油断
鼻が焼けるように痛んだが、それは同時に目的地への接近を意味していた。
いっそ強烈な香りで鼻が麻痺してくれれば楽になるだろう。
しかしウルフヘジンの回復力は、それを許してはくれなかった。
匂いに悩まされ続けるこの体のお陰で、今回に限れば道しるべを見失う心配がない。
この苦しみももう終わりだ。やっと、帰れる。
早くご主人様の元へ戻りたい一心で、四肢は意図しない内に早まる一方だった。
三兄弟も後ろでは
「叔父貴! 待ってくれ、そんなに早くちゃ追いつけねえ」
「てめえダル、木の根なんか口に入れるんじゃねえ! ……ってうわ、根っこが動いてるぜ気持ちわりぃ」
等と賑やかにしている。
やかましいことこの上ないが、その様子はどこか楽しげだ。
あいつらももう少しで帰れる事を感じ取って、浮かれているに違いない。
ガイナルは初め、ご主人様と私の二人でここまで旅をさせ、転移ドロップスを設置させてから宝具の回収をさせるつもりだった。
ただ道しるべを頼りに場所を嗅ぎつけドロップスを置くだけならば、私一人で事足りる。
ガイナルが、最大戦力かつ崇高で美しく私が唯一尊敬する存在であるご主人様を行かせようとしたのは、理由があったのだ。
それを、私は忘れてしまっていた。
それほどにご主人様の傍に仕えられない苦しみと旅の疲れは、自覚のないまま私を蝕んでいた。
足から響く震動に、私は思わず足を止めた。
「お? どうしたんだよ、叔父貴。早くこのドロップス置いて帰ろうぜ。目的地近いんだろ?」
「待て、カヌ。おい叔父貴。もしかして、例のやつか。何かが徘徊してる、って言ってたよな」
相変わらず騒がしいカヌと引き換えに、イースは旅の最中に私が説明した話を覚えていたようだ。
遭遇する確率は低いと思っていたが、どうやら我々は運がないらしい。
「静かにしろ。まだ遠そうだ……だが、近付いてきている」
大きくなる揺れは、明らかに我々に近付いていた。
しかし、姿は見えない。ヒゲ公爵の話ではかなりの大きさだったはずなのに、この森の見通しの効かなさが災いしているのだろうか。
更に強くなる、足元の揺れ。
既に周囲の木々もその枝葉を大きく揺らし始めている。
どこだ、どこにいる。
私は必死に周囲を見渡すが、それらしい影はどこにもない。
「叔父貴! どうする!」
イースが動揺したように声を張り上げる。
そして答える間もなく、目の前の地面が吹き上がるように爆ぜた。
「ゴーレムさんかな、ゴーレムさんだね」
皮肉にも、ダルの無意味な呟きが真っ先に脅威の正体を告げていた。
地面から樹木のように生えたのは、拳だった。
一口に拳と言っても、馬鹿でかい。
掌には私などすっぽり納まってしまうだろう大きさがある。
「お、おい叔父貴。どーする、戦うか?」
取り乱すカヌを尻目に、その拳は更に天に向かって伸びた。
そして再び地面が爆ぜ、もう一本の拳が地中から現れる。
「まずいぜ叔父貴。ゴーレムはちっとばかり相性が悪い」
落ち着いてはいるものの、イースの声にも不安が滲んでいた。
『最もやっかいなモンスターランキング』の上位に必ず挙げられるゴーレムが目の前に現れて、平静を保てるものは少ないだろう。
それが通常のゴーレムより更にでかく……しかも、目の前でどんどんその巨体を地中から引き抜いているとなれば、尚更だろう。
私は逃げる事を考えていた。
ゴーレムは動きが鈍い。無理に戦う必要はないのだ。
しかし、既に姿をほぼ地上に現しつつあるミノタウロス共の三倍はありそうな背丈のゴーレムから、私は目を背ける事が出来なかった。
いや。正確には違う。
「ゴーレムさんだ! おっきいね、すごいね!」
とはしゃぎながら近寄る、ダルから目を離せなかったと言うのが正しい。
どうやら、戦いは避けられなそうだった。
**天空大陸生物事典より抜粋**
『ゴーレム』
内臓や骨を持たず、鉱石や岩石などの硬い物質のみで構成された体を持つ人型の魔物。
捕食行為をしない為、意図的に人種に被害を与える事はないが、行動基準等が謎に包まれている。
天空大陸内の様々な場所に現れ、稀に村や街にゴーレムが現れると、その巨体が建物や農作物に大きな被害を与える事がある。
硬質な体を壊すには多大な力を必要とする為、居住区の近くで発見された場合には軍が討伐隊を編成してこれに当たるのが常である。




