六章 災厄
六章災厄
すぐに応接室に元締父子と幹部衆が集められ、対策を練ることになった。
「とりあえず、こちらからも街に噂を流すというのはどうですか?」
幹部の一人が提案してきたが、ルカは静かに首を振った。
「あまり意味があるとは思えませんね。ただ単に二つの情報が交錯して街の人間が混乱するというだけでしょう。結局のところ、今仕掛ければこちらが非難を浴びることは間違いありません」
「じゃあどうするってんだい、ルカ姐」
レミーが大きくため息をついた。
敵の狙いは、昨日ルカが看破した通り時間稼ぎだ。
援軍が到着するまでの間、戦いを避けようということだろう。
「そうね。元締、しかしここは、後で何と言われようと攻め込むべきです」
ルカがきっぱりと断言すると、一同は息を呑んだ。
「親父さんの名に傷をつけても構わんというのか!」
幹部の一人が複雑な表情で呻いたが、ルカは動じなかった。
「戦いにおいては、名よりも実を追うべきです。故事にも、敵に情けをかけて好機を逸し、最後には滅ぼされた王の話があります。名に傷を負うことを恐れて、みすみす敵が刃を抜くまで待つおつもりですか?」
「う……。し、しかし…」
静かな口調であったが、ルカの姿勢には断固たる意志の強さが表れていた。
元締は目を閉じ、黙したまま語らない。
ルカの迫力に幹部が押されていたところで、応接間の扉が激しく叩かれた。
そのただならぬ様子に、一同の視線が集まる。
(まさか、もう援軍が来たっていうのかよ!)
停戦の申し出が昨日であったことを考えれば、あまりにも早すぎる。
だが、ルカが言っていたように、物事は常に最悪の事態も想定しておくべきであろう。
「落ち着きなさい。一体どうしましたか?」
扉を開けた若い衆は、皆の視線を一身に浴びて少し退いた。
だが、平静そのもののルカの様子で気を持ち直したようで、
「その、実は表門に変な爺がやってきたもので」
「爺さんだあ?」
レミーが拍子抜けしたように肩を落とす。
「はい、何でも自分のことを『災厄』だとか抜かしてやがりまして」
「……『災厄』だと!」
レミーが大声を発し、ソファから立ち上がった。
「まさか、お姉さまがお声をかけたのですか?」
フローラが複雑そうな心境を隠そうとしないまま、ルカに問いかける。
明らかに、レミーと最初に出会った時よりももっと嫌そうな顔に見えた。
「そうよ。大丈夫、今回は私たちの味方だからね。早速だけど、ここまで通してちょうだい。心配は無用よ」
ルカの命に従って若い衆が応接間から退室する。
ゴドーが呆れ顔で、
「まさかあいつまで呼ぶとはな。ま、お前が保証するのであれば信じるが」
やはり好意的とは言いがたい様子であった。
「へっ、『北方の災厄』『疫病ジェイコブ』まで来るとはねえ」
口元を歪めるレミーの言葉で、ようやくその男の素性を思い出すことができた。
(何てこった、よりによって疫病ジェイコブかよ!)
それは裏社会でも忌み嫌われる、伝説の老傭兵だった。
ヒースが生まれるずっと前から、ジェイコブの名は裏社会で知れ渡っていた。
若い頃の彼は、帝国軍及び保安隊による山賊や強盗団の征伐、元締同士の大きな抗争など、大規模な荒事には必ずといっていいほど参戦していたという。
現在は相当な高齢なはずであるが、今なお一線で活躍しているということだ。
彼の『疫病』『災厄』という通り名は、
「疫病や災厄のように、多くの人を殺す」
ということに由来している。
彼が裏社会で嫌われている理由はただ一つ。
あまりにも手段を選ばない、その戦いぶりからだ。
そもそも傭兵という者は、仁義よりも『利』を重視する連中である。
だが、彼の場合はそれが徹底している上、傭兵間における暗黙のルールすら平気で破ってのける。
形勢によっては寝返ることも辞さないし、理非曲直も一切気にかけることがない。
生き残ることと、後は金のことしか考えないとまで言われている。
フローラのように高潔な人間が蛇蝎の如く忌み嫌うのも、無理のない話だ。
ルカがなぜそのような男を助っ人として呼んだのか、彼もどうしてそれを承諾したのか、その点がヒースには分かりかねた。
「おうおう、久しぶりだなあ、ルカ嬢ちゃんよお」
短く刈られた白髪頭の爺――ジェイコブが、応接間にズカズカと入ってきた。
