十二章 天使
十二章 天使
『天使』は退屈していた。
物心ついた時から、彼は自分の才能に気づいていた。
母に命じられて習うことになった飛燕刀術も、すぐに同門の連中を引き離すほど上達し、気がつけば免許皆伝にまでなっていた。
毎日、地道に鍛錬をしながら彼よりも力量に劣る姉・ラフィを見下していた。
いや、はっきり言えば自分以外の全ての者を、彼は侮蔑しながら生きてきた。
刺激を求めて、妖かしの里を出奔した。
だが、最初の内は楽しかった外の世界にも、やがて彼は退屈した。
つまらない。面白くない。
ただ、人と人が血眼になって命を奪い合っている『戦い』を眺めていることだけは楽しむことができた。
それが唯一の愉悦だった。
(はは、また何か企んでいるね)
必死の形相で『猟豹』たちが屋敷に逃げていくのを、せせら笑いながら見送った。
姉がまたしゃしゃり出てきて、彼の前に立ちはだかる。
「必死になっちゃって、可愛いね、お姉さまは」
なぜ他人のためにそこまで命を張ることができるのか、全く理解できない。
屋敷の中に誘い込もうという魂胆は見え見えだ。
あの『戦乙女』なら、きっと罠を用意しているに違いない。
面白い。
乗ってみようではないか。
その罠を潰し、絶望の表情を浮かべた連中を、一人ひとり斬り刻む。
その暝い欲望に、『天使』は顔を歪ませた。
もうこの街も、この戦いも飽きた。
そろそろ、幕を閉じるとしよう。
姉が肩で息をしていた。
じりじりと後退し、吸い込まれるように扉の後ろに消えていった。
さて、どんな罠を用意しているのだろうか。
残る敵は五人。
どうやら屋敷の外に元締の手の者がいるようだが、物の数ではなかった。
自分にとっては無価値な存在だ。
だが、せっかくだから後で殺しておこう。
期待に胸躍らせつつ、屋敷に足を踏み入れた。
天井の高い、白い壁のホール。
人の姿は見えない。
右手の部屋から、数名の息遣いが聞こえてくる。
迷うことなく、そちらの扉を開けた。
一対五でも、負ける気はしない。
本気を出せば、自分に敵う相手などこの世に存在しないのだ。
そこは応接間のようだったが、どうやら客をもてなすつもりは毛頭ないらしい。
タンスやテーブルなどの調度品が、乱雑に並べられていた。
何のためにあるのか分からない、薄汚い木箱も積まれてある。
「ははっ、これを盾にしようってつもりなの?」
相手のあまりに不細工な策に、思わず苦笑を浮かべてしまった。
このような足場の悪い環境であれば、彼の習得した華麗な飛燕刀術も発揮できないと考えたのだろう。
しかしそのような小狡い考えは、悪いが自分には通用しない。
天才の業は、小人には及びもつかないものなのだ。
それを今、嫌というほど思い知らせてやろう。
部屋に足を踏み入れる。
どうやら先程聞こえた声の主たちは、それぞれが部屋の隅にいるらしい。
『天使』が部屋の中心に来たところで、囲んで一斉に襲うつもりなのか。
いずれにせよ、浅はかな考えだ。
それにしても、わざわざこのような狭い場所に誘い込もうとは。
歯ごたえがありそうなのは姉と双棍鬼だけだが、二人とも長得物の使い手だ。
その長所が活かせない屋内を、戦場に選ぶとは何と愚かな作戦だろうか。
策を授けたのはすでに死んだ『戦乙女』であろう。
世間はどうやら彼女を、過大評価していたようだ。
「……お粗末だなあ。ガッカリだよ」
深くため息をつき、部屋の中心に歩を進める。
足元に、白い木棺が二つ並べられていた。
「今は亡き二人の前で、憎いボクを討つっていうの? 陳腐な演出だなあ」
挑発しても、連中は動き出さない。
一体何を考えているのか。
いや、どうせ大したことではないのだろうが。
屋敷の外から、誰かの号令らしき声が聞こえてきた。
ようやく策が発動したということだろうか。
すぐに、煙の匂いが漂ってきた。
どうやら屋敷の周辺に火を放ったらしい。
「あは、全員で焼身自殺でも図るつもり?」
実力では敵わないとみて、なるべく混沌とした状況に持ち込もうというのか。
あいにくだが、その程度で埋められる実力差ではない。
油でも撒いたのか、炎はすぐに勢いを増したようだ。
それにしても、部屋の隅に隠れている連中は動き出そうともしない。
気配はある。
そこにいることは確実だ。
まさか、屋敷が燃え尽きる瞬間まで待とうというわけではないだろう。
だんだん、面倒くさくなってきた。
さっさと片付けてしまおう。
せっかく罠に飛び込んであげたというのに、この連中には戦う気がないらしい。
そう思った次の瞬間、『天使』が入ってきた扉から双棍鬼が飛び込んできた。
何と手には、中途半端に折った角材を持っている。
(それでポカポカ叩こうっていうの? バカにしてるなあ)
いくら屋内で鉄棍が使いづらいからといって、この期に及んで角材とは。
まるでチンピラの喧嘩だ。
そんなものは、自分は求めていない。
憐れむような気持ちで、反身の刀をだらりと下げたまま迎え撃った。
そして予想通り、双棍鬼に合わせて隠れていた刺客が姿を現した。
最初は毒刀の男。
身体を目一杯伸ばし、双手突きを見舞ってくる。
軽く体をかわし、毒刀を弾いた。
一撃必殺の武器であるが、その程度の技量では、この身体には掠めることすら叶わない。
弾くと同時に前蹴りを腹に入れる。
