目覚め
突然だが、好みの話を聞いて欲しい。僕は、食べる事が大好きだ。ハンバーガーに牛丼、パスタにハンバーグ。辛いものに、甘いもの。特には珍味にだって手を出す。
ラーメンをこよなく愛している事は友人皆が知っているし、実家で暮らしていた頃に母親はよく「その細っこい体のどこに入るんだか」と呆れていた。とにかく、なんでもよく食べる、好き嫌いのない子供だった。
あらゆるものをおいしく頂ける事は、僕の数少ない自慢の一つだ。その僕が、初めて食べ物を口にして震えている。パビラスカのおっさんが渡してきた飴は、信じられないくらいまずかった。というか、口の中が加齢臭に満ちていた。
恐らく、僕の顔はこの世の希望を失ったように絶望していただろう。おっさんはそんな僕の顔を見て頷く。
「よし、無事馴染んでるようだな」
何もよくない。切実に、いちごオレが欲しかった。この際、バナナオレでもいい。しかしおっさんは、僕の口の中で起きている悲劇を無視して言う。
「お前が食ったアメちゃんは、賢者の涙ってもんだ」
「ほふひで」
思わず相槌を打ってしまったが、あまりの混沌に僕の口は正常に機能していなかった。名前からして、年老いた男の泣き顔を彷彿とさせるじゃないか。どうりで、おっさん臭いはずだ。
「魔法を与える為の、特別なアイテムなんだ。もし賢者の涙が兄ちゃんを受け入れなかったら、今頃口から内臓を吐き出しながら死んでるだろう。無事って事は、兄ちゃんは今から魔法使いだ」
僕は吐き気を押さえ込みながら、おっさんを見る。死ぬ? 魔法使い?
異世界の事は随分調べたけど、魔法使いって確か特殊技能扱いで、免許と教習必要だったような……。
発言の真意を確かめようとしたが、出来なかった。
「逃げなくてもいいでしょ、おにーさんさあ。ちょっとその体の中身、くださいな」
滑車のさび付いた引き戸を強引に開ける音と、悪意ある猫なで声が寂れた居酒屋に響く。巨漢が、僕達を探し当てていた。
「おい兄ちゃん」
おっさんが小さな声で話しかけてくる。
「いいか、兄ちゃんはもう魔法使いだ。おれが三百年かけて作った、究極の魔法を使えるはずだ」
僕は、あまりの驚きに目を見開く。このおっさん三百年以上、童貞なのか。
「ふふ、驚くのもわかるぜ。本当なら簡単にくれてやれるもんじゃねえんだ。だが今のおれの体は、仮初めのもんでな。助けてやれるだけの力はねえ」
勘違いをしたまま、パビラスカのおっさんはこの危機を丸投げしてくる。そして、少しずつ消え始めるおっさんの体。
「この体はな、童貞捨てる為だけに作ったもんだ。多分、そろそろ消えちまう。兄ちゃんが死ぬと寝覚めがわりいしよ。……今日は楽しかったぜ、ありがとよ」
まじかよ。そんな不純な動機でその小汚いおっさんボディ作ったのかよ。
「魔法を使うなんざ簡単だ。いいか、頭の中であのオークを思いっきり痛めつけてやるイメージをしろ。それだけでいい」
既に、おっさんの体は首から下が消えていた。
「見つけましたよお、臓器提供に感謝しまあす」
そして、隠れていた調理台を上から覗き込む豚面。え、一人でどうしろっていうのよ。冷や汗が、一筋。いや、百筋は垂れていた。
「目で見て、思うだけだ。……じゃあな」
最後におっさんの声が、聞こえた気がした。
そうだ。僕はこんな所で死ぬわけにはいかない。童貞のまま死ねない。親孝行だって、まだまだだ。それに……僕には、夢がある。
「よっと。出てきてくださいよ、おにーさん」
決意を固めていると、突然体が浮いた気がした。自分の体重で、首が締め付けられる。目の前には、僕の襟首を持ったオークが嫌みったらしく笑っていた。
「へへ、手間かけやがって」
ゴッ。頬に、衝撃。そして、徐々に痛みが広がる。こいつ、殴りやがった。
「うーん、皮はいらねえな。じゃ中身、失礼しまーす」
背中に、冷たい感覚が伝わる。まさか、背中から開きにでもするつもりか?
ふざけるな。ふざけるなっ!
僕は、ありったけの敵意を込めて、目の前のオークを睨みつける。
カチリ。
何かの、嵌った音がした。 豚面が、僕を見てにやけているのが瞳に映る。嬉しそうに、にやけている。
そうか。僕が苦しむのが楽しいのか。僕が死ぬのが、そんなの楽しいのか。心を憎悪が満たしていくのを、感じた。
こんなところで死ねるか。お前の思い通りになんてなってたまるか!
お前が僕を殺すつもりなら、お前にそれ以上の苦しみを味あわせてやる!!
思い切り、にやける豚面を睨みつける。視線だけで、殺すつもりで。
カチ。カチリ。再び、何かの噛み合うような音がした。
「へへ、なんだその反抗的なっ。っああああああああああっ!!」
そして突然うずくまる豚面。先ほどまでの余裕は、微塵も残っていない。その顔には、耐え切れない苦痛がこれでもかと浮かんでいた。
「ぎゃああああぁぁぁぁいたいいいいいいぃぃぃ……」
廃墟には、絶叫が響き渡る。こうして、僕は期せず魔法を手に入れた。
**魔王年代記より抜粋**
紀元前二年
緑葉の月
初代魔王に最初に挑んだのは、一人の血気盛んなオークだ。
彼は勇敢にも魔王に正々堂々と挑戦し、敗北した後は潔く戦いを捨てた。
圧倒的な力を目の前に絶望し、語り部としてその後を生きたと言われている。