九章 西方羅刹
九章 西方羅刹
(残り三分ってところか)
元締の屋敷が徐々に迫ってきた。
あくまでも戦力を減らすことなく、つまり誰かを犠牲にすることなく勝利する、というのがルカの方針だ。
自分がここで死ぬわけにはいかない。
ヒースは屋根から石畳の上に飛び降り、速度を上げた。
もちろん、最後の力を振り絞ってではない。
屋敷に着いたら全てが終わる、というわけではないのだ。
余力は残しておかなければならない。
『天使』との距離は開かなかった。
スタスタと、着実に背後に迫ってくる。
だが、もう屋敷は目前であった。
前方で金属音が響き渡っている。
すでに戦いは始まっていたようだ。
ルカの戦い方の基本は、「必ず数的優位を作る」ことだった。
もちろんルカたちは全員が揃えば七人、対する敵は『西方羅刹』を加えても四名であるから、すでに数だけなら勝っている。
だがそれは、彼女に言わせれば「当たり前のこと」なのだそうだ。
むしろ、
「七対四でも混戦になれば、その優位を活かすことができないわ。そこからいかに四対一、三対一の状況を作るかが肝心なの」
『悪霊』たちは二人で、ルカたち三人を追った。
こちらが一人多いとはいえ、それだけでは決定的な差ではない。
ヒースが『天使』を引きつけ、フローラたちが合流することで六対二、という圧倒的な優位を作り出す。
これによって、確実に『人形』を仕留め、『悪霊』の動向次第では彼女も屠ってしまおうという算段だった。
戦いは屋敷の庭で行われていた。
『人形』をゴドーたちが五人がかりで囲んでいる。
『悪霊』とルカは、そこから離れた位置にいた。
仕込み杖を構えたルカと、鋭利なナイフを抜いた『悪霊』は、睨み合ったまま互いに呪文の詠唱をしていた。
純粋な魔術の戦いで勝てる相手ではない、とルカは言っていた。
だから今回も、あくまでも防御に徹しているのだろう。
仲間たちが『人形』を葬ることを信じて。
「戻ったぜ!」
ヒースが叫ぶと同時に、『人形』に対峙していたラフィが大鎌を肩に担ぐように構えたまま、まるで放たれた矢のように一直線に突き進んできた。
もちろんその狙いは、ヒースの背後にいる彼女の弟だ。
「ご苦労。後はわらわに任せよ」
すれ違いざまに、ラフィが耳元で囁いた。
言葉短かであったが、その言には労いの意が充分に込められていた。
「はっは、やるじゃないか坊や。あの化け物相手にようやったわい」
ジェイコブが矛槍を振るいながら、心の底から感心したように声をかける。
「ありがとよ、爺さん。でもよ、本番はこれからだぜ!」
標的の『人形』は、確かにヒースも含めた五人で取り囲んでいる。
だが、出撃前に打ち合わせたように、得物が通用するのはゴドーだけだ。
ヒースの使う小剣や手裏剣、石つぶてなどでは傷もつけられない。
だから他の四人は、とにかくこの荒れ狂う『人形』の凶刃を避けつつ、ゴドーが鉄棍の一撃を浴びせる隙を作り出すのが役割だった。
しかし、疲れ知らずの『人形』は手強い。
一振りで人の胴体を輪切りどころか、脳天から縦に真っ二つにできるような巨大な斬馬刀を、縦横無尽に振るってくる。
しかも、己の身体が傷つくことなど一切恐れない。
だから踏み込みが人間よりも遥かに鋭く、油断すれば一撃であの世逝きだ。
どうしても遠巻きに囲まざるを得ない。
だが、それではラチが開かない。
疲れが生じるこちらが不利になってしまう。
そこで――。
「行くぞ!」
フローラの号令で、一斉に『悪霊』を狙う。
もちろんヒースもその中の一人だ。
『天使』はラフィが、『人形』はゴドーがそれぞれ守備に徹して抑えている。
いかに天才と呼ばれた魔女であっても、ルカを含む五人を一人で相手することは不可能だ。
「あの『人形』の行動で、常に最優先なのは主人の命。そこを突くのよ」
絶対的な主従関係。
決して裏切らない下僕。
客観的に観れば、人間同士のそれよりも、遥かに強固なものであろう。