『毒蛇』の身体が後方に飛び、苦しげに呻いた。
続けて、黒髪の女。
戴天踏地流剣術と内功を武器としているが、いずれも恐れるほどの力量ではない。
勢いよく踏み込んで、細剣で突きを放ってきたが、これは少し後ろに退くだけで間合いを外せた。
古の『剣聖天女』が編み出した剣術も、これでは開祖の名が泣くというものだ。
相手の剣先を弾き、崩刀・払刀と入れるだけで十分だった。
肩口を斬られ、『墓場鳥』は小さく悲鳴をあげて後退する。
背後に、強い気配。
予想通り、それは姉だった。
この女はいつもそうだ。
姑息に相手の背後をとることばかりで、真正面から挑もうとしない。
だが、この乱雑に調度品が並べられた空間で、そのような大仰な得物を使うとは。
何を考えているのか全く理解できない。
例によって豪快に振り下ろされた大鎌だが、この得物の間合いはもう見切っている。
何度も同じ攻撃は通用しない。
着地する手前を狙い、足元を刀で払った。
姉は咄嗟に反応して回避したが、体勢を崩し背中から倒れたタンスの上に落ちた。
ぶざまとしか言いようがない。
残るは『双棍鬼』と『猟豹』。
この二人に関しては、もはや呆れ返ってしまう。
叫び声をあげながら、ただ無闇に突っ込んできただけだ。
二人同時の攻撃なら、かわしきれないとでも思ったのだろうか。
鬼の振り回す角材は攻防一体の崩刀で弾き飛ばし、小剣を手に迫る猟豹は華麗な転身鵬尾脚で壁に叩きつけた。
「……え? これでもう終わりなの?」
部屋を見回すと、彼らは一様に鋭い目線を向けながら身構える。
煙が、扉の隙間から部屋に入ってきた。
先程の戦いで、埃が室内に舞い上がっていた。
この屋敷の主は、ろくに掃除もさせていないのか。
いや、きっと調度品やら何やらを準備していて、絨毯に埃が落ちたのだろう。
いずれにせよ、どうせ焼け落ちる運命の屋敷なのだから、どれほど汚れても構わなかったわけだが。
立ち昇ってきた煙と埃で、思わず咳き込みそうになる。
まさか、これを狙っていたわけでもないだろう。
条件はお互い様なのだから、意味があるとは到底思えない。
「どうしたの? かかってきなよ? それとも、たった一人のボクがそんなに恐ろしいのかい?」
その挑発に呼応するかのように、『天使』を取り囲む五人が一斉に声をあげた。
それはまさに雄叫びだった。
普段は小声の姉までが、喉も枯れんばかりに声を張り上げている。
耳障りでならない。
視界も煙と埃で悪くなっている。
焼ける木材・壁の匂いが不快だ。
しかも奴らは、ただ声を出すだけで、ちっともかかってこようとしない。
「うるさいっ!」
あまりにイライラさせられて、思わずこちらも叫んでしまった。
予想もつかない場所から――。
想像もしていなかった音が聞こえたのは、次の瞬間だった。
「……なに……?」
自分の身に一体何が起きたのか、『天使』は理解できていないようだった。
奴の足元に置かれていた木棺の蓋から、鋭い刃が突き出されていた。
その刃先が、『天使』の背に深々と刺さっている。
腹までは貫通していないものの、内臓まで達しているであろう一撃だ。
『天使』が驚愕の表情を浮かべて、ゆっくりと振り返った。
木棺の蓋が開く。
そこには、『白銀の戦乙女』ルカ・マイヤーズの姿があった。
「……お、お前、は……」
目を見開き、口をパクパクと開閉させる『天使』。
ゴドーとラフィが同時に動く。
ラフィが大鎌を振るい、『天使』を胴から薙ぎ払おうとした。
背を刺されたままの『天使』であったが、魂切るような叫びをあげながら前方に跳び、その一撃は避けた。
ルカの鮮血に染まった仕込み杖が背から抜け、床に落ちる。
駆け寄ったゴドーが、ルカを抱きかかえて木棺から救い出す。
「ありがとう、みんな。本当によくやってくれたわ」
ねぎらうルカの顔はやつれていたが、明るい声だったのでヒースは安心した。
「もう終わりだぜ、糞野郎。俺の毒はどうだい? 五臓六腑に染み渡るだろ?」
レミーが不敵に笑った。
ルカの仕込み杖には、予め彼の用意した猛毒がたっぷりと塗られてあったのだ。
「……お前、お前は死んだって……何で……」
刀をわなわなと震わせながら問うその姿は、もはや『天使』ではなかった。
「あら失礼ね。死んでなんかいないわよ。貴方が勝手にそう思っただけでしょう?」
ルカが眉根を寄せ、心外そうな表情を浮かべる。
「ああ、それなら俺が言ったんだっけな、死んだって」
ゴドーがルカを抱きかかえたままとぼけた顔で呟くと、彼女は愉快そうに笑った。
「あはは、敵の話を真に受けるって、どうしようもない世間知らずの坊やね。私はね、『悪霊』の呪法をちゃんと解いていたのよ。死にかけたのは事実だけど」
「……だ、騙した、のか……きた、ない、やつ、め…」
もはや『天使』の顔は、深い紫色に変じていた。
全身を激しく震わせ、血泡を吐き続けている。
すでに刀は手にしていなかった。
「おあいにくさま。騙す、騙されるは戦いの常。戦いに綺麗も汚いもないのよ。ただ勝者と敗者があるのみ。貴方はね、負けたのよ、私たちに」
そのルカの言葉にも、『天使』はゆっくりと首を振っていた。
己の敗北を受け入れることも、己の死を避けられぬことも拒んだまま、『天使』は死を迎えた。
(終章 に続く)