研究
最後に馬車に乗ったのは、いつ頃だったろうか。
キドルは厳重に警戒された馬車に揺られながら、ふとそんな事を考えていた。
己の疲労もそろそろ限界かもしれない。
普段の執務で充分多忙な上に、この騒動だ。
余計な事など考えている場合ではないのに、さすがに思考にばらつきが生まれ始めている。
魔人の行方がわからなくなってから、キドルはほとんどまともに睡眠も取れていなかった。
普段なら心地良いはずの馬車の揺れすら、眠気を運んできてはくれない。
休んではいられないので好都合だが、そろそろ仮眠を取るべきなのも事実だろう。
キドルは試しにしばしの間、目を閉じてみる。
しかし、やはり眠気は訪れなかった。
内心ため息をつきながら、キドルは再び目を開く。
眠れないなら、少しでも情報を整理しておく必要がある。
何が起きているのか、どうなるのか、まるで想像が出来ていない。
魔人が消え、死刑囚が逃げ、看守と猟犬が逆らった。
単純に言えば、こうだ。しかし、どう考えても単純には終わりそうにない。
後者は、どうにでもなるだろう。
そして誰が考えても、前者が特に魔人が一番の問題になるはずだった。
今は、違う。
キドルの不安を魔人より強く煽るのは、外世界から訪れた死刑囚だった。
キドルが円柱を出た目的は、二つある。
今はそのうちの一つを果たすべく、ある施設を目指していた。
死刑囚によって魔法傷害を受けたオークの聴取を終えてすぐ、キドルはこの施設への訪問を決めていた。
普段のように転移魔法を使えれば早いのだが、今は非常時だ。
警護兵を同乗させられる馬車での移動は、やはり必然だった。
馬車の外で、何かの合図のように御者が客車をノックした。
どうやら、最初の目的地が見えてきたらしい。
ブガニア連邦王国を建国してすぐに設立を提唱した研究施設、魔法学研究所が。
◆◆◆◆◆◆
「だだだだから、無理です。無理無理」
茶色の皮膚を困惑で歪ませながら、魔法学研究所所長のガムは口早に言う。
彼は、魔法に長けたドライアドという種族だ。
キドルらエルフより魔法を遥かに昔から詳しく、そしてしつこく研究している。
偏屈ではあるが、この男にキドルは魔法に関しては全幅の信頼を置いている。
ツルツルした白い壁に包まれた部屋で、キドルは思わずため息をつく。
「たたたたため息をつきたいのはこっちです。忙しい中呼ばれて、魔法光を出さずに痛みを与える魔法がないか、ですって? ああああありません。無いに決まってます。おおかた、あっさりケンカに負けたオークが嘘でもついてるんじゃあありませんか?」
ガムは苛立つと木の枝のような己の指を噛むクセがある。
今日は、面会した時からずっと指に沢山の歯型があった。
どうやら相当苛立っているらしい。
「それは違う、と思うのです。保安部によると、僅かながら魔力の残滓は認められたそうです」
出来るだけ苛立ちを煽らないよう、キドルは勤めて平静に事実を伝える。
「でででででは、オークが魔法光を見落としていたとか……そそそそそうだ! 酔っていたのでしょう!」
しかしやはり意に沿わないのか、早速ガムは指を口に運んでガジガジと噛み始めた。
「もちろん飲酒についても調べてありますし、オークだけでなく別の被害者からも同様の証言を得られています」
そんな事は当然予想している、と怒鳴りたいのをキドルはぐっと堪える。
係長に頼んでいた、商会の男達の証言とも既に照らし合わせてある。
どう考えても、魔法光が発生しない魔法を使っている結論にしかならない。
「でででですから、魔法原則を無視出来るなどありえません。きっと愚かなならず者が……」
拉致があかない。
そんな下らない話をしに来たわけではないのだ。
壁と同じく、白くツルツルした材質のテーブルをキドルは二度、指で叩く。
びく、とガムが口を噤んだ。
「ある、と想定して欲しいのです。僕がわざわざここに来ている意味を考えて下さい。申し訳ありませんが、あなたの八つ当たりに付き合っているヒマは、ないのです」
こういう言い方は、キドルはあまり好きではない。
しかし、時間が惜しかった。
やむを得ない。
「あああああったらどうだと言うんですか。何をしろと」
やっと話を聞く気になったようだ。
今度はおどおどと怯えだす小心者を尻目に、キドルは口を開く。
「対応策、を考えて欲しいのです。魔力を使った能力の発現には、万能はありえない。ガムさんの口癖です。光らないなら、どの程度、またはどのような働きが限界になるか考えて欲しいのです。出来れば、同じものが作れないかも」
敵の姿が、わからない。
しかし、わかろうとしなければ、考えなければ決して答えは出ないのだ。
「わわわかりました、やってみます」
ガムが少し落ち着いた様子で、頷いた。
次いで片頬だけ吊り上げてにやけながら、キドルに言う。
「ととところで、西へ向かったと言う事は例のモンスターがいるところですな。確か『七番』でしたか。ヤツが死刑囚らを止めてくれたりは、しないですかな」
「無理、だと思うのです。既に切り抜けたころでしょう」
その程度で止められるなら、既に捕らえることは出来ている。
期待するわけには行かない。
「でででは! 死骸などがあれば是非!」
「それは無理、なのです。西の巨大モンスターは有名になりすぎました。事を公に出来ない以上、あの検体の事は忘れて欲しいのです」
「そそそんな……しかし……。あ、宰相殿、もうお出になるのですか。この後はどこへ?」
机に置いていた帽子を手に取ったところを見て、ガムが察したようだ。
「ええ、王のところへ」
立ち上がりながら、キドルはガムへ告げる。
要件は済んだ。
長居している時間は、なかった。
**魔法省研究所日報**
創立暦三十四年
八月十六日
宰相閣下が研究所所長ガム・デリモルド氏の下を訪れた。
色白の肌、小柄ながらも気高い佇まい、そして可愛らしい鈴のようなお声。
開発部長が退職した後に始まった新プロジェクトで心身共に枯れ果てた我々の心は、一滴の潤いを得た。
この研究所に勤める最大のメリットは、生キドルちゃんに会える事以外にない。
ああん、キドルちゃんかわいい。かわいい。舐めたい。
今日ほどそのことを強く感じた日はなかった。




