6 心からの真言 ①
翌日は、朝から雲一つない晴天だった。
陽だまりでポカポカお昼寝――――してらんないっ!
それどころじゃない!
今日は川辺で水術の授業があるんだから、わたしの実力を見せなければ。
今朝も洗面所で水を躍らせようとして、駄目だったけど。
場所が変われば、やれるかもしれないじゃない。
樹術よりは、水術の方が使えるはず。きっと。たぶん。もしかしたら。
体育ジャージの上下を着てリュックを背負い、正門前に並んで出発を待った。
隣には、円野さんがいてくれる。
円野さんと話していると他の女生徒がやって来て、わたしを中心に輪ができた。
「田中さんって、思ってたより話しやすいね」
そう言われ、わたしって、そんなにこわもてだったのかなと思う。
きっと魔仙術をうまく扱えなくて、怖い顔をしてたんだ。
だから、みんなは近寄れなかったんだ――――。
森木さんはわたしを完璧に無視し、近衛君や男子たちとお喋りしている。
剣持君の隣に一条君の姿を見つけ、ほっと胸をなでおろした。
夜逃げは、やめたみたい。よかった。
「今日は、水術の基礎講習を行う。中等部1年にとっては、初めての水術だ。遠足ではない。遊びではないぞ。みな気を引き締めて練習に励み、無事戻って来てくれ」
学園長先生がマイクを持ち、厳しい声で挨拶した。
うちのママくらいの年齢で、ショートカットの美人だ。
わたしの視線は、学園長先生の周囲をうろうろする金色熊に吸い寄せられて行く。
もう一度襲われたら、水を動かせるかな。
「式神かあ。わたしも欲しいなあ。円野さんは、式神が作れるんでしょ?」
「ちょっとしたものならね。トンボとかチョウチョとか、友達に手紙を届ける小さな使い魔なら」
「わたしも作ってみたいなあ」
「作れるわよ。魔仙術師なら誰だって、小さな式神ぐらい作れるものよ」
円野さんの言葉に胸がはずんだ。
勉強して、いつか自分の式神を持ちたい。
でもその前に入学しなきゃ!
1年生17人と付き添いの上級生17人、文司先生と他の先生が2人、総勢37人で歩き出した。
上級生の中に御門様がいて、わたしの胸が高鳴る。
御門様は3年前より大人っぽくて、キラキラ輝いている。
お喋りできるかも。ううん、無理よ。恥ずかしい。
挨拶くらいなら――――それも無理。
一緒に勉強できるだけで充分。それだけで幸せ。
山道を1時間ほど歩き、広い川辺に出た。
川幅約200メートルの周囲に、クローバーのじゅうたんが広がっている。
上流にダムがあるらしく、川は底が見えるほど浅い。
対岸にバーベキューを楽しむお年寄り達がいて、いい匂いがして来た。
「今日、川辺を使うのは私たちだけのはずでしたが、手違いがあったようです。一般の方々がおられますので邪魔にならないよう、怪我をさせないよう気をつけてください」
文司先生が声を張り上げ、1年生1人に上級生1人がついて、水術の練習が始まった。
川に向かって一列に並び、思い思いの方法で術をかけ、先生達が見て回る。
「ナウマクサンマンダ、ボダナン」
「オンソンバニソンバウン、バサラウンハッタ」
そこかしこで真言が飛び交い、剣持君の大声が響き渡った。
「おお~お~、川よ~お~。いだいなる~う~川よ~お~。その恵みを俺様によこせ~え~」
いきなり川の水が跳ね、よく見るとペラペラと薄っぺらい魚が泳いでいる。
――――アジのひらき?
「しまった、生だ。七輪をよこせ~え~。土よ~、固まれ~。固まって七輪になれ~」
「ここで食う気か!」
隣にいた一条君が笑い声をあげ、困り顔の文司先生が駆け寄った。
「剣持君。具現はそのくらいにして、水術をお願いしますよ」
「斬!」
近衛君の威勢のいい声と共に手が振り下ろされ、吹き上がった水が真っ二つに割れた。
近衛君、すごい。性格に問題あるけど、すごい!