皮をなめした鎧の上から、フード付きの灰色の外套をかさねている。
埃まみれの、くたびれた風体だ。
背丈はヒースよりも頭半分ほど小さいが、重量感のある斧槍を担ぐ様は、まさに歴戦の傭兵といったところだろう。
髪同様に真っ白な眉毛の下の、細い目から鋭い光を放っている。
皺の目立つ顔の至るところに傷痕があり、それもまた彼が潜り抜けてきた修羅場の凄まじさを彷彿とさせた。
「ほほう、こりゃまた、随分と豪勢なメンツじゃねえか、おい。ルカ嬢ちゃん、さてはこの街を乗っ取ろうって算段なんだろう?」
居合わせた面々を眺めつつ、とんでもないことをしれっと言ってのける。
もちろん、それがたちの悪い冗談なのだと誰しもが理解したが、フローラは明らかに軽蔑の眼差しを向けていた。
「おや、そっちの坊やは初顔だな?」
ヒースの姿を観止めたジェイコブが、薄い笑いを浮かべる。
腹の底を探られるような、嫌な視線だ。
憮然とした表情で名乗りを上げようとしたが、ルカが制し、
「ジェイコブ。貴方のことだから、ヒースのこともしっかり頭の中に入れた上でここにやってきたのでしょう?」
意外な言葉に、二人を除く一同の目が点になった。
「はっはっ、いやさすがに『白銀の戦乙女』。俺のことがよく理解ってるなあ」
ジェイコブが愉快そうに笑った。
「戦いに臨む前に、彼我の戦力を見極めておくのは常道。貴方から教わったことですよ。おおかた、とっくにこの街に入っていて、様子を窺っていたのでしょう?」
「いや参った。何もかもお見通しかよ」
「で、勝てる見込みがありそうなのでここに来た、ということですよね」
苦笑するルカの様子に、ヒースは唖然とした。
なるほど、確かにこれは忌み嫌われるのも仕方の無いところだろう。
「ふふ、違うな。勝てそうな戦に後からのこのこ参戦するんじゃあ、雇い主は高く買ってはくれねえ。逆だよ、お前さんが困っていそうだから顔を出したってわけさ」
「なるほど。流石ですね」
「で、とりあえずだ。まずは情報を買わねえかい。値は安くしておくぜ」
あからさまな物言いに、フローラが目を逸らし、頬を膨らませた。
義侠の徒である彼女にすれば、いきなり金の話を持ち出すなど許せない行為だろう。
他の面々も、半ば軽蔑、半ば呆れた顔で二人のやり取りを見守っている。
「いいでしょう。銀貨百枚でいかがですか?」
「は、お前さん、いきなりそんな高値をつけちまうのかい?」
「今は何より時間が惜しいのですよ。もったいぶらず、本題に入ってください」
穏やかな顔つきであったが、語気には有無を言わせない鋭さが含まれている。
ジェイコブの目つきが変わった。
獲物を見つけた狼の目だ。
「向こうの参謀についているのはな、あの『天使』ファーナだよ」
「何だと!」
幹部衆が一斉に声を上げた。
彼らのみならず、その衝撃的な情報に全員が息を呑み、硬直していた。
剛勇で鳴るゴドーですら、思わずくぐもった呻きを上げる。
だが、驚きはそれだけではなかった。
「おまけに奴が呼び寄せようとしているのはな、『悪霊』と『西方羅刹』だ。血の海なんて生易しいものじゃねえ、とんでもないことになるぜ、この街は」
ヒースは膝頭の震えを抑えるのに必死だった。
口中が乾き、嫌な汗が全身から浮き上がってくる。
敵は『天使』、『悪霊』、そして『西方羅刹』。
経験の浅いヒースでも、彼らの名だけは知っていた。
裏社会とは、言ってみれば法の外の世界だ。
だがその中にも、ある程度の秩序というものがある。
それはルカやフローラのような侠客にとっては、仁義であり人情というものだ。
彼女たちは、それを貫くために時には法を犯すことも躊躇わない。
例えば辺境の村では、中央の目が届かないのをいいことに、良民を虐げる役人がいる。
そのような輩を彼女たちは容赦しない。
役人を殺せば当然追われる身となるが、それを恐れることなく弱きを助け強きを挫くのが本物の侠客なのだ。
ヒースにとって守るべきもの、それは先代の猟豹から受け継いだ『盗人として守るべき三ヶ条』だ。
ゴドーやレミーにも、それぞれの貫く信条はあるだろう。
だが、『天使』たちにはそれが一切無い。
ただひたすら、己の心の赴くままに血を流し、殺戮を行うことを喜びとしている。
