序
これは僕の妹が滔々と話して聞かせる異国の世界の物語を出来る限り精細に記録したものである。最初の頃はまだメモを取っていなかったので実際とは若干の差異があるかもしれないがそれでも大きくは違わないはずである。妹は皆が寝静まった頃を見計らって僕の部屋にやって来てはこの空想的体験譚を語るのだ。
一体どうして妹がそんなことをしているのか僕には分からない。何度尋ねても微笑みを返すばかりである。
いやむしろこんなことは妹について分からない事の内のどうでもいい部類に入るものなのだ。僕がもっとも気にしているのはあの妹が本当に妹なのかどうか、ということである。
妹は僕より歳が二つ離れている。そして僕は今十八歳であるから妹は十六歳のはずなのだけれど、その見かけというのは十歳の時より停止したままなのである。病気などではない。むしろ病気であって欲しいくらいだが病気ではないのだ。
僕が十二歳の時のことである。
僕は妹と一緒に家の近くの神社でかくれんぼをしていた。僕が鬼で妹が隠れていた。狭くはないが広くはない神社であるので、いつもなら十分もすれば見つかるのだがその日はいくら探しても見つからない。汗をダラダラと垂れ流し、時折水を飲みながら僕は妹を探し続けた。十分はとうに過ぎ、一時間が経ち、二時間が経ち、三時間が経ち、日が暮れた。
最後には警察と消防がかくれんぼの鬼役として夜を跨いで参加したが、結局妹は見つからなかった。その後も捜索は続いたが、やはり妹は見つからずその手がかりすら出てくることはなかった。
最初の頃こそ妹が帰ってくることを強く願っていたけれども、時が経つにつれて妹のことはほとんど思い出さなくなった。それでも以前抱いていた願いの残滓か、ふらっと妹が帰ってくるイメージが勝手に脳内で想像されることは時折に起こった。
そして妹がいなくなってから八年が経過した日のある夜である。深夜━何時だったか分からないがとにかく真夜中であった━僕はふと目を覚ました。瞼を上げると窓から入ってきた月明かりが部屋を薄暗く照らしていた。そしてトントン、という何かを弱く叩く音を聞いた。寝ぼけた頭で音の聞こえた方を見ると、僕の部屋の唯一の出入口であるドアがあった。そして再びトントンという音がすると同時にドアがかすかに揺れるのを見た。
僕は吃驚して心臓を跳ねさせた。ドクドクという血脈の振動が聞こえてくる。一体だれだ?とおっかなびっくり思ったが、父か母に決まっていることに気が付いた。
落ち着きを取り戻した僕は気だるくドアを開けた。
妹がいた。八年前に失踪した妹が、居なくなったときの姿のままに立っていたのだ。僕は戦慄し、硬直し、全身から冷や汗を流した。このときの恐怖感というのは言葉で表現出来る類のものではない。既に死んだはずの人間が条理を無視する姿で突然に現れた恐怖感というのは実際に味わって見なければ分からないだろう。
僕は後ろによろめくと、足がベッドに引っ掛かってベッドの上に仰向けに倒れこんだ。妹が部屋に入り、僕の方へと近づいてくる。
そのとき僕は何かを叫んだ気がするのだが何と言ったのか覚えていない。もしかしたら恐怖で声が出ていなかったかもしれない。
妹はベッドに腰掛け、引きつった顔をしていただろう僕の顔をじっと見つめた。
「私妖精の国に行っていたの。そこで妖精の薬を飲んで私は妖精になったのよ。だから見かけも昔のままでしょ?」
妹の声だった。僕は震える声で返事をした。
「よ、妖精?」
「そう、妖精よ。ずっと昔にかくれんぼしている最中に私は妖精の世界に神隠しされちゃったのよ。今からそのときの話をしてあげる」
妹はそういうと、今日あった出来事を話すかのような気楽でやや愚痴っぽい口ぶりで、妖精の世界の話を語り始めたのだった。