だが、その『絶対』も、敵に利用されれば致命的な欠陥となるのだ。
『人形』は反射的に、主人に迫る敵を追い払おうと動き出した。
それは結果として、唯一彼に致命的な打撃を与えることのできる敵、ゴドーに背を向けることになった。
この一瞬の隙を見逃す双棍鬼ではない。
豪腕が唸り、鉄棍を『人形』の右腕に振り下ろす。
槌を岩石に叩きつけたような音が響き、『人形』の腕が粉砕された。
『人形』が振り向き、左腕一本で斬馬刀を振るおうとしたが、一呼吸遅れて繰り出されたもう一つの鉄棍がそれを阻んだ。
間髪入れず、ゴドーが右の鉄棍を脳天に目がけて叩き込む。
頭部を構築していた硬質の物体が四散し、透明な液体が噴水のように溢れ出た。
ゴドーは油断することなく、怒涛の勢いで両腕に握り締めた鉄棍を交互に打ち下ろす。
それはまさに、解体作業とでも呼ぶべきものであった。
『人形』が膝を折った。
命なき忠実な『悪霊』の下僕は、己の身体が崩されていくのをなす術もないまま受け入れていた。
胸部が砕かれ、手の平にすっぽり収まるほどの大きさの琥珀色の球が転げ落ちる。
これが『人形』を動かしていた『命珠』であろう。
芝生の上に落ちたその不気味な球を、鉄棍が躊躇いなく砕いた。
『人形』の巨体が、操り糸が切れたかのようにその場に崩れ伏す。
眼前に残る敵は、あと二人。
こちらは無傷のまま、七人が残っている。
「勝てる」とヒースは確信した。
ここまでは全て、ルカの思い描いた通りの理想的な展開だった。
だが――。
『人形』の最期を見届け、次の標的である『悪霊』に目を向けた瞬間、ヒースはわが目を疑った。
対峙していたルカが、芝生の上に膝を折っていた。
「お姉さまっ!」
フローラの悲痛な叫び。皆がルカの元に駆け寄る。
遅れて駆け寄ったジェイコブに、ルカが震える手で懐から麻袋を渡す。
ジェイコブは冷静に、次の己の役割を果たすために戦場から一時離脱した。
ルカの顔は蒼白に変じていた。
息が荒い。
口の端と鼻、そして眼の縁から鮮血が一筋ずつ流れ出ていた。
「くくくっ……三流魔女が私に挑むなんてね、思いあがりも甚だしいわ」
十メートルほど離れた場所で、『悪霊』がさも愉快そうに嘲笑を浴びせてくる。
歯噛みしたが、このような時こそ冷静でなければならない。
それが、他ならぬルカの教えだ。
「どう、ルカ。私の呪いをまともに受けた感想は?」
呪い――ヒースの背筋を冷たいものが伝った。
魔女の術の中でも、最も一般に知られているのがこの『呪い』だ。
ルカによれば、時間をかけて対象を少しずつ衰弱させるものと、その場ですぐに呪い殺すものがあるという。
ルカが餌食になったのは、もちろん後者だ。
だが、
「だい、じょう……ぶ、よ……。それ、よりも、奴を……」
ルカがフローラの手をとり、気丈にも口元に笑みを浮かべる。
怒りを露わにした表情で、『悪霊』に向かうレミーをヒースも追った。
ルカの立てた作戦は、決して楽観的な予測に満ちたものではない。
常に現実を踏まえた上で、可能性のある展開全てを予見し、対策を提示していた。
ルカが戦闘不能に陥る、という最悪に近い状況も想定内であった。
血走った眼で迫るレミーとヒースを、『悪霊』がせせら笑う。
レミーが小声で呟いた。
「いくぜ、ヒース」
ヒースは無言のまま頷く。
魔女の操る術は、場合によっては一瞬で複数名の命を奪うこともできる危険なものだ。
同じ魔女であるルカの援護がなければ、全滅しかねない。
しかし、効果を及ぼす範囲には限界がある。
詠唱にかかる時間が短ければ、その範囲も狭まると、ルカには教わっていた。
だから、決して魔女には近づかない。
レミーの刀が届くような距離では、たった一言で死に至らしめるような術を繰り出されるからだ。
レミーとヒースが猛り狂っている様は、全て演技であった。
強風はすっかり止んでいた。