組織には属していない。法の外の世界ですら、はみ出してしまう連中なのだ。
裏社会でも、彼らのような存在は『厄種』と呼ばれて忌避される。
その強さは常人離れしているが、味方も敵も区別無く殺してしまうような存在だからだ。
もちろん、残虐非道な彼らは官吏からも裏社会の猛者たちからも命を狙われる。
だが、網の目のような包囲も、音もなく忍び寄る刺客の刃も、彼らは己の尋常ならざる戦闘力と、持って生まれた異能によって難なく切り抜けてしまう。
そんなとんでもない連中が今、自分たちの敵となっているのだ。
ルカを始めとした頼りになる仲間がいなければ、ヒースも全力で逃げ出したいところだった。
「なるほど。じゃあ相手方の傭兵たちが逃げ出したのは、私たちの脅しが効いたってだけでも無さそうね」
衝撃から最初に立ち直ったのは、やはりルカであった。
「そういうことだろうな。『天使』はともかく、他の連中は本当に敵味方も判断できぬような輩だからな。まあいずれにせよ、俺は戦うだけだ」
ゴドーの声もすっかり落ち着いていた。
覚悟を決めた、ということなのだろう。
「彼奴らは仁義を踏みにじり、無辜の人々も殺める外道の中の外道。許すわけにはいきません、お姉さま」
「へっ、とんでもねえ高額の賞金首が揃い踏みってことじゃねえか。こいつは面白くなってきやがったぜ?」
フローラとレミーもまた、各々の信念に基づき、決意を口にした。
ここで引き退がるわけにはいかない。
ヒースは奥歯を噛み締めて、湧き上がる恐怖をねじ伏せた。
「ルカ姐さん、俺もやるぜ」
真っ直ぐにルカの目を見つめる。
彼女は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと大きく頷いた。
「おいおい、大丈夫なのかい、坊や。膝が震えているんじゃねえか?」
薄笑いを浮かべて横槍を入れてきたジェイコブに、ヒースは激高した。
「何だとジジイ! もういっぺん言ってみやがれ!」
腹の底を見通されたこともあるが、何よりその物言いが気に喰わなかった。
確かにジェイコブに比べれば、自分は経験が浅い。
だが、それが何だというのか。
ジェイコブの言は、命を賭して戦おうという者に向かって吐くべき台詞ではない。
「お止めなさい、二人とも」
二人の間にルカが割って入った。
「いい、これからはここにいる全員が、共に戦う仲間なのよ。つまらない言い争いはよしなさい」
「俺は、こんなボケジジイは認めねえ!」
ルカの言葉の意味は理解できているつもりだった。
だが、目の前で嘲笑を浮かべるジェイコブの顔を見ていると、どうしても我慢できない。
「はは、俺もな、お前のような向こう見ずなだけの坊やは認めたくないね」
「お止めなさい!」
ルカの大喝一声で、気圧された二人が沈黙する。
「ここに居るのは、いずれもこの戦いで私が必要としている仲間よ。誰が欠けても困る、と私は考えているわ。でも、もしそれが気に入らない、私が信じられないというのならば、さっさと出て行きなさい」
張り詰めた沈黙が部屋を支配した。
「チームというものは一個の生き物として機能する時、最大の力を発揮するものよ。最大の力でもって迎えなければ、奴らとは渡り合えないわ」
凛とした姿勢と、張りのある美声で語るルカの前に、ヒースもジェイコブも返す言葉が無かった。
「仮に私が頭だとしましょう。頭の下す指示に逆らい、手足が勝手に動いたら歩くこともままならないでしょう? もっとも、頭が悪くてもお話にならないですけれどね」
「はは、俺はね、お前さんの頭に関しては信頼しているぜ?」
ジェイコブが苦笑すると、
「ありがとう。じゃあ、どうして右腕の貴方が左腕の力を疑うの?」
ルカの言葉に、ジェイコブが唸る。
「分かった、俺の負けだよ。悪かったな、猟豹。お前さんはビビッてなんかいねえ」
ジェイコブが観念したように肩をすくめ、ヒースに右手を差し出した。
「俺も言い過ぎた。すまねえ、『災厄』の爺さん。あんたはボケてなんかいねえ」
握ると、ジェイコブの手はいかにも歴戦の勇士らしくゴツゴツとぶ厚かった。
「その通り名、正直言って気に入ってねえんだ。ジェイコブで頼むぜ」
「ああ、俺も面倒だからヒースで構わねえよ、ジェイコブ」
一同の間で、緊張の糸が一旦切れる。
