夢
僕は思わず、耳を疑った。耳で聞いてるわけではないから厳密には違うんだけど、とにかくそんな事はどうでもいい。確認しなきゃいけないことがある。
小声でささやくように、僕は言った。
「どんな魔法だって言いました? ちょっと聞き逃しちゃって」
受け入れがたい現実に、表情が強張っているのが自分でもわかる。ちなみに第三者から見れば、僕は牢獄でブツブツ言ってる危ない人であろう事はご想像の通りだ。
[なんだぁ? 心の中で話しかけてんのに聞き逃す訳ねえだろ。だからな、タンスの]
「あ、ごめんなさいちょっと心の中が混線してるみたいです」
素早く心をシャットダウンする。嘘だ。嫌だ。
[だからな]
信じたくない。
[タンスの角に足の小指をぶつけた時の痛みを、自在に与えられる魔法だってーの]
嘘だ……。こんなアホな魔法のせいで死ぬのか、僕。
死刑だと言われたときより、ショックが大きかった。大体僕は平和な日本で健全に育った一学生で、命に関わるような場面になんて遭ったことがない。
[何だよ失礼なやつだなあ。すげえ魔法なんだぞ、なんたって俺の研究の集大成だからな]
死刑なんて凶悪な犯罪者に与えられるテレビの向こうのもので、自分がその対象になるなんて実感がなかった。
[いいか、この魔法はな。そもそも絶対に不可能とされていた魔法のルールを捻じ曲げて……]
それに比べれば、このアホな魔法の恥ずかしさは実に受け入れやすい。『タンスの角に足の小指をぶつけた時の痛みを、自在に与えられる魔法を覚えたせいで死ぬ事になります』なんて末代までの恥だ。絶対に嫌だ。
[……という画期的な魔法なんだぞ。あ、それとこのままじゃお前が末代だな。童貞で死刑だし]
「うるさい童貞。黙ってろ童貞。てめえちょん切るぞ」
心の中でおっさんのむせび泣く声が聞こえたが、それどころじゃなかった。こんな事で……。こんな事で僕、せっかく内定が出たのに、就職出来なくなっちゃうの!?
僕の叫びが胸を打ったのか、心の中で聞こえていたおっさんの啜り泣きが止まった。
[……は?]
あれ。思ってた反応と違う。大学生活の全てをかけた集大成が失われようとしてるんだぞ?
一部上場企業に僕みたいなふつーの大学生が就職するの、どれだけ大変かわかってるのか?
[なあ]
「なんですか?」
[就職? 就職ってあれだろ、仕事に就く事だろ?]
何を言ってるんだ。他に何があるって言うんだ。
「そうですけど」
僕は憮然として、答える。
[待て待て待て、お前、魔法使いになったんだぞ? しかもこの世界を征服だって出来る、取って置きのやつだ!]
それと待望の就職が、どう関係あるって言うんだ。
[魔王にだってなれるのに、就職の心配なんかするんじゃねえよ!死刑になるなら逃げちまえばいいだろ?]
僕は、おっさんの言葉に唖然とした。全く内定の偉大さをわかってない。僕の輝く未来を、わかってない。
「いやいや、王政なんて長く持たないし反逆とか怖いですし。それに、ここで逃げ出したって犯罪者のままで、せっかくの就活と内定は無駄じゃないですか。大企業で安定した人生を送りたくて頑張ってきたんですよ? 安定した会社で高い給料もらって、美人と結婚するのが僕の夢なんです。魔王? ハッ。魔王? 魔王が何だって言うんですかっ!」
[ええ……兄ちゃんなんか洗脳でも受けてんの?]
おっさんの呆れ声が、脳内に響く。
そして、次の一言が僕の人生を変えることになる。
[はぁ。どーしてもってなら、やっぱ魔王になるしかねえよ。魔王になれば、元の世界に帰るのも犯罪歴消すのも思いのままなんじゃねえの? それに、元魔王です、なんてハクがつくんじゃねえか?]
それだ。
「それだっ!!」
思わず出した大声が、牢獄に木霊していく。
そうだよ。どの道、このままじゃ僕、ここで死んじゃうんだ。王でも覆せない法律があるなら、僕が一番えらくなるしかないじゃないか。せっかくの内定、こんなあほな理由で無駄にしてたまるか。
いいぞ。魔王になってやろうじゃないか。リーダーシップ見せれば、いきなりエリートコースだって夢じゃないかもしれない!『学生生活の最後に王様してました』なんてきっと高ポイントだぞ!
参ったなーいきなりプロジェクト(よくわからないけど)のチーフ(なんか偉そう)とか任されちゃったりして?
うん、早く元の世界に帰って一流企業に就職して、優しくて美人な奥さんと平和な人生を送るんだ!!
[はあ。兄ちゃん、本末転倒って言葉、知ってるか?]
「ヒーッヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ……」
おっさんの呟きは、牢獄全てを覆う僕の高笑いに消えていく。
[うわ……童貞っぽい高笑いだな]
消えていく。何も聞こえなかった。こうして僕は、大いなる夢の為に魔王を目指す事を決意したのだった。ヒヒヒ。
**魔王年代記より抜粋**
紀元前二年
緑葉の月
初代魔王は、当時の退屈極まりない王政を打倒すべく立ち上がる。
その快進撃はどこまでも続き、旧ブガニアを圧倒した。
常に戦場の先陣を切る閣下は、その胸中にどのような野望をお持ちであった事か。
恐らく崇高で高尚な、下々には思いもつかぬ夢を抱いておられたのだろう。