後ろから、フローラの軽快な足音が聞こえてくる。
ルカの身柄はゴドーに預けてあった。
彼であれば、本当に万が一ヒースたちが倒れた時にも、彼女を抱えてこの場から逃げられるはずだ。
最悪の事態も、常に頭の中には入っている。
これは死と隣り合わせの戦いなのだから。
指揮をとるルカが倒されたことで、逆上して迫る若い三人――『悪霊』にしてみれば、自分たちは絶好の獲物であろう。
「餌はね、美味しそうにしてないと駄目よ。逆にいかにも美味しそうなものが自分の前にぶら下げられていたら、それは餌じゃないかと一度は疑わないとね」
憎いルカを倒し、悦に入っている『悪霊』は常よりも判断が鈍っている可能性が高い。
そこに、ヒースたちがつけ入る隙も生じてくる。
好機はじっと座って待つものではなく、自分で動いて生み出すものだ。
ぎりぎり危険と思われる距離まで近づき、手裏剣を放つ。
『悪霊』の眼前で、見えない壁に阻まれたように、虚しく手裏剣は地に落ちた。
予想通り、彼女は周囲に不可視の壁を築いて、防護を固めている。
また、優れた魔女は、魔力を込められた物品が近づけばそれを感知できるという。
仮にヒースの懐にそのような物があれば、『悪霊』はすぐに気がつくだろう。
『悪霊』が侮蔑に満ちた表情を浮かべているのは、そのような特殊な武器を用意せずに襲い掛かろうとするヒースたちの愚かさを笑っているのだ。
フローラが地を蹴り、間合いに飛び込もうとする。
『悪霊』はそれを鼻で笑った。
壁に弾かれ、フローラが背中から芝生に落ちる。
「死ね、小娘が。その二つ名の通り、墓場で存分に啼くがよいわ」
邪悪な喜びに顔を歪めた『悪霊』が、幽鬼のように細く青白い右手を掲げた。
その瞬間――。
矢が、放たれた。
ジェイコブは物陰に潜み、この好機をじっと忍耐強く待ち構えていた。
ボウガンから放たれた矢が、一直線に『悪霊』の身体に突き進む。
そして矢は、不可視の壁を貫通し、邪悪な魔女の胸を深々ととらえていた。
『悪霊』が絶叫した。
何が起きたのかすら、彼女は理解できなかっただろう。
魔術を操れる者は、ルカただ一人。
剣や手裏剣など、通常の武器は彼女が作り出した不可視の壁には通用しない。
ルカがあらかじめ魔力を込めた武器を渡したとしても、それが近づけば『悪霊』はすぐに感知し、対応を変えてくる。
それを打ち破るためにルカが編み出した秘策が、『魔力を込めた武器による遠距離射撃』だった。
先程ジェイコブに手渡した麻袋の中には、魔力を込めた矢が入っていたのだ。
ギリギリまでルカが所持していたのも、『悪霊』に察知されないためであった。
劣勢を装い、敵を一時だけ勝利の美酒に酔わせ、間隙を突く。
犠牲を最少に抑えるための、ルカならではの戦い方だった。
『悪霊』はすでに絶命していた。
残るは、もはや『天使』のみだ。
(いや、『西方羅刹』もか)
まだこの見えざる敵は、街に姿を現していない。
その前に『天使』まで討ち取ることができれば最上の結果となるだろう。
目を移せば、ラフィと『天使』の姉弟の戦いは、なお続いていた。
自分一人で仕留めようとするな、というルカの指示を彼女は忠実に守っている。
決して踏み込もうとはせず、それでいて『天使』に逃げる余裕も与えない、そういう戦いぶりだ。
一同はルカを取り囲んだ。
ラフィの力量を信じ、隠れていたジェイコブが戻るまで待つ。
そして到着次第、全員で『天使』を討つのだ。
時と状況が許す限り、少しでも勝つ確率を上げるのは鉄則だ。
ルカはまだ身体を起こせないまま、息を荒げていた。
フローラが白い手拭で顔の血を拭う。
ルカは桜色の唇をわずかに震わせつつ、詠唱を続けていた。
「己にかけられた呪いを解く術、だそうだ」
「大丈夫、なんだよな、もちろん……」
ゴドーが低く呟くと、レミーが少し焦った口調で問う。
ルカを欠いた状態でも、もちろん『天使』はここで仕留めるつもりだ。
そのための作戦も決まっている。
