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八章 逢魔が時

 八章 逢魔が刻


 ルカがテーブルに街の地図を広げ、一同がそれを取り囲んだ。

「まずは魔造人。あれは厄介ね。詳しい魔術的な説明は省くけど、要するに『人によって作られた者』よ。血も流れていないし、食事も睡眠も必要としないわ」

「ああ、それじゃあ俺はあんまり役に立てないってことか」

 レミーがぼやく。

 ルカは苦笑し、

「そう、私たち人間……いえ、生物とは違うから毒も効かないし、内功を流し込んでも意味がないわ。肌も硬いから、いくら斬っても突いても効果は乏しいわね」

フローラの細剣やヒースの手裏剣なども使えない、ということであった。


「首を刎ねればどうじゃ?」

『死神』ラフィが尋ねる。

 淡々とした物言いはこの少女の癖なのだろうが、言っている内容は恐ろしい。

「それでも動き続けることができるのよ、奴は。完全に動きを止めるには、胸に埋め込まれている『命珠』を打ち砕くしかないわ。だから……」

 ゴドーに視線を移すと、双棍鬼は頼もしい笑みを浮かべた。

「ふん、俺がこいつで粉々にしてしまえばいい、というわけだな」

 太い鉄棍で、絨毯の敷かれた床を軽く突いた。

 ドスン、と重い音が響く。

「そう。命があろうと無かろうと、形あるものは全て壊れるということは変わらないからね。で、もう一匹……あれはキマイラね。おそらくは、魔道実験で大型の犬か猿を掛け合わせたのでしょう」

「そいつには毒が効くだろ? なら、俺の出番だよな?」

 レミーが親指で自分の胸をぐっと突いた。

「勿論よ。ただ、この獣の強みは嗅覚・視覚の鋭さなのよ。膂力ならゴドー、素早さならヒースで対処できるでしょうけれど……。さすがに私たちの中にも、犬より鼻が利くって人はいないからね。それが注意すべき点よ」