森木さんは真剣な顔で波を作ろうとし、円野さんは小声で呪文を唱えながら水で動物を形作っている。
他のみんなも、水を飛ばしたり跳ね上げたり。
わたしも負けじと川に向き直り、ありがたい弥勒菩薩の真言を唱えた。
「オン・マイタレイヤ・ソワカ、オン・マイタレイヤ・ソワカ……」
「集中して。集中よ」
わたしについてくれた上級生が言い、これ以上ないくらい集中してるのに、水はピクリとも動かない。
入学が――魔仙術師になる夢が遠のいていく。
やっぱり駄目だ……。昨日の水術は、まぐれだったんだ。
樹術もダメ、水術もダメ、勉強もスポーツもダメ、何をやってもダメ。
何の取り柄もないよ、わたし――――。
気持ちが、どんどん落ち込んでいく。
上級生が不審そうにのぞき込み、わたしは目をゴシゴシこすった。
剣持君は七輪の火をおこそうと奮闘し、そばで一条君がサボッている。
その気になれば、一条君は水術を使えるだろう。
なんたって、20万ナントだもん。
剣持君だって……。
出来ないのは、わたしだけ。わたしだけが場違い。ここにいてはいけない人間。
何かがわたしの中で、ふっと消えた。
「もういいよ……」
「え?」
つぶやくわたしに、上級生が振り返る。
もういい。駄目だ。あきらめよう。
家に帰って、元の暮らしに戻ればいい。
平凡な子に戻るだけなんだから、平気だよ。慣れてるから。
「どうしたの?」
上級生の声に、けたたましい音が重なった。
土手に立てられたサイレンが、危険を知らせて鳴っている。
何だろうとみんなは周囲を見回し、文司先生は「わかりました」と携帯電話を切った。
「ダムの管理事務所から、緊急連絡がありました。ダムの水を放流するので、避難してほしいそうです。みんな、急いで川から離れて」
先生の誘導に従い、わたし達はぞろぞろと歩き出した。
振り返ると対岸では、お年寄りたちが呑気に肉や野菜を焼いている。
「危ないですよー。避難してくださあい」
「ダムの水が放流されますよー」
同級生2人が大声をあげたけど、敬老会の集まりか何かだろうか、お年寄りたちは笑いながら片手を上げるばかり。
何気なく上流を見やり、わたしは立ちすくんだ。
「何、あれ……?」
川の上流――山の中腹に、白い雲が噴き上がっている。
雲は空高くに達し、一気に落ちたと思ったら壁のように盛り上がり、下流に向かって押し寄せてくる。
雲じゃない――――!
「水だ! 逃げろ!」
誰かが怒鳴り、みんなは一目散に駆け出した。
対岸のお年寄りが立ち上がり、迫り来る水をぼう然と見ている。
ダムの水が、手違いで大量に流れ出してしまったに違いない。
きっとお年寄りたちは、逃げきれない。
取り残され、流されるだろう。
大勢の人が死ぬ。
――――そんなの駄目!
「止まれ! 水よ、止まれ!」
気がついたら大声で叫び、川に向かって走っていた。
「やめろ、田中! 危ない!」
誰かの声が耳を通り過ぎたけど、目の前で人が死ぬかもしれないんだよ?
何もしないでいたら、きっと一生後悔する。
無我夢中で川の真ん中に立ち、流れ来る水に人差し指を突きつけた。
「オン・マイタレイヤ・ソワカ、弥勒菩薩の名にかけて。水よ、止まれ! クロワッサン!」
激流が何かにぶつかったように跳ね、上空高く吹き上がった。
よし、止まった!
