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 キドルの執務室は今、花の匂いで満たされていた。

部屋一杯に広がる華やかな香りは芳醇で品もよく、決して不快なものではない。

それどころかキドルは、充満する香りで体のこわばりがほぐれていくのを感じていた。

名宰相として名を馳せる彼に、香を焚く趣味があるわけではない。

この香りは、執務室を訪れた来客がもたらしたものだった。


 来客は、ドレス姿の女性だ。

肩からくるぶしまで繋がるタイトなドレスはやはり高級品のようだが、キドルは女性の服装には明るくない。

キドルがわかるのは、今日のドレスは初めて見るものだということだけだ。

そもそも彼女……リリアナ・マネルダムが同じドレスを二度以上着ている所を、キドルは一度も見たことがない。

どれだけ高級なドレスも、リリアナは一度しか身に着けない。

マネルダム家の資産あればこその、彼女の道楽なのだろう。




「あらあら、その様子だと随分お疲れだったのではなくて?」

リリアナはキドルの様子に満足しているのか、口元を綻ばせながら首を傾げる。

「そうかも、しれないのです。実はここの所、ほとんど眠れていません」

リラックスしているからか、キドルは眠そうに目を瞬かせて答えた。

「まあ、お若くないのだから無理はいけなくてよ? その様子だと、死刑囚の追跡はうまくいってはいないのかしら?」


 キドルは質問に頷くしかない。

そもそも、芳しい結果は何一つないのだ。

「残念ながら、という他ないのです。マネルダム家には多大な負担を与えてしまいました」

謝罪の言葉を口にはするものの、やはり立場がないのか手に握った帽子の皺は深くなる一方である。


 

「父……頭取が良いというのですから、気にする必要はありませんわ。商会からの請求も既に支払い済みです」

リリアナはおかしそうに羽根扇子で口元を隠し、キドルの言葉を否定しながら続ける。

「ところで、請求書に出張費の項目がありましたわ。何か打開策でも思いついたのかしら?」

「打開出来る、とは思っていないのですが……実は係長に、北へ行ってもらうことになりまして」

リリアナの問いに答えながら、キドルは帽子をテーブルの上に置く。

どうやら既にリラックスした状態から、直面しているトラブルへと頭を切り替えているようだ。


「北の動向を確認、したいのです。死刑囚達は西に逃亡しました。それはわかっているのですが、西に軍を向かわせたとして彼らに対抗出来るだけの確証が持てません。ただ、我々に敵対するつもりなら北へ手を伸ばさない訳がない、と思うのです」

キドルはカップに入った茶で喉を潤し、続きを口にする。

「ご存知、かとは思うのですがウィスペリアの流血で反乱分子を一掃したというのは事実ではありません。打ち漏らしたいくらかの反乱軍は、北部の山脈地帯に隠れ住んでいるのです」

リリアナはさも知っているとばかりに頷く。

「ええ。あの事件で大多数は討てたものの、主導者含む数名の首は見つからなかったと聞いていますわ。その後反乱軍の活動がなくなり、主導者はどこかで命を落としたと判断されたのでしたわね」


 キドルの表情が、少し曇る。

彼にとって、この話は面白いものではないようだ。

「そう、なのです。主導者ドリットンはあの当時でかなりの高齢でした。首は見つかりませんでしたが、あの近辺は食べ物は少なく、湖からは程遠い。自然死してもおかしくない過酷な環境なのです。その後の活動がなくなった事からも、彼への警戒は緩めていいと判断しました。しかし、もし反乱軍の残存兵が多数いて死刑囚らと手を組んだなら……」

そこまで話し、キドルは机の上においた帽子を握り締める。

「もしそうなれば、首都ブガニアは少なくとも北と西の二面からの攻撃を警戒しなければならないのです。伝説の魔人に、得体の知れない死刑囚。戦力としては充分すぎるほど、充分なのです」




 そこまで語ると、キドルの意識は現状の把握と考察の沼に沈んでいく。

キドルが必死に対策を練っているのは、何も己の職から生まれる責任によってばかりではなかった。

平和と言う名の心地良いぬるま湯に浸かっていたのは、公爵家の面々ばかりではない。

他ならぬ自分自身も、意図せずつかの間の平和に慣れてしまっていたのだ。



「北とコンタクトを取るかどうかを確認する為に、係長を送り込んだというわけですわね?」

キドルはリリアナの問いを聞いて、再び意識の沼から浮上して答える。

「ええ。一切の戦闘はせず、コンタクトの確認が出来次第報告に戻ってもらうつもりです」

「一度の出張で一般兵百人分の金額でしたわ。ところで、西に逃げたと言えばエスレイクの警護は大丈夫ですの?」

そこまで言うと、リリアナの細い指が、カップの取っ手を優雅につまみあげた。



 キドルはリリアナがカップを机に戻すのを確認して、答える。

「ひとまずは、という他ないのです。こちらは独自に手を打ってあるので経過を見守るほかありません。そういえば、頭取は今どちらに?」

「さあ? 父の放浪癖はいつまで経ってもなおりませんわ」

答えるリリアナは、さも呆れたようにキドルから顔を背けるのだった。



**ブガニア連邦王国建国の歴史より抜粋**



王国建国後最後の反乱『ウィスペリアの流血』は、反乱首謀者ドリットン・ドドローグを討つことで成し遂げられた。

尚、政府軍に討たれた反乱軍の数は二千人を越えるが、一方で政府軍には一人の負傷者も出ていない。

鎮圧戦は一日で反乱軍への圧倒的な勝利によって終結を迎え、この事件をきっかけに反政府組織の活動も次第に収まっていく事となった。


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