 ヒースも商売柄、夜目はもちろん耳も鼻も利く方ではあるが、さすがに犬には勝てる気がしない。

 番犬はいつだって盗賊の天敵だ。


「さて、仮に『天使』が戦いに加わったとしても敵は四名。こちらは七人。この数的優位を活かさない手はないわ。指示を頭の中に叩き込んでね」

 そう言って、ルカは地図を指差しながら作戦の説明を始めた。

 彼我の戦力と各人の得手不得手・心理・地理などを踏まえた上での作戦だった。

 ヒースは教会の説法に熱心に耳を傾ける信者のように、話にすっかり引き込まれてしまった。

 勝てる、負けるはずがない、と強く信じることができた。

 決してまやかしではなく、信じるに値する説得力のある作戦であった。


「なあ、ルカ姐……。この作戦、マジかよ?」

 一同が感心する中、ただ一人レミーだけが冴えない顔を浮かべていた。

 あまりに落胆した様子にフローラがぷっと吹き出す。

 生真面目な彼女には珍しいことであった。

「当たり前でしょ。これも全て、勝つためなんだから。さ、行くわよ!」

 一同が鬨の声を上げる中、レミーだけが心底嫌そうな顔であった。

 確かにヒースが彼の立場でも、この作戦はあんまりだ、と思っただろう。


 それからおよそ一時間後。

 ヒースは黒装束に身を包み、屋根伝いに街を移動していた。

 向かうは『悪霊』たちが潜んでいるであろう旧エブロ邸だ。

 夜もとっぷりと暮れ、朝まで営業しているような居酒屋や娼館、賭博場以外はほとんど灯りを消してしまっている。

 先程まで吹いていた風は、さらに強さを増しているようであった。


 ヒースと並行するように、目下の大通りではルカ・ゴドー・ラフィの三人が落ち着いた足取りで歩を進めていた。

 三人とも、気迫の籠った表情だ。戦歴と実力を考えると、一行の中でも最強の三人と言えるだろう。

 この三人とは別に、フローラとレミーが入り組んだ路地を足早に進んでいる。

 ちょうど三人を左右から挟むような布陣だ。

 ジェイコブ爺さんは三人からだいぶ離れた位置から、もっさりとした歩調で付いてきている。

 万が一裏をかかれ、屋敷を守る元締たちが襲われた場合には、真っ先に戻って守りを固めるのが彼の役割の一つだった。


 エブロ邸が近づいてきた。

 ここまで、敵らしき人影は見当たらない。

 拠点を引き払い、全員がエブロ邸に戻っているということであろうか。

 あるいは、もう戦局に絶望して、街の外に逃げ出したのかもしれない。


 ルカたち三人が足を止めた。

 打ち合わせ通り、身を低くして周囲の気配を探る。

「出てきなさい、『悪霊』。それとも怖くて出てこられないの?」

 ルカが静かな声音で呼びかけた。

「ふふ、まさか今夜の内に来るとはね。そんなに早死したかったのかしら?」

 三人の前方に漂う闇の中に『悪霊』とその下僕の姿が現れる。

「いや、厄介事は早めに片付けるのが私の信条でね。さて、それじゃあ正々堂々三対三で決着をつけましょうか」

 ルカの提案に、『悪霊』が顔を歪めて吐き捨てるように答える。

「正々堂々? ふざけるな、この売女。ドブ鼠を三匹も潜ませておいて、よくそんな舐めた口が利けたものね」

 三匹とは、もちろんヒースたちのことだろう。

 主人の激高に反応し、『犬猿』が低く唸る。

『人形』はもちろん無表情のままだ。


 だがルカは動じるどころか、

「まあ、お下品な言葉遣い。協会でちやほやされていた世間知らずのお嬢様も堕ちたものねえ。だいたい、いい年をしてお人形遊びとか、友達もいなくて犬だけが話し相手とか、なんてまあ、寂しい人生ですこと」

 とことん舐めきった口上でさらに挑発した。

 これも全て、当然ながら作戦の内であった。

『悪霊』はその出自から、非常にプライドが高い。

 己よりも優れた人間など存在しない、とまで思っているらしい。

 傷跡の痛々しい顔が、憎しみでさらに醜く歪み、血管が浮きあがっていた。

 そこにトドメを刺したのが、

「ルカ姐の言う通りだぜ、このドブス。しかも性格まで、どうしようもねえブスだな。人間の男にゃまともに相手されねえからって、そのワンコに舐めさせたりしてるんだろ? いや、そいつは犬の方が可哀相だな。想像しただけで吐きそうだぜ」

 路地に潜むレミーの品性の欠片もない罵声だった。

 表情は窺い知れないが、きっとフローラは眉をしかめていることだろう。


「殺せ!」

 怒り狂った『悪霊』の命令で、『犬猿』がレミーの潜む路地に駆け出していく。

 同時に、『人形』が正面のルカたちに向けて突進した。

 ゴドーとラフィがその前に立ちはだかり、呪文の詠唱を開始したルカを護る。

 双鉄棍と死神の大鎌が並ぶ様は、まさに鉄壁だった。


 ヒースは屋根の上を駆け、『犬猿』を追った。

 すでにレミーは、網の目のように入り組んだ路地を駆け回っている。

 行き止まりに当たらないように気をつけながら、何度も曲がり、追っ手を翻弄する。

 それがレミーの最初の役割だ。

 ヒースはやがて『犬猿』に追いついた。

 路地を進む敵とは違い、屋根の上を走るので一直線に追うことができる。

 これももちろん、計算の内だ。

 懐から石塊を取り出し、『犬猿』の背に向けて投げつける。

 これが致命傷になる、などとは考えていない。

 ただ、注意を逸らすための攻撃だ。


 低く『犬猿』が唸り、凶暴な顔でヒースを見上げた。

 大きな口には尖った牙がずらりと並んでいる。

 その牙の一つひとつが唾液でぬめりと濡れていた。

 こんな奴に噛みつかれたらひとたまりもないだろう。

 だが、ヒースは屋根の上にいる。

 仮に『犬猿』が跳躍して屋根に乗るようなことになっても、その時には路地裏を逃げる予定だ。


 頭上の敵に対し、『犬猿』はどのように出るべきか判断しかねている様子だった。

 そこに、遅れて追ってきたフローラが現れた。

 彼女が口笛を吹き、『犬猿』の注意を引く。

 そしてすぐさま踵を返し、再び裏路地に消えていった。

 新たに出現した間近の敵を『犬猿』が追う。

 この間、ルカはずっと『悪霊』の術を防ぐための詠唱に専念する手はずだ。

 ルカの話によれば、防御だけに徹すれば、ある程度は時間が稼げるという。

 ゴドーとラフィは、これも予定通り『人形』からルカを守りきる。

 そしてヒースたち三人は背後に控えるジェイコブの到来まで、とにかく『犬猿』を翻弄する。

 それら全て、ルカの作戦通りだった。


「こちらの狙いは悟らせないようにするのよ」

 ルカは出撃前に、何度も念を押していた。

 その上で彼女からは、「最上の結果」と「最低でもここまでは果たす」という目標が提示されていた。

(そう、この『犬猿』だけは絶対に仕留めねえとな!)