だが、そのやや弛緩した空気を再び引き締めたのは他ならぬルカであった。
手にした仕込み杖で床をトンと突き、元締に向き直る。
「元締。この戦いはもう、縄張り争いでは無くなりました。凶悪な獣を狩るための戦いです。お二人を絶対にお守りするという最優先事項は変わりませんが――」
一同を見回し、高らかに宣言する。
「我らの全力を以って『天使』どもを残らず討ち果たす。それを、この戦いの最大の目的とします」
ルカはその場を解散させると、各人に細かく指示を与えていった。
援軍が数日の内に到着することは避けられない。
仮に今、エブロたちを討ったとしても、雇い主が殺されたぐらいで殺戮を止めるような連中ではなかった。
そのため、幹部と若い衆には、元締とアントワン周辺の徹底的な警護を命じた。
彼らの腕前では、『天使』たちとまともに渡り合うことは不可能に近いが、戦力を集中させ防御に徹すれば時間を稼ぐことはできるだろう。
同時にルカは、ジェイコブに若い衆を指揮して罠や投石器などを作らせるよう命じた。
これもまた、『天使』たちを足止めするためのものだ。『災厄』ジェイコブは、この手の罠や武器作りには精通しているのだという。
レミーには、各種の毒の準備を急がせていた。
彼自身が使うだけではなく、罠にもその猛毒を仕込んでおこう、ということだった。
「で、ヒース。私に聞いておきたいことがあるんじゃないの?」
一通り指示を出し終わったところで、ルカが声をかけてくる。
応接間にはもう、彼女とヒースしか残っていなかった。
「ああ、うん、その……」
それは、今さら口に出しにくいことだった。
ルカはきっと、そんな心中を察した上で、二人きりになる機会を作ってくれたのだろう。
「大丈夫、気にすることはないわ。『知らない』ということは、決して恥じることではないのよ。知らないまま戦いになったら、それこそ大問題だわ」
(やっぱり、ルカ姐さんにはお見通しだったか)
羞恥から顔が赤くなってしまったが、彼女にはやはり隠せるものではない。
ヒースは『天使』たちについて、その名前以外はほとんど知らなかった。
彼らの悪名は轟き渡っていたが、これまでは実際に相見える機会などあるまい、と高をくくっていた。
言ってみれば大地震や竜巻のようなもので、運悪く出くわしてしまったら仕方ない、しかし避けられるのであれば避けよう、という認識だ。
そもそも盗人稼業の自分が、彼らと真正面から戦うことなど想定もしていなかったのだ。
「これ、レミーから借りてきたのよ。しっかりと頭に叩き込んでおきなさい」
そう言ってルカは、長テーブルの上に穀紙を束ねて綴った帳面のような物を置いた。
頁をめくってみると、彼女の似顔絵が描かれてあり、その横には
「人呼んで白銀の戦乙女、ルカ・マイヤーズ。魔女・仕込み杖の名手。役人殺傷・関所破りなど。賞金額銀貨千枚」
などという説明が記されている。
「……賞金首の台帳、ということかい?」
「そうよ。その中でも、この大陸で飛びきりの悪党揃いのね」
ルカがすらすらと頁をめくる。
自分が一枚目に堂々と載せられていることは、まるで気にしていない様子であった。
数頁めくったところで手が止まった。
ルカを除けば、凶悪そのものの面相が続く中に、まるで場違いなほど美しい女性の似顔絵があった。
切れ長で涼やかな目元に美しい鼻梁と唇。
これが賞金首のリストでなければ、宮廷画家の描いた美人画と見紛う風貌だった。
だが、こう見えても実は男なのだという。
「これが天使・ファーナよ。『人心を惑わし、混沌を招く者』とも呼ばれているわ。今回の元凶のようなものね」
説明書きには、妖かしの民・飛燕刀術免許皆伝・軽功と内功も操る・言霊術などと記載されていた。
妖かしの民とは辺境の地に住む人種で、神秘的な風貌と他の種族より長生であることから、『最も神に近い一族』とも『不吉なる者』とも呼ばれている。
飛燕刀術とは、古の達人『刀仙天女』が編み出したとされる武芸の流派であった。
反身の刀を用い、主に女性が会得していることが多いという。
軽功と内功を操れる、ということはヒースの身軽さに加えて、フローラのような内功術も使えるということであろう。
「この言霊術ってのは、何なんだい?」
