魔人
かつて『魔人』と恐れられた男がいた。彼は既に齢百歳を超える、元魔物である。
天空大陸の西部の果てで、彼は生まれ落ちた。生み出したのは、その地域に住む有名な部族『カリーシア』
『カリーシア』は、ある技術に特化していた。それは、今では失われた魔術、『呪術』。
彼の体の元となったのは、スプレッド・マウスと言う名の生物だった。大口を持って小動物を丸呑みにする、蛇のような魔物である。この魔物自体は、決して脅威となるものではない。人間の子供でも、棒切れがあれば追い払えるような小さく、貧弱な生き物だ。
しかし恐るべき呪術が、この矮小な生き物から後世に残る魔人を生み出してしまう。カリーシア達が彼に与えた呪いは、決して癒えぬ飢え。代償として得たのは、口に入れたものを己の力とする能力。
初めに与えられたのは、彼より一回り大きな鼠だった。あっという間に口を広げて飲み込んだが、少しも飢えは癒えなかった。次に与えられたのは、彼より少し大きなウサギだった。あっという間に口を広げて飲み込んだが、やはり飢えは癒えなかった。
続けて与えられたのは、小さな猪のようなモンスターだった。あっという間に口を広げて飲み込んだが、痛むような腹の飢えは癒えなかった。
食い物をねだり続ける彼に次に差し出されたのは、カリーシアに生贄として選ばれた人間の子供だった。豚のように大きくなった体は、たやすく小さな子供を丸呑みにする。
「タリナイ」
彼はそこで、言葉を手に入れた。
しかし、いくらその大口で飲み込んでも腹が減って仕方がなかった。
「タリナイ。モット」
彼の催促に、次々子供達が差し出され続けた。ふと気付くと、彼の姿は食事を差し出すカリーシア達とあまり変わらなくなっていた。
彼の飢えは、言葉を手に入れ、人の姿を手に入れても癒える事がなかった。そんな彼に、カリーシアは言う。
「あいつらを好きに食っていいぞ」
差し出されたのは、罪人として捕らえられた大人たちだった。
「頂きます」
少し臭ったが、空腹の痛みには変えられなかった。人間の子供の姿をした彼は、ひたすら大人たちを飲み込んでいく。カリーシア達はもう、彼が僅かに見下すほど小さくなっていた。
魔物の頃の名残として、僅かに残っていたのは鱗だけだった。長身の逞しい若者の姿を、彼は手に入れていた。カリーシア達が次に食事として指差したのは、敵対部族の群れだった。
「あれを食うといい」
彼は、言葉のままにむさぼり続けた。鋼の剣を飲み込み、突きたてられる槍を飲み込む。飛び交う火の玉を飲み込み、氷のつぶてを飲み込む。もちろん、敵対部族も全て丸呑みにした。もう、体が大きくなる事はなかった。そして、やはり飢えが癒えることもなかった。
カリーシア達はいつの間にか彼を崇めるようになっていた。彼が今までの食事で得た鋼の体と幾千の魔法、そして様々な知恵はもはやカリーシア達が使役出来る物ではないと判断されたのだろう。手に負えない力は、崇め奉られる。しかし、どれだけ畏怖されて供物を与えられようと、彼の腹は飢えに痛み続けていた。
魔人としてその脅威が知れ渡るまで、時間はかからなかった。西部に点在していた数百の戦闘部族は、次々と彼に呑まれていく。彼はただ、空腹の痛みから逃れるために食い続けたのだ。生き残った部族が片手で数えられる程に減った頃、彼は一人の幼い少女に出会う。
彼女の名は、ピアーニャ・ダイゴノア。天空大陸統一を目論むブガニア王国が、後に危険人物として恐れた一人である。
彼女は、ある戦闘部族の長の娘だった。部族が住まう村を訪れた魔人に部族の屈強な男達が逃げ出す中、少女は言った。
「お腹空いてるの? 美味しいの、食べさせてあげる!」
差し出されたのは、一杯のスープだった。
「ご飯は美味しくないとね」
初めて向けられる笑顔。そして、初めて与えられる料理。
魔人に怯える西部では、交易も農作も絶えていた。野草を僅かな塩で味付けしたような粗末な煮汁ですら、彼女らにとっては貴重な食料だったろう。粗末な木の器に注がれたスープを一口飲んだとき、彼はその生涯でやっと飢えが癒えるのを感じた。
**ブガニア連邦王国建国の歴史より抜粋**
天空大陸統一を目指す旧ブガニア王国にとって、西部は鬼門であった。
西部に無数に存在する小部族は愚かにも自己の利益のみを求め、ブブガニウス王の声には耳を傾けない。
彼らに和平統一の意思はなく、浅ましくも部族のみの利益を追求して紛争を続けていた。
また、争いにより研がれた彼らの刃はひたすら鋭く、屈強なる王国兵は幾度も苦渋を味わったろう。
中でも最も甚大な被害をもたらしたのは、呪われた民カリーシア。
陰湿で傲慢で、汚らしい呪術を扱う部族だったと伝えられている。
彼らがもたらした呪術により、西部は前代未聞の人的災害に見舞われた。