喜んだけど、すぐに落下し、再び下流に向かって流れようとする。
「クロ! ワッ! サン!」
止まれ、止まれ! 止まれ! ひたすら心の中で唱えた。
見えない壁にはばまれ、水は吹き上がっては落下を繰り返す。
いつまでもつだろう。わたし一人で何やってるの。恥ずかしい。
失敗したら笑い者だ。その前に死ぬかも。
色んな思いが頭をかすめ、すぐに消えた。
お姉ちゃんに負け続けた過去、流した涙。
心の中のすべてが消え、たった一つの願いが残る。
助けたい――――命を救いたい。
お爺ちゃんたち、お婆ちゃんたち、早く逃げて! みんな、逃げて!
足もとの水かさが、増えたように感じた。
水の壁からこぼれ出た水が、容赦なく押し寄せて来る。
「俺の『気』を使え! 水をダムまで戻せ!」
聞き覚えのある声に、ハッとした。まさか――――。
一条君の手が両肩に置かれた瞬間、吹き上がった水がはるか上流に向かって飛んでいく。
わたしと一条君の気が一緒になって、水を押し戻している。
一条君、掌道術が使えるの?
「水、どこに行ったの? 民家の上に落ちるかも!」
「ちゃんとダムまで飛んでるよ」
「何でわかるの? ダムなんて見えないよ。山しか見えないよ」
「俺には見える。余計なことを考えるな。このまま水を飛ばし続けろ!」
一条君はキッパリと言い切り、わたしは口を閉ざした。
彼を信じて、集中しよう。
視界の隅に、棒立ちになって事態を眺めるお年寄りたちが映った。
お爺ちゃんたち、何してるの。早く逃げてよ!
「ノウマクサンマンダ、バザラダン、センダマカロシャダ……不動明王、われらを守りたまえ……」
先生と上級生が、岸辺で真言を唱えている。
「田中、集中しろ! おまえの『気』が途切れたら、俺らは死ぬんだぞ!」
一条君が後ろで怒鳴り、わたしは吹き上がった水をにらみつけた。
水はダムまで飛んでいるはずなのに、水の壁はじりじりと下流に向かっている。
少しずつ、わたし達を呑み込もうと近づいて来る。
こんなに頑張ってるのに、まだ力が足りない。
背後で水の跳ねる音と、人の集まる気配がした。
「ぐお――――っっ! 土よ、固まれ! 壁を作れっ!」
剣持君の大声がとどろき、水壁の手前に土壁が現れた。
激しく落下した水がしぶきをあげて襲いかかり、茶色い板のような土壁が斜めに傾く。
「土! 土! もっと固まれっっ!! うぉりゃあーっっ」
「急々如律令!!」
円野さんの声が凛として響き、土壁の前に朱羅が立った。
倒れかかった土壁を支え立て直す朱羅の両腕が、張りつめた筋肉で盛り上がっている。
わたしは、夢中で念じた。
水よ、飛べ! 空を行き、ダムに戻れ!
声を出していないのに、まるで山に向かって叫んでいるような気分だ。
命の危険にさらされ必死なのに、それでも爽快感がある。
きっと「気」を放ってるから――――。
思い通りに「気」を放つのは、こんなにも爽快なんだ。
「気」よ、ほとばしれ! 自由に宙を飛んで行け!
唱えつづけ、どれくらい時間がたっただろう。
気がつくと、空を飛ぶ水は消えていた。
朱羅は小鳥の姿に戻り、土壁が倒れて砕け散る。
あれほど巨大だった水の壁は、どこにもない。
若緑の木々と、茶色い山肌。川の水は静かに流れ、浅瀬を行くせせらぎの音が心地いい。
終わった――――の?
振り返ると、一条君が立っていた。
剣持君がいる。円野さんや森木さんも。不機嫌そうな近衛君も。他のクラスメイトも。1年生全員がいる。
みんなは足首まで水につかってわたしの後ろに立ち、互いに顔を見合わせた。
「うお――っ、やったぜい!」
地響きのような歓声。
飛び上がって喜び合うクラスメイトの姿に、わたしの目が熱くなった。
「みんな……助けに来てくれてありがとう!」