 最悪なのは、『悪霊』と下僕を二匹とも残したまま、難敵『西方羅刹』を迎えることだ。

 その事態だけは避けなければならない。

 フローラの背に『犬猿』が迫りつつあった。

 石畳の上を、狂獣の太い四本の足がひたひたと駆けていく。

 その背に、ヒースが何度も石を投げつける。

 己の命を脅かすものではないと理解しつつも、当たるたびに『犬猿』の足は本能的に止まってしまう。

 その間隙を縫って、フローラが再度距離を広げる。


「おう、お待たせ」

「頼むぜ、ジェイコブ爺さん!」

 ジェイコブがようやく追いついた。

 手には組立て式ボウガンが構えられている。

 矢尻にはレミー特製の猛毒が塗られていた。

 一撃必殺の武器だ。

「まあ落ち着けよ。狩りっていうのはな、焦ったら負けだぜ」

 ジェイコブがあらかじめ決めていた『定位置』につく。

 入り組んだ裏路地の中でも、ようやく人一人が通り抜けられるような狭い道だ。


(よし、ここからが勝負だぜ!)

 ボウガンの射線まで『犬猿』を導く。

 それがヒースの役割だ。

 意を決し屋根から飛び降り、『犬猿』の前に立つ。

 距離はほんの五メートルほど。

 全力で走らなければ、あっという間に追いつかれてしまう。


「こっちだぜ、犬コロ!」

 踵を返し、全力で走った。

 後ろを振り向く余裕はないが、『犬猿』の呼吸音で背後にどれほど迫っているかは察知できる。

 目的地まで、あとおよそ二十メートル。

 緊張で口の中がカラカラに乾いていたが、唾を飲み込む暇も今は惜しい。

 あと十メートル。

 あの角を曲がれば、ジェイコブが待ち構えている。

『犬猿』の気配がすぐ後ろに迫っていた。

 曲がり角に着いた。

 そこで跳躍し、壁を蹴って一気に上に駆け昇る。


『犬猿』が足を止めた。 

 恐らくヒースたちの企みに感づいた『悪霊』の命令だろう。

 彼らを分断し各個撃破しようという目論見に気づき、下僕に戻るように命じたに違いない。

 挑発で血の昇った『悪霊』も、ここにきて冷静さを取り戻したのだろう。

 忠実な『犬猿』は踵を返し、主人の下に戻ろうとした。

 ヒースは慎重にその後を追った。

 フローラが『犬猿』の先にある曲がり角から顔を出し、口笛を吹く。

 すぐに姿を消した彼女を、『犬猿』は追おうともせず主人のいる場所への最短の道を進んでいった。

 ヒースも後ろから石を投げ、口笛を吹いて関心を引こうとした。

 だが、そのたびに足は止めるものの、『犬猿』は挑発には乗ってこない。


 細い路地の先に、生ゴミがうずたかく積まれていた。

 近所の居酒屋や料理屋が使っているゴミの集積所だろう。

 物乞いや浮浪児が食事を漁ることもあるが、今はさすがに誰もいない。

『犬猿』が跳躍し、その生ゴミの山を飛び越えた。

 このゴミの山を越えて少し歩けば、そこには彼の主人が待っている。


 だが次の瞬間――。

 冷たい鉄の刃が、その背に突き立てられていた。


『犬猿』が絶叫した。

 犬とも猿ともつかない、痛みと怒りに満ちた叫びだった。

 刃に貫かれた状態のまま、凄まじい顔で振り返り、刺客の姿を求めた。

 その弾みで刀が地面に落ち、乾いた金属音を辺りに響かせる。

 ゴミの山の中から現れたのはレミーだった。

 刀の柄から手を離し、不敵な笑みを浮かべてそのまま後ろに跳び退る。


「へへっ、犬コロ。お前の鋭すぎる嗅覚が仇になったな。といっても、お前さんには意味が分からないだろうがね」

『犬猿』の巨大な口から血泡がゴボゴボと溢れ出て、鋭角な顎を伝い落ち、石畳を濡らした。

 刃には、もちろん猛毒がたっぷりと塗りたくられている。

 傷そのものは浅いが、その毒はあっという間に『犬猿』の全身を蝕んでいた。


 ここに至るまでの全ての行動が、ルカの仕組んだ『犬猿狩り』作戦だった。