しかし今は、ルカの回復を信じてジェイコブを待つだけだ。
「おう、待たせたな。ルカの様子はどうだえ?」
ジェイコブの声だ。
顔を上げると、ボウガンを肩に担ぐようにして、小走りにこちらに向かっている。
今夜は長い戦いが続いているが、とても老齢とは思えないタフさであった。
「……何だ……?」
レミーが呟いた。
ヒースもその『違和感』を、ほぼ同時に感じとっていた。
何かが違う。
何かがおかしい。
理屈でも五感ではなく、心の内にいるもう一つの感覚が鋭敏にそれを捉えていた。
「ジェイコブ!」
ゴドーが老傭兵の名を叫んだ。
次の瞬間には、『違和感』がはっきりとした恐怖に変わっていた。
奇しくもジェイコブの通り名でもある、『災厄』。
それが、すぐ間近に急速に迫っていることを感じた。
背筋が凍った。
周辺の空気が変わる。
誰かが息を呑み込んだ。
庭の木々が激しく揺れた。
どこかでカラスの鳴く声が聞こえた。
ジェイコブの真後ろに、忽然と黒い影が出現していた。
影が地を蹴り、跳躍した。
子どもがスキップをするかのような、軽い足取りだ。
だが、その跳躍力はヒースの想像を遥かに越えている。
背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま、その影が舞い降りたのはジェイコブの文字通り頭上であった。
老傭兵の表情が固まり、まるで金縛りにかかったかのように動かなくなる。
ジェイコブの頭を踏み台にして、その影は立っていた。
まるで小鳥が宿木に止まるかのような姿だ。
身体の軸は少しもぶれることなく、直立している。
尋常ならざる平衡感覚であった。
その影は、フードのついた黒いローブを纏っていた。
気どった仕草で、影がフードを外す。
紅蓮の炎を連想させる長い髪。
紅玉の瞳が、静かにヒースたちを見つめている。
血の色をした形の良い唇が開いた。
「お初にお目にかかります。『西方羅刹』、遅ればせながら参上仕りました」
品の良い紳士のような物腰で、すっと頭を下げる。
天から美貌と才を与えられたこの青年が、悪名高き『西方羅刹』であった。
「ジェイコブ!」
この恐るべき敵が醸す超然とした空気に、その場に居合わせた全員が呑まれていた。
いち早く我に返ったゴドーが、再び老傭兵の名を叫ぶ。
「これは気づきませんでした。貴方が『疫病』ジェイコブさんでしたか」
ジェイコブの表情は強張り、全身が小刻みに震えていた。
『西方羅刹』が両手をすっと横に広げる。
次の瞬間、ジェイコブの身体が崩れた。
槌に上から叩かれた釘のように、真下に沈む。
両膝があらぬ方向に曲がっていた。
全身を襲った強い衝撃で、ジェイコブの目は見開かれたままになっている。
「ジェイコブ爺さん!」
ヒースの悲痛な声も、もはや老傭兵の耳には届いていなかったかもしれない。
口の端から血を含んだ泡が流れ出ている。
耳からも大量の血が噴いていた。
「内功だ……。それも、桁外れの……」
フローラの声が震えていた。
「動くな! もう助からん!」
ゴドーの怒声に、斬りかかろうと構えていたレミーが踏み止まった。
怒りと憎悪、そして己に対する歯痒さからか、ぎりぎりと奥歯を噛み締めている。
ヒースの心中も同様に荒れ狂っていた。
人外の業としか思えぬ『西方羅刹』の武威、それに対する恐怖以上に、仲間を眼前で無惨に殺された怒りが、理性の鎖を外そうと暴れ回っていた。
(爺さん……ジェイコブ爺さん……!)
「いやあ、意外に早いご到着だね、『西方羅刹』さん」
『天使』が、まるで戦闘中とは思えない口調で語りかける。
「はは、なかなか面白そうな相手が揃っていると聞きましてね。私も退屈していたところでしたから」
対する『西方羅刹』も、余裕の表情で答える。
ジェイコブを倒したことなど、まるで小枝を折り取ったくらいの感覚なのか。
(ふざけるな! くそっ、くそっ……!)
