素肌を晒している皆とは違い、長袖のパーカーでフードを深めに被り、大きめのサングラスで顔を隠す怪しげな女子だ。
気温はすでに三十度を超えていた。
ここは沖縄県の離島。
日焼けの注意を促すポスターが、あちらこちらに貼られている程日差しが強い。
そんな中、フードで顔を隠すようにしているのだから私の周りに人影はなかった。
しばらくすると、誰もいなかったはずの私の背後から優し気な女性の声がした。
「暑いですね」
幼い女の子を連れた若いお母さんが、手で日差しを遮るようにしていた。
「そうですね……」
顔を見られないように、手で口元を隠しながら返答した。
「ん、んー、ん」
幼い女の子が手のひらにのせた小さな貝を見せようと、お母さんのシャツを引っ張るように背伸びしながら、私の方に一生懸命腕を伸ばしている。
幼稚園の年中さんぐらいだろうか、視線を合わせるようにしゃがんで顔を覗き込むと、女の子ははにかむように笑った。
「かわいい貝だね。 拾ったの?」
貝を指さした私に、小さくうなずくと、お母さんの顔を見上げて救いを求めた。
「何だっけ?」
「ヤ・ド・カ・リでしょ?」
どうやら、ヤドカリという名前を思い出せなかったようだ。
「ヤドカリさん、忘れて帰っちゃったみたい。 だから、ヤドカリさんに返してあげるの」
指で摘んだ貝を私の手のひらに置くと、嬉しそうにスキップしながらクルクル回った。
「へー、そうなんだ……。 でもね、忘れたんじゃないよ、きっと……」
「そうなの?」
「うん、ヤドカリさんはね、お引越しが大好きなんだよ。 だから、新しいおうち見つけて引っ越ししちゃったんじゃないかな」
「……」
女の子は驚いたように私の顔を覗き込んで動きが止まってしまった。
「もう、いらないのかな……」
我に返った女の子は含み笑いで聞いてきた。
「うん、いらないと思うよ。 持って帰っちゃえば?」
小さな手のひらに貝を乗せて包むように指を閉じてあげた。
「ほら見てごらん、おうち探してるヤドカリさん、どこにもいないでしょ?」
小さな肩を引き寄せて周りを指さした。
女の子は、あちこち見回した後でニッコリ笑うと、かわいい唇を耳元に近づけてきた。
「じゃー、もらっちゃおっかな?」
「うん、もらっちゃいなよ」
かわいい耳元で囁いた。
「やったー」
両手を大きく上げると、四回、五回とジャンプして喜んだ。
そんな無邪気な女の子を眺めているうちにツアーの準備は整ったようで、一行は白いマイクロバスに案内された。
当然、他のツアー客と至近距離になる。
顔を隠すように胸の前にバッグを抱いて乗り込むと、後方二人掛の窓側に隠れるように腰掛けた。
(怪しさ満点だ……)
ホッとした次の瞬間、乗客をかき分けながら近づいてきてた女の子が、お母さんの静止を振り切って私の隣に腰掛けた。
「だめよ夏菜、こっちに来なさい」
「やだ、お姉ちゃんがいい」
女の子は私の腕にしがみついた。
「ほら……」
お母さんが手を引いても、女の子は動こうとしない。
それどころか、手を引けば引くほど強くしがみついて抵抗する。
「あっ、私ならお構いなく。 一人での参加ですから」
サングラス越しにうなづいた。
「ご迷惑じゃありませんか?」
お母さんは申し訳なさそうに覗き込んできた。
怪しい人間だから近づくな。 と、いう事ではないようだ。
「夏菜ちゃん、いい子だもんねー」
そんな女の子が急にかわいく思えてきた。
「うん。。。」
半泣き状態の女の子の頭を撫でるようにしてあげると、目頭を拭いながら少しだけ笑顔をみせた。
「申し訳ありません。 じゃあ、バスを降りるまでお願いしてもいいですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
覗き込まれるたびに、フードで顔を隠すように返事をした。
(さすがに船の上までは怖い。 万が一、海に落っこちでもされたら責任持てない)
「じゃあ、船に乗るまでよろしくね、夏菜ちゃん」