 レミーが『悪霊』を挑発し、『犬猿』をおびき寄せる。

 ヒースが屋根の上から援護し、レミーとフローラが交替してジェイコブの到着まで時間を稼ぐ。

 その間に、レミーがゴミの山――その場所は、あらかじめヒースが調べておいた――に身を潜める。

 ジェイコブが猛毒仕込みのボウガンを構え、ヒースが『犬猿』を誘導する。

 もしこれでジェイコブが仕留めてしまえば、それで一件落着だ。


 だが、そこまであからさまに罠を仕掛ければ、『犬猿』はともかく主人の『悪霊』が感づくだろう、というのがルカの読みだった。

 策略に気づいた『悪霊』は、忠実な下僕にすぐに戻るよう命じるはずだ。

 その『最短経路』にレミーの潜むゴミの山がある、というわけだ。

 もちろん偶然ではなく、ジェイコブの『定位置』はそれを前提として決めたものであった。

 さらに念には念を入れ、フローラとヒースが罠に誘い込もうというように挑発を繰り返す。

 これももちろん芝居だ。

 悪臭を放つ生ゴミの山。

 これで『犬猿』の嗅覚を鈍らせる。

 罠を見破ったという『悪霊』の油断、そして『犬猿』の最大の長所である嗅覚を逆手に取った二重の罠であった。


「最大の武器は、逆手に取られれば、最大の弱点に転じることもあるのよ」

「それに人も獣もね、罠を見破ったと思った瞬間が一番罠に引っ掛かりやすいの」

 この作戦を伝えた時の、ルカの言葉通りの展開だった。


 石畳の上に倒れこんだ『犬猿』の全身が、ビクビクと震えていた。

 だが、レミーは完全に事切れるまで近づこうとしない。

 ヒースもまた、屋根の上からこの強敵の最期を見届けた。

『犬猿』の動きが止まった。

 ジェイコブとフローラも駆けつける。

 ジェイコブが「念には念を入れんとな」と呟いてボウガンの矢を放った。

 矢は背筋に深々と突き刺さったが、やはりピクリとも動かなかった。

 ヒースたちは、この戦いにおける第一の目的を果たしたのだ。


「へっ、まあどうにかこうにかってところだけどな。上手くいったぜ」

「喜んでいるヒマはない。すぐにお姉さまの元へ行かねばな」

「うむ、そうだな……。しかし、それにしてもレミー、お前さん……」

 ジェイコブが眉をしかめ、レミーをしげしげと見つめた。

「な、なんだよ、爺さん」

「あまり言いたくはないが、お前さん、臭いぞ」

「お、おいおいっ、その言い方はあんまりだろ! しょうがねえじゃんか!」

「悪いけどレミー兄さん、本当に臭いよ」

「ヒース! お前まで言うかっ!? だいたい誰のおかげでこの作戦が成功したと思ってんだ! な、フローラちゃんもこいつらに何か言ってやってよ!」

「臭い」

 本当に嫌そうな表情を浮かべ、フローラはすたすたと行ってしまった。

 口をあんぐりと開けたレミーを尻目に、ヒースとジェイコブもその後に続く。

 レミーが毒刀を拾い、不服そうな顔で皆に従った。


 依然として『人形』とゴドー、ラフィの戦いは続いていた。

 常人――そもそも人ではないが――離れした『人形』の斬撃は、途切れることなく二人を襲っている。

 人間や動物と違い、疲れを一切知らず息継ぎすらしない『人形』ならではの戦い方だ。

 むしろ二人がかりとはいえ、全く無傷のまま凌ぎきっている二人を褒めるべきところだろう。


 ヒースたちの姿を認めた『悪霊』が、憎しみに満ちた目を向けてくる。

 フローラが細剣を、ジェイコブがボウガンを構えた。

『悪霊』に危難が迫れば、当然ながら『人形』がそれを護ろうと動くはずだ。

 そこに勝機が生まれる、とルカは言っていた。

 だが同時に彼女は、

「もし『犬猿』が死ねば、間違いなくあいつが動くでしょうね。戦力の均衡を図るために。その瞬間が一番危険よ。気をつけて」

 と、忠告もしていた。

