プロローグ
「それ」が思いだすのは目が覚めた時のことでした。
ぐっすり眠っていたのを問答無用に叩き起こされたのです。
「この役立たずな下種め。いいかげんに起きろ」
次いで聞こえてきたのはいかにも不機嫌そうな少女の声でした。
聞きおぼえのあるような気がしましたが誰かはわかりませんでした。何故なら、彼の起き抜けの頭の中はまだちっとも動いていなかったのです。
誰だ、と誰何する前に少女の白い手が彼の頭をはさみこむかのように触れてきました。まつげが触れそうなほど近くにある珍しい瞳の色にやはり既視感を感じます。顔立ちは記憶のどこかにあるものより幼いような気がしましたが、やはり覚えのあるものでした。
彼は笑いました。
そうしてそのまま唇を寄せようとします。記憶にはないのに、身体はなにかをなぞらえるかのように自然に動きました。
しかしそれは突然の頭部の激痛によって阻まれました。ぎりぎりと頭が締め付けられるように痛むのです。まるで、内側に縮もうとする鉄の輪を頭にはめているかのような激痛でした。いえ、その輪はたしかに彼の頭にはめられておりました。さきほど少女が彼の頭に触れていたのはこの輪をはめるためだったのです。
あまりの痛みに叫び声をあげながら輪に手をかけます。そうして、輪をはずそうと頭に爪をたてましたがそれは敵いませんでした。ひき千切ろうにも壊そうにも、それはびくともしません。視界が真っ赤に染まります。それが頭から流れたものによるものなのか、それとも眼球に支障が出たのか、激痛にもがく彼にはそれすらもわかりませんでした。
「忌むべき非常なる化け物よ」
そのときです。
氷のように冷ややかな声が、彼の鼓膜をたたきました。
「この世の塵芥にもっとも等しいものよ。今のお前に名とあるじをやろう」
激痛から逃れようとその場を転がりまわる彼の頭上で、杖にまたがって空を浮く少女は声よりもいっそう冷ややかな目線を彼に投げつけておりました。
彼はその瞳を見上げました。ああ、そうだったと思いました。しかしその感情もあまりの激痛にすぐにかき消えてします。
彼が痛みに呻く姿を冷ややかに見下ろしていた少女は、やがてこう言いました。
「――お前の名は、レイヴン」
違う、と彼は叫びました。記憶が混在する中、しかし真実の名がそうでないことを彼は知っておりました。
しかし少女は少しもひるんだ様子はありませんでした。
その桜桃のような唇から氷の鎖のような言葉を紡ぎます。
「私は西の魔女ミランダ=フォル=リュグラス。たった今より、お前のあるじとなるものだ」
名と主。
それはそのときより世界の中で定められた、揺るぎないひとつの「事象」でした。