「言葉によって人を操る術よ。彼の声は特殊でね、聞く者を意のままに従わせる効果があるの。大陸広しといえども、これを習得しているのはほんの数人でしょう」
「おいおい、それってやばくねえか!」
恐ろしい敵とは聞いていたが、それは想像を絶する能力だ。
「大丈夫、予めそのことを知っていて、意志を強く持っていれば術にはまることはないわ。だけど、知らずに耳にしてしまった場合や、意志の力が弱い人間では抗いきれないでしょうね」
「それじゃあ、暗殺なんて容易ってわけか……」
想像しただけで、身の毛がよだつ思いだった。
「そうね。知らない内に近づいて『己の命を絶て』と囁かれたら、ひとたまりもないわ。まあ、そこまで近づいたら自ら手を下すでしょうけれど」
「こいつが、エブロって奴に近づいて謀反を唆したってことかい?」
「その可能性もあるでしょうね」
「一体何のために? 天使の後ろで誰か糸を引いているのか?」
謀反を起こさせ、混乱したところで街を乗っ取ろうということなのかもしれない、とヒースは想像した。
「いや、それは無いわね。『天使』を使うぐらいなら、もっとマシな手段を選ぶはずだもの。それにそもそもこいつは……」
ルカが眉根を寄せ、憎憎しげに呟く。
「この戦いの勝敗など、正直どうでもいいと思っているはずよ」
「はあ!? どういうことだよ、それ」
驚いて目を見開くヒースに、彼女は静かにため息をついた。
「この『天使』はね、人を戦わせるのが好きで仕方ないのよ。そうしてお互いに憎しみ、殺し合う人間たちの姿を高みの見物で楽しむの。そう、まるで人界の争乱を天上から見守る『天使』のようにね。それが通り名の由来」
ヒースは二の句が告げなかった。
「だからね、きっと私たちが援軍として登場したと聞いて欣喜雀躍したはずよ。何しろ、絶好の獲物を見つけたわけだから」
珍しく、苦い表情を浮かべる。
彼女のように「いかに味方の犠牲を少なくし、戦いに勝利するか」を常に念頭においているような者にとっては、本当に許しがたい存在なのだろう。
それはヒースにしても同様だった。
人の生死を遊戯にするなど言語道断だ。
この敵に対するルカの指示は至ってシンプルだった。
「とにかく逃げて距離を置きなさい」というだけだ。
まともに正対するのは死を意味するという。
「飛燕刀術の免許皆伝者よ。正直、私と貴方の二人がかりでも厳しいかもしれないわ。数で勝る時だけ戦いを挑むようにね」
続いてルカが数頁めくり、長い黒髪の美女のところで手を止めた。
「これが『悪霊』か。え、でもこいつは……」
彼女の頁にも他と同様に、似顔絵の横に説明が書かれていた。
だが、その氷のような美貌を描いた絵には、上から大きく線が引かれている。
説明には、「帝都で白銀の戦乙女・ルカに斬られ死亡」とあった。
「そう。もう三年も前にね、死んだはずなのよ、『悪霊』は」
この『悪霊』と呼ばれる魔女・サーシャは、かつては魔術師・魔女協会に属する一員だったのだという。
大陸全土でも魔術を操れる者はごく僅かだ。
能力の差こそあるものの、彼女たちは一般の人々からすれば畏敬と恐怖を集める存在といえる。
だが、同時に彼女たちの持つ力は、使いどころさえ誤らなければ非常に有用である。
歴代の皇帝は彼女らに庇護し、占星術や錬金術の開発を奨励してきた。
彼女らを『邪な者』と忌避する教会勢力と皇帝の間が険悪になることもあったようだが、いずれにしても彼女たちは協会を設立し、才能のある人材を大陸各所から集めて育成してきた。
「もっとも、私なんかは協会には属していなくてね。魔術も故郷の村に住んでいた魔女のお婆さんからの直伝なのよ」
「ふうん、で、この『悪霊』はその協会で育てられたってわけか」
「そう。私なんかとは違う、正真正銘の魔女よ。優れた才能を持ち、勉強熱心なので将来を嘱望されていたそうよ」
そんな彼女が悪の道に堕ちたのは、ある研究に目覚めたためであった。
それは、古の時代の魔女が編み出したという禁断の呪法なのだという。
「死者を蘇らせる術、死体を寄せ集めて人造の魔物を生み出す術、それに人の心と身体を蝕む『魔薬』の開発よ」
「魔薬、か……」
ルカの説明によれば、これらは大麻などの『麻薬』の効用をさらに強めた危険極まりない代物なのだという。
一度吸引しただけで、ごく普通の人間を死をも恐れぬ狂戦士に変貌させる物もあるという。
