人魚
マーメイド。
僕たちの世界でもなじみのある、有名な名前だ。
魚のような下半身に、人間とかわりない上半身。
マーメイド、というのは上半身が女性のものを指す姿で、男の姿をしていればそれはマーマンと呼ぶ。
そのくらいはスラスラ出てくる程度には、この生き物は有名だ。
僕のいた世界では。
道すがらでエマに訊ねた感じでは、こちらでもそう大きな違いはなさそうだった。
水辺で可憐な乙女が水しぶきを上げながら戯れる姿を想像しながら歩いてきた僕を責められる人は誰もいない。
きっと、僕と同じ世界から来た人間なら『マーメイド』と聞けば似たような姿を思い浮かべるはずだ。
西の水源、エスレイク。
首都ブガニアから遠く離れたこの地の湖は、観光で訪れたグランレイクとは違う美しさがあった。
水源があるおかげで西部のどこの土地よりしっかりと逞しく育った草木に、観光地らしい賑やかさのない開放感。
そしてキラキラと太陽の光を照り返す水面は、汚すものがいないせいか泳いでいる魚の姿がしっかり見えるくらい澄んだ蒼い色をしていた。
本来なら、目を奪われる美しさなんだろう。
天空大陸には機械の類を持ち込む事は出来ないので、カメラなんてない。
美しい風景はその場で、この目に、一生の思い出として焼き付けるしかない。
それなのに僕の心は深く暗く、世界中を呪い出しそうなどす黒い感情で満たされていた。
「だからよ、ウロコが欲しいんだって!」
今にもこの世界を破滅に導きそうなほど落胆している僕と違って、エマは変わらず粘り強く交渉を続けていた。
「おぬぬ?」
ちゃぷちゃぷと水音を立てながら、交渉相手は耳にひれの付いた手を添えてそう言った。
まるで話が通じていない。バカにしているわけじゃないのも、わかってる。
それでも。
それでも、僕の期待に膨らんだ胸はこの状況を受け止めきる事が出来なかった。
「もおおおお!」
エマがミノタウロスらしく、鳴く。
いやあれは憤慨しているだけか。
頭をかきむしりながら崩れ落ちた所を見ると、姐御肌のエマでもそろそろ面倒を見切れないんだろう。
エマの気持ちは、痛いほどわかる。
耳の遠いお年寄りに粘り強く交渉をするのは、骨が折れるに違いないのだ。
僕はもう一つ、僕たちの世界で、僕の国でマーメイドが何を指し示すのかをぼんやりと思い出していた。
美しい人魚姫ばかりを思い浮かべていたけど、日本に伝わる人魚伝説はどちらかといえば生臭くて恐ろしいものの方が多い。
中でも、今の状況にぴったり結びつくものが一つ。
『人魚の肉を食えば長寿になる』
なんていう伝説が、あったはずだ。
「ふぉのるす?」
今度は何も聞いていないのに、聞き返された。
首を傾けながら聞き返すその様子はかわいらしいかもしれないけど、残念ながら皺に隠れていまいち表情がわからなかった。
水中で思い切り抵抗を受けそうな結い上げた緑の髪は、軽快な音楽と共に始まるお昼の芸能人対談番組を連想させる。
枯れた木の葉を蓑のようにまとったその姿がまた、日本に伝わる人魚伝説のミイラを連想させていた。
僕は、どうしても考えずにはいられない。目の前の、もう会話が成り立つとは思えないおばあちゃんマーメイド、一体何歳なんだろう……?
「おいもやし! どうするんだよ、ちっとも話がすすまねえぞ!」
エマがいらだったようにそう言った。
当然といえば当然すぎる意見だった。
湖のほとりで人魚とであって、もうかれこれ一時間くらい過ぎてる気がする。
それなのにずっとこの様子でちっとも話が進展しない。
エマ、いくらなんでも面倒見が良すぎなんじゃないの?
「マーメイドと会うのなんてオレ、はじめてだぞ! こういうもんなのか?」
外の世界からきた僕に、そんな事を聞かないで欲しい。
「ああもう……バカじゃねえの。ドロップスだけ置いて、一回帰るか?」
それもありと言えばあり、かもしれない。
でも、こんなときこそ、先ほどから僕たちの困った様子を見て含み笑いをしているだろうおっさんお出番だ。
おっさん、何か知ってるでしょ。
[ち、ばれたか。どうせあとは帰るだけだし、しばらく黙って楽しもうと思ってたんだがな]
性格悪いよ。
だからもてないんだよ。
三百年童貞なのは、自分のせいなんだよ。
[兄ちゃん、おじさんが全部悪かった。だから立て続けに心をえぐるようなマネは勘弁してくれ。な? アメちゃんやるからよ]
加齢臭しそうだから、いらない。
そんなことより、さっさとどうすればいいか教えてよ。
[水の中に顔をつけてしゃべってみろ]
え。そんなのでいいの。
[ああ。マーメイドはエルフに並ぶ長寿だが、老いないわけじゃない。でもな、彼女らの本来の生活の場は水の中だ。水の中でなら、会話が出来るはずだぜ]
ちょっと待って。
水の中でしゃべるって、息継ぎどうしたらいいの。
[……がんばれ。おじさん、応援してる]
このおっさん、本当に肝心な時に役に立たない。
**ブガニア新聞より抜粋**
創立暦三十四年 八月二十六日 夕刊
未曾有のテロ行為、発覚
宰相キドルより、本日重大な発表があった。
連日首都ブガニアを賑わせていた事件を反政府集団によるテロ行為だと認定し、非常事態警戒を採るというものである。
テロリスト達の素性はいまだ不明だが、ブガニア連邦共和国全体はこの発表をもって軍部、キーパーズによる厳戒態勢が敷かれる事となった。
『ウィスペリアの流血』以降初の自体に、国民の不安は募る一方だ。
非常事態宣言が敷かれるのは建国以降初めてのことであり、現政府に対する反発や混乱を招く事が予想される。




