主従
ご主人様の元を離れて、三日。
既に日は暮れ、横になったはいいものの一向に眠気は訪れてくれない。
この数日、ゆっくり眠れた試しはなかった。
今日も今日とて、瞼を下ろして眠ろうにも、やはり意識は覚醒したままだ。
病に伏した主に休んでもらう為とは言え、西の地で寂しい思いをされていないかと心が締め付けられるように苦しくなる。
私が、間違っていた。
主の強さを過信し、無理をさせすぎてしまった。
いくら一瞬で私やグレンザムをねじ伏せるだけの力があるとは言え、それは涙魔法によるもの。
規格外の強さがあると言えど、訓練も受けていない若き異世界人にはあまりにも過酷な日々だったのではないだろうか。
案の定、ご主人様は体調を崩されてしまったのだ。
これが最も気付かねばならぬ私が不調に気付かなかったせいでなく、何のせいだと言うのか。
何たる無能。何たる恥。
主に蔑みの目一つ向けられぬ失敗が、一体何の糧になるというのか。
このままでは普段のように誠心尽くし、結果的に疎まれ、見下げた視線を味わう事も出来ないではないか。
今、私に出来る事は、傍で見守る事ではない。
かぐわしい汗が染み込んだ身体をスミからスミまで舐めまわし、綺麗にして差し上げる事でもない。
あの醒めた冷たい蔑みの瞳に好みを写し、快感に身を委ねる栄誉を受けるなど恐れ多くて視界に映る事も出来ないのだ。
「叔父貴、眠れねえんですか」
隣で横たわっていたミノタウロスの一人、イースが気遣わしそうに言った。
このミノタウロスは三人兄弟の長男で、道中でも図体に見合わぬ心配りを見せてくれた。
他の二人が寝静まったのを見計らって声をかけてきたのも、心配を煽らない為、そして三人兄弟に叔父貴と慕われる私のプライドへの配慮だろう。
「気にするな。多少眠らなくても私はどうと言う事はない」
「そうは言っても、最近眠そうにしてますぜ。無理はいけねえ、早く済ませてさっさと帰りましょうや」
どこか茶化すように言うが、心配させてしまっているのは痛いほどわかっていた。
「ふん。三日でエマが恋しくなったのか、軟弱者め」
「叔父貴こそ。あの村出た日、叔父貴が何度後ろを振り返ったか知ってますかい? 五十二回ですぜ?」
「違う。五十四回だ。貴様、数も数えられんのか。もう寝ろ」
「へいへい、おやすみなさい」
イースは呆れたように答えると、再び口をつぐむ。
しかし私には、眠気はやはり訪れなかった。
朝。
日が昇るとすぐ支度を始め、私達は再び南へと歩みを進める。
今日で拠点を離れて四日目だが、さびれた道を歩くのは相変わらず我々しかいない。
南部から西へ向かう道を使うものなど、今はいないからだ。
「叔父貴、何か変わったことねえのか? こうも延々歩きづめだと、飽き飽きしちまうぜ。せめて暇つぶしにキーパーズにでも出くわさねえもんかね」
すぐそばでヘラヘラと喋り出したのは三兄弟の次男、カヌ。
この男は屈強な外見に見合わずひょうきんで、こうして軽口を叩いては場の空気を和ませてくれる。
「何もないな。迷いの森に着けば、飽きる暇などないぞ」
「うげぇ、おっかねえなあ。しっかし、まさか俺らが迷いの森行く事になるなんて思わなかったぜ。歩いて四、五日くらいかかるんだろ?」
少しうんざりした表情を浮かべて、カヌは両手を頭の後ろに組んだ。
彼らは主と崇めるエマがいない間は、素顔らしきものをかなり見せてくれている。
エマ一家と合流してからこの三兄弟と共に過ごす時間が多かった私は、随分この光景にも慣れてきた。
「カヌ、いいから黙って歩け」
とイースが促せば、
「黙ってたら余計疲れそうなんだよ。なあ、ダル?」
とカヌは一番下の弟、ダルに話を振る。
素顔、と言うならば。
最も違和感があったのは、このダルだ。
「いえ兄上。僕は迷いの森に思いを馳せるだけで、好奇心が満たされる思いです。人が訪れる度に様子が変わるという天然の迷宮に足を踏み入れられるだけで幸運なのでしょう。さあ、先を急ぎましょう」
……誰だ、こいつは。
幾分慣れては来たが、探究心旺盛で柔らかな物腰のこの男が、普段はエマの乳にやたら固執しているあのダルだとわかるものは果たして存在するのだろうか。
そして、その眼鏡はいつ取り出したのだろうか。
この三男坊にだけは、未だにどう接するのが正解かわからなかった。
イースとカヌは気にする様子もなく普段通りに接しているのは、さすが兄弟としか言いようがない。
ご主人様とエマが西の湖に行っている間もこの姿を見てはいるが、私は未だこの状態の彼に慣れることは出来そうにない。
しかしそんな私の苦悩をヨソに、この兄弟の会話は尚も続いていた。
「へいへい、黙って歩きゃいいんだろ。それにしても、色気のねえ旅路だなあ」
カヌはへらへらと不穏なワードをチラつかせる。
嫌な予感が私を包み始めた。
「おいカヌ、お前また……」
「はあ、姐御でもいりゃあ……あ」
イースの静止は、間に合わなかった。
「うおぉぉ! 姐御! 姐御おぉ! 姐御おおおぉ!!! たゆんたゆんの姐御おぉぉ」
案の定ダルはエマの存在を思い出し、取り乱しはじめる。
普段とあまりにもかけ離れたあの姿は、ダルが己の精神を守るために編み出した現実逃避の形なのだそうだ。
ダルの取り乱し方は、南に進めば進むほどひどくなっている。
彼らが付いて来てくれると言い出したときは嬉しく思ったものだが、果たしてこいつらは役に立つのだろうか。
そもそもが。主と仰ぐ対象と離れただけで取り乱す等、心が弱い証拠だ。
ご主人様のあの白んだ目を思い出すだけで体が熱く滾る私の域には、あまりにも程遠い。
これは、主従とは何かを改めて叩き込む必要があるだろう。
私が精神鍛錬の重要性に考えをめぐらせているうちに、鈍い音が聞こえ、ダルの絶叫は途絶えた。
エマを忘れさせる為に、脆弱な弟に兄二人の鉄槌が下ったのだろう。
この分だと、道中何度似たようなやり取りをする事になるやら。
暗雲立ち込める旅路に、溜息が牙の間から漏れた。
**週刊スッパヌキより抜粋**
≪最大の魔境、迷いの森!!≫
政府が打ち出す政策は耳障りがいいものばかりだが、決して信用してはならない。
本当に国民の為を思っているならば、何故に「迷いの森」をいつまでもあのままにしておくのか!
天空大陸の南西に広がる広大な森林地帯は、今もその姿を変え、そして範囲を変え、国民の安全を脅かしている。
「迷いの森」へ年に四回送り込まれる調査団も、芳しい結果を持ち帰った様子は一向にないようである。
彼らの調査費に国民が搾り出した血税の一部が流用されている以上、調査に時間をかけるより焼き払ってしまった方がよほど有意義に違いないのだ。
それだけではない。
当誌編集部は、調査団とは名目だけで、調査費は宰相キドルの貯金箱になっている、と言う噂を耳にした。
週刊スッパヌキ編集部総力を挙げた取材の結果を、次号公開!!
――この特集は、公開されることはなかった。