いずれも悪用されることを恐れ、百年以上昔に開発が禁止された物であった。
「その手の禁忌の術に関する書物は、帝国内でも厳重に保管されてきたの。しかしさすがは天才ね。書物に頼らず、自力で開発してしまったというわけよ」
魔術に関する知識はまるでないヒースであったが、ルカの口調から『悪霊』がいかに才に恵まれていたかは、容易に想像できた。
「協会は彼女を処罰しようとしたのだけど……手遅れだったわ。彼女は協会を出奔し、追っ手を振り払って野に下ったの。彼女の研究成果と共にね」
その後、彼女はさらに研究を進めた。
だが、術の開発には豊富な資金が必要となる。
その費用を、彼女は最も安直かつ非道な手段によって稼ぐようになった。
「裏社会の元締たちから、暗殺を請け負うようになったというわけかい」
「そう。彼女にとっては、資金を稼ぐと共に研究によって生み出したわが子――魔物たちの試用も兼ねた、一石二鳥の商売だったってわけよ」
しかし裏社会の元締たちも、やがて彼女を持て余すようになった。
何しろ彼女の操る魔物は、主の命にしか従わない。
彼女が気まぐれを起こし、自分たちにその矛先を向けてきたら――と考えるようになったのだ。
「それでね、結局は大陸各所で追われる身となったってわけ。で、三年前にたまたま帝都に潜伏していたという話があって、それを討つために私に白羽の矢が立ったというわけなのよ」
ルカは傭兵や侠客を集め、『悪霊』とその護衛の魔物たちと渡り合った。
多くの犠牲を払ったが、最後はルカが自ら頭と腹の二箇所を斬ったのだという。
「そのまま河に落ちて海まで流されていったので、死体は確認していなかったのよ。確実に仕留めた手応えはあったのだけど……」
ルカがかぶりを振った。
珍しく弱々しい口調なのは、己の甘さを痛感しているからなのかもしれない。
「恐らく『天使』も、彼女と私の因縁を知った上で声をかけたのでしょうね」
ルカは彼女に関して、
「魔術には魔術で対抗するしかないわ。だから私が戦う。貴方たちは護衛の魔物たちと戦ってね。大丈夫、対策は後でちゃんと伝えるから」
とだけ指示を下した。
さらにルカが数頁めくると、似顔絵ではなくただ文字で『西方羅刹』と記されている箇所に行き当たった。
紙の中央に記されたその禍々しい名の周りには、注意書きだけがつぶさに書き込まれている。
「顔は分からないのかい、こいつは」
「目撃した人間は、ほぼ洩れなく死んでいるってことよ」
ルカのその説明だけで、ヒースを恐れさせるには十分だった。
「貴方、『黒死會』のことは知っているわよね?」
「ルカ姐さん、いくら俺でもそれぐらいは知ってるぜ」
彼女の言う『黒死會』とは、大陸で最も巨大な暗殺組織の名称である。
その歴史は古く、起源は初代皇帝による大陸統一よりも遥か昔、まだ各国が互いの領土を奪い合っていた戦乱の時代まで遡るという。
実態は謎に包まれているが、魔術師・魔女協会と同様、幼児の中から特に才能に恵まれた者を一流の暗殺者として育て上げているのだとも言われていた。
もっともルカによれば、必ずしもそのような『生まれついての暗殺者』だけではなく、裏社会で優れた能力を持つ者がスカウトされる例もあるのだそうだ。
「ここだけの話だけど、フローラやレミーも誘われたことがあるそうよ」
「へえ、あの二人がねえ」
能力という点でいえば、確かに二人とも申し分ないであろう。
だが、二人がその申し出を断る姿は容易に想像できる。
生真面目なフローラは「私に暗殺者になれだと!」と激高しただろうし、レミーは「はっ、組織なんてめんどくせえ」と一笑に付したことであろう。
「まあその内、貴方もお誘いを受けるんじゃないの?」
「冗談はやめてくれよ、ルカ姐さん」
人を暗殺することを生業にするなど、まっぴらごめんであった。
もちろん盗人も法に触れる稼業であるが、奪うのが金か命かでは大違いだ。
「この『西方羅刹』はね、生まれた時からずっと黒死會で育てられた、エリート中のエリートなのよ」
幼い頃から才能を発揮し、十代前半の内に『仕事』を行うようになったという。
生来の特異な能力に加え、組織の過酷な訓練によって磨き抜かれた武芸の腕前は、
「正直言ってね、私たち六人が総がかりでも勝てるかどうか怪しいくらいよ」
