羅生門 蛇足
雨が降り止み、若干の人の気配が町に立ち込め始めていた。
それぞれの人々が、目的をもって、道を進んでいる。その中に時間が経とうとも、動かない人影があった。茶色く汚れて、加えて、雨でひどく濡れているその衣服は、雨の中を移動していたのだと、言ってるようであった。呼吸は荒く、とても健全には見えない。しかし、今の都にそれを気にする者はいない。まして、その者が今しがた羅生門にて、およそ人と言い難い老婆と言葉を交わしたなど、気づく者はいない。
その男――件の下人が立ち止っているのは、己の主人の住居の目の前だった。いや、今となっては主人も名ばかりに思えた。しかし、下人にとっては今までの己の主人であった、その事実だけが重要だった。
下人の呼吸は、いまだに荒い。なぜなら、この呼吸の異常は疲労からくるものではなかったからだ。下人が自覚しているかは定かでないが、この症状は興奮からのものであった。
下人は羅生門から駆けだした後、決して振り向かないようにして、当てもなくさびれた都を走り回っていた。その様子は、気の狂った囚人のようであったが、その自覚はまるで下人にはなかった。瞼を閉じれば、先ほどの老婆の年老いた猿のような体躯が、鮮明に思い出され、自身のことを笑っているような錯覚に襲われた。下人にとって間違いなく転機であったあの出来事は、下人のことを根から変えることはできなかったのだ。
そんな当てのない疾駆は、雨上りの都を歩く一人の人影によって、唐突に止められることになる。どこに行こうというのか、数日前に自身を暇に出した主人が、歩いていたのだ。顔色は悪くはないが、表情には、決して光のあるものではなかった。
下人の視線が主人に向かってしまうことは、仕方ないことだろう。もしかしたら、これから盗みにゆかなくても、職にありつけるかもしれないのだから。そんな、縋るような思いの目線は、主人の目線と一瞬だけ合った。しかし、次の瞬間には意図的に逸らされていた。そして、速足で下人の真横を通り過ぎた。
下人はそのまま、その土の上に留まっていた。やがて、胸中に何とも言えない、炭の色の信念が燃えているのに気付いた。そして、その気付きは、下人を主人の住処へと急がせた。
「獣が、隙を見せた獲物を見逃すか。いや、見逃すはずはない」
主人の――かつての主人は所帯を持っていなかった。加えて、下人のように、あの男のもとで働く者どもは、全て暇を出された。これほどの好機はないだろう。下人の足は、疲れを知らぬように、男の家まで向かった。
そして、時刻は先程と重なる。男は余り多くの時間をかけず、あの男の住居の目の前まで、たどり着いた。しかし、その敷居を超えることができなかった。決して、押し入るのに苦労するような造りではない、その家に。
「盗まなければ、死ぬのであろう」
口にしても、下人の体は氷漬けにされたように動かない。速く終わらせなければ、あの男が帰ってくるというのに。
ふと目をつぶると、そこにはあの老婆がいる。そして、下人の耳元まで歩み寄り、語り掛ける。
「仕方がないであろう。如何に己が苦しかろうとも、この家の男がお主を見殺しにしたのは事実。少し物を盗られようとも、命には代えられん」
その言葉は、下人には甘露のように思える。しかし、それでも下人の体はなかなか動き出そうとしない。
「おまえとは、違うのだ」
ここにはいない幻の老婆に向かって、そう言い放つ。それでも、羅生門の中と同じようにはいかなかった。語気を強めても、老婆は決して引き下がらない。
「何が違うというのか、それを言うのならば、そもそもそれを手放してからであろう」
今にも折れそうな、人差し指を伸ばす老婆。その指の先には、下人の右手があった。そして、下人の右手は門の上で奪い取った、老婆の着物があった。
下人は次の瞬間、目を見開き、乱暴に主人の家へと押し入った。右手には、氷柱を握ったような不気味な冷たさが、こびり付いていた。数日前よりもさらに汚れた、その家の床を蹴飛ばし、金目の物を、壊さん勢いで探し出した。右手ではとても握れなかった。左手でそれを持ち、入った時と同じよう、その家から出ていく。
そして、先ほどと同じように、都の道を走り出す。下人の足は止まらない。
雨はいつの間に降りなおしていた。それでも、下人は止まらない。視界の端に、あの男が見えても、より足を速めるだけで、止まらない。
下人の行方は、一人を残して、誰も知らない。