 もちろんそれは、あの『天使』のことであった。

 そして世の中、悪い予感ほどよく当たるものであった。


「あらら、『悪霊』さんたら、苦戦しちゃってるねえ。ここは一つ、面倒くさいけどボクが手助けしちゃおうかな」

 いつの間に現れたのか、場違いなほど明るい声がエブロ邸の方角から聞こえてきた。

 夜の澄んだ空気に、透き通るような美しい声が流れる。

 だがそれが、地獄に誘う悪魔の音色であることを、ヒースたちは知っている。

 相変わらず『天使』は、色鮮やかな赤いドレスというふざけた姿であった。

「そのドレス、汚したくなかったんじゃねえの?」

 レミーがどうでもいいことを問いかけたが、これも時間稼ぎの一つだ。

「あは、そうだね。でも、君たちの血で汚す分には構わないかも。だって、赤だからあんまり目立たないでしょ?」

 その満面の笑みは、底知れない不気味さを孕んでいた。


 ルカから伝えられている『犬猿』を倒した後の方策は、ただ二つ。

 仮に『天使』が登場しなければ、一気に『悪霊』と『人形』を叩き潰す。

 現れたら――時間を稼ぎつつ、とにかく逃げる――それだけだった。

 その退却の号令を下すのはルカだ。

 彼女の判断に全てはかかっている。

「退くぞ!」

 ルカが力強く宣言し、敵に背を向けて一目散に駆け出した。

 同時にジェイコブが『悪霊』に向けて矢を放つ。

 それに気づいた『人形』が跳躍し、すかさず主人を庇った。

 矢は下僕の硬質の肩で弾き返された。

 もちろんダメージはないだろう。

 あくまでもそれは、ゴドーとラフィのための時間稼ぎだ。

 二人がルカに続いて駆け出す。

 レミーとフローラ、ジェイコブはそれぞれがバラバラに裏路地へ駆け込んだ。

 ヒースは得意の軽功を使って、屋根に駆け上り、地上を見下ろした。

 ここからは、ヒースの果たす役割が重要だった。

 彼の仕事はレミーたちの逃走を手助け、『天使』の魔手から護ることなのだ。


「あの魔女は憎い私を追うはずよ。この際、『人形』はそれほど脅威ではないわ。あの大柄な身体は細い路地には向いていないしね」

「問題は『天使』よ。こいつにレミーたちが追いつかれたら厄介なことになるわ。とにかく注意を引きつけるのよ。ただし、奴の言葉には耳を貸さないでね」

 ルカはこの恐るべき敵の中でも、『天使』だけは特に別格と捉えていた。

 ヒースはその理由を知らされていないが、ラフィはこの弟を妖かしの民の里からずっと追い続けているらしい。

 超一流の暗殺者である彼女でさえ、実に五年以上殺すことができなかったままなのだという。

 単なる武勇という点のみでいえば、ルカたちの敵う相手ではない。

「しかも『悪霊』や『西方羅刹』に戦力を割かなきゃいけない状態では、こちらが殺られる危険性が高すぎるわ。だから、天使の羽根を引きちぎる前に、他の連中を残らず片付けるのよ」

 それが、この戦い全体の基本的な戦略だった。


「一番強い敵を最初に倒そうなどというのは、最も危険な発想よ。力の劣る敵から順に仕留め、弱体化させるのが基本だからね」

 それは、ヒースがルカと知り合ったばかりの頃に教わったことであった。

 今回もその基本に忠実に従うような作戦になっている。

『天使』は、退却を始めたルカたちをつまらなそうな表情で見ていたが、やがて薄ら笑いを浮かべ、レミーたちの逃げた裏路地に入った。

 ここまでは、ルカの読み通りだ。

 ただしここからは、ヒースの臨機応変な対応が必要になる。

 ルカからは、出撃直前にただ一つ――これだけは絶対に守れと言われていた。


「死なないでね、ヒース。本当に、本当にこれだけはお願いよ」

 いつになく真顔で繰り返すルカの様子に、その時のヒースは静かに頷いた。

(絶対に、逃げ切ってみせるぜ、ルカ姐さん)