「マジかよ……」
真顔で恐ろしいことを告げられてしまい、さすがに絶句した。
「じゃあ、こいつは黒死會の命で動いていると?」
「それが違うのよ。どういうわけか知らないけれど、数年前に黒死會を抜け出してしまったのよね」
ルカが眉をひそめる。
「え、そんな勝手な真似ができるのかい?」
「本来ならできるはずもないわ。暗殺者の組織だもの、一度入れば死ぬまで組織に尽くすことを強制されるわ。組織を抜けようとすれば、追っ手を差し向けられて消されるのがオチ……の、はずなんだけどね。この『西方羅刹』は組織の刺客を全て葬って、現在に至るってわけよ」
開いた口が塞がらなかった。
大陸の各地に根を張り、その気になれば皇宮にも魔手を伸ばせるという暗殺組織に追われながら、逆に返り討ちにする――そんな正真正銘の化け物が相手となるというのか。
だが、その不安を察したように、
「大丈夫よ。そういう難敵に勝つための作戦を考えるのが私の仕事でしょ?」
そう語るルカの普段と同じ穏やかな表情に、ヒースは幾分安堵した。
「私のこの頭を信じなさいな」
ルカが自分の頭を指差し、舌をちろりと出した。
彼女には珍しいお茶目な姿に、ヒースは緊張が少し解けるのを感じた。
「よう、ヒース坊や。ルカ嬢ちゃんと二人で何を話してたんだい?」
ルカと別れ、玄関を出たところで『疫病』ジェイコブが声をかけてきた。
「大した話じゃねえよ。それより、『坊や』は余計だぜ」
「はン、若いのに細かい野郎だね。さっきルカに言ったとおり、お前さんを戦力としては認めるよ。だけどよ、俺から見りゃあ坊やだってことにゃ変わらねえンだ」
「ふん、じゃあ俺もあんたのことをジェイコブ爺さんと呼ぶよ。『ボケ』とか『ヨボヨボ』とかは付けねえけどな」
「口の減らねえ坊やだな」
「爺さんに言われたくねえよ」
お互いに顔を見合わせて笑う。
災厄とも疫病とも呼ばれ忌み嫌われている男だが、こうして直に話をしてみると、その呼称が似つかわしくないようにも思える。
(何となくだけど、俺の師匠に似てるんだよな)
師匠とは、自分を貧民窟から連れ出し、盗みの技術と義賊としての心得を教えてくれた先代の『猟豹』のことだ。
師匠は頑固でおまけに口が悪かったが、サバサバとした性格であった。
ジェイコブとは先刻知り合ったばかりだが、顔立ちや言葉遣い、雰囲気に近いものを感じる。
「話ってなぁ、あれだろ? 『悪霊』や『西方羅刹』のことをよく知らねえンで、ルカお嬢ちゃんからレクチャーを受けてたンだろ?」
「……爺さん、いいかげんなこと言うなよ」
「へへっ、壁に耳ありってな。盗み聞きしてたンだよ、隣の部屋で」
「……最悪だな、爺さん……」
顔色を変えたところで、ジェイコブがさも愉快そうに笑った。
「くひひ、引っ掛かったなぁ坊や。あのルカお嬢ちゃん相手に、盗み聞きなンて真似するかよ。カマをかけたのさ。まあ、ここまで簡単に口を割るとは思わなかったけどよ。素直で可愛いじゃねえか」
「くっ……」
返す言葉もなかった。
彼が敵でなくて良かった、と割り切って考えるしかない。
「あの時、それとなく全員の様子を見てたンだけどよ。どうもお前さんだけ、反応が微妙におかしくてね。ははあ、この坊やはよく分かってねえンじゃねえかって思ったのよ」
ルカも同様に看破していたわけだが、それにしても見事な観察力だ。
いや、もしかしたら他にも勘づいていた者がいるのかもしれないが。
(どうも苦手なんだよな、こういう駆け引きって奴が)
すぐに顔に出るタイプなので、特に賭け事は苦手であった。
「まあ、そんなに気にするなって。若いうちは誰だってそんなもンさね。あのルカお嬢ちゃんだって、昔っからああだってわけじゃねえんだから」
「姐さんが? ホントかよ?」
にわかには信じがたい話であった。
勿論、彼女とて人の子だ。
だが、少なくとも今のヒースの年頃にはもっと落ち着いていただろうと思わずにはいられない。
「ああ、ホントだぜ。あれは……ん、いつ頃だったかな、よく覚えていねえが……南方で山賊どもが好き勝手暴れ回っていてよ、国が討伐隊を組んだ時だな。俺のいた傭兵団もそれに参加したんだが……」
ジェイコブの話では、ルカはふらりと傭兵団の駐留地にやって来たのだという。