女の子は、かわいい指でOKのサインを出した。
「お姉ちゃん、お名前は?」
(ドキッ)
顔を見られたくなければ、名前も知られたくない……。 どうしよう……。
「よ、よっちゃん」
幼い頃の呼び名を思わず言ってしまった。
「よっちゃん、これやってみたい」
サングラスを指さしている。
(今度は顔か……)
立て続けにピンチがやってくる。
「えー?」
両手を広げて大袈裟に返すと、夏菜ちゃんは小さな手をこすり合わせながら見上げてきた。
「おねがーい」
上手な断りの言葉が見つからず困っていると、お母さんが通路を挟んだ席から説得してくれた。
「お姉さんねー、お日様にあたると、赤くなって痛くなっちゃうの。だから無理言わないでね」
夏菜ちゃんは、腕組みをして膨れ顔になったが、なんとか納得してくれた。
(た、助かった……)
「じゃあ、船が島に着いて……、船から降りて……、それからでもいい?」
夏菜ちゃんはその言葉に大きくうなづくと、きれいな乳歯をずらりと並べて笑顔を見せてくれた。
交渉は成立した……と、いうよりは、夏菜ちゃんの可愛い仕草に完敗したというのが正しい表現なのかも知れない。
バスが着いた港には、真っ白に磨き上げられた漁船のような船が係留され、見事なまでに日焼けした二人の船員が出港の準備をしていた。
パステルブルーの海に真っ白な船体が映えていて、おしゃれな絵画のような風景だ。
客は添乗員に案内され、甲板に並ぶ幾つものベンチに次々と腰掛けた。
「お嬢ちゃんはこっちがいいなあ。 お母さんとお姉ちゃんの間に挟んで、海に落ちないようにしっかり見ててね」
船長と思われる年配の男性が、沖縄独特のイントネーションで誘導してくれ、夏菜ちゃんが近くにいた事もあり、比較的揺れが少ないという操舵室の後方に座らせてくれた。
(ところで、私とお母さん、どっちがお姉ちゃんに見えたんだろう……)
湾の中は波もなく揺れないが、沖に出ると波が高くなり、結構な量の海水を浴びることになるという事を、昨夜、ホテルの従業員がこっそり教えてくれたので、予め大きなビニール袋を購入して備えていた。
衣服は勿論、荷物もびしょびしょになってしまうそうで、私は席に着くなり荷物をそれに入れて折りたたんだ。
そんな情報を知っているのは私だけかと、少しだけ優越感に浸っていたが、周りを見渡すと全ての人が同じことをしていると気がつき、自分が急に恥ずかしくなった。
その人が言っていたように、湾の外に繰り出した船は、波を切り裂きながら水面を跳ねるように進み、船底に波が当たる音と同時に上下に大きく揺れ、切り裂かれた波は台風の雨のように甲板に降り注いだ。
ベンチに座っている客の誰もが、下を向いたまま顔を上げられないでいた。
比較的揺れないと案内された席がこんなに揺れるのだから、他の席はどんなだったんだろうと心配した半面、この席でラッキーだったと胸を撫で下ろした。
十五分くらい経ったころ、船のスピードが緩やかになり、周りの景色にも気を配れるようになってきた。
「わーっ」
誰もが海の色を見て声をあげる。
いや、声をあげずにはいられないほど美しい。
まるで、宝石のように青く美しい海の色だ。
その穏やかで透き通る青に見とれていると、今度は水面の上に、純白の島が現れた。
「はあー」
今度は溜息にも似た声があちらこちらから聞こえる。
私も例外ではなかった。
船はゆっくりと砂浜に近付き、波打ち際の二十メートルほど手前で碇を降ろした。
乗客は先端に取り付けられたアルミ製の梯子を伝って降りていく。
私も皆に続いて船を降りた。
そこは、腰までの水深で、つま先まではっきり見えるほど水が澄んでいた。
舞上がったサンゴ砂は、あっという間に沈んで、水が濁らない。
そして、海岸沿いに視線を向けると三色の一筆書きのように、くっきりと色が別れていた。
波打ち際のアイボリー、浅瀬のパステルブルー、そして深くなるとサファイヤブルー。