短い間だが、共に死線を戦った仲間だ。
まだ若いヒースの青臭さと弱さを、「ルカにもそういう時があった」と励ましてくれた人だった。
「堪えろ、いいな……堪えるんだ!」
ゴドーが念を押すように何度も呟く。
本当は、彼自身が最も激しい怒りに駆られているのだろう。全身を震わせていた。
だが、ルカは事前にこう皆に告げていた。
「この敵だけは、情報が少なすぎるわ。もし不意をつかれるようなことがあったら、とにかく戦闘は避けるのよ。いいわね」
来なければよし、来たならば全ての作戦を中止する、ということだ。
この怪物に向こう見ずに戦いを挑めば、確実に死ぬことになる。
強い気持ちがあれば勝てる、などというのは都合の良すぎる幻想だ。
何よりこちらは連戦で疲労が蓄積している。
しかも自分たちは、半死半生のルカを抱えていた。
「……あれ、来ないのですか皆さん。お仲間が虫けらのように殺されたというのに」
その心を見抜くように、『西方羅刹』が小首を傾げる。
ヒースは唇を血がにじむほど噛み締めた。
「何だか拍子抜けですね、ガッカリしました。義侠の徒などと名乗りながら、仲間の仇も討とうとしないとは」
これは挑発だ。
頭の中では理解できている。
今ここで激情に身を任せて攻撃すれば、どれだけその瞬間は気が楽になるだろう。
だが、それではジェイコブの仇を討つことは叶わない。
ただ死体が増えるだけだ。
そしてその死は、残された仲間をさらに窮地に追い込むことになる。
「まあまあ、あんまり弱い者苛めをしないでくださいよ。頼みの綱の戦乙女があのザマですからね、フフフ。このままじゃ面白くないよね、お姉さまも?」
「わらわの戦友を愚弄するのは許さぬ……」
「何だかなあ、天下に名を馳せる『死神』も人の子ってこと? つまらないなあ」
心の底から落胆したという口ぶりで『天使』が言い放ち、後方に跳んだ。
「今夜は帰るとするよ。せっかくこれだけの面々が集まったのに、闘気が弱すぎじゃないか。あーあー、ホントにガッカリだよ」
まるで玩具を取り上げられた子どものようだ。
『西方羅刹』が高らかに笑う。
「全く酔狂な人ですね、『天使』さんは。しかしその言い分もごもっとも。良い奏者を集めても、指揮者が不在では楽しい演奏会にはなりません」
「そうそう。うーん、そうだね、もう夜明けも近いから……今夜、いや、明日の夜、また出直すからね、それまでに身体を治すように戦乙女に伝えといてよ」
ひらひらと手を振り、『天使』が跳躍した。
屋敷の高い塀を足場にすると、そこからトントンと、風のように消えていく。
その『天使』の背を目で追っていた『西方羅刹』が肩をすくめる。
悠々とした足取りで庭を横切り、そのまま門から出て行こうとした。
その刹那――
『死神』ラフィが動いた。
地を這う獣のように低い、地面すれすれの姿勢で一直線に『西方羅刹』の足元に飛び込む。
そのまま、手にした大鎌で右足を刈ろうとした。
『西方羅刹』が跳躍し、不意打ちをかわす。
だが、その動きを予見していたラフィも、同時に地を蹴っていた。
「やったっ!」
ヒースは思わず拳を握り、歓声をあげてしまった。
大鎌の一撃が、『西方羅刹』の腹部を横薙ぎにしていた。
胴を両断、とまではいかないが恐らく刃は内臓まで達していただろう。
噴き出した血しぶきが、わずかに白みかけた空に舞う。
だが、致命的な一撃を負いながらも、『西方羅刹』はバランスを崩すことなく軽やかに着地した。
そして、ラフィの次なる攻撃を回避するため、後方に大きく跳んで距離を置く。
「……おぬし、よもや!」
感情を抑えがちなラフィの声が、わずかに震えていた。
「いやあ、驚きましたね。しかし、さすがは『死神』といったところですか。まあ残念ながら、この程度では私は死なないのですが」
常人ならば大量出血と衝撃で気を失うか死んでいることだろう。
だが、この怪物的能力を誇る青年は、何事も起きなかったかのような顔であった。
(バカな!)