 フローラたち三人は、可能な限り分散して屋敷まで戻ることになっていた。

 やはり老齢ということで、ジェイコブが一番短い経路を使う。

 今回は狭い路地を通るので、愛用の矛槍は屋敷に置いてきていた。

 逆にフローラとレミーは、途中で何度も横道に入り、『天使』の判断を迷わせる。

 最悪でも三人の内、二人は『天使』に襲われることなく屋敷まで戻れるように、ということであった。

 だが、確実に彼らの内一人は狙われるだろう。

 それが誰であろうと、ヒースがやるべきことは一つだった。


「こっちに来いよ、オカマ野郎」

『天使』の狙いはジェイコブのようだった。追い始めた背に声をかけると、嬉しそうに振り返った。

「うん、まあ君でもいいか。疫病退治が一番面白そうだったんだけどね、ええと、君はたしか『ドラ猫』のヒース君だったっけ?」

 一々癇に障る物言いだったが、この程度の挑発は想定していた。

 うっかり会話を続けてしまうと、その『言霊』の影響を受けかねない。


「口喧嘩するつもりはねえよ。軽功が使えるんだろ? 勝負しようじゃねえか」

「それが戦乙女の作戦? ずいぶんと陳腐だねえ。ボクが乗るとでも思った?」

 肩をすくめる『天使』に、素早く懐から取り出した手裏剣を投げつける。

「ゴチャゴチャうるせえよ。退屈してんだろ? さっさと追ってこいや」

 言うだけ言って、屋根伝いに一気に駆け出す。

 背後を一瞬だけ振り返った。

 想像よりも近い位置に『天使』がいた。

 もう後は、何も考える必要はなかった。

 これから命がけの逃走劇が始まる。

 盗人稼業のヒースにとっては、むしろこれまでよりも慣れっこのことであった。


 とにかく走る。

 三人が無事に屋敷に戻り、ルカたちと合流して『悪霊』と『人形』を迎え撃つ態勢を整えるまでは。

 二十分。

 それだけ稼げれば充分であると、ルカからは言われていた。

 むしろそれ以上逃げようとするのは危険だ、とも。

 軽功には自信がある。

 足の速さでは、誰にも負ける気がしない。

 そう自負していたが、「上には上がいる」ことも理解している。

 ただ、今までそういう者に出会ったことがないというだけだ。


「自信は大事よ。だけど、過ぎた自信は傲慢に変わり、己を滅ぼす毒になるわ」

 ルカの忠告は間違っていない。彼女を信じて、ここまでやってきた。

 僅かな失敗、そして油断が、戦いにおいては死に直結する。

 あの『犬猿』が死んだのも、それが原因だ。

 うっかり足元を滑らせてしまえば、『天使』は嬉々として彼を切り刻むだろう。

 だが、慎重に過ぎて速度を落としてしまっても、同じ運命が待ち構えている。

 ヒースは油断することなく、そして臆することもなく、夜の街を駆けていった。


 背後にぴったりと尾けている『天使』の気配。

 付かず離れず、だ。

 ヒースと同等の速度で走ることができるということだろう。

(なるほどね、こういう時のために俺は散々走らされてきたってわけだ)

 このリカオールの街に到着してからの間、ルカの指示でヒースは何度となくこの屋根の上を、そして石畳の上を走らされてきた。

 街の地図も、とにかく徹底的に暗記させられた。

 その積み重ねが、今この危地でヒースの武器になっている。

 頭で理解しているだけではなく、身体が感覚を熟知していた。


(あと十分ってところだな)

 その十分をどう使って屋敷に戻るか、その経路を脳内で素早く構築した。

 ほぼ全力疾走の状態が続いているので、口中がカラカラに乾いている。

 息を深く吸いたいが、その余裕もない。

 だが、まだまだいける。

 後は精神力の戦いだった。


「はは、なかなかやるねえ『ドラ猫』君」

 後ろから楽しげな『天使』の声が耳に入ってくるが、もちろんそれに答えるような愚は犯さなかった。



(九章 西方羅刹 に続く)

ゴドー「臭いな」

ルカ「臭いわね」

ラフィ「……臭い」


レミー「全員殺す」

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