美しさを例える言葉すら見つからない。
ここはサンゴ砂でできた島。
そう、砂浜だけの島。
他に何もない。
一本の木も生えていない。
天国という言葉は適当ではないかも知れないが、それ以上の褒め言葉が、私の辞書の中では見つからない。
砂浜にはパラソルの花が咲き、ビーチベッドに日陰をつくっている。
私はベッドに寝そべって、風の音や波の音、そして潮の香りや美しい景色を楽しんでいた。
沖合では、シュノーケリング、バナナボート、ジェットスキー……、それぞれが自由な時間を楽しんでいる。
「よっちゃん、これ貸して?」
夏菜ちゃんがビーチベッドの横にしゃがみ込み、かわいい指でサングラスを指していた。
「いいよー、約束だもんねー」
私も精一杯の笑顔で答えた。
夏菜ちゃんのお母さんは、日焼け止めを塗る事に夢中になっている。
二人で背を向けるようにビーチベッドに座り、夏菜ちゃんにサングラスを掛けてあげた。
ちっちゃい顔に大きなサングラスというアンバランスな感じが、凄く可愛くて笑ってしまった。
上や下、左右を見てみたりして一通りの確認が済むと、私の顔をサングラス越しに凝視している。
「お姉ちゃん見た事ある」
(ドキッ、心臓に悪い……)
「あれ? よ、ようちえんでかな……?」
「ちがう、わかんなーい」
不思議そうに顔を覗き込んでいたが、どうやら思い出すのを諦めたようだ。
「はい」
あっさりと私にサングラスを渡し、お母さんの元へ走って行った。
ここではもう、サングラスを外す機会はないだろうと、掛け直す前に景色を裸眼で眺めてみた。
(なんて綺麗な景色なんだろう。)
バッグから取り出したスポーツドリンクで水分を補給し、波打ち際まで行ってみることにした。
ビーチサンダルを指に引っ掛けて、海辺に向かってゆっくりと歩き出した……。
「うっ!」
一メートルほど歩いただけで、日差しに焼かれた砂の熱さに足の裏が耐えられなくなり、ビーチパラソルの下までダッシュで戻ると、日陰の砂でジンジンする足の裏を冷ました。
(何という事だ、熱すぎる。 でも、あそこまで行きたい)
気を取り直してビーチサンダルを履くと、波打ち際までダッシュした。
「よし!」
小さくガッツポーズをして振り返ると、私を指さして大笑いしている夏菜ちゃんの姿がビーチパラソルの下に見えた。
水深の浅いこの辺りは、一遍の曇りもないガラスを上からの覗き込んでいるようで、足元で泳いでいる警戒感のない魚たちがはっきりと見える。
私は、ポケットから取り出したカメラで、美しい景色を無心で撮り続けた。
午後、ホテルの部屋に戻った私は、シャワーで潮を洗い流した後、映画を観て、雑誌を読み、横になり、そしてまた映画を観て……、
食事はルームサービス……、部屋の中に籠りっきりだった。
時間ばかりが気になる。
そしてまた映画を観て……、テレビも照明も点けたまま、いつしか眠りにつき朝を迎えていた。
嫌な夢で飛び起きた私は、髪の毛をかき乱すと、枕元にあるデジタル表示の時計に目をやった。
五時五七分を表示している。
「もうー」
テレビの音にもかき消されそうな小さな声は、ガラガラ声だった。
椅子の背もたれに掛けたままのバスタオルを手にとると、熱いシャワーで目を覚ますことにした。
荷物を整理したあと浴室の鏡の前で簡単に化粧を済ませ、ワンピースにヒールの低い靴、いくつか持って来たサングラスの中からは、小さめのサングラスを選んだ。
そして、つばの広い帽子の中に長い髪の毛を隠す。
皆が朝食を摂っている時間帯を見計らいフロントで精算をすませた私は、ロビーの椅子に腰かけて財布を入れようとした時、バッグに付けていたはずのマスコットグローブが無い事に気が付いた。
慌てて足元に視線をおとしたが、転がっていたのは片方だけだった。
(えっ、どこ?)
もう片方を探そうとした、その時、
”コン、コン”
後頭部を何かで突かれる感覚を覚え、振り向いた私の視界の中に、白いマスコットグローブが飛び込んできた。