1 3年前の王子様
3年前の夏。
小学3年生のわたしは、公園の隅っこにある池のそばにいた。
観客の前で、池の水が青空めがけ高々と吹き上がる。
すぐに小さくなって、ちょろり、再び天高く。
斜めに飛び、輪を作り、まるでリズムをとって踊ってるみたい。
みんなは水の演技に見とれていたけど、わたしの目は術師に釘づけだった。
ごく普通の池を噴水に変え、指先一つで水を操る魔仙術師――――王子様のような少年に。
肩まで伸びた黒髪。涼やかな目は切れ長で、鼻筋の通った顔立ちがきれい。
年齢は、わたしより少し上かなあ。
彼が着てるグレイの制服は、魔仙術学園のものだと後で知った。
深い赤色の霧のようなものが彼を包み、これも後から「気」だと聞かされたけど、その時はなぜそれが見えるのか不思議だった。
他の人々の回りに、「気」は見えないのに――――。
閉じた扇を少年が振ると、水は彼の思うがままに操られ、大胆であでやかで可愛らしい踊りを見せた。
彼が指揮者で、池の水はオーケストラの楽器だ。
彼のすぐそばで、テレビカメラが回ってる。
テレビ番組の撮影のために、彼とテレビ局の人たちは、わたしの家近くの公園にやって来たのだ。
「オッケー! 御門くん、素晴らしかったよ」
年配の男性が言い、撮影は終了した。
御門と呼ばれた少年は大人たちに囲まれて去り、その後ろ姿を見つめながら、わたしは何とも言えない感動と興奮を感じていた。
魔仙術師――――わたしもなりたい。
わたし、魔仙術師になりたい!
家に帰っても興奮がさめず、洗面台の前に立ち、蛇口をにらんだ。
彼のように水を自由に操れたら――――。
魔仙術の呪文なんて一つも知らないけど、適当に唱えてみよう。
「ピーリカピリカラピリカラ……パン! あっ」
蛇口の先から水滴がポタリと落ち、その時の驚きと喜びといったら!
やった! キーワードは、パン?
「ピリカラパン! パン! メロンパン! クリームパン! チョコクロ!」
ふたたび、ポタリ。
「チョコクロ! チョコクロ! クロワッサン!」
ポタリポタリポタリと3滴。
「何やってるの」
いきなり声が飛び、洗面台の鏡にお姉ちゃんが映り込んだ。
中学1年のお姉ちゃんは、学年で一番可愛いと言われている。
お姉ちゃんのぱっちりとした大きな目と、わたしの細い目。
モデルのような華やかな顔立ちと、これといって特徴のないわたしの顔。
サラサラの黒髪が自慢のお姉ちゃんと、茶色っぽいちぢれ毛を結んだわたし。
鏡の前にお姉ちゃんと並んで立つと、喜びが急にしぼんで行った。
「別に。手を洗ってただけ」
「公園に一条御門が来てたでしょ? 見に行った? 学校帰りに寄ったけど、撮影は終わった後だったのよ」
「見たけど……一条御門っていうの?」
「名前も知らずに見に行ったの? 馬鹿ねえ。テレビや雑誌に出てる天才魔仙術師じゃないの。すっごい美形で、あたしと同い年。あーあ、そばで見たかったなあ。で、どうだった?」
お姉ちゃんは手を洗い、蛇口を止めたけど、ポタポタ落ちるしずくは止まらない。
「どうって……別に。彼のまねしてたら、水が止まらなくなっちゃった」
「ママに叱られるよ」
「驚かないの? わたし、魔仙術の才能があるかもしれない」
鏡に映ったお姉ちゃんの顔が、意地悪く笑った。
「あるわけないじゃない。あれはね、特定の家系に伝わる特別な才能なの。あたし達みたいな一般人は、魔仙術師にはなれないの」
「そんな事ないって、近くで見てたおばさん達が話してたよ。6年生になったら身体測定と一緒に魔仙術測定があって、才能があるかどうか調べるんだって。毎年全国で1人か2人、一般人だけど才能のある子が選ばれて、魔仙術学園に入学するんだって。その学校、国立で授業料がタダなんだって。お姉ちゃん、魔仙術の測定はどうだったの?」
「あのね、うちらの小学校から魔仙術学園に進学した子は、創立以来一人もいないの。全国で1人か2人よ? 全国よ? ゼロに近い数字じゃないの」
「でも、わたしが呪文を唱えたら、しずくが落ちたんだよ」
「パッキンが古くなってるだけよ。蛇口の奥にパッキンという物が入ってて、古くなると水が止まらなくなるの。今みたいに」
「違う! 見てて。水! 踊れ! クロ! ワッ! サン!」
一条御門の姿を思い出し、扇に見立てた指を3度振り下ろした。
掛け声と共にしずくは筋となり、少しずつ水量を増して行く。
カンという金属音が響き、蛇口が一気に飛んだ。
水が吹き上がって、鏡も洗面台も床も水びたし。
わたしはぼう然。お姉ちゃんは、甲高い悲鳴をあげた。
「きゃあっ。ママ! ママあああ!」
キッチンにいたママが飛んで来て、目をむいた。
「何なの、これ! あんた達、何やったの!」
「あたしじゃない。ミオが蛇口を叩いたのよ」
玄関横にある止水栓を閉じて水は止まったけど、家中の水が使えなくなり、ママからも帰宅したパパからもこっぴどく叱られた。
翌日。
業者がやって来て新しい蛇口と取り替えてくれ、わたしはビクビクしながら修理の終わった洗面台に立った。
壊れませんようにと祈りながら、蛇口をひねる。
水を少しだけ流し、心の中で念じた。
水よ、踊れ。御門さまのように。あの時のように。踊れ!
何の変化もない。水を止め、蛇口に指を突きつけた。
「クロワッサン! クロ! ワッ! サン!」
また叱られるかもしれないけど、もう一度だけ。お願い! わたしに才能があることを示して。
しずく! 落ちて! 少しだけね。あんまり暴れないでね。
一粒の水も落ちず、何度指を振り下ろしても出て来ない。
やっぱり……パッキンとかいう物のせいだったんだ。
蛇口が古くなったから、しずくが落ちただけ。
わたしの力じゃなかった――――。
そう思うと、涙がこみ上げた。