「顔立ちも体つきもまだ幼くてな、戦乙女なんて通り名も無い頃だから、物売りにでも来たのかと思ったもンさ」
彼女は傭兵団長への目通りを願い出ると、戦地への帯同を申し出た。
「俺もその時は団長の傍にいたんだが、てっきり軍付きの娼婦になりてえのかと勘違いしたもンさ。ところがどっこい、売り物はてめえの才能だったってわけさ」
彼女は今と変わらぬ堂々とした態度で、
「自分は魔術が使えて、兵法も心得ている。戦地の周辺を旅して地理や村の情勢にも詳しい。算術も得意だから、兵糧の管理や行軍速度の計算だってできる。身を守る程度の剣術は会得しているから、心配無用。一番安い賃金で構わないから、是非雇ってくれってね。いや、鮮やかな弁舌だったね、ありゃあ」
居合わせた一同は、その美少女の願いに一様に言葉をなくしたが、
「団長がな、こんなむさ苦しい傭兵団に可愛らしい参謀がいるなんてのも面白い、って言ってな、帯同を許可したわけさ」
「そりゃ……何というか、凄い話だな。姐さんらしいって気もするけど」
「まあな。ところがよ、このちみっこいルカお嬢ちゃんが、とんでもねえ奴だったってわけさ。語ったらキリがねえが、山賊どもの仕掛けた罠も奇襲も待ち伏せもルカお嬢ちゃんには全てお見通しでな。それがあまりに神がかってるんで、誰かが言い出したんだよ。この女の子は、戦神の遣わした戦乙女じゃねえかってよ」
「それが姐さんの通り名の由来ってわけか」
「そういうことさ。まあ、後はお前さんも知っての通りの話よ」
「って、おいおい爺さん、さっき『姐さんも昔からああじゃなかった』って言ってたけど、全然違うじゃねえかよ! 昔っから凄かったって話じゃんか!」
「……ああ、うん、そっか。いや、そうじゃねえんだよ、俺が言いたかったのは。その戦いで、いよいよ山賊どもの本隊と決戦っていう前の晩なんだが……」
連勝の勢いに乗った傭兵たちの士気も高く、決戦時の陣容も万全であった。
軍議を終え、ジェイコブが各営舎の様子を見回っていると、
「ルカお嬢ちゃんがよ、一人でポツンと岩の上に腰掛けて空をボーッと眺めてたんだよ。で、まあ何となく声をかけてみたんだがな」
その時――彼女は、身を震わせていたという。
「あの姐さんが、かい?」
「ああ、信じられねえかもしれねえがな。怖い、って言っていたよ。ここまで順調に勝ち進んでこられた、だけど明日の戦いにもし敗れたら、それも全て引っ繰り返されてしまう、何か見落としていることはないか、山賊たちに何か策があるんじゃないか、本当に勝てるのか、それを考え始めたら震えが止まらなくなったってね」
彼女ほどの者でも、全てを見通しているわけではない。
だから迷い、悩むということなのだろう。
確かに、今ヒースの知っている彼女からは窺えない一面だった。
「……爺さんは何て答えたんだい?」
「ん? ああ、こう言ってやったのさ。なあに、そんなこと考えたらキリがねえ。勝敗なンて、最後は運だってね。それに、戦いは生ものなンだ。頭ン中で考えた通りに進むもンじゃねえンだよってね」
いかにも歴戦の強者らしい考え方だった。
単純な発想と切り捨ててしまえばそれまでだが、多くの経験に裏打ちされているだけに深いものがある。
「で、まあ当然だが、決戦はお嬢ちゃんの心配したような展開にはならなくてな、大勝利に終わったってわけよ。それからよ、何だかわからねえがお嬢ちゃんが俺に懐いちまってな。しばらくの間、一緒に旅するわけになったのよ」
(姐さんからしたら、きっと爺さんから学べることがあると思ったわけだな)
自分に足りない物――経験を、この老傭兵は持っている。
そう考えたからこそ、彼を師として多くのことを吸収しようとしたのだろう。
「ま、そういうわけでな。お嬢ちゃんだって、昔は可愛らしいところがあったってわけよ。おっと坊や、この話は内緒だぜ?」
「勿論だよ、爺さん。しかしなるほどね、どうして姐さんがあんたに声をかけたのか、よく分かったよ」
苦しい情勢だからこそ、自分がまだ未熟だった頃からの付き合いであるジェイコブを頼りにしたのだろう。
「へへっ、あの『戦乙女』に呼ばれたのは嬉しいがね。それにしても『天使』だの『悪霊』だのとおっかねえ連中が相手だ。爺には荷が重い。よろしく頼むぜ、坊や」
(七章 悪霊と死神 に続く)