ヒースは絶句した。
噴出していた血の勢いが、瞬く間に弱まっていく。
浅い切り傷であれば、やがて時が経つにつれて自然に塞がるのは当然のことだ。
だが、『西方羅刹』の傷はその程度のものではない。
明らかに致命傷である。
「では、皆様ごきげんよう。『死神』さん、この傷の借りは明日、改めて返させていただきますね」
余裕の笑顔を浮かべ、『西方羅刹』は去っていった。
「……再生者、だったのか……」
「どういうことだ、フローラ姐さん!」
ヒースの問いに、内功の達人でもあるこの女侠客は首を静かに振った。
「内功の術は、ある程度修行を積めば、傷を癒したり病を治すこともできるの。ただごく稀にだけど、生まれつきその術を己の意思で自在に……しかも、恐ろしい速さで使いこなすことのできる者がいるのよ。それこそ、ものの数秒で傷を塞ぎ、病も毒も浄化してしまうような者がね……」
攻撃が効かない。毒も通用しない。
尋常ならざる内功の力。
驚異的な跳躍力を見る限りでは、軽功も修めているのだろう。
それでいて『人形』などとは違い、己の意思を明確に持っている。
『黒死會』の追っ手が返り討ちにあうのも、無理からぬ話だ。
そしてこのような刺客に命を狙われたら、生き延びられる者もいないだろう。
悪夢の如き一夜が明けた。
『天使』と『西方羅刹』が去った後、ヒースたちは疲れを癒す間もなく明け方まで戦後処理に追われた。
まずは何よりもルカの容態だった。
彼女は『悪霊』にかけられた呪いとの、孤独な戦いを強いられていた。
他に魔術を操れるものがいれば話は別だが、元締によればあいにくこの街には魔女はいないらしい。
ルカは、解呪の術を小声で詠唱し続けた。
衰弱しきった彼女をベッドへ横たえさせ、フローラがつきっきりで看病している。
呪いで刻一刻と体力が衰えていくのを、内功を流すことで少しでも食い止めようということだ。
だが、勿論その分フローラも消耗していく。
気丈な彼女は「お姉さまのため」と寝ることも拒んで看病を続けている。
顔には積み重なった疲労の色が濃かったが、目には強い意志の光が宿っていた。
レニーは、
「へっ、すっかり忘れてたけど、身体が臭くってかなわねえや。風呂に入るぜ」
と言って、その後は寝室に入ってしまった。
サバサバとした口調であったが、明らかに疲労困憊している様子だった。
ゴドーは、
「奴らの言、鵜呑みにもできん。俺が昼まで番をする。お前たちは休んでおけ」
ヒースたちに言い残し、そのまま屋敷の玄関の前に座り込んだ。
否やは言わせん、という態度だった。
確かに鬼族は他種族よりも遥かに体力面で優れているというが、それでもかなり無理なことのように思えた。
だが、
「眠れんのだよ。腸が煮えくり返って、とても眠る気にならん。だが、お前たちは寝ておけ。明日こそ本番なのだからな」
そう押し切られ、それ以上は何も言えなかった。
ジェイコブの遺体は、若い衆が白木の木棺を用意しそこに納めた。
葬儀をする時間はない。
それは、この戦いが全て終わってからのことだ。
『天使』と『西方羅刹』を倒すことこそ、この老傭兵への供養となるのだ。
ヒースは長い緊張から開放された途端、急激に腹が減るのを感じた。
若い衆に頼み、用意してもらった食事を摂った。
鶏肉をつぶして団子状にしたものに、人参や白菜といった野菜を加えて煮込んだスープだった。
塩味の効いた熱い汁をすすると、身体が内から温まってきて、大げさに言えば自分が「生きている」ことを実感できた。
こんな時に食事を、という気持ちもあったが、「自分がやれるべきことをやる」ことが大事だ、と言い聞かせた。
休む時には休み、栄養も摂る。
力を蓄えてこそ、明日の勝利が近づくのだ。
それもまた、ルカの教えであった。
(十章 戦乙女のセオリー に続く)